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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

失礼ですが旦那・・・(ジョーク)

運転手はいつものように、いつもの角でクルマを止めた。
運転手は回りこんで歩道側の後席ドアを開けると、金蔵持造は降りたった。

そこにはいつも路上で「どれでも100円ライター」を売っている男がいた、くたびれたTシャツ。

金蔵は箱に100円硬貨を入れた、でもライターは受け取らなかった。
いつも金蔵はそうしていた。

200yen12.jpg

金蔵は裸一貫から苦労して財をなしたことで知られていた。
金蔵はその男に、かつての自分を見ていた、気の毒だとも思っていた。

ある日、金蔵はクルマからいつもの角で降り、いつものように100円を箱に入れて立ち去ろうとすると、
男は金蔵を見上げて言った

「あのう・・・失礼ですが旦那、ライターが値上がりしたのをご存知で・・・
あっしのは200円になったんでさぁ」

「・・・・」



植松 黎編・訳「ポケット・ジョーク」(角川文庫)¥390を参考にしました。




話はまったく変わる。

ライオンのバスタブクレンジングで風呂の浴槽を洗っている。
排水した後、こいつを浴槽に噴霧(泡状)→60秒待つ→洗い流す、これで終わり。

洗剤をつけたスポンジでキュッキュしなくても良い。
手袋着用も浴槽に入り込むことも不要だ。

そんなんで汚れが落ちるの?と思ったが、
ヌルヌル感もなく落ちているようだ(検査したわけではない)。
浴槽洗いが楽になった。

他社でも同じような製品が出ているとおもわれる(調べたわけではない)。


「洗うたびに形をととのえる」という洗濯洗剤がある。
まだ使用したわけではないが、
おそらく、Tシャツのヘタレも整えるということなのだろう。
それが本当なら、生き返るボクのTシャツが何枚かある。


こういう機能性製品には感心する。
例えばユニクロの「ヒートテック」。汗に反応して発熱するという(たしか)。
寒がりの救世主だろう、重ね着が一枚減ったのではないだろうか?

ボクは着たことはないが「エアリズム」にも感心する。

他社でも同じような製品が出ているとおもわれる(調べたわけではない)。






  1. 2020/09/15(火) 07:32:08|
  2. ジョーク
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岐阜(信長夜話・その106)

ウンザリ雨のつぎは「これでもか熱波」、37度越えが続いた(25日は35度の予報)。
水道水が温かい。蛇口をひねるとお湯が出る。
(水がすぐに沸騰、ガス代が安くすむ)

朝から地表が温められると入道雲がわき出で、午後の夕立で一息つく、というのが夏の常道だと思うのだが、
このところその夕立がない。

やっと8月22日(土)の夕方に雨が降った。雷雨だった。

風をともない邪悪な黒雲が空を覆うと、ぼたぼた雨。
稲妻が走った刹那、轟音とともに落雷、近い。
しばらく暴れまわると気温は一気に下がった。やれやれ。



ということで、

元亀元年(1570)十二月、信長は上洛以降、最大のピンチ「志賀の陣」で和睦が成立、軍を引き岐阜へ帰った。

時をもどす。

永禄十二年(1569)七月、イエズス会の宣教師(司祭)、ルイス・フロイスが信長に謁見するため岐阜を訪れている。

信長は前年の永禄十一年(1568)に上洛、足利義昭を将軍に据え、
この年(永禄十二年)の二月には将軍御所(二条城)の建設に着手、
八月には伊勢に侵攻している。


4年前の永禄八年(1565)、キリシタンを保護した将軍、足利義輝が暗殺された。
宣教師に対して追放の勅令が発布されフロイスは堺や河内を転々とした。
朝廷は攘夷だったのだ。よく分からないものはとりあえず排除するのだろう(人間は)。

ガスパル・ヴィレラ(司祭)が日本を去りフロイスが畿台(京をふくむ関西)に残ることになった。

このころ、反キリシタンの朝山日乗上人はバテレン追放の綸旨(天皇の文書)を手に入れていたという。
永禄十二年(1569)四月二十日、京の妙覚寺で日乗対ロレンソ了斎の宗論(前回の信長夜話を参照)があった。

