ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

野村合戦二(信長夜話・その89)

今年も「桜の季節」をむかえることができそうだ。
若いころには、そんなことを思いもしなかった。
二か月もすれば初夏、六月がやってくる・・・



ということで、前回の「野村合戦一」からの続き・・・


有名な「姉川の戦」の実相はわかっているようでわからない?
実際に参加してもわからなかっただろう。

「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。

「姉川の戦」はこうではなかったか?

野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。



元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くに移動、陣をしいた。


横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告が入る。
「浅井勢がこちら向かっている。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)」と・・・


「おおっ、新九郎(浅井長政のこと)のやつ、やる気だな」(長政は信長の義弟)
信長は浅井長政は小谷から出撃してはこない、と思っていた。
七日前、小谷を包囲したときには長政は信長の挑発には乗ってこなかった。
浅井勢は織田勢より劣勢だ。平地での戦は浅井勢にとって不利だ。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

軍勢の戦闘員は全体の5割とも4割ともいわれる。それ以外は補給を担当する輜重隊(しちょう)などだ。
だとすれば、織田の戦闘員は七千、徳川は二千、浅井は四千、朝倉は四千、ということになる。

浅井を四千にしたのは地元だから、補給もしやすかったと想像した。
織田、徳川、朝倉は遠征だから輜重に従事するものが多かっただろう。
そうだとすれば、戦闘員の兵力差はあまりない。


浅井長政は朝倉氏からの援軍が来たこの時が、信長に戦いを挑む好機だとおもっていた。
朝倉は浅井と同盟関係にあるものの、いつも援軍を差し向けるという保証はない(援軍を差し向けるのにも負担がかかる)。
雪の季節や農業の繁忙期(兵のほとんどは農業従事者)には難しくなる。

前述したように織田と浅井の戦闘員の兵力差はそれほどはない。
浅井勢の士気は旺盛だ。
うまくいけば、織田勢を突き崩すことが出来るかもしれない?
そうなれば、横山城守備隊も織田勢の背後から戦闘に加わるだろう。
と長政は想像したのではないのか?

信長の首を上げることはできなくても、
織田勢に痛撃を与えることが出来れば、しばし信長は手を引くだろう。
その間に軍を整え、反信長勢力との協力体制を固めて、信長に対峙しようと長政は思った。


信長は横山城に対して美濃衆を抑えにおいて、
姉川の対岸の浅井勢に対するため、横山城を背にして陣を組み直した。
龍ケ鼻の近くが信長の本陣だったという。
「龍ケ鼻・たつがはな」とは横山城のある丘陵の先端の地名。「辰鼻」という表記もあるようだ。


<織田の布陣>
先頭から、
坂井政尚(2,000)、池田恒興(1,000)、木下藤吉郎(1,000)、柴田勝家(2,000)、森可成(2,000)、
佐久間信盛(2,000)、織田信長本隊(3,000)、丹羽長秀(不明)
横山城への備えとして氏家直元、安藤範俊などの美濃衆(合わして1000)

<浅井の布陣>
先頭から
磯野員正(1.000)、浅井政澄(1,000)、阿閉貞秀(1,000)、新庄直頼(500)、浅井長政本隊(3,000)
横山城守備として
大野木秀俊、三田村邦宏、野村直元、野村直次、(500)

<徳川の布陣>
先頭から
酒井忠次(1,000)、小笠原長忠(1,000)、石川数正(1,000)、徳川家康本隊(2,000)

<朝倉の布陣>
先頭から
朝倉景紀(2,000)、前波新八郎(2,000)、朝倉景健本隊(4,000)

各武将の布陣はこの説に従うことにする(他の説がみあたらなかったから)

浅井 6,500、朝倉 8,000、織田 15,000、徳川 5,000、ということになる(非戦闘員もふくむ)。
軍勢の正確な数は当時でもわからなかっただろう。兵数はボクが適当に割りふった。

anegawafukan22.jpg
<姉川を空から見たところ。上が北だ。
右手前の下の丘陵が「龍ケ鼻」。この近くに信長の本陣があったといわれる。
絵には入っていないが、下(南)に横山城があった。

