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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

ウエーク島戦記2・F4Fワイルドキャット

前回の「ウエーク島戦記1・空襲」からの続き→


1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍の機動部隊が真珠湾を空襲、
アメリカ太平洋艦隊の戦艦を撃沈、大破させた。
海の決戦兵器は戦艦だと信じられていた時代だった。

日本の最後通牒が攻撃開始後になった。ルール違反だ。
アメリカ政府は「だまし討ち!」と非難して自国の戦意高揚に利用、
転んでもタダでは起きないということだろう。

日本の攻撃隊が真珠湾に殺到する直前に最後通牒をアメリカに渡すのが、日本側の段取りだった。
ルール通りにことが運んでいたとしても、アメリカ側の被害がどれだけ抑えられたかは疑問だ。
不意をつかれたことには変わりはないだろう。
ただ、日本の攻撃隊の被害は2倍になったのではないだろうか?


今でも「真珠湾奇襲」と表記されることが多い。
結果をみれば「ルール違反の奇襲」だった。
源平の合戦など、日本人は「奇襲」が好きだ。

「奇襲」を強調して、ルール違反をぼやけさせているように思う。
「退却を転戦」「壊滅を玉砕」「敗戦を終戦」と言い換えてごまかす。日本の得意技だ。

(大戦後半に日本の都市を無差別爆撃したアメリカもルール違反だ)


日米開戦に先立つノモンハンで、日本陸軍の精鋭「関東軍」はソ連軍と衝突した。
当時、陸軍は「無敵関東軍」と豪語していた。
ところが、ソ連軍の質量ともに桁違いに優勢な火力と戦車の前に、「関東軍」は負けた(ソ連側にも損害があった)。

極東へのソ連軍増強の情報が入っていたのだが、その内容を精査もせず受け流した。
当時のソ連戦車部隊は世界最強だった。
スペイン動乱において、貧弱な戦車しか装備していなかったドイツ、イタリヤ派遣軍をけちらした。
(ドイツは後に強力な戦車を開発することになる)

ノモンハンでの負け戦のあと日本は結果を隠し続け、うやむやにし、ソ連軍は戦訓を取り入れた。
(一説ではこの負け戦が、陸軍を南進へと変えたと言われている。ソ連軍は強いと思ったのだろう)


今からみれば、日本陸軍は「大和魂」頼みの旧式な二流の軍隊だったのだ。ボクはそう思う。
「敵を知らず、己を知らず」勝てるわけがない。
二流の軍隊に徴兵され戦死していった兵隊(多くは若者だろう)が哀れだ。

当時の高級将校は超エリート、陸軍士官学校も海軍兵学校も入るのは大難関。
そのエリートたちが陸軍の精鋭を指揮して、このありさま。

今の日本も変ってはいないだろう。
学歴偏重は危険だ。別の尺度を研究する必要があると思う。

時はながれ、「原発は絶対安全」と国をあげて言っていたのは、ついこの前のこと。
「絶対安全」も「無敵」もあるはずがない。

「人は歴史から学ばない」のではないだろうか?

冒頭から脱線した。


1941年12月8日の昼頃、
ウエーク島はクエゼリン環礁を発した日本海軍の九六式中攻34機の空襲を受けた。
ウエーク島に配備まもないグラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機12機のうち、
残ったのはたったの4機。(ここまでは前回の「ウエーキ島戦記1」で書いた)

この4機を整備して再なる日本機の空襲に備える必要があった。
ウエーク島に配備されたF4Fは初期型で故障も多かった。
ところが、F4Fの整備マニュアルは爆撃によって焼失。
さらに、爆弾投下装置にあわない爆弾が送られているというオマケまでついていた。

パイロットのなかにジョン・キニー大尉がいた。彼は機械に強く、簡単な工具で修理してしまう腕の持ち主。
彼は技術軍曹をアシスタントに徹夜でF4Fを整備、2機を発進可能にしてしまった。マニュアルなしでだ。

hayategoutin13.jpg

<徹夜で整備されるF4F-3戦闘機、
星空、椰子の下、こんな感じではなかったか。波の音が聞こえ、潮風が吹いていただろう。
しかし、整備するジョン・キニー大尉はそれどころではなかっただろうが・・・

グラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機 諸元  

中翼単葉単座、密閉式風防、引込み脚、金属製
全長; 8.8m
全幅;  11.6m
全高;  2.8m
正規全備重量; 3359kg
エンジン; プラット&ホイットニー R-1830-86「ツインワスプ」空冷星形複列14気筒 1,200馬力×1
最大速度; 512km/h 
武装; 12.7mm機銃×4、45kg爆弾×2
 (機銃1挺あたり450発の弾数。ライバル零戦21型の翼に装備された20mm機関砲は100発)

F4Fはイラストのようなズングリとした樽のような胴体の飛行機だった。ライバルの零戦のスマートさと好対照だ。
後継機F6Fヘルキャットはふてぶてしい感じがするが、F4Fはユーモラスな感じがする。ボクは嫌いではない。
現在のアメリカ海軍の艦上戦闘機F-14トムキャットの先祖にあたる。>



翌、1941年12月9日正午前、日本海軍の96式中攻27機が再び飛来、護衛戦闘機はなし。
修理なったF4F、2機が迎撃に飛び立つ。
V字型編隊の一番端の中攻を銃撃、撃墜した。

地上の3インチ(76mm)高射砲も別の1機を討ち落とした。
(米側記録。日本側記録には被撃墜なし。戦闘現場では誤認がつきものだ。)
日本側記録は「被撃墜なし」だが、被害をうけた96式中攻があったにちがいない。

米側は、この爆撃で無線電信所が破壊され病院も直撃弾を受けた。
海兵隊員、民間人合わせて59名が亡くなった。

さらに12月10日にも96式中攻26機が飛来。
今度は残ったF4F戦闘機全機(4機)がプラット&ホイットニー「ツインワスプ」R-1830-76、1200hpの爆音とともに発進。
中攻隊に食らいつくと、ブローニング12.7mm機関砲4門(1機あたりの機銃数)をぶっぱなす。
中攻2機を撃墜した(日本側記録は自爆機1機)。

1941~43年にかけて、強敵、零戦を相手に奮戦することになるグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機が初めて日本機を撃ち落としたのだ。
アメリカ側の被害は、弾薬庫が爆発、高射砲一門が破壊。戦死1名負傷者4名だった

96rikukou12.jpg


練度の低い第211海兵戦闘飛行隊のパイロットには96式中攻は格好の相手だっただろう。
戦闘機のように身軽ではなく、図体は大きく、防御機銃を装備しているといっても、強力とは言い難い。
さらに、ほとんどの日本軍の飛行機は防弾を無視していた。
有効な防御手段は味方戦闘機の護衛だのみだった。

日本側記録の自爆機1機という結果はF4Fのパイロットの練度不足が露呈したともいえる。
もっと損害が出ても不思議ではなかった。


96式中攻は当時の爆撃機開発の傾向であった「高速爆撃機」をめざしたのだろう。
「高速爆撃機」とは、「敵の戦闘機よりも高速で飛ぶことができれば、敵の追撃を振り切ることが出来る」という理屈だった。
列強各国が競って研究開発に取り組んだ。

96式中攻も就役当初は中国大陸で、運よく敵の旧式戦闘機を振り切ることもあった。
しかし、戦闘機も進化する。1941年当時、F4F戦闘機と比べるべくもなかった。


戦前に日本画の巨匠、横山大観が賞金を日本陸海軍に寄付(献納)したことがあった。
現在の金にして50億~60億とも、
陸軍の97式重爆を1機、97式戦闘機を1機、海軍の96式中攻を1機、96式艦上戦闘機を1機、の計4機を寄贈したのだ。

軍は『大観号』と名付けて喧伝した。
97式重爆(日本陸軍は重爆と呼んだが、世界的には中型爆撃機)は今回の海軍の96式中攻と似た飛行機だ。
想像するに、97式重爆や96式中攻、1機の価格は15億~20億程度(現在の金で)ではなかったか?

