ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

上町台地の北の端(信長夜話・その96)

今回は、信長と約10年にわたって戦った顕如の本拠地、「大阪本願寺」(石山本願寺)のこと。

普通、「石山本願寺」と呼ばれることが多い。
秀吉時代に天満に本願寺が移されたため、後世、それと区別するため「石山本願寺」と呼ばれることになった。(異説あり)
当時は「大阪本願寺」と呼ばれていたようなので、今回は「大阪本願寺」とする。

明応五年(1496)、あの蓮如がこの地に御坊を築く。
大阪平野を南北に連なる上町台地(うえまち)の北の端。大阪市内唯一の台地。
その後、大阪本願寺(石山本願寺)は寺内町とともに発展、豊臣時代を経て大都市、大阪となる。
大阪人は秀吉好きだが、蓮如にも感謝したほうが良いかもしれない。

当時は「虎狼のすみか」だったといわれていた。
森や藪だったのかもしれないが、それほど辺鄙ではなかったのではないだろうか?
近くに古くからの交易の要衝「渡辺津・わたなべのつ」があった。

渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運海運の拠点だ。(大量輸送の手段は船だった)
さらに、京や堺、和泉・紀伊、山陽方面をつなぐ陸上交通の要でもあった。
多くの人が行きかい賑わっただろう。


渡辺津から台地に上がる急坂があった。これを「大阪」と呼んだ。
「大阪本願寺」の名の所以だという。

上町台地の北の端ということは、そこで台地は終り、低地へ下ることになる。
そこには大和川や淀川が海へと流れ込んでいた。
大阪を流れる多くの川が集まる場所だった。

大小の洲や湿地が、あちらこちらにある複雑な地形だ。
防衛上の利点、交通、交易の要衝。
「信長が欲しがった」という説が一般的だ。おそらくそうだろう。
信長より前に、この地に目をつけた蓮如はスゴイ!


isiyama143.jpg

<イラストは天満森(てんまがもり)上空から台地上の大阪本願寺城(城と呼ぶにふさわしい)を望む。
右の川を挟んだ集落が「渡辺津」。

本願寺城の南には天王寺(信長が第一次石山合戦のとき、最初、本陣を置いた)。
その先、遠くは河内長野から高野山。
イラスト向かって右は大阪湾が近い。正面後方は南都(奈良)方面。左後方は京へつながる。

だいたいこんな感じだったようだ。
信長との和議成立後、大阪本願寺は焼失。その地に秀吉が大阪城を築いた。
現在、秀吉の大阪城は発掘調査中だ。
顕如時代の本願寺は、まだわからないことが多くあるのだろう。

イエズス会、ガスパル・ヴィレラが永禄四年(1561年)8月の手紙に大阪本願寺のことを書いている。

『・・・日本の富の大部分は、この坊主の所有である。
毎年、はなはだ盛んな祭りを行い、参集する者ははなはだ多く、
寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者を出す。
・・・夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。
朝になって鐘を鳴らして朝のお勤めの合図があると、皆、御堂に入る。・・・』と、

イラストは「図説・戦国合戦集」学習研究社 ¥1,900+税、を参考にしました。>



大阪本願寺は、堀、塀、櫓を設けて防備力を増していき、「寺内町」が形成された。
大陸の城郭都市のようだ。
御坊を中心に、その周辺に法主一族や有力家臣の屋敷があった。
住民は商人、職人、農民、のほか、芸能民なども住んでいたという。
経済発展とともに町は拡大、「摂州第一の名城」と言われるほどになり、「大阪本願寺城」とも呼ばれるようになった。

顕如は「大阪本願寺城」にあって、織田信長との約10年間を戦うことになる。
(「大阪本願寺城」周辺の戦いは数回)
織田水軍が勝った「第二次木津川口の戦い」以後、天正六年(1578年)~天正八年(1580年)の約1年半、
無補給で耐え続けた。日本史上まれだ。



<蓮如~顕如の大阪本願寺>

明応五年(1496)、八世、蓮如が御坊を築く。

延徳元年(1489年)蓮如は法主を実如に譲り、山科本願寺に隠居した。
しかし、布教活動は盛んに行っている。

明応五年(1496年)9月に坊舎(大坂御堂)の建設を開始。、
これを中心に建設された寺内町が大坂の元となったと言われている。
建設には堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆が協力した。

