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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

久しぶりのこころ


手紙をもらった。
高校の同級生、久野満(くのみつる)からだった。
あだ名は「くのまん」。「くそまん」とよんで、からかったこともあった。

『ブエノスさん、お久しぶりです。〇△高校の同級生の久野満です。
出張で名古屋に行きます。
もし、お時間があれば、お会いしたいと思っています。
ご都合が良ければ、場所とお時間をお知らせください。』
という内容だった。

名古屋市千種駅近くの「郵便貯金会館」で待ち合わせることにした。

hisashiburi11.jpg

あれから30年ほど、その日、オジサン二人は再会した。
「おう!ひさしぶり、元気そうだな・・・・」
あいさつを交わしながら、「オレより若いな、太ったな、髪はまだ大丈夫そうだな・・・」と素早く観察する。
相手もそうだろう。


こういう時に、気をつかうのは身だしなみ。

例えば、普段は高級腕時計をしているが、再会のときにはどうか?
もし、相手が貧乏な状態にあるとすると、どうだろうか?

男はプライドの生き物。
相手の手首に巻かれた高級腕時計を見て、心穏やかではないだろう。(高級自動車でも、高級衣料でも同じ)
それが気になって話に身が入らない。

逆に、みすぼらしいのも相手が気を遣うだろうなぁ、と思う。
でも「気遣いを優先して、普段の自分を見せないというのもなぁ?」とも思う。
迷うなぁ。


もうひとつ迷うことに呼び方がある。
高校時代は呼び捨てかアダ名だった。

長い時間を経ての再会。まず、あだ名は危険だろう。

では、慎重に「さん」はどうだろう?
手紙では「ブエノスさん」だったから、それに従えば「久野さん」だろう。
でも、「さん」は距離を感じるなあ。

手紙の「ブエノスさん」を見たときにも、水くささを感じた。こっぱずかしい!
「かつて、呼び捨てがあたり前だったのに、いまさら・・・」と思う。

でも、相手の現在がわからないのだからなぁ・・・?
ボクが逆の立場でも、手紙では「さん」だったろう。

それでは、「くん」はどうだろうか?「久野くん」だ。常識的だが、少し見下し感がある。
たとえば「殿」と「様」には違いを感じる。
「殿」には見下し感、「様」には尊称感がある。
社長は社員へは「様」ではなく「殿」を使うことが多いように思う。

「久野くん」と呼べば、見下し感を感じるかもしれない?


結局、ボクは苗字の呼び捨てを選んだ。
「久野にはお姉さんがいたが、どうしてる?夏休みに素麺を作ってくれたのを覚えているよ」と。
これが長い時間を忘れさせ、詰襟の「くのまん」「ブエ(あだ名)」にもどる近道だと思った。
久野も、すぐにそれを理解してくれたようで、呼び捨てで返してくれた。

いや、ボクがそう思っただけで、久野からすれば「呼び捨てかよ!」と思ったかもしれないが、

日本語は繊細だ。いくつもの言葉から選ぶ。めんどくさいが魅力的。



(注)文中、同級生、久野満(くのみつる)は仮名です。




  1. 2019/02/05(火) 07:29:44|
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2019年の年賀状


2019年 初めの投稿です。
今年も、お時間がございましたら覗いてやってください。


ino322.jpg

ボクの年賀状の絵。

こいつをWORDでハガキ原稿に貼り付ける。
ボクの住所などを入れ、プリンターで印刷をして自筆コメントを書く。
画像の隅に「元旦」のハンコを押して完成。

イラストは以前に画いたものを流用することもあるが、今回は2019年用に画いた。
スキャナーで読み取り→大きさ修正、トリミングなどをして保存→WORDの手順。


2019年には「平成」が終わるという。
子供のころ、「米屋の清蔵さんは明治生まれだよ」ときくと、「えーっ!明治なの」とボクは思った。
「米屋の清蔵さん=明治維新=日清日露戦争」がうかんだが、明治でも後半の生まれだったのだろう。
ボクは昭和生まれだから、明治は二つ前の元号。