だとすれば、今回、撃墜された中攻が2機だとすると30億円~40億ということになる。
太平洋戦争も後半になると、日本の爆撃機(攻撃機)はバタバタと落とされ、昼間攻撃は無謀になる。

気の遠くなるような金が灰となっていった。
そういう経済的な面から戦争を研究することも必要だと思う、ボクは。


脱線した。

そして、日本の攻略部隊がウエーク島沖に現れる。

1941年12月11日朝早く、上陸作戦がはじまる。

次回『ウエーク島戦記3・反撃』に続く→




柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。


  1. 2018/10/02(火) 06:27:39|
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ウエーク島戦記 1 (空襲)

恐ろしい風の台風21号が去った直後、北海道にマグニチュード7の地震。

7月からの「燃える危険な夏」、雨が降ればどしゃ降り、川の氾濫、土砂崩れ。そして頻繁な地震。
ボクが今年(2018)の年賀状に多用した「〇△様に良い年になりますよう・・・」が空しい。
この先「2018年以来・・・」が慣用句にならないことを願う。

被災地の皆さまの、強い不安、悲しさ、行き場のないいらだち、日々の大変さ、察します。




今回から数回にわたって「ウエーク島の戦い」について書く。
「ウエーク島の戦い」はあまり知られていない。

太平洋戦争の島の戦いといえば、「質量ともに勝るアメリカ軍が迫り、決死の日本守備隊が守る」と書かれることが多い。
しかし、1941年にはじまった「ウエーク島の戦い」はその逆、日本軍が迫り、上陸を慣行した戦いだった。

waketou22.jpg

<ウエーク島を南の上空斜めから見たところ。上が北。
東西約3.5km、南北約3km、標高約6m。
ウエーク島はサンゴ礁の小島。ハワイの西、約3200km(2000マイル)、ハワイと当時の日本領マリアナ諸島との中間、
あのミッドウェー島の南にある(ボクは行ったことはない)。>




その日、午前11時ごろ、ウエーク島にスコールがあった。空には断雲が残っていた。
正午ごろ、断雲をついて、日本海軍の九六式中攻(九六式陸上攻撃機、通称「中攻」)34機が、
3群のV字型編隊を組み450mの低空でウエーク島上空に侵入、爆撃した。

1941年12月8日、日本海軍が真珠湾を空襲した日のことである。
真珠湾への空襲を成功させるため、時間を遅らせての爆撃だった。


それはウエーク島の南、約1000km離れたクエゼリン環礁(当時、日本の委任統治領)のルオットを
午前5時10分に発した日本海軍の第24航空戦隊の九六式中攻(きゅうろくしき、が正しい)だった。
護衛の戦闘機は伴っていない。

当時、世界の単発(エンジンがひとつ)戦闘機の常識をはるかに超える航続距離をもつ日本海軍の零戦(れいせん、が正しい)をもってしてもムズカシイ距離だ。
また、この作戦に零戦をまわす余裕もなかったのだろう(ボクの想像)。

96rikukou22.jpg

ウエーク島を爆撃する第二十四航空戦隊の九六式中攻。
当時、滑走路が舗装されていたかが分からない(おそらく舗装されていただろう)。

<九六式陸上攻撃機二三型(G3M3)の諸元>
高出力エンジンに加え武装を強化した最終型。
全幅 :25.00 m
全長: 16.45 m
全高(水平): 3.685 m
自重 :5,243 kg
全備重量 :8,000 kg
発動機: 金星五一型(離昇1,300馬力)
最大速度 :416 km/h(高度5,900 m)
実用上昇限度 :10,280 m
航続距離 :6,228 km
爆装の場合: 60kg爆弾12発、250kg爆弾2発、500kg又は800kg爆弾1発 (いずれかの搭載量)
雷装の場合 :800kg魚雷1発
武装(すべて手動銃座) :7.7mm旋回機銃3挺(胴体中央部上方・側方)、20mm旋回機銃1挺(胴体後部上面)
乗員: 7名 >




その日、アメリカ軍守備隊の監視員の発見が遅れ(上空には雲があり、視界が良くなかった)、
気づいたときには九六式中攻の編隊は爆音とともに上空にいた。
緊急発進命令を受けたパイロットたちが、待機していた8機のグラマンF4F戦闘機にむかって駆け出す。
しかし、あちこちで爆弾が炸裂、次々に倒れた。

中攻隊は低高度で侵入したからだろう、照準は正確だった。
さらに地上を機銃掃射しながら飛び去っていった。それは数分の出来事だ。


被害が明らかになる。
待機していた8機のF4F戦闘機は7機が破壊され、かろうじて1機が残った。
飛行場の燃料タンク、無線指令室、酸素タンク室、機材倉庫が破壊され、
パイロット3名が戦死、4名が負傷。地上要員は戦死7名、負傷7名。