日乗は信長に「バテレン追放」を複数回、求めるが却下されている。
それでも、日乗は活動をやめなかったようだ。
キリシタンへの圧力が増し、京は不穏な空気だったのだろう。

「私が美濃へ向かっているとき、日乗とその弟子たちは信長が内裏の詔勅にしたがって私を捕縛したとか、
将来は都にはキリシタンの痕跡すらなくなり、その教えは滅するだろう、というウワサを広めていた。」
とフロイスは書いている。

フロイスが岐阜にきたのは、信長に会いキリシタン保護の朱印状を求めるためだった。
信長が政治のキーマンだったこと、自分(フロイス)に好意をもっていたこ、とをフロイスはわかっていた。


すでに永禄十二年(1569)にフロイスは
和田惟政(キリシタンの熱烈な保護者、自身もキリシタン、幕臣、摂津守護)の働きかけで、
三~四月ごろだろうか?二条御所建設現場で信長に謁見している。
その後、数回にわたって信長と対話したと思われる。


フロイス一行は京から大津へ出て夜中に船に乗り、翌日、朝妻(米原の琵琶湖沿岸)に着いた。
近江を2日間歩き美濃へ。長良川を船で渡ると岐阜の街に至った。
京→大津→米原→関ケ原→垂井→大垣→岐阜のルートだろう(ボクの想像)。
五日ほどの行程だろうか?七月のことだから、日差しが強く暑かったことだろう。

「岐阜には緑の森と大河(長良川)があった。それを船で渡ると街に至った。
八千ないし一万の人口だった」とフロイスは書く。
街は稲葉山(金華山とも呼ばれている)の麓一体に街が広がっていたと思われる。

gifu12.jpg


フロイス一行は和田殿(和田惟政)に指示された商家に宿泊した。
街は取引や種々の用事で往来する人がおびただしく、バビロンの雑踏を思わせた。
塩を積んだ多くの馬、反物、陶器、野菜、木製品・・・などを担った商人たちが諸国から集まってきていた。

商家のなかは自分の声が聞こえないほどの騒がしさだった。
昼も夜も、売買や荷作り、飲み食いや博打・・・をしていた。

451年前(永禄十二年)の岐阜の賑わいと喧騒が見えるようだ。すばらしい!

フロイス一行は二階で起居していたが落ち着かなかった。
商家は二階建てだったのだ、二階の天井は低かったのだろう(ボクの想像)。
室町時代後期には二階建てがあったことになる。


ところが、和田殿からの紹介状の人物も、岐阜で助けてくれるはずの要人も、その時城下には居なかった。
要人らが岐阜に戻るまで2~3日間、待たなければならなかった。

宿泊した商家の主人は内裏の綸旨(バテレン追放など)を知っており、
フロイス一行が信長に保護を請うために来たことを知っていた。
主人は信長はフロイスらとは会うことはないだろう、と思っていた。

「この連中はとんだ厄介者だ、当家の利にならず」と思ったのだろう、早く追い出そうとしていた。
フロイスが話をするため主人を呼ぼうものなら、荒っぽい返事をして会おうとしなかった。
冷淡な扱いだった。

和田惟政の紹介ということだが、商家の主人は惟政に対するのとは違う顔をもっていたのかもしれない。
よくあることだ。


三日後、、助けてくれるはずの要人が岐阜に戻ったので、翌朝フロイスは彼らの家に赴いた。
その二人とは信長の重臣、佐久間信盛と柴田勝家であった。このころ、信長配下の双璧をなす武将だ。

佐久間信盛は親切に出迎え、「さっそく、汝らが来ていることを上様に知らせることにしよう」と言った。
つぎに、柴田勝家邸に赴いた。
勝家もとても喜び、フロイスらが食事をとるまで帰そうとはしなかった。
勝家は「出羽介殿(信盛のこと)とともに上様に会えるよう取り計らう」と言った。

その日の午後には、信盛と勝家は信長のもとに赴きフロイス一行が岐阜に来ていることを告げた。

信長は喜び、信盛と勝家に「内裏が綸旨をもってバテレンを追放、もしくは殺せ、などと述べたのは残念なことだ。
バテレンがいるところは破壊されると人は想像しているようだが、そんな滑稽な話はない。
バテレンを都から追放などさせない。
予はバテレンたちが遠い異国に来ているのだから大変だろうと同情している。」と話したという。

信長は好きな音楽をきいた後、城の建築を見に出かけた、とフロイスは書く。
斎藤龍興の岐阜城を改築していたのだろう。
「好きな音楽」とはなんだろうか?

