ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

そのとき七手組はなにをしていたのか?


慶長三年八月十日(1598年9月18日)、豊臣秀吉が亡くなった。
(師匠、信長の死から16年後だった)
豊臣氏は次第に衰えていく。
逆に豊臣政権五大老のひとり(大物)徳川家康の存在が大きくなっていく。

2年後、慶長5年9月15日(1600年10月21日)、石田三成の徳川家康への挑戦が失敗する。
「関ケ原の戦」だ。その日のうちに勝敗は決した。

秀吉の死から16年後、
家康の揺さぶりと挑発にのせられて、「豊臣秀頼とそのとりまき」は戦に引きずりこまれる。

慶長十九年(1614)十一月、大阪冬の陣。
衰えた豊臣氏だが、20万の東軍に対して、寄せ集めとはいえ12~13万の兵を集めたという。
「天下分け目」と言われた「関ケ原の戦」での兵力よりはるかに多い。
(あなどりがたし!兵力については異説あり)。

東軍は大阪城を包囲、攻めかけるも、大阪城攻略は簡単にはいかない。
家康は和睦を選ぶ。
東軍の大筒の砲撃に恐れをなした淀殿と城方は和睦を受け入れた、と言われている。

しかし、和睦後、大坂方の抗議を無視してサッサと外堀を埋めてしまう
(家康がやりそうなことだわ、役者が一枚も二枚も上だわ)。
大阪城の防御力は一気に低下してしまった(どうするの?)。

そして、慶長二十年(1615)四月、夏の陣。
籠城戦は無理となった大阪方は城から出て野戦を挑む。

ところが、桁違いの兵力の差に大阪方諸隊は消耗、
五月七日夕刻、大阪城二の丸から火のてが上がり、大阪城は落城。
豊臣氏は滅んだ。


勝者には美酒が用意され、敗者にはドラマがあった。
滅びは美しい。

映画や小説では、ほとんどが大阪方に焦点を合わせたものだ。
勝者の東軍にではない。(ボクも豊臣びいき)

敗者には強い陰影がある。
「他人の不幸は蜜の味」、それを観客は見たいのだ。


それにしても、
「大阪冬、夏の陣」は真田信繁(幸村)に用意されたような戦だった。

「冬の陣」では大阪城の弱点に真田丸を構築、寄せ手の前田利常隊、松平忠直隊を痛撃する。
(秀吉の朋友、利家亡き後の前田家は、家康の顔色をうかがうようになっていた)
「夏の陣」での真田隊は数倍の敵と交戦、家康を「あわや!」とういところまで追いつめる。

秀吉の死から豊臣の滅亡までを簡単になぞった。
そして、今回の本題、「そのとき、七手組(ななてぐみ)はなにをしていたのか?」

七手組(ななてぐみ)は、豊臣秀吉が創設した旗本(親衛隊)。
秀吉が存命中に約1万の精鋭を7つの部隊にわけ、豊臣氏の身辺警護から朝廷への儀礼などに用いた。
組頭は1万石程度の所領を持っていた。江戸時代なら小さな大名だ。


ボクは「不沈戦艦、大和」というキャッチコピーを子供のころに見た。
大和が沈んだのは知っていた。
「不沈戦艦なのに沈んだ。それ、どういうこと?」
ボクが歴史に興味をもったキッカケだった。

七手組(ななてぐみ)にも似たような興味があった。
あの秀吉の親衛隊なんだから、

nanategumi16.jpg
<秀吉時代の大阪城天守。
秀吉天守には、いくつかの説があるようだ。イラストは佐藤大規氏の復元図に従った。
漆の黒、装飾の金、が秀吉好みの感じがする。

焼失した天守を徳川が再建するが、秀吉天守よりひと回り大きいといわれる。
色も秀吉天守が黒なら、徳川天守は白。
豊臣は滅び、徳川の時代になったことを「どうだ!」と知らしめる必要があったのだろう。

現在の大阪城の天守は、昭和6年(1931年)に市民からの寄付によって、大阪市が建てたもの。
鉄筋コンクリート造り(ガッカリ)。
戦争によって一部焼失したが修復された。

ボクは大阪城に行ったことがある。
他の城もいくつか見たことがあるが、
水をたたえた濠、石垣の高さの雄大さに圧倒された。堂々たる城だ。

現在の天守は秀吉時代を再現した、ということだが、
ちょっと違うような気がしている、ボクは。



NHK大河ドラマ「真田丸」もそうだが、
真田信繁(幸村)、後藤又兵衛、木村重成・・・らは大スターだから、ゴマンと紹介されている。
紹介されることがない七手組を調べてみた。
組頭たちの人生だ。以下。


速水 守久〈はやみ もりひさ、生年不詳 ~ 慶長20年5月8日(1615年6月4日)〉
七手組筆頭の組頭。

近江国浅井郡の土豪(速水城)、浅井氏に仕えた。
浅井氏滅亡後、お市の方の子「お茶々」らの家臣として羽柴秀吉に仕えた。
近習組頭、黄母衣衆となる。

小牧・長久手の戦い、小田原征伐などを歴戦、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務める。
平時には秀吉の身辺警護にも当たる。奉行として検地などにも活躍、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増。

秀吉死後も秀頼に仕え、七手組組頭兼検地(越前)奉行として活躍。
七手組の筆頭となる。

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こる。
大阪方の片桐且元は和平交渉に奔走するが、逆に内通を疑われるようになった。