明応六年(1497年)4月に上棟があり、11月には寺院が完成した。

永正三年(1506年)、「実如」は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。
細川政元と畠山義豊との「明応の政変」以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていたのだ。
ということは、すくなくともこの時までに本願寺は相当の武力を有していたことになる。

享禄四年(1531年)、本願寺教団内部で対立が起こるが、これを抑えて法主の指導力強化した。
(後の「山科本願寺の戦い」まで含めて「享禄・天文の乱」と呼ぶ)

享禄五年(1532年)5月、河内の飯盛山に立て籠もった木沢長政を
主筋である畠山義堯、三好元長、筒井氏の連合軍が攻めた。

実如の後継者「証如」は、細川晴元からの救援の要請に応じて大坂御坊から門徒衆2万の兵を率いて参戦。
6月には、攻囲軍を退散させる(飯盛城の戦い)。
2万の兵といえば、一流の戦国大名の動員兵力だ。

さらに一向一揆は三好元長(法華宗)を堺まで追い回し、自害に追いやった。
続々と集まった門徒は10万まで膨れ上がったと伝わる(10万ですぞ!)。
しかし、ここで解散をしないで大和へも乱入した。(本部の制御が効かない状態だったのだろう)

天文元年8月初旬、一向一揆に危機感を覚えた細川晴元が本願寺の末寺や大阪本願寺に攻撃を仕掛けてきた。
晴元からの要請に応じた法華一揆衆や六角定頼らは同年8月23日、3万から4万の兵で山科本願寺を寺内町共々焼き討ちにした(山科本願寺の戦い)。
(法華衆も武装していたのだ、現在の仏教とは大違い!)

この時、証如は大坂にいた。そして大阪本願寺時代が始まる。
山科本願寺から持ち出された仏像も転々としたのち、ようやく翌天文二年(1533年)7月25日に鎮座。
この年を築城年とされている。この鎮座の時期が理由だ。

この間も細川晴元と大阪本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが大阪本願寺攻めに加わった。
敵味方がクルクル変わる。
大阪本願寺では坊官(最高指導者の家政を担当した僧侶のこと)の下間頼盛が指揮官として赴任、
紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請したりした。

天文四年(1535年)11月末、「山科本願寺の戦い」から約4年後、ようやく両者で和議が成立。
下間頼盛は一揆を扇動した罪で兄の下間頼秀と共に本願寺から追放。後に暗殺された。
(前年の天文3年に織田信長が誕生している)

戦いの中で大阪本願寺は寺領を拡大、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、
塀、柵をめぐらし「寺内町」として防備を固めた。
証如の時代、すでに要害堅固な城郭都市になっていたと考えられている。

証如時代には中央や戦国大名家への外交が展開された。
天皇・公家衆への接近。戦国大名、甲斐の武田氏、相模の北条氏と親交を結ぶ。
そして敵だった細川晴元の養女を長男、顕如の正室に迎い入れるなど、
戦国大名と同盟を結んで大阪本願寺の絶頂期をむかえた。

証如の後継者、十一世「顕如」の時代となり、本願寺は織田信長と衝突することになる。
そのいきさつは「信長夜話」で書くので、今回は省略。






  1. 2018/04/17(火) 08:10:55|
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顕如光佐(信長夜話・その95)

織田信長の強敵はいくつか挙げられている。
甲斐の武田、越後の上杉、中国の毛利、将軍、足利義昭・・・だが、
最大の敵は「本願寺と顕如」だろう。

経済力、結束力(宗教的、士気)、連携力(ネットワーク、対信長包囲網)、武力(傭兵も含めて)、
広域性(各地に支部?がある)などなど・・・

敵対勢力の戦国大名の配下にも一向宗門徒(本願寺門徒)が少なからずいた。
越後の上杉、薩摩の島津、越前の朝倉などは一向宗と対立、
薩摩の島津はこれを禁じた。
薩摩では「隠れ念仏」という「隠れ一向宗」がいた。