ボクも「えーっ!昭和なの」と言われる時がくる。

順繰り、順繰り・・・


  1. 2019/01/15(火) 07:27:54|
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ゴーンジラの逆襲

「ゴーンジラの逆襲・日産の変」
連日、報道されているカルロス・ゴーン氏騒動。

2018年11月19日にゴーン氏は東京地検特捜部に逮捕された。
容疑は有価証券報告書虚偽記載罪(長いなぁ)だ。
報酬を過少申告(約50億円)したという。
「インチキしてポッポやりやがって」と東京地検は思ったのだ。

ゴーン氏は倒産寸前の日産自動車を大ナタをふるって回復させた。
柔(やわ)なやさしい日本人では出来ない、非情な大ナタを振るったと言われている。
(なにごとも光には影がつきもの。)

gyakusyuu15.jpg
<♪ダダダンダダダンダダダダダダン・・・ダン・・・ダン・ダン・・・・ダン・・・(ゴジラのテーマ)>


詳しいことは知らないが、ゴーン氏のようなタイプは敵も多いだろうなと思う。
刺客がいたのだろう(ボクの想像)。
しかし、こういうタイプじゃないと改革はムズカシイ。
皆の意見を聞いて、ほどよいところを探すようでは改革はムズカシイ。敵は少ないだろうが、


ゴーン氏が逮捕、留置されたとき、
「大物を逮捕したということは、東京地検はよほどの自身があるのだろう。
もし立件することが出来なければ世界に恥をさらすことになる。これでカルロス・ゴーンも終わったな」
と反ゴーン派はほくそ笑んだのではないか。
今まで反ゴーン派を隠し続けていた連中も「実は・・・」などと仮面を外したかもしれない。

ところが、12月20日、東京地検の拘留延期要請を地裁が却下した。
金を払えば保釈されることになった。

「ええ!ウソーっ!どうしよう?恐ろしい!」と反ゴーン派はうろたえた(ボクの想像)。
日産の会長職を解任されても、ルノーは解任を見送っている。
まだ、権力を握っているのだ。


それにしても、ゴーン氏はすごい顔だ。にらまれたら後ずさりしてしまう。
目と目を合わせたくない。若者の常套句「ヤッベ、」だ。
顔で勝負をしたら反ゴーン派は勝てない。

そんなことを思っていたら、12月21日、東京地検が別件でゴーン氏を再度逮捕した(特別背任)。
保釈されれば取り調べは絶望的になる。唐突な再逮捕だった。

また、東京地検の目指すところは別にあるのではないか?という説もある。

野次馬のボクは「おおーっ!おもしろ!」、くだらない映画やドラマなんかよりうんと面白い(不謹慎)。
どこまで行くのだろうか?



『ブエノス小僧のイラストブログ』今年最後の投稿です。
お時間がございましたら、また覗いてやってください。


良いお年を、皆様にとって幸せな新年でありますように・・・


  1. 2018/12/25(火) 08:12:40|
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ウェーク島戦記5・上陸作戦

前回、「ウェーク島戦記4・二航戦」からの続き→

ウェーク島の米守備隊は残った グラマンF4F戦闘機や沿岸砲で日本の攻略部隊を撃退して退却させた(第一次)。
日本海軍は大きく増強された攻略部隊(第二次)を編成して、再びウェーク島にせまった。

二航戦の空母、「蒼龍」「飛龍」の艦載機は二度にわたってウェーク島を空襲。
迎撃した2機のF4F戦闘機は97式艦攻2機を撃墜して健闘するが、護衛の零戦に撃ち落とされる。
これでウェーク島の戦闘機はいなくなった。

1941年12月22日、日本の攻略部隊は潜水艦に誘導されてウェーク島南岸に接近、
21時(午後9時である)、いよいよ上陸作戦がはじまる。
同時に第18戦隊はウェーク島の東岸に移動して陽動作戦を実施した(上陸目標地点をごまかすため)。