且元が内通したかどうかは、本当はわからない。
普通、徳川方にほんろうされたと思われている。

結局、且元は大坂城を退去させられる。
守久は且元の代わりに和平調停役を買って出る(たのもしいぞ!むずかしい調停だぞ)。
また、且元が大坂城を後にする時、その護衛をしている。

大坂冬の陣、「鴫野の戦い」で上杉景勝の軍勢相手に奮戦。
また、夏の陣では「天王寺・岡山の戦い(1615年5月7日)」で真田信繁(幸村)らと藤堂高虎隊を蹴散らす。
真田隊の殿を勤めている(カッケぇーっ!)。
しかし、圧倒的に優勢な東軍に大阪城に退却(しょうがねぇ!)。

守久は、徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するも聞き入れられなかった。

「万が一の場合は」と打合せられていた山里曲輪の朱三矢倉へ、
秀頼・茶々・千姫(家康の孫娘、豊臣秀頼室)・大野治長ら側近30名程を誘導。

千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届ける(大活躍、小説になるぞ)。
徳川陣屋にて秀忠より褒美として馬具一式、槍、金を下賜されている(敵からだぞ!)。
千姫を無事、送り届けてくれたことへのお礼だろう。

このとき、守久の嫡男守治が自ら馬に乗り敵のおとりとなっている隙に、千姫を徳川陣屋に送り届けるが、
守治は戦死した。

その後、自害する秀頼の介錯(異説あり)を務め、殉死した(かっこいいーっ!)。

速水家は現代まで子孫が続いているという。

(さすが、七手組筆頭。速水守久に男気を感じる。)



野々村 幸成〈ののむら ゆきなり・生年不詳~慶長二十年(1615)五月〉

豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐では、後北条攻めに功を挙げる。
その後黄母衣衆となり、3,000石、与力50騎を賜る。
秀吉死後もその子・秀頼に仕え、七手組の1人となった。

大坂冬の陣では、大坂城惣構森村口を守備。
翌年の夏の陣では、天王寺・岡山の戦いで遊軍として兵1,200を率い奮闘するも、多勢に無勢、退却した。

大坂落城の際には本丸が猛火に包まれて入れず、
手前の二の丸から本丸への石垣の上で自害して果てた(映画みたい)。
子・幸次は父に先立ち慶長17年(1612年)に病没している。



青木 一重〈あおき かずしげ・天文20年(1551年)~寛永5年(1628年)〉

天文20年(1551年)、美濃の生まれ。
ということは、「大阪夏の陣」のとき64歳ということになる(高齢だ)。

青木氏は美濃の豪族、土岐氏、斎藤氏に仕えていた。
どういう経緯か分からないが、一重は父重直の下を離れて、はじめ今川氏真に仕えた。
「新坂(にいさか)の戦い」で、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を賜る。

永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際、武田・徳川軍との交戦で負傷、遠江国掛川に蟄居した。
元亀元年(1570年)、徳川家康に仕えることになった。
6月の「姉川の戦い」では、朝倉家の勇士真柄隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて、
名を轟かせている(武闘派だね)。

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援を命じられ、
高天神城の守備にあたっていたが、この戦いでは弟重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。

天正元年(1573年)、徳川氏の元を出奔し、織田信長配下の丹羽長秀に仕えていた父、重直を頼る。
丹羽家の家臣として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加。

天正13年(1585年)に丹羽長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜される。
同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主となる。

天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。
天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下民部少輔に叙任され、七手組の組頭の1人とされた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後も大坂城に出仕。

慶長18年末、父が亡くなり遺領(約2,000石)を継ぎ、併せて1万2,000石となる。

慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」では城の一角を守備。
12月、和議交渉が始まって、秀頼からの礼謝使節として駿府の家康のもとへ派遣された。

京都で返事をするというので随行するが、同地で京都所司代板倉勝重に、
「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟可直は殺す」と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。
このため、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加しなかった。

その後、家康に再び仕えることになる。
減封はなく、弟可直に2,000石を分与して1万石とするとされた。
また、幕府への配慮からか「夏の陣」で一重の代理で指揮を執っていた養子の正重を病気を理由に廃嫡し、
代わりに弟の可直の子である重兼を迎え、養嗣子とした。

寛永5年(1628年)、死去。享年78

(これだけ、詳しく履歴が残っているということは資料があるのだろう。)



伊東 長実〈いとう ながざね・永禄3年(1560年)~寛永6年(1629年)2月17日〉

永禄3年(1560年)、尾張国岩倉に生まれる。
といことは「大阪夏の陣」のときは55歳。
日向国飫肥藩の伊東氏と同じ祖先だという。

天正元年(1573年)の「小谷攻め」から織田氏に仕え、羽柴秀吉配下につけられ、大母衣衆に抜擢される。
別所氏攻めで功績を残して織田信長より脇差を与えられたとの記録がある。

その後も秀吉配下として各地を転戦し、黄母衣衆24人の一人に列せられた。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、山中城攻めのとき一番乗りを果たす。
翌、天正19年(1591年)に備中川辺に1万300石を与えられ大名となった。
文禄・慶長の役では名護屋に駐屯。

慶長5年(1600年)、会津征伐に向かうため、下野小山にいた徳川家康にいち早く三成の挙兵を知らせる。

大坂の陣では豊臣方として入城し、大坂七手組頭の一人として家康に敵対するが、
戦後、青木一重と共に大名として存続することを許された。
殆どの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中、異例だ。
スパイ的な活動を行っていたのではないかと考えられている。

(豊臣はもうアカン! 見限っていたのだろう)

