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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

ウェーク島戦記5・上陸作戦

前回、「ウェーク島戦記4・二航戦」からの続き→

ウェーク島の米守備隊は残った グラマンF4F戦闘機や沿岸砲で日本の攻略部隊を撃退して退却させた(第一次)。
日本海軍は大きく増強された攻略部隊(第二次)を編成して、再びウェーク島にせまった。

二航戦の空母、「蒼龍」「飛龍」の艦載機は二度にわたってウェーク島を空襲。
迎撃した2機のF4F戦闘機は97式艦攻2機を撃墜して健闘するが、護衛の零戦に撃ち落とされる。
これでウェーク島の戦闘機はいなくなった。

1941年12月22日、日本の攻略部隊は潜水艦に誘導されてウェーク島南岸に接近、
21時(午後9時である)、いよいよ上陸作戦がはじまる。
同時に第18戦隊はウェーク島の東岸に移動して陽動作戦を実施した(上陸目標地点をごまかすため)。

前回と同じく、この日も海は荒れて大発を降ろすのに手間取る。
ついに哨戒艇2隻(第32号、第33号)を海岸に擱座(浅瀬などに乗り上げる)させ陸戦隊を上陸させた。
続いて各艦からも陸戦隊(海軍所属の陸上戦闘部隊)が大発でウェーク島南岸とウィルクス島に上陸した。
*哨戒艇は旧式駆逐艦


舞鶴特陸(特別陸戦隊)一個中隊の本隊は砲台と機銃陣地の真正面に上陸、猛烈な反撃を受けて中隊長が戦死。
第6根拠地隊一個中隊はウィルクス島に上陸、ここでも猛烈な反撃を受け、小隊が全滅。
夜の激しい銃撃戦、舞鶴第二特陸一個中隊も負傷者が続出する。23日になって戦線は膠着した。

一方。飛行機を失った第211航空隊のパットナム少佐以下の生き残ったパイロットと整備兵20名は、第一海兵大隊のカニンガム中佐の指揮下に入り小銃とピストルで日本の陸戦隊を迎えうった。
夜明けに日本兵の突撃してくるのを、駆逐艦「如月」を撃沈したエルロッド大尉は自動小銃を撃ちまくり、日本兵をなぎ倒す。
退く日本兵を追おうとしたとき、死骸の間に隠れていた日本兵に狙撃されて戦死した。
こうした戦闘が10時間にわたって繰り広げられたのだ。

両軍入り乱れての戦となったため、洋上の日本艦隊は艦砲射撃もできない。
そんななか、舞鶴特陸一個中隊は決死隊を編成、反撃をかわして進撃中に飛行場近くで海兵隊指揮官デブルー少佐を、さらにウェーク島守備隊指揮官カニンガム中佐を捕虜とした。
大殊勲だ。

鹵獲したジープにカニンガム中佐を乗せ、白旗を掲げて戦線を回らせ降伏を呼びかけさせた。
結果、米兵が続々と降伏した。

残敵掃討をした後、12月23日10時40分、日本軍はウェーク島を占領、上陸作戦は成功した。
そして、捕虜になったアメリカ兵は中国大陸の捕虜収容所に送られた。


太平洋戦争の初戦で日本軍の快進撃に世界が驚いた。
戦争をしかけられる側の準備不足、日本への過小評価、幸運、などがあった。
各地で優勢な日本軍に米英蘭軍が圧倒されるなかで、「ウェーク島の戦い」は激戦だった。
米パイロットと守備隊の奮戦はアメリカ国民を感動させたのだった。



ところで、アメリカ軍は「ウェーク島救援」を、どうしていたのだろうか?
ウェーク島の戦況は逐一報告されていたはずだ。

実は大型空母サラトガを中心とした第14任務部隊(フランク・J・フレッチャー中将指揮)を編成、ウェーク島救援を目指していた。
それを空母エンタープライズ基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)が哨戒と支援。
さらに空母レキシントン基幹の第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)はマキン島を牽制攻撃した。


アメリカ太平洋艦隊は日本海軍の真珠湾攻撃で、当時の決戦兵器である戦艦群が大きな損害を受け、
図らずも損害がなかった空母と巡洋艦部隊で日本海軍に対抗しようとしたのだ。
それは、アメリカにとって幸運だった。
後にハッキリしてくることだが、海の戦いの主役は「戦艦から空母(その搭載機)と潜水艦」へと替わっていたのだから。
アメリカは空母の有用性に目覚め、新空母建造に着手していく。

当時の列強の空母に対する評価は未知数、大鑑巨砲が主流だった。
第二次世界大戦で空母を運用した(出来た)のは、日米英の三国のみだ。
複数の空母を中心とする機動部隊(タスクフォース)を本格的に編成、投入したのは日本だった。


脱線した。
当時、太平洋艦隊司令長官代理ウィリアム・パイ中将だった。
パイ中将はウェーク島の取り扱について海軍作戦部長ハロルド・スターク大将と合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将に伺いを立てるが、「ウェーク島守備隊の士気を考慮したが、兵力の増強より撤退すべきだ」と指示された。
これでウェーク島救援の動きは一気に終息に向かう。

ウェーク島救援の本隊である空母サラトガの第14任務部隊は、寄せ集め部隊で練度が低く(慌てて編成されたのだろう?)、
12月23日の時点でウェーク島の北東約683キロ地点に達していたが、日本軍の占領の報に引き返した。
もし、第14任務部隊がそのままウェーク島に接近を続ければ、二航戦の空母、「飛龍」と「蒼龍」との間で、
史上初の「空母対空母」の戦いが起きたかもしれない。(史上初は5か月後の「珊瑚海海戦」)


jyouriku32.jpg

<このころのアメリカ兵はイギリス兵のようなヘルメットだったと記憶している(たしか)。
装備は旧式だったといわれている。戦争を仕掛けられる側の準備不足だったのだろう。

捕虜になった米将兵の思いはどうだったのだろうか?
おそらく、「アメリカは世界の一等国、我々はそのアメリカ国民」と思っていただろう。
それが、実態がよくわからない背の低い下等国民に負けて捕虜となった。

誤解を覚悟で書けば、一等国の強いプライドは他国を見下す傾向を生む。
とくに白色アメリカ人は、その傾向が強いのではないだろうか?(白人コンプレックスとは言いきれまい)
プライドの高い米捕虜の憂鬱は、その分、深かったろう。>