絵の中ほどを左右(東西)にくねりながら流れるのが姉川。
絵の上部(北)に大依山(おおよりやま)。その左(西)に小谷。

「龍ケ鼻」から姉川の間に織田勢は数段の陣をしいたといわれている。
姉川では織田勢と浅井勢の先鋒が衝突している。

その上、姉川の北に浅井の各隊と長政本隊。

姉川を左(西)にたどると、徳川勢と朝倉勢がぶつかっている、ところとした。>



姉川は、川幅200m、彼我の距離800mぐらいではなかったか?
(現在は管理されて水量は少ない)

朝もやのなか、姉川の対岸に敵の前衛が見える。

いくつもの集団がみえる。
多くの旗指物が風に揺れている。
使番(つかいばん・伝令)が騎馬で走る。
移動する集団、武具がすれる音、馬のいななき、


野村(地名)では浅井勢(磯野員正隊、1000)から攻めかけたのだろう。

磯野隊(浅井)最前線の指揮官が激をとばす。

「いいか!尾張のへなちょこどもに浅井衆の力を見せてやれィ!」
「お前たちの行く末は、この戦場(いくさば)にある。褒美はのぞみしだいぞ!」
「うぉ~ヴぉ~うぉ~」と兵が答えた。
鬨の声だ。

前線の各隊ごとにあちこちで鬨の声があがる。
鬨の声は兵の士気を鼓舞する。そして敵への威圧でもある。

tokinokoe12.jpg
<イラストは鬨の声をあげる指揮官と長槍隊とした。
この部隊の指揮官は幾度も戦を経験したベテラン
長槍衆はムシロを背負っている。野宿のときなどに地面にしいた。

他方、鬨の声をあげず、シーンと沈黙する部隊もあっただろう。それも不気味だ。>



「前へーっ!」
磯野隊(浅井方)の長柄槍衆が前進、渡河をはじめる。
声はかき消されることがあるから、大太鼓(押し太鼓)を叩いたのかもしれない。
「ドーン、ドーン、ドーン、」は前へ。
「ドンドンドンドン」は引け、の合図。

最前列には、敵の鉄砲や弓矢を防ぐため、楯をもった足軽が並ぶ。
その後ろに長柄槍衆、三段の横陣、兵どうしの間隔は狭い。槍は肩に担いでいる。

川の浅いところを足元を確かめながら渡る。
川の音、はためく大小の旗、鎧や武具がすれる音、兵の息遣い・・・

ある槍衆は腰の竹製の水筒に手をやった。
喉がカラカラに渇くのだ。


槍衆の背後の指揮官が大声を上げる。「いいか!押しまくれ!下がるものは斬る!」
何人もの甲冑武者が腰のものを抜く。槍足軽への脅しだ。
ドラマにある光景だが・・・

戦場では、恐ろしさと興奮が入り混じった感情が支配する。
普通、道で野犬にであっても怖さをおぼえる。
ましてや敵は武装した人間だ。怖くないわけがない。

イギリス陸軍は、軍曹を恐ろしい上官として兵の意識にに刷り込んだという
敵と対峙したとき、後ろでスゴイ顔で睨みつけている上官の軍曹より、前にいる敵兵のほうがマシ、
と思わせるためだという。以前、そんな記事を読んだ覚えがある。

おそらく本当だろう。西欧の軍隊を手本とした旧日本軍にも同じことがあったのだろう。
それが旧軍の新兵イジメに影響したのではないだろうか?とボクは想像している。

脱線した。
怖じ気づかないよう指揮官が兵を脅したのではないだろうか?
一人の怖じ気が全体に伝わり、崩れることを恐れたのだ。


映画やテレビの合戦シーンというと、必ず兵が走るが、そんなことはなかったのでは?
走っていては、敵とやり合う前に息が上がって戦えない。
甲冑武者の装備は20kg~30kgだった。
足軽具足は5kg+武具+携帯食糧など=10kg~15kgぐらい?だったと想像する。