前回と同じく、この日も海は荒れて大発を降ろすのに手間取る。
ついに哨戒艇2隻(第32号、第33号)を海岸に擱座(浅瀬などに乗り上げる)させ陸戦隊を上陸させた。
続いて各艦からも陸戦隊(海軍所属の陸上戦闘部隊)が大発でウェーク島南岸とウィルクス島に上陸した。
*哨戒艇は旧式駆逐艦


舞鶴特陸(特別陸戦隊)一個中隊の本隊は砲台と機銃陣地の真正面に上陸、猛烈な反撃を受けて中隊長が戦死。
第6根拠地隊一個中隊はウィルクス島に上陸、ここでも猛烈な反撃を受け、小隊が全滅。
夜の激しい銃撃戦、舞鶴第二特陸一個中隊も負傷者が続出する。23日になって戦線は膠着した。

一方。飛行機を失った第211航空隊のパットナム少佐以下の生き残ったパイロットと整備兵20名は、第一海兵大隊のカニンガム中佐の指揮下に入り小銃とピストルで日本の陸戦隊を迎えうった。
夜明けに日本兵の突撃してくるのを、駆逐艦「如月」を撃沈したエルロッド大尉は自動小銃を撃ちまくり、日本兵をなぎ倒す。
退く日本兵を追おうとしたとき、死骸の間に隠れていた日本兵に狙撃されて戦死した。
こうした戦闘が10時間にわたって繰り広げられたのだ。

両軍入り乱れての戦となったため、洋上の日本艦隊は艦砲射撃もできない。
そんななか、舞鶴特陸一個中隊は決死隊を編成、反撃をかわして進撃中に飛行場近くで海兵隊指揮官デブルー少佐を、さらにウェーク島守備隊指揮官カニンガム中佐を捕虜とした。
大殊勲だ。

鹵獲したジープにカニンガム中佐を乗せ、白旗を掲げて戦線を回らせ降伏を呼びかけさせた。
結果、米兵が続々と降伏した。

残敵掃討をした後、12月23日10時40分、日本軍はウェーク島を占領、上陸作戦は成功した。
そして、捕虜になったアメリカ兵は中国大陸の捕虜収容所に送られた。


太平洋戦争の初戦で日本軍の快進撃に世界が驚いた。
戦争をしかけられる側の準備不足、日本への過小評価、幸運、などがあった。
各地で優勢な日本軍に米英蘭軍が圧倒されるなかで、「ウェーク島の戦い」は激戦だった。
米パイロットと守備隊の奮戦はアメリカ国民を感動させたのだった。



ところで、アメリカ軍は「ウェーク島救援」を、どうしていたのだろうか?
ウェーク島の戦況は逐一報告されていたはずだ。

実は大型空母サラトガを中心とした第14任務部隊(フランク・J・フレッチャー中将指揮)を編成、ウェーク島救援を目指していた。
それを空母エンタープライズ基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)が哨戒と支援。
さらに空母レキシントン基幹の第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)はマキン島を牽制攻撃した。


アメリカ太平洋艦隊は日本海軍の真珠湾攻撃で、当時の決戦兵器である戦艦群が大きな損害を受け、
図らずも損害がなかった空母と巡洋艦部隊で日本海軍に対抗しようとしたのだ。
それは、アメリカにとって幸運だった。
後にハッキリしてくることだが、海の戦いの主役は「戦艦から空母(その搭載機)と潜水艦」へと替わっていたのだから。
アメリカは空母の有用性に目覚め、新空母建造に着手していく。

当時の列強の空母に対する評価は未知数、大鑑巨砲が主流だった。
第二次世界大戦で空母を運用した(出来た)のは、日米英の三国のみだ。
複数の空母を中心とする機動部隊(タスクフォース)を本格的に編成、投入したのは日本だった。