戦前には「アメリカはいろいろな民族の集合体だから、結束力が弱い。
そこえいくと我が日本は単一民族(実際はちがうが)だから、団結して事に当たることが出来る。
根性がちがう。アメリカ恐るるに足らず・・・」などという風潮が日本にはあった。

ところがどうだろう、はるかに優勢な日本軍を相手に痛撃を加え、
勇戦敢闘のすえの降伏、捕虜となった米ウェーク島守備隊および航空隊に「結束力が弱い」とか、
「根性では日本人は負けない」など的外れだった。

総合的にみて、当時でもアメリカは世界最強の国だった。
日本が一部でアメリカより優れたところがあったとしても、国家の総力戦になれば、大きな開きがあった。
日本にとって不幸にも「アメリカとの戦い」は総力戦になっていったのだ。


日本軍は、ここぞというところで「バンザイ突撃」をやった。ウェーク島でもやっただろう。
最初は敵も「度肝を抜かれた」だろうが、それが常套手段だということがわかると、火力を集中して殲滅した。

日本軍は「気合いは機関銃より勝る」と信じていたのだろうか?
優勢な火力の敵に着剣突撃をすれば、壊滅的打撃をうけることは、
450年前の織田信長や豊臣秀吉でも知っていたことだろう。
いや、子供でもわかる無謀な行為だ。

ボクは日本は優れたところが多くあると思っている。日本人で良かった、とも思っているが、
旧日本軍の「非合理」はどうしてこんなことになったのだろうか?イビツな軍隊、
恐るべき軍隊だ。それは敵にではなく、自軍の兵にとって。
装備や兵器開発、将校の給料、などへの予算配分はどうなっていたのだろうか?興味がある。
(日本はアメリカと比べて戦向きの民ではない、とボクは思う)


脱線した。
戦前日本のアメリカ評も的外れだが、一方、

「真珠湾を攻撃したパイロットはドイツ人だ。日本人は遺伝的に視力に問題がありパイロットには向いていない。」
という見解がアメリカにあった。
ハリウッド映画やコミック雑誌に描かれる日本人の多くが、「黄色い皮膚、背が低く貧弱な体格、妙にニヤニヤ、出っ歯で眼鏡」だった。
「日本人に緻密な組織的戦闘など出来るはずがない」と多くのアメリカ人が思っていたとしても不思議ではない。
日本人の情報量が少ないなか、映像の影響力は恐ろしい。
いかに相手国を理解していなかったことがわかる。

その後、アメリカは人材と予算を投入、日本研究をすすめ(敵を知る)、日本は敵性言語の使用を制限した。
たとえば、野球の「ストライク→よし」「ボール→だめ」など・・・
情けないほどの日本の対応ぶりだ。

戦前の世界は日本の実力を把握していなかった。評価は低かったのだ。
(初戦の日本軍の快進撃の理由のひとつか?)
一応、近代戦に通用する兵器を自国で作ることが出来、それを編成、運用することが出来た国は多くはない。
最強のアメリカと戦ったことで、日本の弱点がハッキリと露呈したが、強国だったことはまちがいないだろう。

アメリカ海軍史上、戦って最強だったのは日本海軍だ。
戦後、海上自衛隊の発足にはアメリカ海軍の後押しがあったという。
防衛の最前線を日本にになわせる戦略構想が、当然あっただろうが、
「アメリカ海軍の日本海軍への敬意」があったという説がある(たしか)。


最後に、その後のウェーク島を簡単に記す。

1943年中期以降、日本の劣勢がハッキリしてくると、
ウェーク島への補給はままならず、日本軍守備隊は疲弊していった。
そして、1945年8月15日、日本は降伏。
守備部隊は翌16日夜に終戦を確認、9月4日に残存していたウェーク島守備部隊はアメリカ海兵隊に降伏した。

1944年4月から5月の時点で、陸海軍部隊合わせて約4,000名の守備部隊は、終戦までに栄養失調による戦病死者1,340名(陸軍834名、海軍506名)、
戦死者291名(陸軍87名、海軍204名)を出した。
1945年10月5日からの二度の幅員で11月17日までに陸軍1,093名、海軍897名が帰国を果たしたという。



今回で「ウェーク島戦記」を終わる。
疲れた。ありがとうございました。




柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。


  1. 2018/12/04(火) 08:01:47|
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ウェーク島戦記4・二航戦

前回の「ウェーク島戦記3・反撃」からの続き→


日本海軍は96式中攻による三度の爆撃後、攻略部隊の巡洋艦と駆逐艦からの艦砲射撃をウェーク島にくわえた。

ところが、爆撃でおおむね破壊したと思っていたウェーク島砲台からの砲撃と、残っていた4機のF4F戦闘機の反撃をうけ、
駆逐艦2隻が撃沈され、損害が続出した。
駆逐艦2隻だけでも死者が約300名だ!

1941年12月11日(真珠湾攻撃から3日後)、攻略部隊は上陸作戦を中止、
クエゼリン環礁へ退却、日本側の惨敗だった。

爆撃を担当した第二十四戦隊からの報告
『敵戦闘機ハ1~2機程度残存ス。陸上防空砲火ハ熾烈ナルモ、ピーコック岬、ウィルクス砲台ハ概ネ破壊セリ』がむなしい。

第4艦隊(ウェーク島攻略作戦の上部組織)から爆撃担当の第二十四戦隊にお叱りがあったのかもしれない?
「どうなっているのだ?」と、
その日の午後に96中攻17機が爆撃にやってきた。

残っていたF4F戦闘機がそれを迎撃、3機を撃墜(日本側の記録は2機)。
さらに12月14日、96中攻による大規模な爆撃があった。
このとき、F4F戦闘機は飛たつことが遅れ1機が破壊される。
これで、F4F戦闘機は残り1機となった。


一方、クエゼリンに退却した日本の攻略部隊はウエーキ島攻略作戦の研究会をもった。
内容は「反省対策会」だった。

その内容、

1、第24航空戦隊の中攻隊の爆撃効果に期待しすぎた。
2、駆逐艦「如月」沈没の原因が魚雷などへの被弾と考えられたので、各艦に魚雷と爆雷に断片除けを施した
3、ウエーキ島に残った F4F 戦闘機に翻弄されたことから、より強力な味方航空兵力が望まれた。
(味方戦闘機による上空援護と敵戦闘機の撃破)
4、上陸準備に手間取ったため、大発をすばやく降ろせるようにする。
5、通信技術の向上。

