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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

退却 (信長夜話・その99)

前回の「三左衛門可成の戦い(信長夜話・その98)」からの続き→


元亀元年(1570)九月十二日夜半、石山本願寺が敵対した。

それまで、三好勢がたてこもる野田、福島を包囲して、信長に有利な戦況だったのが、
一転、予断を許さない状況になった。

二十二日、信長に報せが入る。
それは、宇佐山を守っていた森可成の戦死だった。
遡る十六日、浅井・朝倉勢は琵琶湖西岸の下坂本まで進出してきたのだ。

(ここまでは前回で書いた)



「三左衛門(森可成)が・・・九郎(織田信治、信長の弟)までも・・・・・」
森三左衛門可成(よしなり)は信長が信頼する宿将のひとりだ。
信長に悲しんだり、「これからどうする?」を考えているヒマなどなかっただろう、
京への防衛線が突破されたのだ。すぐに退陣を決める。

強力な敵が二正面に現れた、ただ事ではない。


三か月前、信長は「姉川の戦い」に勝利した。
「朝倉・浅井勢に相当なダメージを与えたはずだ」と信長は思っていた。

しかし、ダメージは信長が思っていたほどには深くはなかった(ボクの想像)。
宇佐山へ押し寄せた朝倉・浅井軍は合わせて2万~3万の軍勢を動員できたのだから。


当初、対朝倉・浅井の抑えとしての宇佐山城の森可成は、わずか千だった。
(急をきいて駆けつけた織田信治の二千が加わる)

*「宇佐山の戦い」については前回の「信長夜話98・三左衛門可成の戦い」参照



二十三日、信長は和田惟政・柴田勝家に殿(しんがり)を命ずると、
主力を「天満が森」に集め、京に向かって退陣する。撤退だ。


この時のエピソードが『信長公記』にある(正確ではない)。

『信長公はみずから中島に出て江口の渡し(現大阪市東淀川区内)へ向かった。
江口川は宇治川・淀川の支流。水量多く舟で渡るのが常識だった。

しかし、ここにはすでに一揆が蜂起しており、船は見当たらない。
一揆勢は対岸の大坂堤添いへむらがり、織田勢へ向かって口々に嬌声を投げかけた。

渡河するのをためらうのを見た信長公は、河中へ馬を打ち入れると、
みずから馬を駆けまわして川の流れを調べる。
そして、軍勢へ向かい「渡るべし」と下知した。』

uchiireta42.jpg
<乗馬を得意とした信長の面目躍如だ。
文中の「ためらう」のは馬廻り(親衛隊)だろう。

敵前である。秀吉や家康と比べると信長は武闘派だ。
秀吉なら、武将が自らこういった危険な行為をすれば、
「タワケ!」と叱責しただろう。「軽率なことをするな!」と、>



『信長公記』の続き

『「上様に遅れるな!」とばかりに、織田勢は一斉に川へ入った。
以外にも水深は思いのほか浅く、徒歩でらくらくと渡河することができた。
信長公はその日のうちに公方様(足利義昭)に供奉して帰洛を果たした。

ところが、その翌日から江口の渡しは急に水深が増し、徒歩での渡河は困難になってしまった。
江口近辺の者達は、「ふしぎなることよ」と皆ささやき合った。』

(「上様に遅れるな!」はボクの脚色。)


taijin12.jpg
<その日の夜には信長、義昭ともに京に着いた、というから強行軍だ。
大阪~京は約45km、時速3kmで移動できたとして15時間である。
ヘトヘトだったろう。
信長の素早い判断と行動だった。>



翌九月二十四日、
疲れを癒す間もなく、信長は上京本能寺(あの本能寺)を立ち、逢坂を越えて琵琶湖西岸へ向かう。
従うのは織田主力。朝倉・浅井勢との一戦(対陣)である。

兵のなかには、ろくに寝ていない者も多くいただろう。
織田勢は固まりになって退却したのではない。
2万~4万はいただろうから、先頭から後尾まで長蛇をなした(ボクの想像)。