走る必要もないのに走ったりはしない。歩く速度で押していく。
敵兵とやり合うときに力を出す(出させる)のが自然だろう。


渡河してくる磯野隊(浅井)の長槍衆が川の中ほどを過ぎたころだった。
対岸の藪や竹束などの遮蔽物の陰から、連続した銃声、閃光と煙があがる。
坂井隊(織田)の鉄砲隊が撃ちかけた。

想像を超えた数の鉄砲の射撃だったのではないだろうか?
のけぞる兵、腕をおさえてうずくまる兵、血しぶきをあげて倒れる兵、・・・

すると、浅井側の長柄槍隊の背後から、浅井の鉄砲隊がその発砲地点をめがけて応戦する。援護射撃だ。
前進する槍衆の背後から撃ちかけるのだから、味方の槍衆を誤射することもあっただろう。
戦はそういうものだ。第二次大戦でも味方に撃たれた例はいくつもある。

種子島(火縄銃)の最大射程500m、有効射程200m、殺傷射程80m、と想定した(異説あり)


磯野隊(浅井)の槍衆が鉄砲の射撃をうけて前進がとまった。坂井政尚(織田方)の槍衆が対岸に現れる。
織田の誇る、三間半長柄の槍衆だ。揃いの装備、旗指物、織田の足軽の装備は美しい。
織田は金持ちなのだ。

nagaeyari.jpg
<イラスト左が三間半長柄槍、約6m30cm。イラスト右が三間の長柄槍、約5m40cm。
槍をもつ足軽は1m60cmの身長とした。三間半長柄槍は身長の4倍だ。
三間柄が一般的だった。信長は三間半柄を長槍隊に装備させたという。
「弱兵は接近戦を嫌うので長い槍を装備させた」という説がある>



最前線の部隊は「御貸具足(足軽からみれば御借具足)」という武将が用意した具足を装備していた、と想像する。
最前線には体力があり、訓練をほどこした兵が配置されたとおもわれる。
揃いの装備は敵への威圧にもなる。

当時は武将も部隊も目立つことが必要だった。そのいでたちは派手で個性的だったろう。
「御貸具足」は無制限にあるわけではないので、二線級の部隊の装備は不揃いだったのではないだろうか?



当時の戦では、長柄槍隊こそが決戦部隊だった。その勝ち負けが戦に影響した。
鉄砲も有力な兵器と認められつつあったが、
長柄槍隊の前進を援護したり、敵の前進を阻止する役割をになった。

磯野隊(浅井)の槍衆が坂井隊(織田)の槍衆とぶつかる。
両軍とも、一斉に槍を振り下ろす。目標は敵の槍足軽の頭部だ。

この場合、長柄の織田槍衆のほうが有利だが、叩きつけたり振り上げたりするには体力がいる。
叩きつける回数では織田の長柄槍より短い浅井の槍のほうが勝ったのではないだろうか?


最前線の槍衆に疲れがみえる。
「二番、前へーっ!」
背後の新手の槍衆が入れ代わって前に出る。

新手の槍衆が敵に向かって、槍を叩きつける。
怒鳴り声、槍が叩きつけられる音、川の水が飛び散る、鎧のすれる音、
槍がしなって風をきる音、喚声、うめき声、血の匂い・・・

yaritai12.jpg
<槍衆の戦いは我慢くらべだ。
叩きあううちに、 横にいた足軽が陣笠を割られて倒れたり、引き気味になったりすると、
「押されているのではないのか?」という不安がはしる。
接戦では敵の勢いのほうが強いと感じるのが戦場心理だろう。

さらに数人が倒れたりすると、槍衆が崩れはじめる。
逃げ遅れれば命とりになる。
槍衆は集団であることが重要なのだ。>




しだいに坂井隊(織田)の槍衆が押されはじめる。
磯野隊(浅井)は姉川の対岸に届いた。渡河に成功した。
最前線の槍衆が崩れはじめると、後衛に伝染する。

坂井隊(織田)は後退してくる前衛の槍衆に代わって、後衛の槍衆が前に出る。

しかし、勢いにのる浅井の槍衆は坂井隊(織田)の後衛も押しかえす。
ついに織田の最前線、坂井隊が崩れはじめる。


先陣の磯野員正(かずまさ)隊の奮戦に、後に陣をしいていた浅井政澄隊(1,000)、阿閉貞秀隊(1,000)
も姉川を渡河して加わる。
坂井隊(織田)の後ろに布陣していた池田恒興隊(織田)は、後退してくる坂井隊の影響で陣形が乱れる。
浅井勢は押しに押した。勢いのあるうちに勝戦にもちこみたいのだ。
池田隊(織田)も後退しはじめる。