晩年に剃髪し、宗徳と号した。寛永6年(1629年)2月17日に死去。
享年70。家督は次男・長昌が継いだ。



堀田 盛高〈ほった もりたか・生年不詳~慶長二十年五月(1615)五月〉

尾張津島出身と推測されている。
諱(いみな)は勝嘉・正高・盛重とも。

豊臣家に仕えて小田原征伐や朝鮮出兵に従軍して馬廻の組頭を務め、1万石を領す。
関ヶ原の戦いでは石田三成の挙兵を徳川家康に報告しつつ、西軍の伏見城攻めに参加。
(どっちつかず、揺れ動いたわけだ。)

慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の後、大野治長らから挙兵の合議に招かれるが、渋々合議に参加。
それを速水守久が説得。

冬の陣では二ノ丸升・惣構天満橋を守備。
夏の陣では天王寺・岡山の戦いで活躍。

落城の際には本丸と二ノ丸の間の石垣上で自害したとも、
前田利常に属していた従兄弟の堀田与右衛門に討たせたともいわれている。



中島 氏種〈なかしま うじたね、生年不詳 - 慶長20年5月7日(1615年6月3日)〉

始祖は、嵯峨天皇第十二子河原院の末裔の嵯峨源氏に属する(やんごとない!)。
室町時代、尾張国中島郡中島村(現愛知県一宮市)を領し、「尾州中島城主本居山城守源氏孝」を名乗る。

戦国中期以降、斯波氏や織田氏などの新興勢力におされて衰退、豊臣秀吉の家臣となった。
氏種は、秀吉の勢力拡大に従って各地を転戦、秀吉の死後も豊臣家に仕えた。
慶長5年、「関ヶ原の戦い」においては石田三成の陣に属して戦うが敗れる。

慶長19年(1615年)「大坂夏の陣』では遊軍として兵2,000を率い奮戦するも落城を待たず自刃した。

子は河内国茨田郡岡新町村(現大阪府枚方市)に帰農、
江戸期には代々中島九右衛門を名乗り近隣屈指の豪農として存続した。
現在、中島家の系譜をひく一族が枚方市新町などに三家あるという。

「大坂夏の陣」で敗れた後、一部は筑後国柳河藩の田中家を頼った。。
福岡県八女郡黒木町および八女市吉田にも庄屋として中島家の系譜を引く一族がいる。

また、幕末期の幕臣でペリー来航時の浦賀奉行所与力、
のちに蝦夷共和国箱館奉行並・砲兵頭並として千代ヶ岡陣屋で戦死した中島三郎助も、その先祖を氏種としている(へええ!)。
三郎助の先祖が寛文9年(1669年)に下田与力に召し抱えられて以来、幕臣として与力を務めてきた家柄であったという。


真野 頼包〈まの よりかね、生没年不詳〉

後醍醐源氏(後醍醐天皇の皇子の宗良親王)の裔といわれる(すっげ!)。
子の青柳は木村重成室。

七手組組頭として豊臣秀吉に仕え、3,000石を領した。
大坂冬の陣では惣構鰻谷橋を守備し、大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで活躍、
毛利勝永や大野治房を援護したが敗れた。

戦の後に伊木遠雄と刺し違えて死んだとも、藤堂高虎に1,200石で召抱えられ、
ほどなく病没したとも言われる。
また、尾張藩徳川家に仕え明暦元年(1655年)に没したという説もある。
(要するに。わからんのだ)

「大坂冬の陣」の直前、木村重成の器量に惚れて娘の青柳を妻にとせまった。
重成は戦場で散ることだけを考えていたため一旦は断るが、
頼包が「冥土に一人で行かせるような娘ではない」と言ったことに感じ入り妻に迎えた。(かっこいい!)
そして、頼包の言の通り青柳は出陣前夜に自害したと言われる。

他説では、大坂城落城後、青柳は縁者を頼り近江国蒲生郡馬淵村に落ち、男子を産んだのちに剃髪し、
その翌年の重成の命日に持仏堂で自害して果てたとも言われている。

馬淵村は近江商人を輩出し、大坂の近江系商人の木村姓の大半は重成の子孫であると言われる(へえ!)。



秀吉によって創設されたころの七手組組頭たちは三十代だったのだろう。
生年がわかっている二人の組頭から想像すると「大阪の陣」当時、五十代だったようだ。
思っていたより高齢だ。

「関ケ原の戦」には一部が石田隊に参加している。

「七手組は秀吉より任命された組頭も引退し、その子たちが受け継いだため戦闘力の著しい低下を招いた。」
いわれている。
「大坂の陣」では組頭7人の内の4人までが落城と共に討ち死を遂げた。
滅びゆく豊臣の親衛隊として、それなりの働きはあったようにボクは思う。

しかし、七手組組頭たちは一枚岩ではなかった(あたり前だが)。
青木一重と真野助宗は東軍のスパイだったという説がある。
「大阪の陣」後の二人への処遇をみると、嫌疑濃厚だ。

滅びゆく豊臣と優勢な徳川氏との間で、揺れ動いたのだろう。









  1. 2016/11/08(火) 07:49:46|
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装甲艦マナサスのこと

以前、「ハンプトン・ローズ海戦」のことを調べていたとき、黎明期の装甲艦が面白いと思った。
軍艦に限らないが、およそ黎明期は面白い。

例えば、最近のジェット旅客機はどれも、似たような格好をしている
(ジェット旅客機ファンからいわせれば違うということになるのかもしれないが?)。
ほとんどが低翼単葉で翼下にジェットエンジンをぶら下げている。
いろいろな試みがなされたが、結局、この形に落ちついたのだろう。
形態的にはジェット旅客機は安定期にあると思う。

どんなものでも黎明期や変革期は手探り状態だから、不思議というか、とんでもないというか、おかしなものが作られることになる。
安定期からみれば、稚拙だが、面白いものが多い!


manassas312.jpg

前置きはそれぐらいにして、
いかがでしょうか?一見すると平たいダンゴ虫?それとも、ゴキブリ?