キリシタンへの弾圧や殉教は、小説に書かれ、映画で描かれ、記念館がある。
比べると、一向宗へのそれは、ほとんどない(わずかだが関連本がある)。
日本人はキリシタンにやさしい(偏っている)ようだ。西洋に弱い。

脱線した。

徳川氏の三河でも一向宗に手を焼いている。
並大抵の相手ではない。


今回は信長と約11年にわたって戦い続けた浄土真宗本願寺、第十一世宗主、顕如(けんにょ)について

顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、本願寺を冠して「本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)」とも呼ばれる。
「顕如光佐」、良い名だ。

天文十二年(1543年)1月7日、本願寺第十世・証如の長男として顕如は生まれた。
母は庭田重親の娘・顕能尼。
これが本当なら(本当だろう)、織田信長より九つ年下だ。

天文二十三年(1554年)8月12日、父、証如が重態となり急いで得度が行われた。
翌13日、本願寺を継いだ。
祖母・鎮永尼の補佐を受けて教団を運営する。このとき、顕如、十一歳

弘治三年(1557年)4月17日、細川晴元の養女、如春尼と結婚。
本願寺は妻帯して良い(宗祖、親鸞は肉食妻帯した)。
如春尼の実の姉は武田信玄の正室・三条夫人であり、信玄と顕如は義兄弟にあたる。


顕如の時代、本願寺教団は、門徒による一向一揆の掌握に務めた。
本願寺の浄土真宗の教えには 「王法為本」 というものがある。
これは 「時の統治者(権力者)に従い、政治と秩序を助けることが仏法の道である」 という考えだという。

そして、顕如は管領の細川家や京の公家との縁戚関係を深めた。

要衝である石山本願寺を拠点として、
畿内を中心に寺を配置し、有力大名に匹敵する力をもつようになる。
教団は最盛期を迎える。

1568年、織田信長が足利義昭と上洛すると、顕如自ら織田信長に挨拶をした。

「信長の可能性は未知数だが、治安を回復するのなら歓迎する」という思いだったのだろう。
信長からの5000貫の矢銭(軍資金)の要求も、スンナリと応じた(内心はわからない)。

「まずは相手の出方を見よう、要求があれば一つや二つは呑んでやろう」と顕如は考えたのではないだろうか(ボクの想像)
信長に対して「王法為本」の姿勢だったのかもしれない。

本願寺は武家の封建関係の枠外で権力を握っていたことから、
比叡山延暦寺や堺の町衆などと同様に、信長による圧迫を受けるようになる。
(朝廷、寺社、幕府(将軍)、戦国大名、など異なる権力が複数あった)

信長はさらに要求してきた。
浄土真宗(一向宗)の信者の動きの報告、本願寺として命令を出す際には、信長の許可を取ること、
他の大名家との交渉はやめること、など

kennyo112.jpg

<イラストは石山本願寺の御影堂と阿弥陀堂の前に集まった門徒衆、傭兵たち、とした。
阿弥陀堂は名のごとく阿弥陀如来を安置する。
御影堂は宗祖親鸞や、その師匠、法然の御影を置く。
東(大谷派)と西ではお堂の位置が逆らしい。

イラスト真ん中は顕如。
信長と戦ったぐらいだから、脂ぎった坊主を連想していたが、残っている肖像画を見ると、ほっそりとして知的な感じがする。
目と目の間が広い、鼻が長くて大きい、顔は顎に向かって細く、らっきょのようだ(失礼)。

一休(宗純)や親鸞の肖像画ほどではないが、なかなか良い画だ。
「こんなオジサンいるよなぁ」と思わせる。

肖像画の顕如は目が涼しい。素直な感じがする。
しかし、イラストはボク流に「一癖ある顕如」にしてみた。

本願寺は出陣にあたって、「進むは極楽、退けば地獄」 と鼓舞したという。
高揚感に包まれた多くの門徒衆がいただろう。

しかし、違和感を感じたものもいたのではないだろうか?