その池田隊(織田)の後ろにいたのは木下藤吉郎隊(織田)だった。使い番(伝令)が走る。
木下隊とその後ろの柴田勝家隊(織田)へは「敵(浅井)の前進をくいとめよ!」
後退した坂井隊と池田隊には「たて直して側面から攻めよ!、包み込め!」と、

木下隊(織田)と柴田隊(織田)は前進してきた浅井の諸隊とぶつかった。
浅井勢の前進阻止のため、鉄砲射撃を加えたいのだが、
後退してくる坂井隊(織田)、池田隊(織田)が混じっているから、むやみに射てない。


両軍の押したり引いたりが続く。
織田は、さらに森可成隊(織田)も加わる。ここが勝負どころだった。

見透しのきく平地での戦いは、兵力のまさる織田方が有利だ。
すこし疲れが見えはじめた浅井勢の前に、織田勢の新手が次々と現れる。

蹴散らされた坂井隊(織田)、池田隊(織田)も態勢を整えて、縦に伸びた浅井勢の側面を攻撃しはじめる。
浅井の先頭部隊が背後を織田勢から側面を攻撃されたことに気付く。不安がはしる。
もし包囲されれば孤立してしまう、と


浅井勢の前進が、ようやくにぶりはじめる。
すると前面の木下隊(織田)と柴田隊(織田)が勢いづく。
ジリっと浅井勢が後退しはじめる。

さらに浅井勢の後退がハッキリしてくる。
姉川の岸まで押しかえされる。

浅井の兵が姉川を渡って対岸へ向かうものが出てくる。
逃げ遅れれば、よってたかって、なぶり殺しにあうからだ。
群れから遅れたり、傷ついた兵は格好の獲物だ。


不安が浅井勢を包む。。
われ先に兵が姉川を渡って逃げる。
指揮官が「引くなぁ!もどせぇ!」と怒鳴っても、崩れたった兵を引き留めることは出来ない。
浅井勢は崩れた。

織田勢は追撃にうつった。
織田の鉄砲隊の発射音が響く。

次回に続く





谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
東郷隆・上田信 著「戦国武士の合戦心得」講談社文庫¥495+税
を参考にしました。






  1. 2017/04/04(火) 13:38:41|
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野村合戦一(信長夜話・その88)

3月初旬、近くの歩道橋の上から西を見る。ここにくると習慣になっている。
その歩道橋は濃尾平野の北端、丘陵地の住宅街にある。

名古屋の中心部のビル群が見える。そのむこうに養老山脈、
尾根をたどると南端は、三重県の多度から桑名だ。
逆に北に目をやると、養老山脈のむこうに伊吹山が見えるはずなのだが、
その日は白く濁って見えなかった。雪だろう。

そういえば、「雪中の合戦」は、あまり聞いたことがない。
戦国の世でも、雪の日には、やりたくなかったのだろう。

小谷は伊吹山の西にある・・・




元亀元年(1570)六月二十一日、織田信長は浅井氏の居城、小谷の近くの虎御前山に陣をしいた。
浅井長政の寝返り(信長からみれば)に、敦賀から京へ逃げ帰ってから二か月後である。

信長は小谷の備えを見て、力攻めで落とすのは難しいと思ったのだろう。
信長はジックリ攻める作戦に変更。足がかりとして小谷の南9kmにある横山城(浅井側)に目をつけた。
二十二日、陣を払い、織田勢は移動を開始。横山城を包囲するためだった。

それを小谷の浅井勢が追撃する。織田勢の殿(しんがり)軍が奮戦して撃退(八相山の退口)。
無事、横山城近くの龍が鼻(たつがはな)へ移動した。
六月二十四日、横山城攻めが始まる。