脱線した。
当時、太平洋艦隊司令長官代理ウィリアム・パイ中将だった。
パイ中将はウェーク島の取り扱について海軍作戦部長ハロルド・スターク大将と合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将に伺いを立てるが、「ウェーク島守備隊の士気を考慮したが、兵力の増強より撤退すべきだ」と指示された。
これでウェーク島救援の動きは一気に終息に向かう。

ウェーク島救援の本隊である空母サラトガの第14任務部隊は、寄せ集め部隊で練度が低く(慌てて編成されたのだろう?)、
12月23日の時点でウェーク島の北東約683キロ地点に達していたが、日本軍の占領の報に引き返した。
もし、第14任務部隊がそのままウェーク島に接近を続ければ、二航戦の空母、「飛龍」と「蒼龍」との間で、
史上初の「空母対空母」の戦いが起きたかもしれない。(史上初は5か月後の「珊瑚海海戦」)


jyouriku32.jpg

<このころのアメリカ兵はイギリス兵のようなヘルメットだったと記憶している(たしか)。
装備は旧式だったといわれている。戦争を仕掛けられる側の準備不足だったのだろう。

捕虜になった米将兵の思いはどうだったのだろうか?
おそらく、「アメリカは世界の一等国、我々はそのアメリカ国民」と思っていただろう。
それが、実態がよくわからない背の低い下等国民に負けて捕虜となった。

誤解を覚悟で書けば、一等国の強いプライドは他国を見下す傾向を生む。
とくに白色アメリカ人は、その傾向が強いのではないだろうか?(白人コンプレックスとは言いきれまい)
プライドの高い米捕虜の憂鬱は、その分、深かったろう。>



戦前には「アメリカはいろいろな民族の集合体だから、結束力が弱い。
そこえいくと我が日本は単一民族(実際はちがうが)だから、団結して事に当たることが出来る。
根性がちがう。アメリカ恐るるに足らず・・・」などという風潮が日本にはあった。

ところがどうだろう、はるかに優勢な日本軍を相手に痛撃を加え、
勇戦敢闘のすえの降伏、捕虜となった米ウェーク島守備隊および航空隊に「結束力が弱い」とか、
「根性では日本人は負けない」など的外れだった。

総合的にみて、当時でもアメリカは世界最強の国だった。
日本が一部でアメリカより優れたところがあったとしても、国家の総力戦になれば、大きな開きがあった。
日本にとって不幸にも「アメリカとの戦い」は総力戦になっていったのだ。


日本軍は、ここぞというところで「バンザイ突撃」をやった。ウェーク島でもやっただろう。
最初は敵も「度肝を抜かれた」だろうが、それが常套手段だということがわかると、火力を集中して殲滅した。

日本軍は「気合いは機関銃より勝る」と信じていたのだろうか?
優勢な火力の敵に着剣突撃をすれば、壊滅的打撃をうけることは、
450年前の織田信長や豊臣秀吉でも知っていたことだろう。
いや、子供でもわかる無謀な行為だ。

ボクは日本は優れたところが多くあると思っている。日本人で良かった、とも思っているが、
旧日本軍の「非合理」はどうしてこんなことになったのだろうか?イビツな軍隊、
恐るべき軍隊だ。それは敵にではなく、自軍の兵にとって。
装備や兵器開発、将校の給料、などへの予算配分はどうなっていたのだろうか?興味がある。
(日本はアメリカと比べて戦向きの民ではない、とボクは思う)


脱線した。
戦前日本のアメリカ評も的外れだが、一方、

「真珠湾を攻撃したパイロットはドイツ人だ。日本人は遺伝的に視力に問題がありパイロットには向いていない。」
という見解がアメリカにあった。
ハリウッド映画やコミック雑誌に描かれる日本人の多くが、「黄色い皮膚、背が低く貧弱な体格、妙にニヤニヤ、出っ歯で眼鏡」だった。
「日本人に緻密な組織的戦闘など出来るはずがない」と多くのアメリカ人が思っていたとしても不思議ではない。
日本人の情報量が少ないなか、映像の影響力は恐ろしい。
いかに相手国を理解していなかったことがわかる。