「・・・阿弥陀仏の本願を説いて、人々を、本当の幸せに導く為・・・」
と説くが、状況が変われば「人を殺してこい」というのか?矛盾。
「浄土思想を利用した戦意高揚」だ。
暴力と人殺しを生業とする武士と比べると、よく言えば柔軟。悪く言えばズルい。

戦国時代の有力宗教教団は武装していた。「仏+武」だった。

崇高な理想ではじまったものが、ひとたび組織化されると、たちまち組織の存続、発展が第一義となる。
いつもそうだ。>



本願寺内部にはタカ派もいれば、ハト派もいた。
信長からの要求を呑んだことからすると、
顕如は当初はハト派だったのではないだろうか(ボクの想像)

しかし、信長からのさらなる要求、本願寺内部のタカ派からの突き上げ、
本願寺の総合力(軍事力や経済力、)への自信、信長包囲網形成の自信、三好党との密約(ボクの想像)
などが決断させたのだろう。
顕如は信長と敵対する。

元亀元年(1570年)に本願寺と織田氏は交戦状態に入った。
このとき、信長37歳、顕如28歳。


「本願寺×信長」の戦いの経過については、これからの「信長夜話」で書くので省略。

話は一気にとんで、天正8年(1580)正親町天皇の勅によって信長との和議が締結、
本願寺は紀伊(和歌山県)鷺森に移ることになった。
事実上の「本願寺の負け」である。信長47歳、顕如38歳。

「本能寺の変」信長の死・・・

信長に代わって実権を握った羽柴秀吉と顕如は和睦。
秀吉は石山本願寺の寺内町に大坂城と城下町を整備した。
天正十三年(1585年)大坂郊外にある摂津中島(後の天満の町)に移転して天満本願寺を建立。
ルイス・フロイスによると「秀吉の宮殿の前方にある孤立した低地」だったという。

秀吉は「住居に壁をめぐらしたり堀を作る」ことを禁じた。
本願寺は豊臣政権の強い統制下に置かれることになった。

この年、顕如は大僧正に任じられ、翌天正十四年(1586年)には准三宮の宣下を受ける。
また、秀吉から九州平定に同行するよう命じられ、下関滞在。

天正十七年(1589年)、聚楽第の壁に政道(秀吉の)批判の落書が書かれる事件があった。
その容疑者が本願寺の寺内町に逃げ込んだという情報と、秀吉から追われている「斯波義銀・細川昭元・尾藤知宣らの浪人が
天満に潜伏している」という情報を入手した豊臣政権は、
石田三成に命じて寺内町の取締強化と、これらの者を匿ったと断定された2町を破壊する厳しい成敗を行わせた。

肝心の浪人らは見つからなかったが、彼らを匿った罪で天満の町人63名が京都六条河原で磔となった。
顕如も秀吉から浪人の逃亡を見逃した理由で叱責を蒙り(『言経卿記』)、
さらに容疑者隠匿に関与したとして、あの蓮如の孫にあたる願得寺顕悟が自害を命じられた。


信長に敵対して、一時、信長を追いつめた「本願寺顕如」とは思えない。
「王法為本」にもどったのだろうか?

強大な権力は顕如一代のもとで失われていった。本願寺の絶頂期と衰退期を顕如は見たのだ。
天正十九年(1591年)には秀吉から京都七条堀川の地に移転を余儀なくされた。
翌天正二十年(1592年)11月24日に50歳で顕如は示寂した(亡くなった年齢が信長とほぼ同じだ。)

顕如が亡くなると、石山退去時、信長と和睦した顕如に反発した強硬派の長男教如(きょうにょ)に替えて、
三男の准如(じゅんにょ)が十二世宗主に立てられた。秀吉からの要請(圧力)があったといわれている。

本願寺内部での対立が進行する中、徳川家康が京に新たな寺地を寄進。
教如は慶長七年(1602年、「関ケ原の戦」の2年後)に独立して東本願寺を設立。
こうして本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺とに分裂することになった。

家康の本願寺弱体化対策だったのだろう。
信長、秀吉、家康が本願寺の力を削いでいったのだ。
それほど強大であったということだろう。

本願寺の分裂には、そんないきさつがあった。









  1. 2018/03/27(火) 07:35:11|
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早鐘が突きならされた(信長夜話・その94)