アメリカ南北戦争のアメリカ連合国海軍(南軍)の最初の装甲艦、CSS マナサス (CSS Manassas)だ。
イラストは川を微速前進するところとした。

煙突があるから、かろうじて水上艦艇だとわかるが、潜水艦のようだ。
マナサスの煙突はイラストのような1本ではなく左右に2本だった、とか、煙突の位置はもうすこし後ろだったなど、正確な資料が残っていない。

先端の喫水線下(水面下)には衝角(ラム)が隠れている。
衝角(ラム)とは艦首を敵艦にぶつけ、穴をあける突起のこと。当時の軍艦の有効な攻撃方法だった。

喫水線下の船体は木製だ。
引き船として建造されたものを改造したので、水面下の船体は、木製ボートとさして変わらない形をしている(大きさはちがうが)。
喫水線上の未来的な形とは裏腹に喫水線下のマナサスは平凡な形をしていた。

艦首からすこし後ろの首尾線上に前方に向けて64ポンド、ダールグレン砲 x 1(後に32ポンド砲に交換)を装備している。イラストの指をさしているところ)。装甲の覆いが施されている。
これが唯一の装備した砲だった。

マナサスの主な攻撃法は衝角(ラム)による突撃、衝突だった。
敵艦のどてっぱらに、艦首の衝角で大穴を開けることだった。
敵艦に対して突進するとき、おそらく、マナサスはこの大砲をブっぱなしながら進んだのではないだろうか?

マナサスの速力は4kt(ノット)、時速7.4kmだ。
人の歩くのが時速4kmだといわれるから軽いジョギング程度。現代から見ればノロノロと進んだ。

波の静か川での運用を目的としたのだろう、満載状態では煙突を除いた船体の高さは水面からわずか120cm。
敵艦が照準を行うことは困難だったという。
鉄板で丸く装甲された上部は、砲弾が命中してもそれを滑らせて威力を激減させる(傾斜装甲という)。
その装甲は、ほとんどの北軍艦砲に耐えることができた。

イラストの首尾線上に並んでいるのは、おそらく換気口だろう。
しかし、ボクはマナサスの乗員にはなりたくないな。
艦内は暑くて換気が悪そうだ。被弾したときは半潜水艦状態だから逃げにくい。



マナサスは1862年9月12日に就役、直後にアメリカ連合国(南軍)海軍が徴用、ミシシッピ川下流で行動した。
1861年10月12日、A. W. ワーレイ大尉を艦長として、北軍封鎖艦隊奇襲攻撃(ヘッドオブパッシーズ海戦)に参加する。

マナサスは北軍のUSS リッチモンドに衝角攻撃をかけるが失敗。
逆にマナサスは鉄の艦首と煙突を失い、一時戦線を離脱しようとするが、北軍のはUSS プレブルからの砲撃にさらされる。
しかし、その装甲が功を奏して耐えることが出来た。

マナサスは2ヵ月後に再就役、正式にCSS マナサスとなり、南軍のジョン・ミッチェル大佐が指揮するミシシッピ下流域艦隊に属した。
北軍の艦隊がニューオーリンズを目指して侵攻を開始、ジャクソン砦・セントフィリップ砦の戦いが発生する。

マナサスもこれに参加。
北軍艦艇のUSS ペンサコーラに衝角攻撃を試みるが失敗。北軍艦隊からの猛烈な砲撃にさられた。
続いて、USS ミシシッピー(久里浜に現れたペリー艦隊の一隻)に突撃、衝角攻撃に成功する。
艦裁砲での攻撃も行ったが致命傷は与えられなかった。
次に、マナサスはUSS ブルックリンに対しても衝角攻撃に成功して大破させる。
「やるじゃないか!平たいダンゴ虫!」

戦闘の後、マナサスは北軍艦隊を追跡するが、ミシシッピーがマナサスを発見して攻撃、
マナサスはこの攻撃をかわすが、座礁してしまう。
ミシシッピの舷側砲の攻撃から逃れるため、マナサスの乗員は退艦。
砲撃が始まると、マナサスは離礁するが、北軍の臼砲搭載艦艦隊の前に漂い出た。
北軍はこれを拿捕しようと試みるが、マナサスは爆発沈没した(自沈かもしれない)。

南軍の装甲艦としては1862年ハンプトン・ローズ海戦の「バージニア」のほうが有名だが(有名といっても一般的にはほとんど知られていない)、「マナサス」の戦歴もなかなかのものだ!