そのころ、徳川家康の援軍五千が到着した。
一方、浅井側にも援軍が到着する。朝倉景健(かげたけ)の八千だった。

有名な「姉川の戦い」の序章だ。

anegawa412.jpg
<イラスト上段、左は浅井長政(このとき26歳)。右は織田信長(このとき37歳)。
下段、左は朝倉景健(このとき35歳)、右は徳川家康(このとき29歳、若いねぇ!)。

朝倉景健は肖像画が見当たらなかった。しかたがないので、面頬(めんぽ・顔面の防具)をつけてもらった。
画きながら思ったのだが、これでは誰だかわからない。
戦場で影武者を見破るのはムズカシかったろう。>



普通、「姉川の戦い」は以下のごとく語られることが多い。

二十七日の夜に浅井・朝倉軍は移動、浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

1、二十八日未明、野村では浅井勢が織田に攻めかかり、三田村では徳川勢が朝倉勢に攻めかかった。

2、浅井勢の勢いすさまじく、織田の13段の備えが11段まで崩された。

3、三田村で多勢の朝倉勢相手に押していた家康は、榊原康政に命じて側面から攻めさせた。

4、側面をつかれた朝倉勢はもろくも崩れ、さらに浅井勢も崩れ、ともども小谷に向けて敗走した。


テレビドラマなどでは、ほとんどこの説に従っているようだ。

徳川勢大活躍!、しかし、これでは徳川勢がカッコ良すぎる。

『徳川実紀』や『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』などを参考にしたのだろう。

『徳川実紀』は徳川幕府の公式文書。
文化6年(1809年)に起稿、
嘉永2年(1849年、4年後にペリー来航)12代徳川家慶に献じられたという。
「姉川の戦い」から約280年後に成立した。280年後ですよ。

すでに、家康は神格化されていた。神君だ。
「姉川の戦」の部分は、徳川幕府へヨイショするために脚色した、と疑われている。
『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』は史料としての評価は低い。

この説は、家康をカッコよくデッチあげた可能性が高いと見られている。


また、
浅井勢の士気が高かったのはうなづけるが、いくらなんでも織田勢が弱すぎる。
織田勢は浅井勢よりはるかに優勢だ。総勢の数字上は約3倍。

奇襲ではなく強襲(敵が待ち構えてるところを攻める)、正面攻撃だ。
さらに戦場は姉川の川原、見透しのきくところである。

直前の二十二日、小谷からの移動中、織田の殿軍は浅井の追撃を退けている(八相山の退口)

信長の軍事力の中核は尾張衆や美濃衆だった。
美濃衆は斎藤義龍の時代、信長も手をやいた。強かった。

「肥沃な土地の兵は弱く、貧しい土地の兵は強い」という説があるが、疑わしい。
もし織田勢が弱兵であったとしても、戦は兵の強さだけで勝てるわけではないだろう。
作戦、士気、経済力、装備、指揮官への信頼、過ち、偶然・・・などなど、

iza111112.jpg
<イラストは馬上の若武者とした。

はためく旗、馬の呼吸、鎧の擦れる音、
静寂、草の匂いがする

敵の前衛が見える。
多くの旗指物がゆれている、兵の機動、鬨の声が聞こえてくる。

戦場に老人はいなかっただろう(指揮官をのぞいて)。
十代後半から三十代ではなかったか?

精兵(せいびょう)というとき、それは兵の年齢も指していたのではないだろうか?と思った。
体力差のある兵が混在していると、作戦が立てにくいから。>



では、資料性が高いと言われる『信長公記』は「姉川の戦」をどう書いているのだろうか?以下。

『そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、
小谷城の城東に位置する大依山(滋賀県浅井町)に陣を張った。

待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、
六月二十七日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。

陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 二十八日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて備えた。
これに対し織田・徳川連合軍は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、
東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。

 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。
敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。

戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。
そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった。
浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、
前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。

この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。
しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、
信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、
横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。

 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは七月一日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。
佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、
北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 七月六日(正しくは七月四日)、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。
京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、八日に岐阜へ帰還を果たした。』(『信長公記』現代語訳)

以上が『信長公記』の記述。
わかったようでわからない?
実際に「姉川の戦」に参加した人にきいても、その実相はわからなかっただろう。

『信長公記』には徳川勢の大活躍は書かれていない。
「それは、筆者の太田牛一が主君の信長に遠慮したせいだ」という説もあるが、どうだろうか?