ウェーク島攻略部隊の指揮官、梶岡少将は陸戦隊の揚陸について、
「最悪の場合は哨戒艇を擱坐させてでも揚陸させる」という腹案を持つようになった、という。
梶岡少将は上陸作戦の失敗の責任を感じていたのだろう。

問題はウェーク島の米航空戦力だった。これをなんとかしなくてはならない。
(この時点では、残り1機)
クエゼリンの基地からはウェーク島は遠く、戦闘機は届かない。
また南洋部隊(第4艦隊)には空母が配属されていない。

第四艦隊はウェーク島の残存機撃滅を連合艦隊司令部に依頼、
連合艦隊はこれを受け、真珠湾攻撃からの帰途にある第一航空艦隊(南雲艦隊)に対し、ウェーク島攻撃を要請した。


結局、第二次攻略部隊は以下になった。

ウェーク島攻略部隊(指揮官・梶岡定道少将)
攻略部隊本隊:第6水雷戦隊(軽巡洋艦〈夕張〉、第30駆逐隊〈睦月、弥生、望月〉、第29駆逐隊〈追風、朝凪、夕凪〉)
攻略部隊援護隊:第18戦隊(軽巡洋艦天龍、龍田)
哨戒艇:第32号哨戒艇、第33号哨戒艇

海軍陸戦隊:舞鶴特陸一個中隊(350名)、第6根拠地隊一個中隊(310名)、舞鶴第二特陸一個中隊(310名)
舞鶴第二特陸一個中隊(310名)が追加された。

設営隊:特設巡洋艦金剛丸、基地設営班、特設監視艇3隻
付属隊:特設巡洋艦金龍丸、特設敷設艦天洋丸(東洋汽船、6,843トン)
水上偵察機隊:特設水上機母艦聖川丸(川崎汽船、6,862トン)、水上偵察機4機

第24航空戦隊(爆撃を担当する中攻部隊)

潜水部隊:第26潜水隊

増援部隊
指揮官:第八戦隊司令官阿部弘毅少将、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍、飛龍)、
第八戦隊(重巡利根、筑摩)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)
指揮官:第六戦隊司令官五藤存知少将、第六戦隊(第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)
以上。


第一航空艦隊(略して一航艦、通称南雲艦隊、真珠湾攻撃部隊)からは二航戦(第二航空戦隊)が派遣されることになった。
空母蒼龍、飛龍の搭載機は合計約100機。

日本海軍は数字が若い部隊が機材、練度ともに戦闘能力が高いとされた。
真珠湾攻撃部隊には当然、優秀な母艦搭乗員が配属されたのだが、
そのなかでも二航戦と一航戦(空母赤城と加賀)は練度が高かった。

護衛として第八戦隊(重巡利根、筑摩)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)。
利根、筑摩は最新鋭の重巡(20cm砲、1万トン級)である。

さらに、グアム攻略戦を終えた第六戦隊の4隻の重巡、青葉、加古、衣笠、古鷹(4隻ともすこし古い)も加えられた。

第二次攻略部隊は第一次と比べて数段、強化された(後づめにくる米艦隊を想定していたのかも?)。

日米開戦当初、幸運もあって日本側の主な作戦は世界が驚くほどの強さ(成功)だった。
そのなかで、このウエーキ島攻略だけが失敗していたのだ。


nikousen31.jpg
<二航戦の空母、手前が飛龍、後続が蒼龍。
同型艦として建造されたが、後に造くられた飛龍は蒼龍よりすこし大きい。
それまで試行錯誤を繰り返してきた日本の航空母艦は飛龍で目途がついた。

ミッドウェー海戦で南雲艦隊の空母4隻のうち3隻が壊滅したあと、
単艦の搭載機で反撃、米空母ヨークタウンを撃破して撃沈に導いたことは有名。>



1941年12月21日朝、ウェーク島西方350海里の地点から二航戦の空母2隻(蒼龍、飛龍)より
零戦18機、99式艦上爆撃機29機、誘導艦上攻撃機2機が発進、ウエーキ島を爆撃した。
これに呼応して、クエゼリンの中攻27機もウェーク島を空襲。

この日、飛行可能な F4F 戦闘機1機は迎撃のため離陸するも、故障のため引き返し、
爆撃の合間をぬって帰還したため、日本機と戦闘することはなかった。これは米側の幸運。

翌22日、ウェーク島に対する2回目の空襲のため空母蒼龍から零戦3機、97式艦上攻撃機16機、
空母飛龍から零戦3機、97式艦上攻撃機17機、が発進、ウェーク島をめざした。

飛龍零戦隊3機を率いた岡嶋清熊(せいゆう)大尉は「前日同様、飛龍から9機、蒼龍から9機、計18機の零戦の護衛をつけるべきだ」と意見具申するも却下されていた。
「敵戦闘機など零戦6機で十分だ」ということだった。

ウェーク島に近づくと、零戦隊は艦攻隊の先に出て、敵戦闘機にそなえた。
敵戦闘機が現れないので、藤田怡与蔵(いよぞう)中尉率いる蒼龍零戦隊3機は地上施設への機銃掃射にうつった。
藤田は6か月後のミッドウェー海戦で日本艦隊の上空直掩中、殺到したアメリカの雷爆撃機を1日に10機撃墜の離れ業を演じたパイロット。
(1日の撃墜数では世界8位)

実はこの時、上空(だろう)にF4F 戦闘機2機がしのびよっていた。
あのキニー大尉が徹夜で残っていた1機の故障を直し、さらに破壊された部品をよせ集めてF4Fをもう1機、飛行可能にしていたのだ。
アッパレ!

f4fsyuugeki12.jpg
<97式艦上攻撃機の編隊にダイブする2機のグラマン F4F ワイルドキャット戦闘機。
高度差を利用した一撃離脱だったのではないだろうか?
防弾装備のない97式艦攻は瞬く間に撃墜された。

そのうちの1機には爆撃照準の名手といわれた金井一飛曹が搭乗していた。
金井一飛曹の戦死は日本側にショックだった。>



97式艦攻2機を撃ち落としたのはフルーラー大尉のF4Fだ。
襲撃を防げなかった飛龍零戦隊3機が、岡嶋大尉を先頭に栄12型(950馬力)エンジンをフルスロットルにして単縦陣でF4Fに追いすがってきた。
距離約50m、左上方旋回で逃げようとするF4Fの操縦席と風防に照準、銃撃!
F4Fはガクッと機首を下げると落ちていった、という。