迎撃のため前もって発進、哨戒していたグラマンF4F戦闘機4機が飛行場にもどってきたときには、日本の中攻隊の姿はなかった。
F4F戦闘機4機は島から離れた高度3600mを哨戒していた。3000m~4000mでの侵入を想定していたのだろう。
低空で侵入した九六式中攻隊に気づかなかったのだ。

当時、ウエーク島にはレーダーは設置されていなかったか、機能していなかったようだ。
中攻隊には幸運であった。


滑走路は穴だらけ、あちこちに破壊された残骸が散乱していた。
もどってきたF4F戦闘機4機のうち1機は、着陸時に残骸をひっかけエンジンを壊してしまう。
アメリカ軍に残ったF4F戦闘機は4機になった。

日米が戦闘状態に入った1941年12月8日は、ハワイとウエーク島で日本海軍航空隊の一方的な勝戦となった。
(最後通牒をアメリカ側に渡すのが遅れた失態があった)
アメリカの歴史上、1日でこれほどの被害をこうむったことは過去なかった。

戦をしかける側の有利が働いたのだろう。



話はさかのぼる。

ウエーク島は1935年からアメリカの民間のパンアメリカン航空が、「サンフランシスコ~フィリピンのマニラ」の中継基地として使用していた。
ということは、1941年当時、すでに滑走路や貧弱とはいえ空港設備があったと思われる。

もし日米開戦になれば対日戦の最前線となる島、
日本からすれば目ざわりな島であった。事実、早期の攻略目標になっていた。

アメリカ海軍ではウエーク島の戦略的価値を重視していたが、
基地建設が本格化したのは1941年1月からだ。
まず民間の設営隊が滑走路、兵舎、病院を建設した。

1941年8月~11月、
388名の第一海兵大隊が上陸、指揮官はジェームズ・デブルー少佐。
島の要所要所に砲台や塹壕を築いた。
装備は旧式の5インチ(12.7cm、当時の駆逐艦の主砲に近い)沿岸砲6門、3インチ(76mm)高射砲20門だった。
強力とはいえない。

1941年12月4日(日米開戦4日前)、日米の緊張が高まっていた。
空母エンタープライズがグラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機12機をウエーク島に届けた。
海兵航空隊の50名の地上要員とともに、
第211海兵戦闘飛行隊の隊長はベテランのポール・A・パットナム少佐。

しかし、パイロットの練度は低く、パットナム少佐ですら、F4Fの機銃を撃ったことがなかったという。
F4F戦闘機は太平洋方面に配備が開始されて間がなく、パイロットはウエーク島に来てからF4Fに慣れなければならなかった。

余談だが、日本の機動部隊がハワイを空襲したとき、空母エンタープライズは今回のウエーク島への輸送任務を終え、ハワイへ帰島途中。
太平洋艦隊の他の主力空母レキシントンは、あのミッドウェー島へ各種飛行機を届けるため航行中、
サラトガはアメリカ西海岸にあった。

南雲艦隊(真珠湾を攻撃した日本の機動部隊)の重要な攻撃目標だったアメリカ空母は、こうして一撃をまぬがれた。
アメリカに幸運だった。
当時、南雲艦隊は総合的にみて世界最強の機動部隊(空母を中心とする艦隊)だ。

南雲艦隊がパールハーバーを空襲した日の1941年12月8日午前6時50分、
ハワイからの電報をウエーク島守備隊の指揮官デブルー少佐は受け取った。
「・・・日本の急降下爆撃機によって攻撃されている。これは本当のことである。」
平文だった。暗号電文ではない。
ハワイは混乱と切迫した状態だった。

デブルー少佐は配下の第一海兵大隊に、直ちに戦闘配置につくよう命令。
第211飛行隊隊長パットナム少佐は、直ちに4機のグラマンF4F-3ワイルドキャット戦闘機を発信させ、
残りの8機をすぐに発進できるように滑走路脇に待機させた。

ウエーク島にも日本軍の攻撃があると判断したのだ。
「それはクエゼリン環礁からやってくるだろう」と想定していた(正しい)。

冒頭にもどる。





柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。







  1. 2018/09/11(火) 06:34:18|
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それぞれのぞれ

今年の夏も、〇×出口付近から25km、△□で30km・・・渋滞、渋滞、渋滞、
お盆や年末の渋滞で無駄に消費されるエネルギーは膨大だろう。 
移動する多くの人の憂鬱のもとだ(ボクはこの季節に移動しないが)。

AIだビッグデータだと、うるさいぐらい耳にするが、
国と大企業が連携して、いい加減、本気で渋滞解消に取りくんだらどうだ、と思う。
「もったいない」は我が国の「美しい習い」ではないのか?