「姉川の戦」はこうではなかったか?
野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。


「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井家では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉家では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くへ進軍。

横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告があった。
浅井勢がこちらにやってくる。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)、と・・・

次回につづく


<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。









  1. 2017/03/14(火) 07:02:12|
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料理

ボクは料理をする。

腕前は並だろう.
日常の惣菜はなんとかできる。

先日、粕汁の残りと、オムレツを作ってメシを食っていた。

テレビを見ていた。
「また食い物のネタか、飽きないねぇ、まったく…」と思った。
CMに桐谷美玲が出ていた。
「桐谷、やせすぎだろう、テレビでそれだから・・・」と、いらぬお世話を思った。

続いて料理番組を見た。
料理番組は毎日、各局で流されている。
ということは、一日にすくなくとも15種類以上の料理が紹介されているだろう。

テレビで紹介する以上、なにかしら新しいところのある料理だと思う。
ボクはボンヤリとした違和感をもった。

これ以上、新しい料理を作り出す必要があるのだろうか?

基本的料理もなかなか作ることができないのに、新しい料理・・・?
せわしくはないか?

reiko13.jpg
<れい子ちゃんのスパゲティポモドーロ>


料理には、基本的なものがある。
魚なら、焼く、煮る、揚げる。
さんまの塩焼き、カレイの煮つけ、アジフライ・・・

野菜で言えば、ほうれん草のおしたし、サラダ、里芋の煮ころがし、焼きナス、・・・などなどなど。
他にも、肉料理、卵料理、・・・など、いっぱいあるから省略。

さらに、和食に加えて、中華、イタリアン、フレンチ、・・・など国別料理もある。

ボクが一度も作ったことがない料理がいっぱいある(ボクじゃなくてもあるだろう)。
そっちを作るのが先ではないの?と・・・


「日本人は食いしん坊だから、新しい料理を求めるんだよ。」
「そんなこと言ったら、料理研究家は上がったりじゃねえか。」

ごもっとも。

しかしなぁ、ボンヤリとした違和感が残る。

今日の晩飯は、スパゲティポモドーロ(トマトのスパゲティ)と
ワカメ+タマネギ+レタス+リンゴ+シラスのサラダ、にでもするか!

安物のワイン(いつも安物)も開けちゃおかなぁ・・・






  1. 2017/02/21(火) 07:02:22|
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さらば、ボクのパソコン

昨年(2016年)の10月、ボクの古いパソコンが壊れた(と思う)。
修理をすれば、まだ使えたかもしれないが・・・
時間やお金のことを思うと、「ここらが寿命」と思った。

ボクはパソコンを2台、使っている。
そのうち古いパソコンはインターネットには繋がず、
スキャナーとプリンター用に使っていた。

ある日、その古いパソコンに電源をいれてしばらくすると、
画面が真っ黒!ビーッビーッビーッ・・・と不快な音をたてる。

しかたがないから、強制的に電源を落とす。
再び電源を入れてみる。しばらくして、画面が真っ黒!ビーッビーッビーッ・・・
同じことを5~6度くりかえした。

「ついに来たか・・・」
パソコンの臨終にふさわしい、と思えた。


このパソコンは2003年に買った。初めて買ったパソコン。
途中、冷却ファンを自分で取り換えた。13年間つきあってくれたことになる。

「1代目のパソコンは、壊れるのを覚悟で、どんどん使え。そうすれば、パソコンとのつきあい方がわかる。
2代目のパソコンのための練習機と思え。私は1代目のパソコンは2年で壊した。」というような記事を読んだ覚えがある。
ハウツー本に書いてあった。