嘉永6年(1853年)、久里浜に現れたペリー艦隊の旗艦「サスケハナ」は帆走と外輪式蒸気機関推進併用の機帆船だ。
艦種はフリゲート。

当時、「サスケハナ」は最新鋭だったが、木製の軍艦だ。
黒船と呼ばれたので、鉄板が貼られているかのように思うが、実は貼られてはいない。
それから8年後の1861年、南北戦争が勃発した年に「マナサス」は就役している。

装甲用の鋼板の生産、蒸気機関の進歩、スクリュー推進の実用化、高性能炸裂弾の実用化、など、軍艦に鉄の装甲を施すための条件が揃った。
既存の木製軍艦から外面に鉄板を張り付けた装甲艦へと移っていく時期だったのだ。
「マナサス」の就役から8年後の1869年、明治新政府が手に入れた航洋型(外洋を航行できる)装甲艦「甲鉄」(こうてつ、旧名「ストンウォール」)は函館政府の木製軍艦を圧倒する。

軍艦は装甲と大砲の時代になっていた。



●CSS マナサス (CSS Manassas)

分類: 蒸気タグボード→装甲艦
排水量: 387トン
総トン数: 384 1?2トン
全長: 143 ft (44 m)
全幅: 33 ft (10 m)
喫水: 17 ft (5.2 m)
機関: 蒸気機関
総員: 36人(士官及び兵合計)
兵装: 64ポンドダールグレン砲 x 1、後に32ポンド砲に交換









  1. 2014/11/11(火) 07:11:26|
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糸女は見た!

ゴールデンウイークですね。
出かければ、渋滞また渋滞が待っているような気がする。

10日ほど前の土曜日、一般道で愛知県~木之本(滋賀県)~敦賀(福井県)へとクルマで行ってきた。
木之本から琵琶湖の北岸にかけて渋滞に巻き込まれた。
延々とクルマが連なっていた。

「この渋滞の先頭は動いているのだろうか?」
「日本国内のクルマの数が、また増えたのじゃないのか?」と思った。

ということで、ゴールデンウイークはおとなしくすることにした。



ところで、

戦国時代の美女と言えば、織田信長の妹(異説あり)の市(お市)だろう。
その次はというと、細川ガラシャではないだろうか。

細川ガラシャは細川忠興(ただおき)の室(妻)、玉子(たまこ、たまごではないよ)だ。
明智光秀の第三女(異説あり)。
天正六年(1578)八月、織田信長の口添えによって忠興(ただおき)と玉子は夫婦となった。
ともに16歳だった。

翌年、嫡男、与一郎忠隆(ただたか)を生んでいる。
順調な新婚生活だったようだ。
忠興は玉子を熱愛したといわれる。
玉子は容姿が美しいのみならず、教養、才能にもめぐまれていたという。

しかし、「本能寺の変」後、父、光秀が羽柴秀吉に敗れ、その秀吉が実験を握ると、
夫、忠興は玉子を丹後半島に軟禁する。
玉子の存在が細川家を微妙な立場にしたためだ(「本能寺の変」のとき玉子、20歳)。

思い悩んだ玉子は耶蘇教(キリスト教)に傾倒していく。
天正十五年、夫、忠興が九州遠征の留守中に京の南蛮寺を訪ね、信仰生活にはいる。
洗礼を受け「ガラシャ」と称した。

慶長五年(1600)、夫、忠興は徳川家康の会津征伐に参加して出陣。
家康の留守に反旗を翻した石田三成は、大阪に住む徳川方大名の妻子を人質として、大阪城に入ることを要求してきた。

その時、細川屋敷(大阪、玉造)にいたのは、ガラシャとその娘二人、嫡男忠隆の妻、
他は少数の侍女と老臣がいるのみだった。

ガラシャは二人の娘をオルガンチーノ神父へ預け、
嫁(忠隆の妻)は隣家の宇喜多屋敷(「関ヶ原の戦」の西軍主力、宇喜多秀家の屋敷)へ避難させる。

自分は留守家老、小笠原小斎に長刀(なぎなた)で胸(喉?)を突かせて亡くなった(ということになっている)。ガラシャ38歳だった。
老臣たちはガラシャの死を見届けたあと、屋敷に火をはなって切腹した。

これが、普通知られている細川ガラシャの人生のあらましだ。


「天性の国色(こくしょく)、容貌の美麗比倫なく、精神活発、穎敏(えいびん)、果決、心情高尚にして才知卓越せり。」と『日本西教史』はガラシャをベタ褒めだ。
「すごい美人、決断にとみ、気品があり、才知に恵まれている」ということだろう。

ボクは初めて、ガラシャの最後を知ったときは感動した。
だが、オジサンになったボクはへそ曲がりになった。

「ええ?そんな、なにもかも備わった人間がいるの?」
もし、いたとしても、ボクは好きになれそうもない(べつに好きになってくれなくても良いだろうが、)。

昔の清純派女優は「ウンコをしない、屁もしない。鼻くそをホジらない。いや、鼻くそそのものがが出ない。」
ということになっていた。

今となっては「そんなバカな!」ということなのだが、
かつては「ひょっとすると・・・?」と思われていたのだ、とくにファンには。
ガラシャを美化する風潮には似たものをボクは感じる。


ガラシャの死は、キリスト教布教活動の格好の材料だっただろう。
(ガラシャはキリスト教の有力なスポンサーだったと思われる。)
そのために美化された、とボクは想像している。

「小笠原小斎に長刀(なぎなた)で胸を突かせて亡くなった」という下りも、
キリスト教側が脚色したのではないのか?(キリシタンは自刃は許されていないから)
「霜女覚書」には死に方については書かれていないという。


ガラシャ人気には、それなりのわけがあるように思う。

その1、織田の有力武将、明智光秀の娘、細川忠興(ただおき)の室(妻)、つまり、お姫様だ。

その2、そのお姫様が、追い詰められて死んだ。これが死なずに、ノウノウと生きていたならば、
これだけの人気にはならなかっただろう。
「高みにある人が奈落に落ちる。」、洋の東西を問わず人はそういうのが好きなのだ。

その3、美人だった(ということになっている)。悲劇と美人は相性が良い。
美人ゴルファーだとか、美人OL、美人弁護士、美人八百屋のおかみ(そんなのはないか?あったら良いなあ!)・・・、
見てみると「それほどでもない」と思うのだが、美人のほうが受けが良い。(関係なかったかな?)