ということで、話は変わる。

長い間、ボクはかき氷を食べていない。
若いころのように冷たいものを欲しない。
ビールもキンキンは苦手になった。

また、「体は温めると良い」を信じているということもある。

地元のテレビで愛知県の離島を取り上げていた。
ある店で供される「かき氷」が変わっているという。

素焼きの植木鉢風の器にかき氷を盛り、上からココアの粉末をたっぷりかけ、
ミントの葉をのせてある。(そんな記憶だ、正確ではない)

それに家庭菜園などで使う小さなシャベルの形を模したスプーン。
一見すると植木鉢に土といった絵だ。
もちろんシャレだろう。

これが一人前¥1200だった(たしか?)。

「ふ~ん、アイデアだね」とボンヤリ見ていたが、
「え、1200円!」
今、「かき氷」はそんな値段になっとるのか?

ボクが最期に食べた「アイスクリーム入り宇治金時」は¥500~¥600ほどの記憶なのだが、
「アイスクリーム入り宇治金時」は当時、最高級だった。
「イチゴ」や「メロン」などのシロップなら¥200~¥300ほどではなかったか?

一杯、1200円ということは、1万円札で8杯しか食べることができない(消費税を含む)。
1万円札も軽くなったな。

eturaku212.jpg

<ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』の一部を画いてみた。正確ではない。

ボス(ボスでいいのだろう?)は15~16世紀のフランドルの画家。

『快楽の園』は、悦楽を貪る人々が罰せられる様を画いたと言われている。
無数の怪物(化け物)を画いている。

ボスは楽しんでこれを画いたとボクは想像している。
「ここに顔は鳥で体は人間を画いちゃお。きもち悪う!」
「あっちには魚の怪物を画くぞ。おぞましい!むひひひ!」と、

「卵の殻男」の表情が微妙だ。
微笑んでいるような、情けないような、
手足は水辺の朽木のようだ。動き回ることができないのだろう。

モデルがいるはずだ。郵便配達人?役人?友人?親戚?・・・
『快楽の園』のなかの「卵の殻おじさん」、良い人のようにみえる。ボクは嫌いではない。>



「土用の丑」の主役、うなぎが高くなっている。我々はうなぎを食いすぎたのだろうか。
ある専門店では、うな丼の並で¥4000になったそうだ(並ですよ)。消費税込みで¥4320。
これでも店は儲からないという。
1万円札で2回が精イッパイ。


焼けるまで、枝豆とビールでつなぎ、
うな重が出てきたら、「あつあつ、うまうまうま~!」と食べ、
その際、お銚子などお願いし、

満足顔で店を変えて「アイスクリーム入り宇治金時」、
冷えたお腹に熱いコーヒーをそそいで〆とする。

1万円札で収まることはないだろう。


先日、ボクの地元でこんなニュースが流れた。

愛知県愛西市の佐織土地改良区の80歳の理事長(書いている時点では容疑者)が、
土地の工事受注の贈収賄で逮捕された。
地元の名士で影響力があった。

袖の下は10万円だそうだ。
「え!10万円?」、たったの10万円ですか(金額の問題ではないと言うが)。

「先生、これはお礼です。お納めください。」
「悪いね」といって封筒のなかをチラと見る。
「10、10万円!」
渡す方も恥ずかしい。

うな丼が¥4320(税込)、10万円では23人前。それも「並」である。
「並」だから乗っているウナギは2切れ(一尾の1/2?)。

「うな重」でイッパイやろうものなら、5~6人前ほどだ。

世の中、さまざまということか・・・・






  1. 2018/08/21(火) 07:18:25|
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辻村寿三郎の人形

7月24日、危険な暑さのなか、愛知県の「安城市歴史博物館」へ行ってきた。
人形師、辻村寿三郎の特別展が開かれているからだ(7月21日~9月2日)。
寿三郎の人形の展示を見るのは、これで3回目だ。