そこでフロイスは信長に目通りした。


これらの記述はフロイスの『日本史』にある。




松田毅一、川崎桃太、編著『回想の織田信長』中公新書¥620(税込み)などを参考にしました。



  1. 2020/08/25(火) 07:12:31|
  2. 信長夜話
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宗論(信長夜話・その105)

洗濯したものを干そうとすると、何かいる!
洗濯バサミに隠れるようにアマガエル(だと思う。)が物干しざおにつかまっている。
親指の先ほどの明るい緑のカエル、素知らぬふりで喉をフクフクさせている。
美しい、ブローチのようだ。

この季節、毎年同じところに現れる。毎年おどろいて、毎年癒される。
自然にはユルイ規則性があるように思う。



ということで、今回の宗論(信長夜話・その105)

元亀元年(1570)上洛以降、最大のピンチ「志賀の陣」で和睦が成立、信長は軍を引き岐阜へ帰った。


話はすこし戻る。
前年の永禄十二年(1569)四月十八日、
ルイス・フロイスが京の妙覚寺にいる織田信長を訪問した。
二条御所の建設にも目途がついたのだろう、岐阜へ戻る信長への挨拶だったと思われる。

当然だが使者をつかわして、訪問の許可をとってのことだろう。

すでにフロイスは信長に謁見している。信長が最初に会った西洋人だ。
信長はフロイスを気にいったようだ。

翌十九日、朝山日乗上人(あさやまにちじょう、以下日乗.。日蓮宗の僧だといわれている)が信長を訪問した。
日乗は「尾張守様、ご出立前にバテレンどもを追放していただきたい。
バテレンのいるところでは混乱や破壊が起こっておりまする。」と信長に訴えた。
日乗は反キリシタンだった。

信長は笑いながら「なんじの肝の小ささには驚いたは。
予はすでに好きなところに住んで良いとの允許状(いんきょじょう、容認書)を出しておる。
公方様(将軍義昭)も同様に付与しておられる。追放などはせぬ。」と答えた。

四月二十日、フロイス、日乗の他、多くの諸侯や要人が妙覚寺にいた。
この中には木下秀吉もいたというから、信長の重臣達もいたのだろう。
妙覚寺の信長の居室あたりには300人ほどの人が集まっていたという。

その日、信長は機嫌がよくフロイス司祭とロレンソ修道士(日本人)と話していた。

それを見ていた日乗は怒りを覚えたが、柔和な様子をつくろい、
「尾張守様、拙僧はバテレンが説く教法を承りたく思います。
尾張守様がそのように(彼らに)お命じ下されれば、うれしく存じます」と信長に申し出た。

信長の面前でキリシタンの教義の矛盾をつくことができれば、信長がバテレン追放に傾く可能性がある。
そして自分の存在価値も上がる、との読みがあったのだろう。
日乗は弁舌に自信があった。


信長はロレンソ修道士にキリシタンの教えを説くよう命じた。

宗論の相手はロレンソ了斎だった。フロイスではない。
フロイスは後ろに控えていたのだろう。
フロイスの日本語は外人宣教師のなかでは上手なほうではあったが、
ムズカシイやりとりまでは無理だったのだろう。
それにロレンソはとても優秀だった。

syuuron15.jpg


信長はロレンソにいくつかの質問をした。

日乗は「バテレンは誰を崇めるのか」と問う。
「それはデウスであり、唯一の創造主である」とロレンソ。
からはじまり・・・・
論争は白熱、神の存在の有無、霊魂についての話になった。
ロレンソが永遠不滅の霊魂の存在を説くと、
日乗は「それほど霊魂が存在するというなら、ここに見せてもらいたい」と迫る・・・

・・・やり取りのすえ、言葉に窮した日乗の顔は真っ赤、歯ぎしり、目は充血、
身を震わせて激昂した。
日乗は刀(信長の刀とフロイスは書いている)を持ち出し、鞘を払うと
「しからば汝の弟子ロレンソを切る、汝らが申す魂とやらをここに見せてみよ」
ということは日乗はフロイスに言ったことになる。