もう1機のF4Fも空中戦のすえ叩き落とされた。


zerogagekitui412.jpg
<グラマン F4F 戦闘機を撃墜する空母飛龍の零戦二一型
全体を白っぽい灰色、カウリングを青みのある黒、日の丸の赤、
零戦によく似合う。

零戦は微妙な線をもっている(作りにくそう)、注意して画かないと零戦にならない。
形を見るだけでも高性能がわかる、美しい!>



零式艦上戦闘機二一型(れいしき、にいちがた、が正しい)の諸元

低翼単葉、単発単座、全金属製、引き込み脚 
      
機体略号:A6M2
翼幅:12.0m
全長:9.05m <F4Fは8.8m>
全高:3.5m
エンジン:中島栄12型 950馬力 <F4Fは1200馬力>
最高速度:533km/H (高度4200m) <F4Fは512km/h>
上昇力(上昇時間):6000mまで7分28秒
降下制限速度:629.7km/H
自重(正規全備重量):1680kg (2410kg)<F4Fは3359kg>
航続距離(増槽あり):2222km (3350km)
武装:翼内20mm 機銃2挺 (携行弾数各60発)、機首7.7mm 機銃2挺 (携行弾数各700発)
爆装:30kg又は60kg (爆弾2発)

*< >内は戦争前半のライバル、グラマンF4Fの数値。

零戦は当時の1000馬力級戦闘機のなかではエンジンの馬力が小さい(終始日本はエンジンの馬力競争で後れをとった)。
それでもF4Fと比べると、速度、上昇力、旋回性能、航続距離、射撃時の安定性、において勝っていた。
とくに旋回性能、航続距離は常識を超えていた。
(さらに、この時はパイロットの練度も上だ)

自重はF4Fの6割程度に過ぎない。いかに軽量であったかがわかる。
比較的ドッグファイトを得意としたF4Fでこの値だ。他の米戦闘機は推して知るべしだった。

戦闘機パイロットは敵機を追尾するクセがある。
旋回する零戦を追尾すると、瞬く間に後ろに回り込まれ、しこたま機銃弾を頂戴することになるのだ。


F4Fは急降下スピードにおいて零戦より勝っている。
極度の軽量化をはかった零戦は急降下スピードに制限が加えられていた(華奢)。
零戦は通信機器が劣悪、翼の20mm機関砲の携行弾数が少ない(たったの60発)、などの弱点があった。

急降下速度制限と防弾装備がないのと引き換えに得た脅威の性能と言えなくもない。

もうひとつの弱点は防弾装備がなかったことだが、この時点ではF4Fも防弾が強化される前だ。

しかし、零戦の弱点はまだ知られていなかったのだ。


日本海軍は列強海軍のなかでは航空に熱心だったが、主流は砲雷撃派だった(他列強も同じ)。
戦艦などの劣勢を補うため航空を重視したともいえる。

当然ながら主流ではない航空への予算は少ない。
そのため少数精鋭パイロットと優秀な飛行機を求めた。
開戦当初の日本海軍航空の快進撃は「練達のパイロット+優秀な飛行機」の二本柱に支えられていたのだ。

練達のパイロットを養成するためには、時間と金、経験(場数)が必要だ。
ところが、日本には「潔さの美学」があった。それを支持する強い同調圧力があった(国民も)。
「被弾して帰投不能になると自爆」「捕虜になるくらいなら死」は当たり前。

さらに防弾装備はまったく考慮されなかった(研究もすすんでいなかった)。
不時着や遭難したパイロットや兵への捜索の不熱心(潔さの美学と無関係ではあるまい)。
アメリカでは危険な捜索救出も強行された。
一言でいえば日本には「人名軽視」の風潮があったのだ。

二本柱である「貴重な練達パイロット」を消耗する大きな矛盾が日本にはあった。
「なにがなんでも生き抜いて、再び敵を攻撃する」という戦の合理がなかった。
そういう意味でも、アメリカは戦争向きの国家といえるのかもしれない。

士官や兵には「死をも恐れぬ勇敢さと死を恐れる慎重さ」の両方が必要なのだろう。

「自分の意思とは別に(同調圧力)死を選ばなきゃいけない世」もツライが、
「自分の意思とは別に生かされ続けられてしまう世」もツライ(ボクはそう思う)。


脱線した。

日本軍に大きな代償を払わさせたウェーク島の海兵第211航空隊のF4F戦闘機は壊滅した。
12月二十三日未明、前回失敗の雪辱を期してウェーク島上陸作戦がはじまる。


→次回「ウエーキ島戦記5・上陸作戦と捕虜」に続く



柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。

  1. 2018/11/13(火) 07:38:17|
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ウェーク島戦記3・反撃

前回『ウエーク島戦記2・F4Fワイルドキャット』からの続き→



ウェーク島は日本海軍の96式中攻による三度の爆撃をうけた。

『敵戦闘機ハ1~2機程度残存ス。陸上防空砲火ハ熾烈ナルモ、ピーコック岬、ウィルクス砲台ハ概ネ破壊セリ』と、空襲を担当した第二十四戦隊からの報告だった。

日本側は効果充分と判断したのだろう。
離島への上陸作戦の例があまりなかったころだ。常識的な判断だったのかもしれない。
ただ「常識=正しい」とは限らない、何事も、


1941年12月10日夜、呂65号潜水艦に誘導された日本のウェーク島攻略部隊が姿を現した。

waketou34.jpg

<ウェーク島攻略部隊、>
指揮官:梶岡定道少将/第六水雷戦隊司令官

攻略部隊本隊:第六水雷戦隊(軽巡洋艦夕張、第29駆逐隊第1小隊〈追風、疾風〉、第30駆逐隊〈睦月、如月、弥生、望月〉)
攻略部隊援護隊:第十八戦隊(軽巡洋艦天龍、龍田)

設営隊:特設巡洋艦金剛丸(国際汽船、7,043トン)、基地設営班、特設監視艇3隻、漁船(守備隊用)5隻
付属隊:特設巡洋艦金龍丸(国際汽船、9,309トン)、高角砲隊