下坂本に布陣していた朝倉・浅井勢は、
信長の旗印を見るや、たちまち比叡山へ上がってしまう。
比叡山とも話はついていたにちがいない。

想定したより素早い信長の転進に驚いたのかもしれない。
「しばらくは尾張守(信長)も動けまい、ざまを見ろ、ムフフフ・・・」と朝倉・浅井は思っていたのではないだろうか。





次回「信長夜話その100」に続く→





  1. 2019/04/09(火) 07:06:13|
  2. 信長夜話
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三左衛門可成の戦い(信長夜話・その98)


ブログカテゴリー『信長夜話』をサボっていた。


『浄土真宗と一向宗は同じ?(信長夜話・その97)』からの続き→


織田信長にはいくつかのピンチがあったが、
元亀元年からの6~7年は正念場となった。


その元亀元年(1570)九月十二日夜半、石山本願寺の鐘が突如打ち鳴らされた。
織田勢の「楼の岸」「川口」の砦に鉄砲が撃ち込まれた。
石山本願寺が敵対したのだ。

それまで、三好勢がたてこもる野田、福島を包囲して、織田勢に有利な戦況だったのが、
一転、予断を許さない状況になった。

十四日、淀川の春日井堤で信長の馬廻り(親衛隊)と一揆勢が激突。
馬廻りは一揆勢を押し返す。

二十日、一揆勢は榎並(えなみ・現大阪市城東区)を攻撃、
将軍(足利義昭)の直臣、野村越中守が討死する。
(ここまでは前回までに書いた)



二十二日、信長に報せが入る。
それは、宇佐山を守っていた森可成の戦死だった。

遡る十六日、浅井・朝倉勢は琵琶湖西岸の下坂本まで進出してきたのだ。



今回はその「宇佐山の戦い」

元亀元年(1570)九月十六日、朝倉・浅井の連合軍は琵琶湖西岸を南下して下坂本まで進出、
三万とも四万とも(信長公記・言継卿記)、大軍だった。
本願寺顕如の檄文に呼応した一揆勢や叡山の僧兵も加わっていたと思われている。

3か月前の「姉川の戦い」の朝倉・浅井へのダメージは信長が喧伝したほど深くはなかった(ボクの想像)。
このとき、信長は本願寺との和睦の交渉中だった(決裂する)。


宇佐山城は琵琶湖西岸、標高336mの宇佐山にある、琵琶湖まで約1km。
琵琶湖から京へと通ずる要路を監視する位置にある。
叡山(比叡山延暦寺)への監視任務もあったのだろう(比叡山はすぐそば)。

城には信長の宿将のひとり森三左衛門可成(さんざえもんよしなり)と、
急をきいて駆け付けた織田九郎信治(のぶはる・信長の弟)の二千を加えた総勢三千。

九月十九日、森可成は千ほどの兵を率いて宇佐山城を出撃、坂本の町はずれで朝倉・浅井勢を迎え撃った。
10倍以上の敵、大した度胸だ。
交戦し朝倉浅井軍を押し返す。


nigeruazai334.jpg
<坂本で朝倉・浅井勢を押し返す森可成勢とした。>


九月二十日、朝倉・浅井+一揆勢は二手に分かれて再び坂本口へ殺到。
可成は坂本の町口で敵を迎えうつが、大軍にのみこまれ、
激しい戦いの末、森可成、織田信治、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、同助十郎、
青地茂綱(あおじしげつな)など100人ほどが討死した。可成48歳。
この時、信長、37歳。


朝倉浅井勢は勝ちに乗じて宇佐山城を攻め、出城へ火を放つ。
しかし、城を守る武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門は善戦してもちこたえた。

九月二十一日、朝倉・浅井勢は宇佐山城攻撃を中止して、京に入り山科、醍醐(現伏見区)に放火、
二条の将軍御所をめざす気配だった。



<森三左衛門可成(さんざえもんよしなり)のこと>

森氏は元を辿ると源氏の家系(異説あり)。

大永3年(1523年)、可成は森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。
美濃の守護大名である土岐氏に仕える。