その後、アメリカは人材と予算を投入、日本研究をすすめ(敵を知る)、日本は敵性言語の使用を制限した。
たとえば、野球の「ストライク→よし」「ボール→だめ」など・・・
情けないほどの日本の対応ぶりだ。

戦前の世界は日本の実力を把握していなかった。評価は低かったのだ。
(初戦の日本軍の快進撃の理由のひとつか?)
一応、近代戦に通用する兵器を自国で作ることが出来、それを編成、運用することが出来た国は多くはない。
最強のアメリカと戦ったことで、日本の弱点がハッキリと露呈したが、強国だったことはまちがいないだろう。

アメリカ海軍史上、戦って最強だったのは日本海軍だ。
戦後、海上自衛隊の発足にはアメリカ海軍の後押しがあったという。
防衛の最前線を日本にになわせる戦略構想が、当然あっただろうが、
「アメリカ海軍の日本海軍への敬意」があったという説がある(たしか)。


最後に、その後のウェーク島を簡単に記す。

1943年中期以降、日本の劣勢がハッキリしてくると、
ウェーク島への補給はままならず、日本軍守備隊は疲弊していった。
そして、1945年8月15日、日本は降伏。
守備部隊は翌16日夜に終戦を確認、9月4日に残存していたウェーク島守備部隊はアメリカ海兵隊に降伏した。

1944年4月から5月の時点で、陸海軍部隊合わせて約4,000名の守備部隊は、終戦までに栄養失調による戦病死者1,340名(陸軍834名、海軍506名)、
戦死者291名(陸軍87名、海軍204名)を出した。
1945年10月5日からの二度の幅員で11月17日までに陸軍1,093名、海軍897名が帰国を果たしたという。



今回で「ウェーク島戦記」を終わる。
疲れた。ありがとうございました。




柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。


  1. 2018/12/04(火) 08:01:47|
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ウェーク島戦記4・二航戦

前回の「ウェーク島戦記3・反撃」からの続き→


日本海軍は96式中攻による三度の爆撃後、攻略部隊の巡洋艦と駆逐艦からの艦砲射撃をウェーク島にくわえた。

ところが、爆撃でおおむね破壊したと思っていたウェーク島砲台からの砲撃と、残っていた4機のF4F戦闘機の反撃をうけ、
駆逐艦2隻が撃沈され、損害が続出した。
駆逐艦2隻だけでも死者が約300名だ!

1941年12月11日(真珠湾攻撃から3日後)、攻略部隊は上陸作戦を中止、
クエゼリン環礁へ退却、日本側の惨敗だった。

爆撃を担当した第二十四戦隊からの報告
『敵戦闘機ハ1~2機程度残存ス。陸上防空砲火ハ熾烈ナルモ、ピーコック岬、ウィルクス砲台ハ概ネ破壊セリ』がむなしい。

第4艦隊(ウェーク島攻略作戦の上部組織)から爆撃担当の第二十四戦隊にお叱りがあったのかもしれない?
「どうなっているのだ?」と、
その日の午後に96中攻17機が爆撃にやってきた。

残っていたF4F戦闘機がそれを迎撃、3機を撃墜(日本側の記録は2機)。
さらに12月14日、96中攻による大規模な爆撃があった。
このとき、F4F戦闘機は飛たつことが遅れ1機が破壊される。
これで、F4F戦闘機は残り1機となった。