哨戒艇:第32号哨戒艇(旧樅型駆逐艦「葵」)、第33号哨戒艇(旧樅型駆逐艦「萩」)。
(注)哨戒艇という艦首になっているが、「萩」は大正10年(1920)4月竣工した駆逐艦。
海軍後進国にもっていけば、立派な駆逐艦だったろう。

海軍陸戦隊:舞鶴特陸一個中隊(350名)、第6根拠地隊一個中隊(310名)

第24航空戦隊(在ルオット島)が爆撃を担当

水上偵察機隊
潜水部隊:第27潜水隊(呂65、呂66、呂67)



攻略部隊の顔ぶれを見ると、ウェーク島攻略は難しいとは思っていなかったようだ。
参加した軽巡洋艦3隻や駆逐艦6隻は旧式艦、言わば2軍だ。
「この編成で十分だ」と思っていたのだろう。

夜陰に乗じて一気に上陸する作戦だった。
しかし、この日は波が高く、「金龍丸」と「金剛丸」では陸戦隊を乗せた大発(日本の舟艇、木製)をおろすのに手こずり、
大発の転覆や破壊が相次いだ。
(陸戦隊とは海軍所属の陸上戦闘部隊)

攻略部隊は上陸を一旦延期して、巡洋艦と駆逐艦は島に接近して艦砲射撃を行うことにした。


翌、12月11日、米側守備隊が日本軍攻略船団を発見する。
島の砲台には巡洋艦からアウトレンジ砲撃されることを警戒して、
接近してくる日本の駆逐艦や軽巡洋艦を、ぎりぎりまで射撃をしないよう厳命していた。

ウエーク島に設置されていた5インチ沿岸砲(12.7cm)は日本の駆逐艦の主砲と同程度だが、
軽巡洋艦の主砲(14cm)とでは射程、威力ともに沿岸砲は劣る。
沿岸砲の射程外から軽巡洋艦の砲撃をうけることになる(アウトレンジ砲撃)。


3時25分にまず軽巡3隻(夕張、天龍、龍田)が、続いて3時43分に各駆逐艦が砲撃を開始した。
艦載の大型望遠鏡で観察しながらの砲撃だったのだろう。

4時0分、ウェーク島の砲台が近寄ってきた軽巡や駆逐艦に対して一斉に発砲。
『反撃がないのは、爆撃の効果」と思っていた攻略部隊を驚かせた。
「おいおい、敵の砲台は生きてるじゃねえか!」と、

日本の艦艇が近ずきすぎたこともあって、アメリカ側の砲撃は正確だった。
まずウェーク島のピーコック岬のA砲台が旗艦「夕張」を砲撃、舷側ぎりぎりの至近弾。
驚いた「夕張」は煙幕を張って南へ退避。

4時3分、ウィルクス島沖で砲撃を行っていた駆逐艦「疾風・はやて」が艦橋と艦腹に直撃弾を受ける。
なんと轟沈してしまう。
生存者はなかった。魚雷や爆雷などに誘爆したのではないだろうか?
アメリカ側の発砲開始から、わずか3分後だ。
米軍側はウィルクス島L砲台による戦果としている。

hayate112.jpg
<直撃弾をうける駆逐艦「疾風」>

日本側艦艇に「速ヤカニ避難セヨ」の命令が下されるが、すでに遅かった。
ビール島のB砲台は駆逐艦2隻(「弥生・やよい」と「追風・おいて」)と交戦、命中弾を与える。

付近には降ろした大発がひしめき合っていた。
各艦が密集し身動きが取り辛いところに砲台からの砲弾が次々と降り注いだのだ。
各艦は停止状態に近かったのではないだろうか?(ボクの想像)


波に翻弄されながら大発に乗っていた兵は生きた心地がしなかっただろう。
ウエーク島の砲台からはドンドン撃ってくる。砲弾が空気を切り裂く音がして、轟音をあげて着弾、大きな水柱があがり、乗っている大発は大きく煽られる。

大発の舷側から首を伸ばしてのぞいて見たら、味方の駆逐艦(疾風)が大爆発して沈んでいく。
そのうちに上空からF4Fから機銃掃射をうける、のだから。


ウエーク島を離陸したF4F 戦闘機4機は、上空に日本戦闘機がいないのを確認すると攻撃を開始した。
キニー大尉のおかげで爆撃投下装置を改装したF4Fは爆装可能になっていた。
そのうちの1機は司令のパットナム少佐だ。

軽巡「天龍」に爆弾が命中、水雷砲台を破壊。軽巡「龍田」にも命中弾をあたえ無電室に損害を与えた。
4機は弾薬と燃料の補給を繰返しながら9回も出撃。日本艦隊を執拗に攻撃した。


さらに5時42分、すでに退避中で島から数十キロ離れていた駆逐艦「如月・きさらぎ」がピーコック岬沖でF4F 戦闘機に補足された。
100ポンド(約45キロ)爆弾1発が艦中央に命中、同艦は爆沈した。

waketou21.jpg

100ポンド爆弾(約45キロ)は小型爆弾だ。(日本海軍の99式艦上爆撃機の対艦用爆弾は通常、250kg)
普通、100ポンド爆弾で撃沈されることはないが、
その1発で駆逐艦が轟沈してしまった。これまた魚雷や爆雷の誘爆だろう。
生存者はなかった。


< 駆逐艦「如月・きさらぎ」(1935年頃の諸元)

大正14年(1925)12月21日竣工

常備排水量:1,445t
ボイラー:ロ号艦本式罐・重油専焼×4基
燃料搭載量:重油 422t
全長:97.54m
全幅:9.16m
主機:艦本式オールギヤードタービン×2基、2軸推進
吃水:2.96m
出力:38,500hp
最大速力:37.25kt(約、時速74km。快速艦だ)
武装:
45口径12cm単装砲4基、7.7mm単装機銃2基、
61cm魚雷3連装発射管2基6門、1号機雷16個

航続距離:14ktで4000浬
乗員定数:154名

他の駆逐艦5隻も同程度。>



F4F 戦闘機はなおも追い討ちをかけ、「金剛丸」を機銃掃射して搭載していたガソリンを炎上させる。
各艦(弥生、睦月、望月、追風、哨戒艇32号、哨戒艇33号)も襲撃され、各艦とも死傷者が続出。縦横無尽。
海上の状況も依然として悪く、改めての奇襲上陸は中止に追い込まれた。
攻略部隊各艦はクェゼリン環礁に退却することとなった。