信長や同席していた者が素早く立ち上がって、日乗を取り押さえ、その手から刀を奪いとった。
一同は日乗を非難した。
和田惟政(幕臣、摂津守護、キリシタンを保護した、自身も熱心なキリシタン)はこれを怒り、
信長の面前でなかったならば日乗を切り殺していただろう、と思われた。

「日乗、汝はなんというこをするのだ、仏僧がなすべきは刀を取ることではないは、
仏法を説くことであるぞっ!」と信長は叱責した。

その間、フロイスとロレンソはうろたえたりせず、泰然としていた。
耐えきれなくなった日乗は、デウスの教えを誹謗し、フロイスを「嘘つき、魔法使い!」と何度も叫び、
このものをここから追放するよう信長に繰り返し求めた。
しかし、その言葉に信長や同座の人々は耳をかさなかった。

居合わせた人々はほとんどが仏教徒だった。キリシタンに好意をもっていなかったにもかかわらず、
「日乗は僧であるのに、殿(信長)の面前で激昂して刀に手をかけ無礼な振る舞いにおよんだ。
このたびの宗論に負けたことは明白だ。」と話し合った。
そして、この事件は京の街中に流布していった。

外は折から土砂降りの雨となり、夜も更け(夜だったのだ)、
「日乗は信望を失墜した。遅くなった。雨のため道も悪い。バテレンが帰るというのなら許す。」と信長は言った。

五月七日、信長は岐阜へ出立した。



これらの話はフロイスの「日本史」の記述からである。

本当のところは日乗の話も聞いてみないとわからない。できれば同席者のも欲しい。
探してみたが今回の宗論のことを書いたものは、
フロイスの「日本史」の他には見つけることが出来なかった。

フロイスは仏僧との宗論に勝利したことを、ここぞと喧伝したかっただろう。
本部への報告には仏僧を論破した、ということは大きな手柄である。
話を盛った可能性は高い。

「日乗が抜刀したこと、キリシタンの勝利としたこと」など、とても匂う。
信長の面前で、刀に手をかけようものなら、即座に身辺警護の武士に切り殺されていただろう。
そんなことを許すようなユルイ警護は想像できない。

実際は日乗は言葉を荒げたり、膝を乗り出したり、
動揺が見えたり、とその程度ではなかったか?(ボクの想像)
もしくはロレンソが巧みで日乗が答えられそうもない問答が多かったのではないだろうか?


ルイス・フロイスの『日本史』(イエズス会の日本布教史という意味)は織豊時代の貴重な資料だ。
リアリティのある内容と文章にボクは驚く。
しかし、『日本史』の宗教的な記事には宣教師としての偏見がある。当たり前だ。
今回の妙覚寺の宗論、朝山日乗評などはその典型だろう。疑ってかかる必要がある。


フロイスとロレンソは今回の宗論をチャンスととらえただろう。
一部始終を見ていた信長がキリシタンに入信する可能性だってある。
もし、それが出来たなら、信長配下のみならず多くの人がキリシタンに改宗するかもしれない。
効率よく信者を獲得するには頭を落とすことなのは誰でもわかる。

今回の宗論の二年後、
1571年 スペイン人がフィリピンにマニラを建設する。
西欧の世界戦略はすぐそばまで来ていた。目標は大国、明(中国)のキリスト教化と侵略だった。



怒った日乗を信長は笑いながら諫めた、という説がある。
「日乗、なにを熱くなっておるのだ・・・」ということだったのだろうか?
信長もふくめ同座の人たちは、相撲を見るような気持ちだったのだろうか?