前回の『信長夜話・その93』からの続き→

元亀元年(1570)九月十二日、『・・・公方様(足利義昭)と信長公は
野田・福島から十町(約1090m)北の海老江(現福島区)に移ってここを本陣とし、
諸勢に総攻撃を開始させた。

一方、敵方(三好方)にも根来衆・雑賀衆・湯川衆および紀伊国奥郡衆約二万が来援し、
遠里小野(現住吉区)・住吉・天王寺に陣を張って織田勢へ鉄砲三千挺を撃ちかけてきた。・・・

この火力戦に野田・福島の両城は次第に疲弊し、さまざまに交渉して和睦をはかってきた。
しかし信長公はこれを容れず、「程を知らぬ奴輩、攻め干すべし」といって殲滅を決意した。』

『信長公記』にはそう書かれている。



元亀元年(1570)九月十二日の夜、本願寺勢が織田方の楼の岸(ろうのきし)、川口の砦、に鉄砲を撃ちこんだ。
楼の岸(ろうのきし)、川口、は石山本願寺のスグそば。
本願寺法主、顕如(けんにょ)自ら鎧を着て出陣したという。

顕如は勇ましい人だったようだ。
「反信長」の姿勢を足元の大阪(石山)、そして各地の本願寺(一向宗)勢力にハッキリ示す効果を狙ったのだろう。


本願寺の参戦で戦況は大きく変化した。

『九月十二日夜半に寺内の早鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり。信長方仰天なく候』(『細川両家記』)
本願寺勢は早鐘を合図に出撃したようだ。

これにより、押され気味だった三好勢の士気は上がり、翌13日早朝、織田軍がせき止めていた防堤を打ち破った。
『にわかに西風が吹いて西海より高塩水が噴き上がり、淀川逆に流れたり。
・・・信長方の陣屋とも、ことごとくつかり、難儀に及ぶよしに候』(『細川両家記』)

翌14日、海水がなかなか引かず、15日から17日までは鉄砲による攻撃が出来ず、大規模な戦闘はなかった。



実は九月六日には、本願寺法主(ほっす)顕如(けんにょ)は湖東(琵琶湖東岸)の犬上、神崎、蒲生、の本願寺門徒に宛て、
信長と敵対するよう檄文を送っていた。

以下
『信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。
去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、
破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。
然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。
併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。

九月六日
顕如  門徒中へ』

信長は本願寺に制約を加えようとしたようだ。管理下に置きたかったのだろう。
文中、信長が「本願寺の破却」をせまったように書かれているが、他の史料には見当たらない。
顕如の作り話とみる説が有力。

参戦の正当性、本願寺勢の士気を高めるため、これぐらいの作り話は当たり前だろう。
(戦には、どちらにも正義が必要。)

信長が本願寺の地を欲しがっていた、という説もある。
ボクもそう思う。それぐらい魅力のある土地だった(本願寺の地は現在の大阪城)。

さらに、顕如は九月十日、信長と敵対している浅井氏・朝倉氏へ書状を送っている。
対信長連合を組むため(出陣の要請か)だろう。

本願寺の力をもってしても信長を退けるのは容易ではない。
「信長包囲網」をつくる必要を顕如は考えていた(ボクの想像)。

浅井氏・朝倉が出陣して京に迫れば、三好方+本願寺と対峙している状態では、信長も窮するだろう、と


遅くとも九月六日(檄文を送っていた)以前に、顕如は反信長を決めていたことになる。

その二日後、九月八日に信長は天王寺(野田、福島から南へ5km)から
天満森(てんまがもり)に陣を移している(天満森は川を挟んだ本願寺の対岸)。

やはり、信長は本願寺の敵対を想定していなかったのだ。
信長の情報機関の失態だったのではないだろうか?

sansen12.jpg
<イラストは出撃する「本願寺一揆勢」とした。
普通、「一揆」と言えば、「竹槍、むしろ旗」ということになっている。
映画やテレビが何度もそう画いてきたからだ。映像の力は大きい。