会場はボクの家から一般道で1時間半~2時間ほど。
やはり危険な暑さだった。
炎天下の道路上では、45度を越えていただろう。

駐車場は炎天下にあり、クルマのドアをあけた刹那、「ドッ」という音が聞こえたような気がした。
木を植えて木陰をつくってほしい。


1970年代、NHKテレビ人形劇、「新八犬伝」「真田十勇士」で寿三郎の人形は一躍注目された。
ボクもそれ以来のファンだ。
「なんだこれは?ただならない気配」を感じた。頭抜けた才能を感じる。屈指の人形作家だと思う。

今回はこじんまりとした展示だが、「新八犬伝」「真田十勇士」「平家物語縁起」「王女メディア」などの人形や、
いくつかの頭(かしら)、小型の人形などが展示されていた。

fusehime22.jpg
<「新八犬伝」に出演した「伏姫」の人形を画いた。今回の特別展に展示されていた。
実物は数段良い(あたり前だ)。

縮緬の肌、面長の顔、アーモンド型のつり目、瞳は寄っている。受け口に紅。
「色っぽくてかわいい」

普通、「つり目」は好感を得たい役どころの場合は避けるだろう。
あえて「つり目」にしながら、違和感を抑え魅力に変える。
常識や正攻法では心をつかむことはムズカシイ。

瞳が寄っているのは、歌舞伎や役者絵の影響だろうか?
寿三郎は歌舞伎の小物制作の修行をした(たしか)。
歌舞伎の小物は縮緬で作ることが多いという。

おそらく、頭(かしら)の制作の最終段階で瞳を入れると思われる。
寄り目を入れるのは勇気がいるだろう。
それで妙な顔になれば、それまでの制作の苦労が無になってしまう可能性がある。

今回、画いていても、人形の顔のバランスがとても微妙で、何度も修正した。>



人形化される人物への解釈、艶っぽさとオドロの世界。
縮緬の顔や手、精巧な小物、創造と伝統が混じった衣装。魅了される。

これだけのものを作るには、イメージ固め、人形本体の制作もさることながら、
衣装に使用する布(絹織物だろう)を確保するだけでも一苦労だろう。
なるべく小さな柄が必要なはずだ。

寿三郎ほどにでもなれば、ファンからの寄付やプレゼントがあるのだろうか?


寿三郎人形は美術(芸術)だとボクは思うが、一流美術館での展示はすくない。
ぼくの記憶では一度もない。

人形という分野を一流美術館が認めていない、ということなのかもしれない。
浮世絵も一流美術館での展示はすくない。
「フランスでは認められても、日本では認めない」ということか?

一流美術館にはランク付けがあると想像している。
例えば、西洋画>日本画、油絵>水彩、美大出の作家>独学の作家、
アカデミックなもの>大衆的なもの・・・

「芸術とは、ひとことで言えば、なんだこれ!という衝撃でしょうか・・・」
という説をきいたことがある。
もし、それが本当ならランク付けは無意味だ。

美術(芸術)世界にも見えにくいシバリがあるように思う。

「印象派はもういいから、〇△×も見せてくれ」






  1. 2018/07/31(火) 07:09:43|
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井戸の茶碗

豪雨災害の被災者の大変さ、お見舞い申し上げます。

「桂歌丸」が亡くなった。ご冥福を祈る。

テレビでの 落語の放送が少なくなって随分となる。

『浅草お茶の間寄席』(ぼくの住んでいるところでは三重テレビ)で週に一回やる。
聞いているのが辛くなる演者もでてくるが、貴重だ。
『笑点』でもときどきやる。
以前はNHKでもたまに見ることができたが、最近は見ない。

ボクは落語に詳しくはないが、好きだ。


『井戸の茶碗』という話がある。そのあらすじ。

麻布茗荷谷に住む、くず屋の清兵衛。ある日、清正公脇の裏長屋で身なりは粗末だが、
品があって器量よしの、年のころ十七、八ほどの娘に呼び止められる。
その父、浪々の身の千代田卜斎から、仏像を二百文で買い受ける。

仏像を荷の上に乗せ、細川様(大名)の下を通りかかると、若い家来の高木佐久左衛門がその仏像を見つけ三百文で買い取る。
右から左で差し引き百文の儲け、清兵衛はうれしくなる。