それとも宗論をさせることで、信長は教義と現実の違いをつかみ取りたかったのか?
宗教の建前と本音をかいまみたかったのか?
仏教勢力への牽制だったのか?
信長は他にも宗論をさせている。

「正しい教えはひとつではない」とボクは思う。
しかし、仏僧も宣教師も「われらの教義こそ唯一の正しい教え」とかたくなに思っていただろう。
そう思わなければ、やってられないだろう。

宗論は互いに自らが立脚する教義の正義を主張しあうだけのエキジビションになる。


脱線する。

世界的宗教、例えば、仏教やイスラムやキリスト教の教えには崇高な普遍性があるのだろう。
そうでなければ多くの人に支持されるはずがない。
ところが、時代を経るにつれ、多くの解釈が加えられ利用された。

例えば、十字軍も最初は聖地奪還(キリスト教徒からみれば)を目指したが、
後半にいたっては略奪目的にもなっていった。
教義は建前になった。


殺生を嫌うはずの仏教も武装して戦うことを辞さなかった。
石山本願寺は「信長の最強の敵だった」という見方もある。

仏僧は「とらわれるな、執着をすてることが悩みから逃れる方法だ」と説くが、
お盆になると仏僧が高級車で忙しく檀家をまわる。

元始、釈迦やイエスの教えはシンプルで人の心にしみいるものだったにちがいない。
ところが、時代を経るにつれ、多くの解釈が加えられ利用されモミクチャにされて、
なにがなんだか分からなくなってきたのではないだろうか?

最近、読んだ本によると、葬式やその後の法要は祖霊を重んじる儒教の考え方であって、
仏教にはそんな教えはないという。

脱線した。



ロレンソ了斎 (1526年 - 1592年2月3日(天正十九年十二月二十日)日本人である)

大永6年(1526)年、肥前白石(現、長崎県平戸市)に生まれる。
生まれつき目が見えず、琵琶法師として生計を立てた。
今でも大変なことだと思うが、時は乱世である。

天文二十年(1551)、山口でフランシスコ・ザビエルに出会う。
街角で説教するザビエルに疑問をぶつけ、回答を聞く。
キリスト教の教えを理解し洗礼を受けロレンソという洗礼名を受けた。

ザビエルの教えが腑に落ちたのか?仏教の教えに疑問をもっていたのか?
ロレンソはかすかな光を見たのかもしれない(ボクの想像)。

ザビエルらが、危険や困難を冒して遠いこの日本にやって来て、現世利益を求めるでもなく、
人々の霊魂の教化という唯一の目的のために働いていることに感動、自分も神に仕え、
教会のために全生涯を捧げる決心をしたという。

当時、西欧から見て極東の世界は少ない情報しかなく、
海には怪物がいて、怪しげな人種の国があり、邪宗がはびこる異界だった。
イエズス会の先兵(宣教師)たちは、「無知な人々を正しい教えに導いてやらなければ」という情熱に燃えていたのだろう。

脱線した。
ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たち、
ガスパル・ヴィレラ、ルイス・フロイスらを助け、布教活動に従事した。


キリシタンを嫌っていた松永久秀が、
宗論のためにヴィレラを領地である大和(奈良)に招いたことがあった。
ヴィレラ自身が赴くのは危険だということでロレンソが派遣された。

そこで数日間にわたって激しい論争が続けられたが、
ロレンソは結城山城守と清原外記(げき:漢字の専門家、天皇に教える教師)を論破、
疑問にことごとく明快に答え切った。
逆に二人は、ロレンソを認め、なんと、キリスト教の洗礼を受けたという。 

その場に居合わせた高山弾正はこれに感動、密かにロレンソを招いて教えを請い、
息子の高山右近や家臣と共にヴィレラから洗礼を受けた。
その高山右近に導かれて後に黒田官兵衛もキリスト教の洗礼を受けたという。
大殊勲である。

高山右近は荒木村重の謀反の際、苦悩する二枚目としてドラマで取り上げられる武将だ。
高山親子は「布教+侵略」まで洞察出来なかったのだろう。


永禄六年(1563)、ロレンソ了斎は正式にイエズス会に入会、日本人初の修道士(イルマン)となった。

永禄十二年(1569)、二条城の建設現場でフロイスは織田信長と面会、ロレンソは通訳として同席。

永禄十二年(1569)四月、今回の妙覚寺における宗論。
ロレンソこのとき43歳、フロイス37歳、信長36歳、朝山日乗は不明。

天正十年(1582)六月二日、本能寺の変。

天正十五年(1587)、豊臣秀吉によるバテレン追放令を受けて九州へ。、

文禄元年(1592)、長崎でロレンソ死去。66歳だった。

フロイスの『日本史』に、ロレンソの最後が書かれている。
「長年の迫害と老齢で衰弱し、骨と皮だけとなっていた。
数日前から話をするのも困難となり、最後を悟ったのだろう修道士達を室外に去らせ、
つききりで世話をしてくれている下僕に「起き上がるのを手伝って欲しい」と頼み、
下僕が両腕を抱えて起き上がらせようとした時、
イエズスの名前を呼びながら下僕も気づかぬうちに、安らぎのうちに息を引き取った。」