一連の戦闘で米側の損害は戦死者1名、負傷者4名、F4F 戦闘機2機が被弾により使用不能。
12月20日時点で、飛行可能なF4F は2機に減少した。


日本海軍は列強海軍のなかでは航空に熱心だった(日本海軍のなかでは少数派だが)。
山本五十六連合艦隊長官も航空重視派のひとり。
そんな日本海軍でも飛行機の威力を理解していたのは少なかったのだろう。

いや、攻める側での航空重視であって、攻められる側の航空重視ではなかったのだろう。


また、日本側の駆逐艦や軽巡洋艦の対空火器は貧弱だった。
駆逐艦「如月」の対空火器は7.7mm機銃×2のみ(他の駆逐艦も同じ)。
旗艦の軽巡「夕張」は8cm(80mm)単装高角砲×1のみ。
軽巡「天竜」は第一煙突両舷の13mm単装機銃×2のみ

ミッドウェー海戦で奮戦した空母「飛龍」(常備排水量17,300t)の対空火器は、
40口径12.7cm連装高角砲:6基12門
九六式25mm高角機銃:3連装7基、連装5基 計31挺、である。

対空火器は攻撃してくる敵機にたいして、むやみに射撃するのではなかった。
「飛龍」の場合、距離が遠いときは12.7c高角砲で、さらに近づいたときには25mm高角機銃、という二段構えだった。
この装備をもってしても撃墜するのは非常にむずかしかったのだ。

昭和18年以降、強化された米艦隊は三種類の火器、三段構えになっていた。
戦争が進むにつれ日米海軍艦艇の対空火器は増強されるが、質の差が広がっていく。

それに比べれば今回の攻略部隊各艦の対空火器など無いに等しい。
だから、F4F 戦闘機に慣れていない(ましてや爆撃未経験の)米パイロットでも接近して爆弾を命中させることが出来たのだろう。





12月13日、日本軍攻略部隊はクェゼリン環礁に帰投した。惨敗だった。
数日後、態勢をたてなおした日本の攻略部隊は再びウエーク島をめざすことになる。

『ウエーク島戦記4・二航戦』に続く




柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。




  1. 2018/10/23(火) 06:49:44|
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ウエーク島戦記2・F4Fワイルドキャット

前回の「ウエーク島戦記1・空襲」からの続き→


1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍の機動部隊が真珠湾を空襲、
アメリカ太平洋艦隊の戦艦を撃沈、大破させた。
海の決戦兵器は戦艦だと信じられていた時代だった。

日本の最後通牒が攻撃開始後になった。ルール違反だ。
アメリカ政府は「だまし討ち!」と非難して自国の戦意高揚に利用、
転んでもタダでは起きないということだろう。

日本の攻撃隊が真珠湾に殺到する直前に最後通牒をアメリカに渡すのが、日本側の段取りだった。
ルール通りにことが運んでいたとしても、アメリカ側の被害がどれだけ抑えられたかは疑問だ。
不意をつかれたことには変わりはないだろう。
ただ、日本の攻撃隊の被害は2倍になったのではないだろうか?


今でも「真珠湾奇襲」と表記されることが多い。
結果をみれば「ルール違反の奇襲」だった。
源平の合戦など、日本人は「奇襲」が好きだ。

「奇襲」を強調して、ルール違反をぼやけさせているように思う。
「退却を転戦」「壊滅を玉砕」「敗戦を終戦」と言い換えてごまかす。日本の得意技だ。

(大戦後半に日本の都市を無差別爆撃したアメリカもルール違反だ)


日米開戦に先立つノモンハンで、日本陸軍の精鋭「関東軍」はソ連軍と衝突した。
当時、陸軍は「無敵関東軍」と豪語していた。
ところが、ソ連軍の質量ともに桁違いに優勢な火力と戦車の前に、「関東軍」は負けた(ソ連側にも損害があった)。

極東へのソ連軍増強の情報が入っていたのだが、その内容を精査もせず受け流した。
当時のソ連戦車部隊は世界最強だった。
スペイン動乱において、貧弱な戦車しか装備していなかったドイツ、イタリヤ派遣軍をけちらした。
(ドイツは後に強力な戦車を開発することになる)

ノモンハンでの負け戦のあと日本は結果を隠し続け、うやむやにし、ソ連軍は戦訓を取り入れた。
(一説ではこの負け戦が、陸軍を南進へと変えたと言われている。ソ連軍は強いと思ったのだろう)


今からみれば、日本陸軍は「大和魂」頼みの旧式な二流の軍隊だったのだ。ボクはそう思う。
「敵を知らず、己を知らず」勝てるわけがない。
二流の軍隊に徴兵され戦死していった兵隊(多くは若者だろう)が哀れだ。

当時の高級将校は超エリート、陸軍士官学校も海軍兵学校も入るのは大難関。
そのエリートたちが陸軍の精鋭を指揮して、このありさま。

今の日本も変ってはいないだろう。
学歴偏重は危険だ。別の尺度を研究する必要があると思う。

時はながれ、「原発は絶対安全」と国をあげて言っていたのは、ついこの前のこと。
「絶対安全」も「無敵」もあるはずがない。

「人は歴史から学ばない」のではないだろうか?

冒頭から脱線した。


1941年12月8日の昼頃、
ウエーク島はクエゼリン環礁を発した日本海軍の九六式中攻34機の空襲を受けた。
ウエーク島に配備まもないグラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機12機のうち、
残ったのはたったの4機。(ここまでは前回の「ウエーキ島戦記1」で書いた)

この4機を整備して再なる日本機の空襲に備える必要があった。
ウエーク島に配備されたF4Fは初期型で故障も多かった。
ところが、F4Fの整備マニュアルは爆撃によって焼失。
さらに、爆弾投下装置にあわない爆弾が送られているというオマケまでついていた。

パイロットのなかにジョン・キニー大尉がいた。彼は機械に強く、簡単な工具で修理してしまう腕の持ち主。
彼は技術軍曹をアシスタントに徹夜でF4Fを整備、2機を発進可能にしてしまった。マニュアルなしでだ。

hayategoutin13.jpg

<徹夜で整備されるF4F-3戦闘機、
星空、椰子の下、こんな感じではなかったか。波の音が聞こえ、潮風が吹いていただろう。
しかし、整備するジョン・キニー大尉はそれどころではなかっただろうが・・・

グラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機 諸元  

中翼単葉単座、密閉式風防、引込み脚、金属製
全長; 8.8m
全幅;  11.6m
全高;  2.8m
正規全備重量; 3359kg
エンジン; プラット&ホイットニー R-1830-86「ツインワスプ」空冷星形複列14気筒 1,200馬力×1
最大速度; 512km/h 
武装; 12.7mm機銃×4、45kg爆弾×2
 (機銃1挺あたり450発の弾数。ライバル零戦21型の翼に装備された20mm機関砲は60発)

F4Fはイラストのようなズングリとした樽のような胴体の飛行機だった。ライバルの零戦のスマートさと好対照だ。
後継機F6Fヘルキャットはふてぶてしい感じがするが、F4Fはユーモラスな感じがする。ボクは嫌いではない。
現在のアメリカ海軍の艦上戦闘機F-14トムキャットの先祖にあたる。>



翌、1941年12月9日正午前、日本海軍の96式中攻27機が再び飛来、護衛戦闘機はなし。
修理なったF4F、2機が迎撃に飛び立つ。
V字型編隊の一番端の中攻を銃撃、撃墜した。

地上の3インチ(76mm)高射砲も別の1機を討ち落とした。
(米側記録。日本側記録には被撃墜なし。戦闘現場では誤認がつきものだ。)
日本側記録は「被撃墜なし」だが、被害をうけた96式中攻があったにちがいない。

米側は、この爆撃で無線電信所が破壊され病院も直撃弾を受けた。
海兵隊員、民間人合わせて59名が亡くなった。

さらに12月10日にも96式中攻26機が飛来。
今度は残ったF4F戦闘機全機(4機)がプラット&ホイットニー「ツインワスプ」R-1830-76、1200hpの爆音とともに発進。
中攻隊に食らいつくと、ブローニング12.7mm機関砲4門(1機あたりの機銃数)をぶっぱなす。
中攻2機を撃墜した(日本側記録は自爆機1機)。

1941~43年にかけて、強敵、零戦を相手に奮戦することになるグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機が初めて日本機を撃ち落としたのだ。
アメリカ側の被害は、弾薬庫が爆発、高射砲一門が破壊。戦死1名負傷者4名だった

96rikukou12.jpg


練度の低い第211海兵戦闘飛行隊のパイロットには96式中攻は格好の相手だっただろう。
戦闘機のように身軽ではなく、図体は大きく、防御機銃を装備しているといっても、強力とは言い難い。
さらに、ほとんどの日本軍の飛行機は防弾を無視していた。
有効な防御手段は味方戦闘機の護衛だのみだった。

日本側記録の自爆機1機という結果はF4Fのパイロットの練度不足が露呈したともいえる。
もっと損害が出ても不思議ではなかった。


96式中攻は当時の爆撃機開発の傾向であった「高速爆撃機」をめざしたのだろう。
「高速爆撃機」とは、「敵の戦闘機よりも高速で飛ぶことができれば、敵の追撃を振り切ることが出来る」という理屈だった。
列強各国が競って研究開発に取り組んだ。

96式中攻も就役当初は中国大陸で、運よく敵の旧式戦闘機を振り切ることもあった。
しかし、戦闘機も進化する。1941年当時、F4F戦闘機と比べるべくもなかった。


戦前に日本画の巨匠、横山大観が賞金を日本陸海軍に寄付(献納)したことがあった。
現在の金にして50億~60億とも、
陸軍の97式重爆を1機、97式戦闘機を1機、海軍の96式中攻を1機、96式艦上戦闘機を1機、の計4機を寄贈したのだ。

軍は『大観号』と名付けて喧伝した。
97式重爆(日本陸軍は重爆と呼んだが、世界的には中型爆撃機)は今回の海軍の96式中攻と似た飛行機だ。
想像するに、97式重爆や96式中攻、1機の価格は15億~20億程度(現在の金で)ではなかったか?

だとすれば、今回、撃墜された中攻が2機だとすると30億円~40億ということになる。
太平洋戦争も後半になると、日本の爆撃機(攻撃機)はバタバタと落とされ、昼間攻撃は無謀になる。

気の遠くなるような金が灰となっていった。
そういう経済的な面から戦争を研究することも必要だと思う、ボクは。


脱線した。

そして、日本の攻略部隊がウエーク島沖に現れる。

1941年12月11日朝早く、上陸作戦がはじまる。

次回『ウエーク島戦記3・反撃』に続く→




柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。


  1. 2018/10/02(火) 06:27:39|
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ウエーク島戦記 1 (空襲)

恐ろしい風の台風21号が去った直後、北海道にマグニチュード7の地震。

7月からの「燃える危険な夏」、雨が降ればどしゃ降り、川の氾濫、土砂崩れ。そして頻繁な地震。
ボクが今年(2018)の年賀状に多用した「〇△様に良い年になりますよう・・・」が空しい。
この先「2018年以来・・・」が慣用句にならないことを願う。

被災地の皆さまの、強い不安、悲しさ、行き場のないいらだち、日々の大変さ、察します。




今回から数回にわたって「ウエーク島の戦い」について書く。
「ウエーク島の戦い」はあまり知られていない。

太平洋戦争の島の戦いといえば、「質量ともに勝るアメリカ軍が迫り、決死の日本守備隊が守る」と書かれることが多い。
しかし、1941年にはじまった「ウエーク島の戦い」はその逆、日本軍が迫り、上陸を慣行した戦いだった。

waketou22.jpg

<ウエーク島を南の上空斜めから見たところ。上が北。
東西約3.5km、南北約3km、標高約6m。
ウエーク島はサンゴ礁の小島。ハワイの西、約3200km(2000マイル)、ハワイと当時の日本領マリアナ諸島との中間、
あのミッドウェー島の南にある(ボクは行ったことはない)。>




その日、午前11時ごろ、ウエーク島にスコールがあった。空には断雲が残っていた。
正午ごろ、断雲をついて、日本海軍の九六式中攻(九六式陸上攻撃機、通称「中攻」)34機が、
3群のV字型編隊を組み450mの低空でウエーク島上空に侵入、爆撃した。

1941年12月8日、日本海軍が真珠湾を空襲した日のことである。
真珠湾への空襲を成功させるため、時間を遅らせての爆撃だった。


それはウエーク島の南、約1000km離れたクエゼリン環礁(当時、日本の委任統治領)のルオットを
午前5時10分に発した日本海軍の第24航空戦隊の九六式中攻(きゅうろくしき、が正しい)だった。
護衛の戦闘機は伴っていない。