斎藤道三が土岐氏を滅ぼすと、天文二十三年(1554年)尾張で織田信長に仕えた。
可成31歳、信長19歳。

信長の家督相続と尾張統一に尽力、
弘治元年(1555年)の信長による清洲城攻めでは、織田信友(広信)を討つ手柄を挙げる。

弘治二年(1556年)に美濃国で政変が起こると、信長の義父の道三を援助。

信長とその弟・織田信行の家督争いである「稲生の戦い」にも参陣、勝利する。
この時、あの柴田勝家は敵である信行方についた。

永禄元年(1558年)の「浮野の戦い」、永禄3年(1560年)「桶狭間の戦い」などにも参加。


信長が父信秀から家督を継いだとき、織田の重臣たちから信長は疑問視されていた。
「桶狭間の戦い」で従った軍勢が三千だったのも、それが一因だったという説がある。
「尾張の経済力をもってすれば、もっと動員できただろう」と、

そんな不安定な立場だった信長に可成は仕えた。
信長の可成への信頼がうかがえる。
後に、可成の子、蘭丸(成利)、坊丸、力丸、の三人を小姓としてそばに置いたのも
その一理由だろう。


美濃攻略においても武功を上げる。
美濃斎藤氏さらに東美濃に侵攻してきた武田勢とも戦う。
永禄8年(1565年)には美濃金山城を与えられる。

信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め、上洛後、今回の近江宇佐山城を与えられる。

元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いにも参戦。
浅井勢の先鋒、磯野員昌隊の突進を食い止める
(この突進で織田の前衛が崩されたという説がある)。

戦歴を並べ立てるとキリがない。
信長の合戦にことごとくに参加、ことごとく手柄を立てている。

可成は槍の名手だったといわれ、関兼定銘の十文字槍の使い手だった。
武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名をもつ。
戦で指が一本欠けており手足の指が合わせて19本であったため
「十九」という蔑称で呼ばれたことがあったという。

こうしてみると森可成は勇猛であったことがわかるが、
美濃攻略の際には美濃三人衆の調略に成功、これが決定打となったといわれている。

信長の上洛後、京周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てて
多くの文書を発給しており、政務にも大きく関わっている。
(武勇偏重でもなかったようだ、有能!)

信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として比叡山延暦寺を焼き討ちをしたという。
(ボクは疑問だ。そんな理由で焼き討ちをするだろうか?)

uchijini3221.jpg
<こんな弔いはあるはずもない。ボクの創造(でっちあげだ)

正面の甲冑は森可成所要といわれる。
しかし、スゴイ兜ですな。こんなんで戦闘ができるのだろうか?
実戦では動きやすい兜を着用したのかもしれない(ボクの想像)。
可成ぐらいになれば複数の甲冑をもっていただろう。

背中のふたりは次男の長可(ながよし)と三男、成利(蘭丸)。

ルイス・フロイスは書く(たしか)
「我が国では喪にふくすとき黒い着衣だが、この国では白だ。」と・・・>



可成は「正室えい」との間に六男三女をもうけた。
上から、可隆(越前敦賀で討死、19歳)、長可(後の小牧長久手の戦いで討死、26歳)、
成利(有名な蘭丸。乱とも、お乱とも、本能寺で討死、18歳)、坊丸(本能寺で討死、17歳)、
力丸(本能寺で討死、16歳)、忠政(後の美作津山藩初代藩主)、
碧松院(関成政室)、娘(青木秀重室)、うめ(木下勝俊室)

子供たちも血なのか勇猛であったようだ。

いかがでしょうか、可成のみならず実子、六人の男子のうち五人までもが「討死」。
戦国の世とはいえ、「正室えい」の悲嘆を思う。



<可成寺(かじょうじ)のこと>

数年前、ボクは森可成の墓のある可成寺(かじょうじ・現岐阜県可児市)を訪ねたことがある。
ボクは散歩の遠征をする。
そのひとつ岐阜県八百津町<日本のシンドラー。杉原千畝の故郷とされている(異説あり)>
の近く兼山町に可成寺はある。
兼山町は山と木曽川に挟まれた川沿いにある細長い小さな町だ。

可成寺は可成の居城、美濃金山城(兼山とも)の麓にある小さな寺だ。
妙向尼が宇佐山で戦死した夫・森可成の菩提を弔うため長可を開墓とし、栄厳禅師を請して創建したという。