そんな一揆もあったのかもしれないが、「本願寺一揆勢」は違うだろう。
いや、戦国大名に敵対した「一揆」は違うだろう。

江戸時代の百姓一揆と戦国時代の一揆は別物だとボクは思う。
映画やテレビは「江戸時代型百姓一揆」ばかりだ。

もともと「一揆」とは「揆を一にする」、ひとつのの目的のために団結するという意味。

「本願寺一揆勢」の戦闘の中心をなしたのは、紀州の雑賀や根来などの傭兵たちだった(ボクの想像)。
雑賀衆の多くは一向宗(本願寺)門徒だ(根来衆は真言宗)。

各地の勢力からの依頼をうけて派兵されるのが傭兵。
当然、なんらかの報酬が支払われたのだろう。
派兵が決定した時点で報酬が支払われように思う。
(いや、決定した時点で半分、勝利した時点で半分かな?)

もし、依頼者(クライアント)が負けて、滅びてしまうようなことがあったら、
「ただ働き」になってしまうから。
「先銭」の契約だったのではないだろうか?(ボクの想像)

派遣する戦闘部隊は、言わば商品。実績と内容を備えてなくてはならない。
最新の装備を整えていただろう。
「織田勢」と比べても劣らない、いや、それ以上の装備だったのかもしれない(ボクの想像)

イラストの一揆勢は装備が一律ではなく簡易装備とした。
織田勢とイラスト上、区別させるためにそうした。
実際は完全装備だったかもしれない。


戦国大名の兵の多くは農民だ。織田勢とて例外ではない。
「農民=弱い」は間違い。実戦経験のある農民は多くいただろう。

すこし豊かな農民は自前で槍、刀を用意していたのではないだろうか。
「お貸し刀や槍」(大名が用意した装備)より、自前の槍、刀のほうが使い勝手が良い。
「命のやりとり」をする戦場では、その差は重要だろう。

当時、農村間のいざこざ(これも戦)が頻発したという。水問題、境界線問題などなど。
青壮年の男が動員された。戦国時代は武士だけが戦ったのではない。

そのたびに、土地の領主や権力者の裁定を仰いだという。
納得のいく裁定をするのが権力者の存在理由のひとつだった。
(ヤクザの世界でも組と組との抗争を、仲裁することができれば、一目おかれる存在になる)>


脱線した。

本願寺が楼の岸などを攻撃した九月十二日時点では、信長は将軍義昭とともに海老江にいた。
海老江は天満森よりは距離がある(本願寺から)。それでも本願寺に近い。背後は川(水辺?)だ。


三好方の野田・福島を攻めるための織田勢の布陣は、石山本願寺を囲んでいるようにも見える。
本願寺側から見れば脅威を感じたのかもしれない。

現在でも自国の近くで軍事演習をすれば、強い脅威だ。
ましてや、実戦部隊が実戦をしているのだから。

戦争は「恐れと疑心」が引き金を引く。「やられる前にやる」。喧嘩と同じ。


いや、実は三好方と本願寺の顕如との間には、すでに話がついていたのでは?(ボクの想像)。
今回の本願寺の参戦は、その好機をとらえてのことだったのだ。

三好方が当時の信長と対峙するには力不足だ。
それでも三好方が野田、福島に進出した裏には本願寺との密約があったのでは?
そして、本願寺からの浅井、朝倉、

さらに本願寺からの、甲斐の武田、安芸の毛利、という連想が三好方にはあったのではないだろうか?(ボクの想像)
顕如の妻、如春尼の姉は武田信玄の正室、三条の方。顕如と信玄は親戚である。


十四日、本願寺一揆勢は、信長の馬廻りたち(親衛隊)が守る天満森を攻撃した。
それに馬廻りたちが受けてたち、淀川の春日井堤まで反撃、
激しい戦闘の末、一揆勢を追い払った。

『信長公記』には次のように書かれている
『・・・翌14日になって戦線が動いた。
この日一揆勢は大坂を出て、天満の森まで進んできたのである。
織田勢もこれに応じて川を越え、両軍は淀川堤で衝突した。

織田勢の一番手は佐々成政であったが、乱戦の中で手傷を負って退いた。
二番手には前田利家が堤通りの中筋を進み、その右手からは弓衆の中野又兵衛が、
左手からは野村越中・湯浅甚助・毛利河内守秀頼・兼松又四郎らが先を争って敵勢へ殺到した。