当時、世界の単発(エンジンがひとつ)戦闘機の常識をはるかに超える航続距離をもつ日本海軍の零戦(れいせん、が正しい)をもってしてもムズカシイ距離だ。
また、この作戦に零戦をまわす余裕もなかったのだろう(ボクの想像)。

96rikukou22.jpg

ウエーク島を爆撃する第二十四航空戦隊の九六式中攻。
当時、滑走路が舗装されていたかが分からない(おそらく舗装されていただろう)。

<九六式陸上攻撃機二三型(G3M3)の諸元>
高出力エンジンに加え武装を強化した最終型。
全幅 :25.00 m
全長: 16.45 m
全高(水平): 3.685 m
自重 :5,243 kg
全備重量 :8,000 kg
発動機: 金星五一型(離昇1,300馬力)
最大速度 :416 km/h(高度5,900 m)
実用上昇限度 :10,280 m
航続距離 :6,228 km
爆装の場合: 60kg爆弾12発、250kg爆弾2発、500kg又は800kg爆弾1発 (いずれかの搭載量)
雷装の場合 :800kg魚雷1発
武装(すべて手動銃座) :7.7mm旋回機銃3挺(胴体中央部上方・側方)、20mm旋回機銃1挺(胴体後部上面)
乗員: 7名 >




その日、アメリカ軍守備隊の監視員の発見が遅れ(上空には雲があり、視界が良くなかった)、
気づいたときには九六式中攻の編隊は爆音とともに上空にいた。
緊急発進命令を受けたパイロットたちが、待機していた8機のグラマンF4F戦闘機にむかって駆け出す。
しかし、あちこちで爆弾が炸裂、次々に倒れた。

中攻隊は低高度で侵入したからだろう、照準は正確だった。
さらに地上を機銃掃射しながら飛び去っていった。それは数分の出来事だ。


被害が明らかになる。
待機していた8機のF4F戦闘機は7機が破壊され、かろうじて1機が残った。
飛行場の燃料タンク、無線指令室、酸素タンク室、機材倉庫が破壊され、
パイロット3名が戦死、4名が負傷。地上要員は戦死7名、負傷7名。

迎撃のため前もって発進、哨戒していたグラマンF4F戦闘機4機が飛行場にもどってきたときには、日本の中攻隊の姿はなかった。
F4F戦闘機4機は島から離れた高度3600mを哨戒していた。3000m~4000mでの侵入を想定していたのだろう。
低空で侵入した九六式中攻隊に気づかなかったのだ。

当時、ウエーク島にはレーダーは設置されていなかったか、機能していなかったようだ。
中攻隊には幸運であった。


滑走路は穴だらけ、あちこちに破壊された残骸が散乱していた。
もどってきたF4F戦闘機4機のうち1機は、着陸時に残骸をひっかけエンジンを壊してしまう。
アメリカ軍に残ったF4F戦闘機は4機になった。

日米が戦闘状態に入った1941年12月8日は、ハワイとウエーク島で日本海軍航空隊の一方的な勝戦となった。
(最後通牒をアメリカ側に渡すのが遅れた失態があった)
アメリカの歴史上、1日でこれほどの被害をこうむったことは過去なかった。

戦をしかける側の有利が働いたのだろう。



話はさかのぼる。

ウエーク島は1935年からアメリカの民間のパンアメリカン航空が、「サンフランシスコ~フィリピンのマニラ」の中継基地として使用していた。
ということは、1941年当時、すでに滑走路や貧弱とはいえ空港設備があったと思われる。

もし日米開戦になれば対日戦の最前線となる島、
日本からすれば目ざわりな島であった。事実、早期の攻略目標になっていた。

アメリカ海軍ではウエーク島の戦略的価値を重視していたが、
基地建設が本格化したのは1941年1月からだ。
まず民間の設営隊が滑走路、兵舎、病院を建設した。

1941年8月~11月、
388名の第一海兵大隊が上陸、指揮官はジェームズ・デブルー少佐。
島の要所要所に砲台や塹壕を築いた。
装備は旧式の5インチ(12.7cm、当時の駆逐艦の主砲に近い)沿岸砲6門、3インチ(76mm)高射砲20門だった。
強力とはいえない。

1941年12月4日(日米開戦4日前)、日米の緊張が高まっていた。
空母エンタープライズがグラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機12機をウエーク島に届けた。
海兵航空隊の50名の地上要員とともに、
第211海兵戦闘飛行隊の隊長はベテランのポール・A・パットナム少佐。

しかし、パイロットの練度は低く、パットナム少佐ですら、F4Fの機銃を撃ったことがなかったという。
F4F戦闘機は太平洋方面に配備が開始されて間がなく、パイロットはウエーク島に来てからF4Fに慣れなければならなかった。

余談だが、日本の機動部隊がハワイを空襲したとき、空母エンタープライズは今回のウエーク島への輸送任務を終え、ハワイへ帰島途中。
太平洋艦隊の他の主力空母レキシントンは、あのミッドウェー島へ各種飛行機を届けるため航行中、
サラトガはアメリカ西海岸にあった。

南雲艦隊(真珠湾を攻撃した日本の機動部隊)の重要な攻撃目標だったアメリカ空母は、こうして一撃をまぬがれた。
アメリカに幸運だった。
当時、南雲艦隊は総合的にみて世界最強の機動部隊(空母を中心とする艦隊)だ。

南雲艦隊がパールハーバーを空襲した日の1941年12月8日午前6時50分、
ハワイからの電報をウエーク島守備隊の指揮官デブルー少佐は受け取った。
「・・・日本の急降下爆撃機によって攻撃されている。これは本当のことである。」
平文だった。暗号電文ではない。
ハワイは混乱と切迫した状態だった。

デブルー少佐は配下の第一海兵大隊に、直ちに戦闘配置につくよう命令。
第211飛行隊隊長パットナム少佐は、直ちに4機のグラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機を発信させ、
残りの8機をすぐに発進できるように滑走路脇に待機させた。

ウエーク島にも日本軍の攻撃があると判断したのだ。
「それはクエゼリン環礁からやってくるだろう」と想定していた(正しい)。

冒頭にもどる。





柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。







  1. 2018/09/11(火) 06:34:18|
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