その4、耶蘇教(キリスト教)の洗礼を受けた。熱心な信者だった。
日本人はキリスト教に弱い。キリスト教の信者は、映画やドラマでは、だいたい善玉で描かれる(蘭学者もそうだ)。
逆偏見だとボクは思う。
そんなにキリスト教信者を良く描くのなら、キリスト教に入信する人が増えそうなものだが・・・?
「キリスト教はなんとなくカッコいい」と思っているだけなのだろう。



itojyo23.jpg
《イラストは芥川の『糸女覚え書き』をイメージした。不美人には画けないので、情緒不安定系とした》

「ガラシャ美化」に釈然としないボクを満足させてくれる短編小説がある。

『秋林院様(しゅうりんいん、ガラシャのこと)のお果てなされ候(そうろう)次第のこと。』ではじまる
芥川龍之介が書いた「糸女覚え書き」だ(ボクは芥川の作品が好き)。
ガラシャに仕えた「霜」が書いたといわれる「霜女覚書」を下敷きにして書かれたといわれている。

石田三成からの人質要求事件を大筋に、
侍女として仕えていた糸(いと、架空の女)が見たガラシャというのが芥川の設定。


芥川の「糸女覚え書き」の一部を抜粋する。

『・・・唯朝より秀林院様(ガラシャのこと)の御機嫌、よろしからざるやうに見上候。
総じて御機嫌のよろしからざる時にはわたくしどもへはもとより、
与一郎様(忠興の子、忠隆ただたか)の奥様へもお小言やらお厭味やら仰せられ候間、
誰もみな滅多にお側へは近づかぬことと致し居り候。
けふも亦与一郎様の奥様へはお化粧のあまり濃すぎぬやう、「えそぽ物語」とやらの中の孔雀の話をお引き合ひに出され、長ながと御談義有之候よし、みなみなお気の毒に存じ上げ候・・・』

《朝から、秀林院様は御機嫌が悪いようだ。だいたい御機嫌が良くない時は、私たち(侍女)へはもとより、
与一郎様(忠興の子、忠隆)の奥様へもお小言やらお厭味やら言われる。
皆、滅多に秀林院様のお側へは近づかないようにしておりました。
今日も、与一郎様の奥様にお化粧が濃すぎぬよう、「えそぽ物語」(「イソップ物語」のこと)の中の孔雀の話をお引き合ひに出され、長ながと話された。
みなお気の毒にと思ったものです。》(ボクのつたない現代語訳)

また、
『霜は又右の次第を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様は御返事も遊ばされず、
唯お口のうちに「のす、のす」とのみお唱へなされ居り候へども、やうやくさりげなきおん気色に直られ、・・・
ことごとにわたくしどもをお叱りなされ、又お叱りなさるる度に「えそぽ物語」とやらをお読み聞かせ下され、
誰はこの蛙、彼はこの狼などと仰せられ候間、みなみな人質に参るよりも難渋なる思ひを致し候。
殊にわたくしは蝸牛(かたつむり)にも、鴉(からす)にも、豚にも、亀の子にも、棕梠(しゅろ)にも、犬にも、蝮(まむし)にも、野牛にも、病人にも似かよひ候よし、くやしきお小言を蒙り候こと、末代迄も忘れ難く候。』

《霜が右の次第を秀林院様に申し上げたところ、秀林院様は御返事もなされず、「のす、のす」とだけ唱えられたが、
ようやくご機嫌が直り・・・
ことあるごとに、わたくしどもをお叱りなされ、又お叱りなさるる度に「えそぽ物語」(イソップ物語)とやらをお読み聞かせ、
あの人はカエル。あの男は狼などと仰せられた。皆、人質になるよりも嫌な感じがした。
とくに私(糸女)には、「蝸牛(かたつむり)、鴉(からす)、豚、亀の子、棕梠(しゅろ)、犬、蝮(まむし)、野牛、病人などと同じようだ」と言われた。
こんな悔しいことは死んでも、糸は忘れません。》(ボクのつたない現代語訳)

文中の「のす、のす」は聖書のラテン語だろうか?言葉尻が「ノス」で終わるのが多いのだと思う。
日本語の「・・・でした。」「・・・です。」など。


芥川の「糸女覚え書き」では、こんな具合にガラシャが「嫌な女」として描かれている。
けちょんけちょんだ。
こんなガラシャ像は他にはない。

「天下の美女、気品がそなわっていた」といわれるガラシャが、実は「嫌な女」だったという設定が、
ハッキリ言って気持ち良い(ボクは)。
ガラシャファンは読むに堪えない内容かもしれないが?

ちなみに、下敷きとした「霜女覚書」では「嫌な女」には書かれていない。


「糸女覚え書き」は「霜女覚書」と同じく候文で書かれているのも気にいった。
すこし読みにくいが、意味は解る。候文のため臨場感がある。
また、候文の言い回しの勉強にもなった。



ガラシャの肖像画は当時のものはないようだ。おそらく明治以降に想像して画かれた「いかにも」と言うか、
聖母マリア像を手本にして、着物を着せたような人間味のないのがある(ボクはそう思っている)

父と言われている明智光秀の有名な肖像画(本徳寺蔵)を見ると、涼しい目、顔は女性のようにも見える。

「明智光秀はイケメンだった。」という記事は見たことがないが、
肖像画の光秀はイケメンだとボクは思う。
明智光秀の肖像画(本徳寺蔵)からガラシャを想像すれば、カワイイ系の美人だったのかもしれない?