才能のあるものにも、富のあるものにも、権力者にも、貧しいものにも、弱きものにも、
死は訪れる。

ロレンソ了斎は
苦労と流浪のすえに身に着けた経験と知識、群を抜く記憶力。
当然、神道や仏教、日本人の習慣やクセも良く理解していた。
盲目だったことから、まともな教育は受けていなかっただろう。

誠実さを感じさせる話し方、琵琶法師だから人前で話すことも場慣れていただろう。
覚悟の凛とした風情。
そして盲目だったロレンソの話は人の心をつかんだ。
視力を奪ったのと引き換えに、自分の才能を見つけ出す能力を天はロレンソに与えた、
といったらカッコよすぎるだろうか?(ボクの想像)

ベタ褒めだが、このとき、日本のキリシタンの最強の布教者(伝道師、論客)
だったのではないだろうか?朝山日乗も相手が悪かったように思う。

ロレンソは救いを求め、キリシタンの教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えた。
畿内や九州で多くの洗礼者が出たことは、実はロレンソ了斎に負うところが大きかったのだ。



朝山日乗(あさやまにちじょう)生没年不詳

前半生は分かっていない。

尼子氏の家臣だった朝山慶綱の子。
比叡山で学んでいた時期もあった。
日蓮宗の僧、などという説がある。

山口で日乗は毛利氏に気に入られ、小さな僧院を建立。
資金は、遍歴中、唐物の金襴の布着れを
「天皇からたまわった天皇自身の衣服だ」と偽って販売して得たものだったという。
今なら詐欺だ。

京に移り松永久秀と三好三人衆の争いに介入しようとした。
毛利氏からの書状を久秀に届けようとするが捕まり、
三好の家臣・篠原長房は日乗を堺に監禁、首に鎖をつけ、両袖に長い木を通し、
手首をその木に縛り付けて磔のような格好にし、食事もわずかしか与えなかった。
この状態で100日以上も過ごさせたという。

だが日乗はその状態でも弁舌をもって周囲の人を動かし、
法華経八巻を手に入れ、近隣の人々に読み聞かせ施しを得ていた。

まるでスパイ小説のようだ。

永禄十一年(1568)、織田信長が上洛、日乗は自由の身となった。
四月十六日に参内、朝廷に物を献上した。
七月十日には近衛前久邸で法華経の講釈をしている。日乗は信長に接近した。

法華経の講釈をしたぐらいだから仏教知識もあり、話も得意だったのだろう。

永禄十二年(1569)一月、将軍、足利義昭は、毛利氏と大友氏を和睦させようとし、
日乗は松永久秀の使者として吉川元春の元に赴いている。
この春、信長によって村井貞勝とともに皇居の修理を命じられている。
「日乗はこの頃から、あらゆる諸貴人に知られていた」とフロイスは書いている。

朝廷、信長、毛利、・・・と幅広い人脈、
日乗は如才ない男だったのだろう。信長とも会うことが出来る立場だった。

永禄十一年(1568)四月十九日、日乗は信長にキリスト教宣教師の追放を進言、
信長はすでに宣教師に滞在と布教を許可した、と却下。

四月二十日、今回の妙覚寺における宗論。

翌、四月二十一日、日乗は岐阜に帰ろうとする信長に再び宣教師の追放を進言するも、却下された。

また熱心なキリシタンであった和田惟政を陥れようとして失敗、
天正元年(1573)頃に信長の信頼を失って失脚した、という。

日乗のその後は分からない。


日乗は反キリシタンを貫いたためフロイスは悪魔呼ばわりした。

「下賎の者、背は低く、醜く軽蔑すべき人物だ。日本の宗教も知らない愚か者だが
悪魔が悪事を行うために見出したうってつけの人間だ。
話が巧妙で、雄弁さは日本のデモステネス(古代ギリシアの政治家・弁論家)である」
と評した(ボクは背は低く醜いは余計だと思うが)

しかし、キリシタンに対峙するような言動をするものは日乗に限らず、
日蓮宗だろうと、禅宗だろうと、一向宗だろうと、天台、真言、法華・・・だろうと、
悪者、邪宗だったのだろう。イエズス会は戦闘的な宗派であった。


脱線する。

日本ではキリシタンや宣教師を良くみる傾向がある。
日本人は舶来が好きだ。江戸期の蘭学、蘭医を良くみる傾向も同じだろう。

もし、布教活動が成功して日本がキリスト教国になったら、どうなったんだろうか?