一方、クエゼリンに退却した日本の攻略部隊はウエーキ島攻略作戦の研究会をもった。
内容は「反省対策会」だった。

その内容、

1、第24航空戦隊の中攻隊の爆撃効果に期待しすぎた。
2、駆逐艦「如月」沈没の原因が魚雷などへの被弾と考えられたので、各艦に魚雷と爆雷に断片除けを施した
3、ウエーキ島に残った F4F 戦闘機に翻弄されたことから、より強力な味方航空兵力が望まれた。
(味方戦闘機による上空援護と敵戦闘機の撃破)
4、上陸準備に手間取ったため、大発をすばやく降ろせるようにする。
5、通信技術の向上。

ウェーク島攻略部隊の指揮官、梶岡少将は陸戦隊の揚陸について、
「最悪の場合は哨戒艇を擱坐させてでも揚陸させる」という腹案を持つようになった、という。
梶岡少将は上陸作戦の失敗の責任を感じていたのだろう。

問題はウェーク島の米航空戦力だった。これをなんとかしなくてはならない。
(この時点では、残り1機)
クエゼリンの基地からはウェーク島は遠く、戦闘機は届かない。
また南洋部隊(第4艦隊)には空母が配属されていない。

第四艦隊はウェーク島の残存機撃滅を連合艦隊司令部に依頼、
連合艦隊はこれを受け、真珠湾攻撃からの帰途にある第一航空艦隊(南雲艦隊)に対し、ウェーク島攻撃を要請した。


結局、第二次攻略部隊は以下になった。

ウェーク島攻略部隊(指揮官・梶岡定道少将)
攻略部隊本隊:第6水雷戦隊(軽巡洋艦〈夕張〉、第30駆逐隊〈睦月、弥生、望月〉、第29駆逐隊〈追風、朝凪、夕凪〉)
攻略部隊援護隊:第18戦隊(軽巡洋艦天龍、龍田)
哨戒艇:第32号哨戒艇、第33号哨戒艇

海軍陸戦隊:舞鶴特陸一個中隊(350名)、第6根拠地隊一個中隊(310名)、舞鶴第二特陸一個中隊(310名)
舞鶴第二特陸一個中隊(310名)が追加された。

設営隊:特設巡洋艦金剛丸、基地設営班、特設監視艇3隻
付属隊:特設巡洋艦金龍丸、特設敷設艦天洋丸(東洋汽船、6,843トン)
水上偵察機隊:特設水上機母艦聖川丸(川崎汽船、6,862トン)、水上偵察機4機

第24航空戦隊(爆撃を担当する中攻部隊)

潜水部隊:第26潜水隊

増援部隊
指揮官:第八戦隊司令官阿部弘毅少将、第二航空戦隊(司令官山口多聞少将:空母蒼龍、飛龍)、
第八戦隊(重巡利根、筑摩)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)
指揮官:第六戦隊司令官五藤存知少将、第六戦隊(第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)
以上。


第一航空艦隊(略して一航艦、通称南雲艦隊、真珠湾攻撃部隊)からは二航戦(第二航空戦隊)が派遣されることになった。
空母蒼龍、飛龍の搭載機は合計約100機。

日本海軍は数字が若い部隊が機材、練度ともに戦闘能力が高いとされた。
真珠湾攻撃部隊には当然、優秀な母艦搭乗員が配属されたのだが、
そのなかでも二航戦と一航戦(空母赤城と加賀)は練度が高かった。

護衛として第八戦隊(重巡利根、筑摩)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)。
利根、筑摩は最新鋭の重巡(20cm砲、1万トン級)である。

さらに、グアム攻略戦を終えた第六戦隊の4隻の重巡、青葉、加古、衣笠、古鷹(4隻ともすこし古い)も加えられた。

第二次攻略部隊は第一次と比べて数段、強化された(後づめにくる米艦隊を想定していたのかも?)。

日米開戦当初、幸運もあって日本側の主な作戦は世界が驚くほどの強さ(成功)だった。
そのなかで、このウエーキ島攻略だけが失敗していたのだ。


nikousen31.jpg
<二航戦の空母、手前が飛龍、後続が蒼龍。
同型艦として建造されたが、後に造くられた飛龍は蒼龍よりすこし大きい。
それまで試行錯誤を繰り返してきた日本の航空母艦は飛龍で目途がついた。