  1. 2014/04/29(火) 08:10:54|
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白石正一郎のこと。

siraisisyouitirou34.jpg

白石正一郎(しらいししょういちろう)文化9年3月7日(1812・4・18)生まれ。
高杉晋作より27歳年上。坂本龍馬より24歳年上。

西郷や龍馬などのビッグスターも結構ですが、ボクは正一郎のような脇役に興味がある。

調べてみましたが、正一郎の肖像画や写真が見つからないので、こんなイラストになりました。
ひょっとすると高杉晋作のようなザンギリ頭だったかもしれない?

後ろに居並ぶ男達は高杉が創設した奇兵隊の人達。「奇兵隊の写真」を模写しました(正確ではない)。その写真には狐目や狐顔の精悍な若者が写っています。

白石正一郎は幕末の馬韓(下関)の豪商。小倉屋という貿易商を営み、商船を何隻も所有し、大地主、多くの商い(米、反物、タバコ、塩、木材、質屋、酒蔵、荷受、倉庫、運輸・・・)を営んだ大金持ち。

そんな正一郎が、尊王攘夷派の大物達と親しく接するうちにその思想に傾いていく。
初めは、京や江戸の情勢、世の趨勢、を見極めるための情報収集という目的もあったと思う。
正一郎は商人(豪商)ですから、新鮮な角度の高い情報を欲した。

将軍継承問題で江戸へと向かう西郷隆盛に一夜の宿を提供しました。
おそらく、西郷と新しい世の中について話し合ったことでしょう。
あの西郷ですから、一気に正一郎の心は加速したのではないでしょうか?

彼は長州の志士はもちろん、他藩の志士も援助しました。
宿泊や、追われる者をかくまったり、資金援助をしたりと。
援助された志士は400人以上といわれています。

西郷隆盛、月照(げっしょう)、真木和泉(まきいずみ)、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、坂本龍馬、中岡慎太郎・・・と錚錚たる顔ぶれです。
また、奇兵隊の装備を正一郎が整えたといわれています。
今の金でひとり200~300万かかったといわれています。

文久三年(1863年)、高杉に感銘をうけた正一郎は、それまでの莫大な貯蓄をすべて高杉に差し出し、自分も弟とともに奇兵隊士となって参加!自宅も奇兵隊の本陣として提供するのです!

高杉晋作という人は魅力的な人だったのでしょうね。正一郎は高杉に惚れたのかもしれません?同性愛ということではなく(いや、ひょっとすると?)、男が男に惚れたのだと思う。
男の道楽?は「呑む、打つ、買う」と言われますが、一番、金がかかるのは男に惚れること(同性愛ではなく)だときいたことがあります。際限がない。

幕末の長州藩は恭順、倒幕と揺れ動きます。この間、奇兵隊を経済的に支えたのは正一郎でした。
正規軍ではないので、藩はまともに援助しなかった。

他人の金となると、つかい方が荒くなるのは、どこかの国の役人と同じ(失礼!)。
まして「日本国のために!」などという大義がくっつけば、押さえが利かなかったでしょう?
経済感覚がない高杉ですら心配したと言われています。

ついに、小倉屋の資産も底をつき、慶応元年(1865年)頃には破産寸前の状態に陥った。
ついに、明治八年(1875年)破産。
奇兵隊も悲惨なことになっていました。使い捨てにされたのです。

新しい明治政府の元志士たちから「白石正一郎を新政府の要人に、」という声が起こります。
恩に報いたいと思ったのでしょう。
しかし、正一郎は、すべてを断り、故郷の赤間神宮(下関)の2代目宮司として、ひっそりと暮らす事を選びます。

明治十三年(1880年)8月31日、69歳で世を去りました。

高杉や西郷の人生も「すごい人生だな!」と思いますが、正一郎の人生はドラマでよく取り上げられる志士たちよりも新鮮な感動がボクの胸にせまります。
高杉の話に発奮して眠れなかった夜のこと、小倉屋と正一郎のために働いてくれた人達との別れ(いたしかたなくクビにした)、新政府の誕生、そして破産。

こんな人生もあるのだな!とボクは思います。
ボクにはとても出来そうにありません。

「温和で清廉、実直な人物である」、西郷の白石正一郎評です。



<今日は何の日?徒然日記>を参考にしました。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/08/post-ef82.html



  1. 2011/06/28(火) 09:02:02|
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それは神業・・・

海軍パイロットの華は空母艦載機の搭乗員達でしょう。
それも戦闘機パイロットということになると思うのですが、
今回は艦上爆撃機についてです(へそまがり!)。

egusa22.jpg

イラストは一見するとごく普通のおじさん(失礼)ですが、この人こそ「艦爆の神様」と言われた江草 隆繁少佐(えくさ たかしげ、1909年9月 ~ 1944年6月15日)です。

1942年4月5日、セイロン島沖のインド洋で江草 隆繁少佐(当時)率いる99式艦爆53機は空母を飛び立ち、
急降下爆撃でイギリス海軍の重巡洋艦「コーンウォール」と「ドーセットシャー」を撃沈しました。
この時の命中率(命中弾÷投弾数)はなんと87%!