スペイン・ポルトガルの世界戦略に飲み込まれ(布教と侵略は二人三脚)、
日本の富は収奪され、戦経験豊富な日本の若者は侵略の先兵として駆り出され、
宗教戦争が日本で起こり、はてには魔女狩りで阿鼻叫喚が起こったのではないだろうか?

ボクは秀吉の追放令をキリシタン贔屓から批判するのは違うように思う。

ちなみに、ボクは西洋人が気持ち悪い(神との約束をしないから)という無神論者だが、
あえて言えば仏教に近いものを感じる。

脱線した。



松田毅一、川崎桃太、編著『回想の織田信長』中公新書¥620(税込み)などを参考にしました。




  1. 2020/08/04(火) 07:45:46|
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死神

雨、雨、雨、雨、雨・・・・ そろそろ勘弁してほしい。
豪雨で罹災された方々の気持ちを察します。

先日、曇り空、雨が降らないうちにとスーパーに歩いて(散歩もかねて)買い物に行った。
歩いて30分ほどにあるスーパーだ。
1時間半ほどで帰ってきた途端、ザーッと雨が降ってきた。

別の日、帰るまで天気がもちそうだが、念のために干してある洗濯物を取り入れると、数分後に雨。

実は、こういうことが10年ほど前から度々起きるようになった。
いや、10年ほど前から意識するようになったということかもしれない。

昨年の6月下旬、篠突く雨、クルマで愛媛県へ向かった。仕事だ。
西日本に豪雨の警報が出されていた。
「命を守る行動をとってください」とテレビ。
途中、通行止めや道路の冠水などを想像した。

ところが名神高速に乗ると小雨になった。大津あたりで雨は上がり青空が見えた。
以後、帰るまで2日にわたってボクには雨は降らなかった。

雨神(天神かな?)に気に入られているのだろうか?
これといって運が良いと思うことはないが、
こと雨にはツキがあるようだ。人に話すとツキが離れるかな?




ということで、今回のはなし・・・・


朝、黒崎藩の武士、野村兵馬が朝飯を食っていると、奥方が話かけます。
「竹(下女)が申すには、昨夜から伍助(下男)のようすがおかしいと・・・」
「そうか・・・伍助をここへよべ」

兵馬が伍助にたずねます。
「いかがした?見れば顔色が悪い。」
伍助は憔悴し、落ち着かないようすでした。

伍助は震える声で話します。

『へえぇぇ・・昨夜、撞木橋のたもとで女に声をかけられたんでぇ・・・、
「お前はもう長くはない、お前は明日に死ぬるは!ウソではない、ワシは死神じゃ。」と言うんですだ・・・
昨夜は一睡もできませんでした。

姿は若い女でしたが、話す声はしゃがれた男の声でしただ。
こいつは本物だ、と思いました。
その証拠に、ゾクゾクと寒気がしましただ。』

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兵馬は「そんな馬鹿な話が・・・」と思いましたが、
伍助は純朴で正直です。嘘を言うような男ではありません。

兵馬はその話を信じることにしました。

「そうかわかった、それではすぐに奥太田へ行け。」
奥太田は藍川沿いを上へ五里(約20km)ほどにある里(集落)でした。
兵馬は知人宛てに一筆をしたため、いくばくかの金とともに伍助にもたせてやりました。
伍助を奥太田へ逃がしてやったのでした。

その日の夜、今度は兵馬が月明りの死神(女の姿)を見かけました。
兵馬は死神を呼び止めました。なるほどゾクゾクと寒気がしました。

「・・・お前はヒドいやつだ。よくも伍助を脅してくれたな!」
すると、死神はしゃがれた声で
「・・・おどろいたのはワシの方じゃ、あの男は今夜、奥太田で死ぬことになっているのに、
まだこの辺りをうろついていやがるのだから・・・」