寺の墓地には、可成をはじめ、可隆、長可、成利(蘭丸)、坊丸、力丸の墓がある。
思ったより小さな墓だ。
手を合わせてきた。訪ねたときは誰一人いなかった。

金山城は山の頂上に本丸跡がある。
本丸跡近くまで舗装道路がある。

戦国期の山城跡に登ると、いつも「なるほどね!」と思う。素晴らしい見晴らしなのだ。
眼下の軍勢やその移動が「手に取るように」だったのではないだろうか、

おそらく、城からの視界を遮るような木々は伐採されていただろうから、
今よりも視界がきいただろう。

視力自慢が見張りに立ったのだろう。



可成寺は人気のある蘭丸(「乱」とも「お乱」とも呼ばれた)ゆかりの寺だ。
兼山町はもっと観光に力を入れてもいいように思う、もったいない。
余計なお世話か・・・


「信長夜話・その99」に続く→



  1. 2019/03/19(火) 07:42:26|
  2. 信長夜話
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海へ

先日、愛知県知多半島、内海(うつみ・人気のビーチがある)にある梅原猛ゆかりの家を訪ねてきた。
梅原猛に私淑している友人に誘われた。

梅原猛(哲学者、文筆家、各大学学長)がワケあって高校生まで住んだ叔父さんの家だ。
当時はここからバスで河和(こうわ)まで、河和から名古屋まで鉄道、片道2時間超の通学だったという。

友人が管理団体にお願いをして特別に見せていただいた。
案内してくれた女性の知性ある丁寧な説明に感謝したい。

実はその前日、梅原猛は亡くなっていた。
これも何かの縁か。



話は変わる。

ボクはむしょうに海を見たくなる。なにをするのでもないが見たくなる。
「じゃあ山は?」と問われれば、山も好きだが海ほどではない、「むしょうに」ということはない。
ボクには「海族」の遺伝子があるのかもしれない?

現在の住まいから海までは「クルマ+一般道」で片道3時間ほどだろうか、

umie12.jpg
<「海へ」を画いてみた。
あと信号を5~6つ過ぎれば海だ。
小さいクルマでボボボボ・・・ 心は海岸や浜に飛ぶ。

鳥瞰図は苦手だ。
近景、中景、遠景を描き分ける必要がある。
下絵の段階でチェックをしておかないとツジツマが合わなくなる。

下絵もなく、いきなり都市の鳥瞰図を画くのを見たことがあるが、あれは特殊能力だ。
アニメの背景などの鳥瞰図は写真画像を投影して画くのだろう。>  



子供のころ、ボクは名古屋の場末の商店街のそのまたハズレに住んでいた。
「海水浴」は一番の楽しみだった。
父ちゃん(こう呼んでいた)と年に1度の「海水浴」の記憶、
このころが父ちゃんともっともシックリいっていた時のように思う。

私鉄に乗る。名古屋の街並みを過ぎる。しばらくして海が近づいてくると車窓が海を感じさせる。
河口近くに舫っている幾艘もの小さな漁船、名古屋の運河でみる船とは違う。
松林が見えはじめる、海が近い!

ワクワクワク・・・車窓にくぎづけだ。
すると突然、海だ!彼方に海が見える!
あんなに爽やかな感動の記憶をボクは知らない。

この思い出が「むしょうに海を見たくなる」理由のひとつだろう。

子供のころの海は名古屋に近かった。今、その海は埋め立てられて工場や住宅地になっている。

名古屋で海といえば、知多半島だ。
ボクも少年時代、青春時代、オジサン時代と、海なら知多だった。
野間(のま)から師崎(もろざき)そして河和(こうわ)までの岬をめぐる海岸線は知多半島の白眉だ。
そこには人気の海水浴場があるが、それよりも、干物や網を干す知多の風情がある。

ただ、最近のボクの御ひいきは渥美半島と三河湾(一色町あたり)だが・・・、

オジサンになったボクは海水浴客でごったがえす海が苦手になった。
シーズンオフの寂しげな海が好きだ。



  1. 2019/02/26(火) 07:13:51|
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久しぶりのこころ