ミッドウェー海戦で南雲艦隊の空母4隻のうち3隻が壊滅したあと、
単艦の搭載機で反撃、米空母ヨークタウンを撃破して撃沈に導いたことは有名。>



1941年12月21日朝、ウェーク島西方350海里の地点から二航戦の空母2隻(蒼龍、飛龍)より
零戦18機、99式艦上爆撃機29機、誘導艦上攻撃機2機が発進、ウエーキ島を爆撃した。
これに呼応して、クエゼリンの中攻27機もウェーク島を空襲。

この日、飛行可能な F4F 戦闘機1機は迎撃のため離陸するも、故障のため引き返し、
爆撃の合間をぬって帰還したため、日本機と戦闘することはなかった。これは米側の幸運。

翌22日、ウェーク島に対する2回目の空襲のため空母蒼龍から零戦3機、97式艦上攻撃機16機、
空母飛龍から零戦3機、97式艦上攻撃機17機、が発進、ウェーク島をめざした。

飛龍零戦隊3機を率いた岡嶋清熊(せいゆう)大尉は「前日同様、飛龍から9機、蒼龍から9機、計18機の零戦の護衛をつけるべきだ」と意見具申するも却下されていた。
「敵戦闘機など零戦6機で十分だ」ということだった。

ウェーク島に近づくと、零戦隊は艦攻隊の先に出て、敵戦闘機にそなえた。
敵戦闘機が現れないので、藤田怡与蔵(いよぞう)中尉率いる蒼龍零戦隊3機は地上施設への機銃掃射にうつった。
藤田は6か月後のミッドウェー海戦で日本艦隊の上空直掩中、殺到したアメリカの雷爆撃機を1日に10機撃墜の離れ業を演じたパイロット。
(1日の撃墜数では世界8位)

実はこの時、上空(だろう)にF4F 戦闘機2機がしのびよっていた。
あのキニー大尉が徹夜で残っていた1機の故障を直し、さらに破壊された部品をよせ集めてF4Fをもう1機、飛行可能にしていたのだ。
アッパレ!

f4fsyuugeki12.jpg
<97式艦上攻撃機の編隊にダイブする2機のグラマン F4F ワイルドキャット戦闘機。
高度差を利用した一撃離脱だったのではないだろうか?
防弾装備のない97式艦攻は瞬く間に撃墜された。

そのうちの1機には爆撃照準の名手といわれた金井一飛曹が搭乗していた。
金井一飛曹の戦死は日本側にショックだった。>



97式艦攻2機を撃ち落としたのはフルーラー大尉のF4Fだ。
襲撃を防げなかった飛龍零戦隊3機が、岡嶋大尉を先頭に栄12型(950馬力)エンジンをフルスロットルにして単縦陣でF4Fに追いすがってきた。
距離約50m、左上方旋回で逃げようとするF4Fの操縦席と風防に照準、銃撃!
F4Fはガクッと機首を下げると落ちていった、という。

もう1機のF4Fも空中戦のすえ叩き落とされた。


zerogagekitui412.jpg
<グラマン F4F 戦闘機を撃墜する空母飛龍の零戦二一型
全体が灰白色、カウリングを青みのある黒、日の丸の赤、
零戦によく似合う。

零戦は微妙な線をもっている(作りにくそう)、注意して画かないと零戦にならない。
形を見るだけでも高性能がわかる、美しい!>



零式艦上戦闘機二一型(れいしき、にいちがた、が正しい)の諸元

低翼単葉、単発単座、全金属製、引き込み脚 
      
機体略号:A6M2
翼幅:12.0m
全長:9.05m <F4Fは8.8m>
全高:3.5m
エンジン:中島栄12型 950馬力 <F4Fは1200馬力>
最高速度:533km/H (高度4200m) <F4Fは512km/h>
上昇力(上昇時間):6000mまで7分28秒
降下制限速度:629.7km/H
自重(正規全備重量):1680kg (2410kg)<F4Fは3359kg>
航続距離(増槽あり):2222km (3350km)
武装:翼内20mm 機銃2挺 (携行弾数各60発)、機首7.7mm 機銃2挺 (携行弾数各700発)
爆装:30kg又は60kg (爆弾2発)