死神は気味の悪いオッサンか髑髏の姿だと思うのは「刷り込み」のせいだ。
若い女の姿で現れても不思議はない。
死神はいかなる姿にもなれる、というほうが自然ではなかろうか。

人は人生のどこかで死神と出会うのだろう。

ラーメン屋を出た横丁で、
タクシーの順番を待って並ぶ自分の前に、
いつも行く図書館の椅子に腰かけていたり・・・
散歩中にすれちがう人のなかに・・・
混み合う病院の待合室で、

あくまでもボクが思うことですけどね・・・悪魔でも




  1. 2020/07/15(水) 15:53:22|
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休みの延長

小さな川沿いの土手に姫女苑(ヒメジョオン)がイッパイ咲いている。
人は雑草に分類している。
ひょろりとした姿、白い地味な花だが群生すると美しい。


コロナウイルス禍で学校の休みが延長されたころ、
小学生がインタビューに「はやく学校へ行きたい」と言う風景がテレビで流れた。
「ええ!本当に?」とボクは思った。

omen13.jpg


小学生のころのボクなら「ウッシッシ、やったぁ!やったぁ!やったぁ!」だ。
1年や2年の延長ならともかく、1か月程度の休み延長なら願ってもない。
健康で自由の身なんて最高!ではないか。

朝は二度寝をしてボンヤリ、
昼飯を食ったらガラス瓶に詰めた土なかの蟻の巣はどうなっているのか?観察する(面白いから)。
「おお!いくつか部屋が出来とるがや、スッゲ!」(名古屋弁)。

午後は好きな絵などカサカサグリグリ画く。
鼻クソをほじりながらマンガを読む。

「ご飯だよーっ」と母ちゃん、
晩飯を食ったらテレビ。「ナイツ」の漫才(今なら)に笑ったら風呂だ。
風呂上りは、寝っ転がって天井のシミを見ながら空想する。

「もう寝なさい」と母ちゃんの声。そういわれると寝るわけにはいかない。
「水木しげる」を引っ張り出して見る。おかげで寝つかれない。
ゴロゴロしているうちに夜もふける。

明日は八丁目にある土塀の大きな家に行ってみよう。
塀のなかは木が生い茂っていてよくわからない。
前から気になっていた家だ。ついでに川沿いを歩いてこよう。

休みが延長されたことで、明日もこんな生活が続く、「やったぁ!やったぁ!」だ。
人生に何度もない甘美な時間だろう。


勉強が遅れることなど知ったことじゃない。
「そういう時代だったのだから、不測の事態だったのだから、」と言い訳も出来る。
いや、いつも同じ教育が受けられるということ自体、不自然なことだ。

いや、知識だけなら先生から教えてもらわなくても勉強は出来る。
インターネットに繋ぐことが出来れば並の知識ならタダ。
なおかつ、広く深い。なおかつ、何度でも見る(読む)ことが出来る。
こうなってくると、人間性の魅力のない教師はいらなくなるかもしれないな?

ところが、テレビの小学生は「はやく学校へ行きたい」という。
十人に一人ぐらいなら、そんな小学生もいるのだろうと思うが、
インタビューを受けた多くの小学生が「はやく学校へ行きたい」という。

最近の良い子のみなさんは本当にそう思っているのか?
それともカメラ用なのか?良い子ぶっているのか?編集で良い子部分を切りとったのか?
オジサンのボクには違和感があった。


それとも、世の中は変わったのかな?

たとえば、今、独身家庭?が所帯持ちの数を上回っているという。
若い人はクルマや出世、恋愛、結婚にも消極的だという。
テレビよりもSNSなのかな?

めんどくさいのかな?とボクは想像している。分からなくもない。

クルマや時計やブランド服にあこがれたのは刷り込みだったのかもしれない?
「頑張るのはカッコ悪い」「インスタ映え」「御朱印集め」も刷り込みかもしれない?

東京から離れる人が増えているという。
これからは大都市は敬遠されるのだろう。




  1. 2020/06/30(火) 07:25:19|
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