このとき、毛利秀頼と兼松又四郎の二人は協力して下間丹後配下の長末新七郎と戦い、これを突き伏せた。
毛利は兼松に向かい、「首を取り候え」と功を譲ろうとしたが、
兼松は「それがしはただの手伝いにござる。お手前こそ取り候え」といって受けなかった。

二人はしばらく言い合ったが結局双方とも譲らず、せっかくの大将首を置き捨てにして退いてしまった。
戦は乱戦となり、野村越中(将軍義昭の直臣)が討死した。』


今まで優勢だった織田勢が押されがちになった。
三好方の野田、福島の砦を包囲していた織田勢に、新たに強力な敵(本願寺)が現れたのだ。
こんな戦闘が「竹槍、むしろ旗」に出来るはずがない(ボクの想像)。

十六日、信長は本願寺との和睦に動く。
しかし、何度も交渉するが、物別れに終わった。

二十日、本願寺一揆勢は榎並(えなみ、本願寺の北5kmほど、現城東区)の織田方を襲った。
さらに本願寺の圧力が加われば、信長本隊すら危ない(ボクの想像)。

二十二日、信長は将軍義昭とともに、海老江の陣を引き払い、天満森に戻った。
天満森には信長の馬廻り(親衛隊)が守っていた。

そこへ琵琶湖西岸、「宇佐山」を守っていた「森可成(よしなり)討死」の報せが入ってきた。

続きはまたいつか・・・


次回、「信長夜話」は織田信長と約十年にわたる戦を続けた顕如光佐(けんにょこうさ)と本願寺について書きたい。





谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 、を参考にしました。





  1. 2018/03/06(火) 07:35:44|
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よくわからないこと?

年をとると、わずかずつ時代とズレてくる。
それは仕方がないことだろう。
ボクはめんどくさいのが嫌いだから、ズレが早く進むのかもしれない。
(なにが時代の標準なのかはわからないが?)

例えば、パソコンのOSが新しくなる。windows8からwindows10への移行。
するとwindows10の操作方法を覚え(慣れ)なければならない。

若い人は、それもゲームのように楽しめるのかもしれないが、
おじさんのボクには、とても「めんどくさい!」。

windows8のときなどは、なんと、スタートボタンがなかった。
まず、スタートさせるのに一苦労(ええ加減にせーよ!)。
基本操作から、覚え(慣れ)たくはない。

te291.jpg


ということで、時代とズレているボクが、よくわからないこと(理解しがたいこと)がいくつかある。

そのひとつ、話題の「仮想通貨」
まず、名前からして胡散臭さイッパイ。なんたって「仮想」だもんね。
それが何種類もあるらしい。
(ボクは「仮想通貨」にはまったくの素人)

その「仮想通貨」を仮想現実(インターネット)上で「現実の通貨」で買うのだろう。
現実通貨を仮想通貨にするのだね。
仮想通貨はインターネット上で、今までめんどくさかったことでも
簡単に決済可能(国外でも)だという。

仮想通貨は取引されて価値が上下するという。
ある仮想通貨は24倍になったと聞いた。
もしそれが本当なら(幸運にも)、1万円が24万円に、10万円なら240万円に、50万円が1200万円に、・・・

先日、「コインチェック」の仮想通貨が流出して(盗まれた)大きく報道された。
今後、どうなっていくのかハッキリしない。
出川哲郎の兄と弟の二役のCM(面白い)も、パッタリ流れなくなった(あたり前だが)。


詐欺の目標は、ほとんどがお金だろう。
ボクは銀行のネットバンキングすら「危険」だと思っている。
だって、どこかの国がITの逸材を集めて、なんとかして金を盗めないかと、
国を挙げて研究をしている、というではないか。

ボクは「仮想通貨」などという胡散臭いものに手を出すのはイヤだ。
「仮想通貨」に手を出すヤツの気が知れない。


そんなことを昼下がりのスターバックスで友人に話した。
すると友人が、こんなことを言った。

① 今の仮想通貨はバブルだろう。そしてバブルははじけるだろう。
危険だろう。トラブルが起きるだろう。
そのあげく、規制や整備がされたのち、さらに広まっていく。止まらないだろう。