パソコンをまったく知らなかったボクは「そんなものかな?」と思った。
普通、「設備は10年」という。13年はよくもってくれたと思う。

このパソコンには、驚いたり、喜んだり、ムカついたり、疲れ果てた、こともあった。
インターネットの正と負も、すこしはわかるようになった。

およそ、何事も正と負がある、というのがボクの自論。
問題はその割合だろう。
インターネットは正が負をすこし上回っているのだろう。


そのパソコンとの思い出にしんみりした。

じゃあ、どうしよう?今のパソコンの環境は変えたくない。

スキャナーは新しい方のパソコンのOSには対応していないという。
新しく買わなくてはいけない。
対応していないことを除けば、そのスキャナーは当分、使用に耐えうる状態だ。
捨てるのは納得がいかない(まったく)。

メーカーは古い機種でも新しいOSに対応できるプログラムを、配布する義務があると思う。
これではゴミは減らない。そのメーカーに不信感をもった。


ということで、スキャナーとプリンター用に中古パソコンを買うことにした。
パソコンはすぐに届いた。
バックアップしてあったデータやソフトを読み込ませた。
その中古パソコンはとても良い。OSが良いのだろう。


壊れたパソコンの葬式を出さなくてはいけない。
これが、思っていたよりめんどくさい。

まず、「PCリサイクル」のシールが貼られているかどうか?を確認する。貼ってあった。
貼ってあれば、パソコンを買った際に、処分費用を払っていることになる(忘れていたが)。

パソコンメーカーに連絡をして、引き取りと送付の手続きをすると、
メーカーから送り状などが送られてくる(のだろう)。
パソコンを梱包してメーカーに送る。
というのが、一番まともな処分方法のようだ(めんどくさーっ!)。

ここで疑問。
ハードディスクにあるデータはどうなるのだろうか?
自分で完全消去する、ということなのだろうか?

そのためには消去ソフトを買って行うのか?
消去ソフトで完全に消去できるのか?
それとも、消去してくれるサービス(パソコンショップなど)を有料でうけるのか?

どちらにしても金がかかる。


拡声器を鳴らしながら軽トラックでまわってくる廃品回収業者に出す、という手もあるが、ウサんくさい。


ちなみに、「PCリサイクル」のシールが貼られていない場合、
まともにやるなら、行政の定めた方法で処分することになる。
調べてみると、これが一番お金がかかるようだ。そして、めんどくさい(私の住んでいる地域では)。


調べた。
パソコンを「着払い」で送るだけで、無料で処分してくれる会社がある。
そこのホームページを詳しく見ると、データの完全消去もやってくれる。
ハードディスクに穴を開けたりする物理的消去もする、消去した証明書も出すという。
「こういうパソコンは処分出来ません」という制限もあるが、ウエブサイトの説明が丁寧なのが気にいった。

パソコンを分解して、レアメタルや貴金属、使用可能な部品、を取り出し流通させることで採算があうのだろう。
と想像した。

ただ、データ消去については、すこし不安が残る。
やはり、自分の手でハードディスクを電子的、物理的にデータを取り出せないようにしたい。
そこで、物理的データ消去をやることにした。以下。


まず、パソコン本体を開けて、ハードディスクドライブ(HDD)をとり出すという手順。
ところが、HDDをいろいろな角度から見ても、どうやって取り外せばいいのか?取りつけネジが見当たらない。
パソコンの外枠を分解すれば、そのネジが見えてくるのかもしれないが、
あとで元にもどせないと、引き取ってもらえない可能性もある。

HDDは見えているので、HDDが本体にくっついている状態で、フタを外してみることにした。
ネジが7つほど見えている。
小型のプラスドライバーでネジを回す。

ところが回らない。空転する。

虫眼鏡で見るとネジはプラス穴ではない。星形をしている。
回らないはずだ。

パソコンで調べる。
トルクスネジだという。生まれて初めて見た聞いた。
それ用のドライバーはもっていないので、ホームセンターへ買いにいく。
ところが若い男の店員は「トルクスドライバーは知らない、扱っていない」という。

家にもどり、パソコンで調べる(めんどくさーっ!)。
使用されているネジのサイズがわからない?一種類ではないのかもしれない?
数種類入っているセットを注文した。
¥1,400ぐらいだったと思う。