手紙をもらった。
高校の同級生、久野満(くのみつる)からだった。
あだ名は「くのまん」。「くそまん」とよんで、からかったこともあった。

『ブエノスさん、お久しぶりです。〇△高校の同級生の久野満です。
出張で名古屋に行きます。
もし、お時間があれば、お会いしたいと思っています。
ご都合が良ければ、場所とお時間をお知らせください。』
という内容だった。

名古屋市千種駅近くの「郵便貯金会館」で待ち合わせることにした。

hisashiburi11.jpg

あれから30年ほど、その日、オジサン二人は再会した。
「おう!ひさしぶり、元気そうだな・・・・」
あいさつを交わしながら、「オレより若いな、太ったな、髪はまだ大丈夫そうだな・・・」と素早く観察する。
相手もそうだろう。


こういう時に、気をつかうのは身だしなみ。

例えば、普段は高級腕時計をしているが、再会のときにはどうか?
もし、相手が貧乏な状態にあるとすると、どうだろうか?

男はプライドの生き物。
相手の手首に巻かれた高級腕時計を見て、心穏やかではないだろう。(高級自動車でも、高級衣料でも同じ)
それが気になって話に身が入らない。

逆に、みすぼらしいのも相手が気を遣うだろうなぁ、と思う。
でも「気遣いを優先して、普段の自分を見せないというのもなぁ?」とも思う。
迷うなぁ。


もうひとつ迷うことに呼び方がある。
高校時代は呼び捨てかアダ名だった。

長い時間を経ての再会。まず、あだ名は危険だろう。

では、慎重に「さん」はどうだろう?
手紙では「ブエノスさん」だったから、それに従えば「久野さん」だろう。
でも、「さん」は距離を感じるなあ。

手紙の「ブエノスさん」を見たときにも、水くささを感じた。こっぱずかしい!
「かつて、呼び捨てがあたり前だったのに、いまさら・・・」と思う。

でも、相手の現在がわからないのだからなぁ・・・?
ボクが逆の立場でも、手紙では「さん」だったろう。

それでは、「くん」はどうだろうか?「久野くん」だ。常識的だが、少し見下し感がある。
たとえば「殿」と「様」には違いを感じる。
「殿」には見下し感、「様」には尊称感がある。
社長は社員へは「様」ではなく「殿」を使うことが多いように思う。

「久野くん」と呼べば、見下し感を感じるかもしれない?


結局、ボクは苗字の呼び捨てを選んだ。
「久野にはお姉さんがいたが、どうしてる?夏休みに素麺を作ってくれたのを覚えているよ」と。
これが長い時間を忘れさせ、詰襟の「くのまん」「ブエ(あだ名)」にもどる近道だと思った。
久野も、すぐにそれを理解してくれたようで、呼び捨てで返してくれた。

いや、ボクがそう思っただけで、久野からすれば「呼び捨てかよ!」と思ったかもしれないが、

日本語は繊細だ。いくつもの言葉から選ぶ。めんどくさいが魅力的。



(注)文中、同級生、久野満(くのみつる)は仮名です。




  1. 2019/02/05(火) 07:29:44|
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2019年の年賀状


2019年 初めの投稿です。
今年も、お時間がございましたら覗いてやってください。


ino322.jpg

ボクの年賀状の絵。

こいつをWORDでハガキ原稿に貼り付ける。
ボクの住所などを入れ、プリンターで印刷をして自筆コメントを書く。
画像の隅に「元旦」のハンコを押して完成。

イラストは以前に画いたものを流用することもあるが、今回は2019年用に画いた。
スキャナーで読み取り→大きさ修正、トリミングなどをして保存→WORDの手順。


2019年には「平成」が終わるという。
子供のころ、「米屋の清蔵さんは明治生まれだよ」ときくと、「えーっ!明治なの」とボクは思った。
「米屋の清蔵さん=明治維新=日清日露戦争」がうかんだが、明治でも後半の生まれだったのだろう。
ボクは昭和生まれだから、明治は二つ前の元号。

ボクも「えーっ!昭和なの」と言われる時がくる。

順繰り、順繰り・・・


  1. 2019/01/15(火) 07:27:54|
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