*< >内は戦争前半のライバル、グラマンF4Fの数値。

零戦は当時の1000馬力級戦闘機のなかではエンジンの馬力が小さい(終始日本はエンジンの馬力競争で後れをとった)。
それでもF4Fと比べると、速度、上昇力、旋回性能、航続距離、射撃時の安定性、において勝っていた。
とくに旋回性能、航続距離は常識を超えていた。
(さらに、この時はパイロットの練度も上だ)

自重はF4Fの6割程度に過ぎない。いかに軽量であったかがわかる。
比較的ドッグファイトを得意としたF4Fでこの値だ。他の米戦闘機は推して知るべしだった。

戦闘機パイロットは敵機を追尾するクセがある。
旋回する零戦を追尾すると、瞬く間に後ろに回り込まれ、しこたま機銃弾を頂戴することになるのだ。


F4Fは急降下スピードにおいて零戦より勝っている。
極度の軽量化をはかった零戦は急降下スピードに制限が加えられていた(華奢)。
零戦は通信機器が劣悪、翼の20mm機関砲の携行弾数が少ない(たったの60発)、などの弱点があった。

急降下速度制限と防弾装備がないのと引き換えに得た脅威の性能と言えなくもない。

もうひとつの弱点は防弾装備がなかったことだが、この時点ではF4Fも防弾が強化される前だ。

しかし、零戦の弱点はまだ知られていなかったのだ。


日本海軍は列強海軍のなかでは航空に熱心だったが、主流は砲雷撃派だった(他列強も同じ)。
戦艦などの劣勢を補うため航空を重視したともいえる。

当然ながら主流ではない航空への予算は少ない。
そのため少数精鋭パイロットと優秀な飛行機を求めた。
開戦当初の日本海軍航空の快進撃は「練達のパイロット+優秀な飛行機」の二本柱に支えられていたのだ。

練達のパイロットを養成するためには、時間と金、経験(場数)が必要だ。
ところが、日本には「潔さの美学」があった。それを支持する強い同調圧力があった(国民も)。
「被弾して帰投不能になると自爆」「捕虜になるくらいなら死」は当たり前。

さらに防弾装備はまったく考慮されなかった(研究もすすんでいなかった)。
不時着や遭難したパイロットや兵への捜索の不熱心(潔さの美学と無関係ではあるまい)。
アメリカでは危険な捜索救出も強行された。
一言でいえば日本には「人名軽視」の風潮があったのだ。

二本柱である「貴重な練達パイロット」を消耗する大きな矛盾が日本にはあった。
「なにがなんでも生き抜いて、再び敵を攻撃する」という戦の合理がなかった。
そういう意味でも、アメリカは戦争向きの国家といえるのかもしれない。

士官や兵には「死をも恐れぬ勇敢さと死を恐れる慎重さ」の両方が必要なのだろう。

「自分の意思とは別に(同調圧力)死を選ばなきゃいけない世」もツライが、
「自分の意思とは別に生かされ続けられてしまう世」もツライ(ボクはそう思う)。


脱線した。

日本軍に大きな代償を払わさせたウェーク島の海兵第211航空隊のF4F戦闘機は壊滅した。
12月二十三日未明、前回失敗の雪辱を期してウェーク島上陸作戦がはじまる。


→次回「ウエーキ島戦記5・上陸作戦と捕虜」に続く



柳田邦男著『零戦燃ゆ・1』文春文庫¥500(税込み)を参考にしました。

  1. 2018/11/13(火) 07:38:17|
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