② 今は仮想通貨は初期の段階で、参加している人が少ない。
だから大きく価値が上下するのだろう。大得、大損、がおこる。

③ 仮想通貨に参加している人の何割かは、博打でやっているのではないか?
宝くじより儲かるかもしれないと、
10万円で参加して「0」になったとしても、「博打なんだから」と、
逆に値上がりすれば、24倍にと、

④「仮想」は胡散臭いというが、今の世の中、仮想だらけだ。
そもそも、通貨だって胡散臭い。ただの印刷物になる可能性がないとはいえない。
実際、あった。

整理すると、友人はそんなことを言った。

座りの良い顔、ノンビリとした性格の友人だが、ボクの話より切れがあった。
ボクの話は、所詮、テレビニュースと想像でかためた「ド素人仮想通貨感」だ。


夕暮れの電車のなか、いやまてよ、「友人は仮想通貨に手を出しているのではないのか?」
言葉に鋭いところがあった。
仮想通貨を毛嫌いするボクの言葉に、イラッとするところがあったのかもしれない。

横長の前席の乗客のほとんどは、スマートフォンに夢中になっている。
その後ろを見慣れた景色が流れていく。もうすぐ最寄駅だ。

「それでも仮想通貨には手を出さないもんね!」とボクは思った。










  1. 2018/02/13(火) 07:54:36|
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酌量の余地はない!(ジョーク)


「・・・酌量の余地はない!被告に最大の罰を言いわたさざるをえない。・・・」
きびしい口調で、判事は被告に向かって言った。

「被告は、安全で、暮らしの心配などもない刑務所へ送られることを考えていただろう。
そうはいかない。被告には苦労が渦巻く世間(娑婆)に戻る刑を科すこととするっ!」

hanketsu1111.jpg

さらに、判事は続けた。

「そこで被告は生きて、さまざまな苦労を味あうことになるのだ。
突然、暴落する株式市場、口先だけの不誠実な政治、うんざりする道路の渋滞、汗して稼いだ金を無慈悲に奪う税金。
なけなしの金を狙う詐欺。家族を養うためにイヤな仕事を続けて定年をむかえたら、粗大ゴミあつかい。
年老いて入院したらベッドにくくりつけられ…・・・」

「そんなこんなが渦巻く世間に、お前は戻らなければならないのだ。」

「・・・・」
その判決をきいた被告の震えは止まらなかった。



(注)記憶にあるジョークを参考にしたのですが、出典を思いだせません。





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話は変わる。

「大相撲」が面白い。
嘉風などのベテラン、御嵩海などの新しい世代の台頭が面白くしているように見える。ボクには.。
横綱、大関が安定した場所はスリルがなくてつまらない。

それにしても、最高位の行司、式守伊之助の「セクハラ事件」、
伊之助は酒癖が悪かったそうだ。
酩酊→悪ふざけで、若い男の行司にチューをしたのだろうとボクは想像している。
「男色の趣味はない」と伊之助が言っているのを信じたわけだが・・・

行司の脇差は、「軍配のさし違い」をすれば、切腹をも辞さない覚悟のしるしだ、と言われている。
その行司の最高位が、それも、若い男の行司にチュー(何度も)!・・・
そこが面白い。その落差が面白い。


織田信長は相撲が大好きだったという。

信長と言えば男色(両刀使いだが)。
当時は信長に限らず、男色趣味は珍しくない。
武田信玄などは男色相手からの嫉妬の文が残っているという。

ひょっとすると、行司の世界には信長時代の趣味が脈々と・・・?

行司の衣装はと見てとれば、烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)。
これに太刀をはけば、当時の武士の正装だ・・・ムムム?・・・不謹慎は面白い・・・。

<余談>
「安土桃山時代というのは、日本男子が最も美しいものを着た時代なんです。
・・・日本男子の体形が最も立派に見えるのが直垂です。」
デザイナー、ワダエミの話です(正確ではない)。




  1. 2018/01/23(火) 07:14:13|
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