高木がぬるま湯でその仏像を洗っていると、
台座の紙が破れ、中から五十両(現在の価値なら1000万円)が出てきた。
高木は次回、清兵衛の来るのを待ち、事の次第を話し、
「仏像は買ったが五十両は買った覚えはない。よって五十両を売主(卜斎)に返せ」という。

清兵衛は言われたとおり五十両を卜斎の家に届けに行く。
卜斎は「売ったからには仏像から何が出ようとも自分の物ではない。その金は受け取れぬ」と、

しかたがないから、清兵衛は再び高木の所へ行くが、高木も頑として受け取らない。

困った清兵衛は卜斎の長屋の大家に相談すると、
「それでは、卜斎様と高木様に二十両づつ、清兵衛さん、あなたに十両ということにしてはどうか」
と知恵をだしてくれた。

卜斎はその二十両のカタに、普段使っている汚い茶碗を高木に渡すことで渋々納得する。

このいきさつを訊いた細川の殿様が高木に「その茶碗を見たい」と仰せられた。
見ると、これが「井戸の茶碗」という名器だった。
「佐久左衛門、三百両(約6000万円)でこれを買いうけたいが、どうじゃ?」
ということで殿様のもとへ。

清兵衛は高木から依頼をうけ、半分の百五十両を卜斎に届けるが、
卜斎はむろん「二十両のカタに高木殿にお渡ししたもの。その金は受け取れぬ」だ。

清兵衛は、「それなら、また高木様に何か差し上げて、その代わりに百五十両をもらうことにすればよろしいのでは?」というが、卜斎にはもう高木に渡す物がない。
卜斎は考えたあげく、「百五十両を支度金として娘を高木殿へ嫁がせたい」という。
「浪々の身ではあるが、ひと通りのしつけはしてきたつもりだ」と、

喜んだ清兵衛、早速この話を高木に伝えに行く。
高木も「千代田殿の娘ご」なら間違いないと、話は早い。

清兵衛 「今は裏長屋に住んでいて、ちょいとくすんでいますが、こちらに連れてきて磨いてご覧なさい、いい女になりますよ」
高木 「いや、もう磨くのはよそう。また小判が出るといけない」


idojyawan31.jpg
<イラストは「井戸茶碗」とした。
こんなにひどくはないが、いびつなものもある。

イラストのように袴の脇から手を入れている武士の写真を見たことがある。
古武道研究家の甲野 善紀(こうの よしのり)も、テレビで同じ姿勢をとっていたのを記憶している。
ボクの知人に合気道三段がいる。
先日、このことを訊いてみた。

「あれはねぇ、手の指を取られないようにしているのだよ。
指を取られると相手に制禦されてしまうからね。」
なるほど。>



『井戸の茶碗』は故、古今亭志ん朝が得意にしたという。
「人の良い屑やの清兵衛」、「闊達な若侍、高木佐久左衛門」、「頑固だが律儀な浪人、千代田卜斎」、を
演じわけるのが噺家のうでの見せどころだ。

この話には端役の「細川の殿様」にいたるまで、欲のない正直者しか出てこない。
落ち(さげ)まで正直者達で押し通す。

映画などで、ハッピーエンドとアンハッピーエンドのどちらがシックリくるかといえば。
ボクはアンハッピーエンド派だ。プラス思考ではない。

ところが『井戸の茶碗』を初めてきいたとき、ちょっと感動した。

この世では、無欲の正直者は少ない。
『井戸の茶碗』は現実では成立しにくい。落語だから素直に聞けたのだろう。
もちろん、落語家の腕もある。
これを聞くと、いい気分になる。
「何事にもウラがある」と思っているボクが・・・


(注)「井戸茶碗」は李朝中期に朝鮮で焼かれたもの。高麗茶碗の一種。
本来、雑器であったものが,桃山期の武将,茶人の好みにかない,抹茶茶碗として珍重された。
以来,茶の湯の茶碗の中でももっとも重視されるものとなった。

形や作風から大井戸(名物手),青井戸,小井戸(古井戸)などに分けられている。
大井戸は大振りな井戸茶碗という意味。深い碗形をなし,高台はほとんど竹節状に削り出されている。







  1. 2018/07/10(火) 07:53:41|
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