「こうなったら、なんとしてもフタを開けてやるぞ!」


普通便だが、翌日にドライバーセットは届いた(早いぞAmazon)。
さっそくパソコンを開け、HDDのフタのネジを回してみる。回った。

ネジは8つあった。
HDDのフタを開け内側を見る。
ピカピカの金属の円盤がある。データが書き込まれているハードディスクだ。
中心部のネジをはずす。

ハードディスクをとり出そうとするが、
スイングアーム(データを読み取るアーム)が邪魔して、わずかのことだが取り出せない。

hdd11.jpg
<ハードディスクケースのフタを開けると、こんな感じ。丸い円盤(ピカピカ)がハードディスク。>


しばらく考えて、フタをはずしてピカピカのハードディスク面を傷つけてやれば良い、と思った。
釘で全体を傷つけた。
「これぐらい傷つければいいだろう」ということで、
HDDのフタをもとに戻す。パソコンを閉める。

その夜、布団に入ってから
「いやまてよ、データはハードディスクは片面だけにあるのだろうか?見えていない裏側はどうなんだ?」

あくる日、パソコンを開け、HDDのネジを外してフタを開ける(めんどくさーっ!)。
スイングアームが邪魔してハードディスクが取り出せない。
しかたがないので、ラジオペンチでアームの先端を強引に曲げる。HDDの繊細な部分だ。

やっとハードディスクをとり出すことが出来た。
裏をみると、表と同じくピカピカだ。データの書き込みがされている可能性が高い。
すぐ、釘で傷つけてやった。
これで完了!と元に戻す。

「焼きそば+ごはん」の晩メシを食っていたとき、
ハードディスクを取り出したとき、その下もピカピカだった、ことを思い出した。
「精密機械だから、そういう仕上げなのだろう」と思ったが、
そもそもハードディスクは1枚なんだろうか?下のピカピカはハードディスクではないのか?

2日後、またまたパソコンを開け、HDDのフタを開け、その下のピカピカ円盤を取り出した(めんどくさーっ!)。

ハードディスクは2枚だったのだ(もっと多いものもあるようだ)。
今度は2枚とも金属用ペーパーで表裏をゴシゴシ、釘で傷つけ、
さらに、ペンチでグンニャリと曲げてやった。
どうだ、まいったか、ハードディスク!

検索して。いくつもの記事を読み、
何度もパソコンを開け閉め開け閉め、HDDのフタを開け閉め開け閉め、疲れた。


つぎの日、パソコン本体、モニター、キーボード、付属品を梱包。かなり重い。
近所のコンビニにもちこんで、発送の手続きをすませた。
葬式は終わった。
 
さらば、ボクのパソコン、成仏してくれ・・・・







  1. 2017/01/31(火) 07:13:30|
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蛇はいねぇだ(ジョーク)

アフリカの湖沼地帯だった。
湖のほとりで地元の少年がのんびりと釣りをしていた。

一台のクルマが止まった。
男が3人、降りてきた。

「オーイ、この湖にゃ蛇はいるか?」
「・・・蛇はいねぇだ。」少年は答えた。

hebihainai12.jpg


その日は暑かった。

男たちは、スッポンポンになると、湖に飛び込んだ。
彼らは嬌声をあげて、子供のようにはしゃぎまわった。
もぐったり泳いだりして、水遊びを楽しんだ。

30分ほどして水から上がった。

男たちの一人が少年にたずねた。
「この湖にはどうして蛇がいないんだ?」
「ここには大きな人食いワニがいるんだ。そいつが蛇を全部、食っちまったんだわ」
「…」




植松 黎編・訳「ポケット・ジョーク」(角川文庫)¥390を参考にしました。


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平成29年の最初の投稿はジョークにした。

クリスマス→除夜の鐘→初詣→箱根駅伝、があっという間に過ぎていった。
今年はどんな年になるのだろう?
期待と不安が入り混じる。

本年もどうぞよろしくお願いします。






  1. 2017/01/10(火) 07:16:18|
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