さらに、4日後の4月9日、85機の艦爆を率いてイギリスの軽空母「ハーミス」と駆逐艦「バンパイアー」を撃沈。
この時の命中率、ななななんと!82%!! 正確無比な神業でした。
動き回る軍艦への急降下爆撃としては世界一の命中率だったと思われます。

重巡「コーンウォール」と「ドーセットシャー」は対空戦闘しながら約30ノット(約、時速60km、船としては高速)で回避運動をしたのにもかかわらずです。
空母「ハーミス」は直援(上空を守る)戦闘機がいなかったこともありますが、軍艦として当然、対空戦闘、回避運動をしていたでしょう。

99kanbaku0515.jpg

軍事関係のノンフィクション作家・ピーター・C・スミスは、『爆撃王列伝』で急降下爆撃のエース7人を挙げ、そのトップに江草氏を紹介しています。
真珠湾攻撃から約4ヶ月後、日本海軍艦爆隊の栄光の瞬間でした。

1942年前半の日本海軍の機動部隊(空母を主軸とする艦隊)、すなわち第一航空艦隊(略して一航艦、通称「南雲艦隊」)は当時、世界最強の機動部隊でした。
その要因のひとつに練達の搭乗員の高度な職人芸があったのです。(職人芸というところが日本の弱点でもあったとも思いますが)

このころ、一航艦の自信は頂点に近ずいていました。
「向かうところ敵なし」「鎧袖一触」「白刃一閃」「空前絶後」「騎虎の勢い」「無敵、南雲艦隊」。そして、忍び寄る「増長と油断」・・・


1941年12月の真珠湾攻撃では江草少佐は第二波攻撃の艦爆隊を指揮しました。
第二波には敵の対空砲火も目覚めていますし、米戦闘機が待ち構えているかもしれません(実際、少数ですが戦闘機が迎撃しました。)。

江草少佐は第二波の艦爆隊を率いて修羅場の真珠湾上空に進出、そのまま編隊で真珠湾を一周したそうです。
それは状況確認と戦果確認だったといわれています。もちろん、付き従う機の各搭乗員に確認させるためだったと思われます。

江草少佐はインド洋作戦の後、ミッドウェー海戦に一航艦、二航戦(第二航空戦隊の略)の空母「蒼龍」に乗艦して参加。
しかし米艦爆の攻撃で「蒼龍」は沈没。敵空母攻撃に飛び立つことが出来ませんでした。
連合軍側の研究者は「ミッドウェーで江草の率いる艦爆隊が出撃していたら、米機動部隊はあの程度の損害ではすまなかっただろう?」と言っています。


<参考まで>
当時の日本海軍の正規空母の搭載機は3種類。

<零式艦上戦闘機>
ご存知、ゼロ戦ですが、日本海軍では日本式に「れいせん」と呼んでいた。制空、直援を任務とします。

<99式艦上爆撃機>
きゅうきゅうしき・複座で主に急降下爆撃を任務とする。艦攻より身軽なので敵戦闘機と空中戦をしたこともあったそうです。

<97式艦上攻撃機>
きゅうななしき・三座で雷撃、水平爆撃、索敵を任務とした。

<参考まで>終わり。



急降下爆撃とはピンポイントで目標を爆撃する方法です。
高度4~5000mで目標に接近、急降下して高度500mあたりで投弾、投弾したら一気に機体を引き上げて目標上空を離脱します。
目標に接近して投弾するため命中率が高く、艦船攻撃に威力を発揮しました。

急降下角度は50度~60度と言われていますが、南太平洋海戦でアメリカ空母「ホーネット」を爆撃する99艦爆の有名な写真がありますが、それを見ると角度はもっと深い感じがします。
戦場では基本どおりにいかないのでしょう。


指揮官の「突撃隊形作れ」の命令で一列になって急降下する。
この方法は前の機の投弾を修正しながら投弾するので命中精度があがる。このセイロン島沖の実績をみればそうなのでしょう。
しかし、この方法は対空砲の照準がつけやすく、損害も多かったそうで、戦争後半では各機一斉攻撃に変更になったそうです。

目標に照準をあわせ、敵艦の回避運動に機を修正しながらダイブ、味方機との衝突を避けて投弾。
機体を引き起こすと失神しそうなGが体にかかります。また恐怖の敵戦闘機に気をつけなければいけません。
激しい運動をするため、搭乗員には過酷な任務だった(艦戦も艦攻も過酷ですが)。

第二次世界大戦で連合国艦船をもっとも多く沈めた航空機は、口の悪い日本海軍搭乗員達から「99式棺おけ」と呼ばれたこの99式艦上爆撃機です。

江草少佐はセイロン島沖の栄光から二年後、「あ号作戦・マリアナ沖海戦」で日本海軍期待の新鋭攻撃機「銀河」で編成された「鵬部隊」を指揮して米機動部隊攻撃に飛び立ち、帰らぬ人となりました(戦死後、大佐)。
もう日米の戦力差は絶望的に開いていたのです。そして、マリアナ沖海戦で日本海軍機動部隊は実質上、壊滅します。

「今度は湊川だ!」と戦地に赴く江草氏は家族に告げたそうです。
(湊川とは楠正成の戦死した戦さ。楠正成は南北朝時代の南朝方の武将。戦前は大変に人気のあった人で、「太平記」の講談をきかせる寄席で「明日、楠正成現る」と告げるとドッと客が入ったといわれています。)

イラストは対空砲火の弾幕をかいくぐって、イギリス空母「ハーミス」にダイブする99式艦上爆撃機一一型、江草少佐機です。
空母ハーミスがイラストのような操艦で回避運動をしたかどうかはわかりません。ボクの想像で画きました。
命中率からして、イラストのような至近弾による水柱は少なかったと思われます。









  1. 2011/02/22(火) 07:45:12|
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