ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

日夜天に轟き(信長夜話・その93)

「今年もボジョレーヌーヴォーの季節になりました。」
近くのスーパーで試飲する男女が、「フルーティーで飲みやすーい!」と笑顔。
「今年は天候にも恵まれ、出来が良いそうです・・・」
と、夕方のテレビニュースのなかで流れた(CMではない)。

その通りなんだろう。
でも去年も、そんなこと言っていた。いや、一昨年もそうだった。
いや、毎年、同じようなことを言っている。

「実は収穫期前の天候が悪かったので、美味しくないんです・・・」
とは言えないのだ。
だとすれば、情報としての意味はない。

毎度、「フルーティーで飲みやすーい!」のだから。
美味しく出来た年と、美味しくない年があるのは、当たり前なのだが・・・

それは、タレントの飲食店での食レポ(こういうらしい)も同じ。
「うまくない!」という言葉は禁句なのだから。




ということで、
前回の「雑賀衆(信長夜話・その92)」からの続き→


元亀元年七月二十一日
阿波で挙兵した三好勢は、八月、野田・福島に砦を築き、京をうかがう様子だった。
二十六日、織田勢は三好勢の籠る野田・福島の両城へ攻め寄せた。

信長は先陣を城に密着させ、多くの陣地を築かせた。
信長自身は天王寺に本陣を据えた。


『九月八日には大坂から十町西の楼の岸(ろうのきし)に砦が築かれ、斎藤新五・稲葉一鉄・中川重政の三人が入った。
また川向かい.の川口(現西区)にも築城、平手監物・平手汎秀・水野監物・佐々成政らが入れ置かれた。』
『信長公記』の記述。


「楼の岸」も「川口」も、本願寺のすぐそば。

ここに出てくる地名「楼の岸」だが、どう読めばいいのだろう?
ボクは「ろうのきし」としたが・・・?

「楼」の訓読みは「たかどの」、もの見櫓の意味。「たかどののきし」だろうか?
調べてみたが「読み」がみつからない。きもち悪い。
「書いた人も読みがわからないので、ルビをふらなかったのかも?」などと邪推(じゃすい)している。


脱線した。

『九月九日、信長公は天満の森(川をはさんで本願寺の対岸)へ本陣を移し、
翌日から敵城の周囲に散在する入江や堀を草で埋め立てさせた。

そして十二日、公方様と信長公は野田・福島から十町(約1090m)北の海老江(現福島区)に移ってここを本陣とし、
諸勢に総攻撃を開始させた。

足軽たちが夜ごと作業して築き上げた土手からは矢玉が一斉に撃ち出され、
先陣の兵は先を争って塀際に押し寄せ、井楼には大鉄砲が上げられて城中に撃ち込まれた。

一方、敵方にも根来衆・雑賀衆・湯川衆および紀伊国奥郡衆約二万が来援し、
遠里小野(現住吉区)・住吉・天王寺に陣を張って織田勢へ鉄砲三千挺を撃ちかけてきた。

稀にみる砲戦であり、敵味方の砲音は日夜天に轟き、黒煙が地を覆った。

この火力戦に野田・福島の両城は次第に疲弊し、さまざまに交渉して和睦をはかってきた。
しかし信長公はこれを容れず、「程を知らぬ奴輩、攻め干すべし」といって殲滅を決意した。」』
「信長公記」の記述だ。

さすが、太田牛一(『信長公記』の筆者。信長研究の一級史料)。臨場感がある。



記述のなかで、
『三好方がさまざまに交渉して和睦をはかってきた。』とある。

三好方は信長が呑めそうもない条件を、つきつけたのではないだろうか?
おそらく、時間かせぎだったのでは?本願寺の参戦を待っていたのでは?

それにしても、信長はこの時点で石山本願寺が敵対してくるとは、思っていなかったのだろうか?
信長が本陣とした「天満が森」や「海老江」は本願寺とは目と鼻の先、
もし本願寺が敵対してきたら、海や川に追い落とされる危険がある。

それとも、信長は「本願寺が敵対してきても蹴散らすことができる」と思っていたのだろうか?


織田信長という人は、ときどき慎重さを欠く。
言い換えれば、人を信じる(信じたい)ところがあるように思う。
だから興味深いとも言える。
「そつのない慎重な物言い」より、「失言もありの、心のうちが垣間見える物言い」のほうが面白い、のと同じだ
(傍観者からは)。

永禄十一年の上洛の際、わずかな供回りで浅井氏の佐和山城で七日間、とどまった。
このとき、浅井家中では「またとない機会だから、信長を討ちとってしまおう」という声があった。
浅井長政が、それを抑えて事件は起きなかった、
という説がある。

元亀元年の「金ケ崎の退き口」。
越前敦賀に攻め入った信長に、義弟の浅井長政が反旗をひるがした。
包囲されるのを、からくも?すり抜けて退却に成功。
長政の寝返り(信長からみれば)は、まったくの想定外だったのだろう。

天正六年、重く用いた(信長からみれば)荒木村重の離反(謀反)。

きわめつきは、御存じ、天正十年の「本能寺の変」、明智光秀を信じていたのだろう。
これまた、破格の待遇で重く用いていた(信長からみれば)。

などなど・・・

脱線した。

信長が想定していたかどうか?はわからないが、
はたして、石山本願寺に早鐘がなった。
本願寺の顕如(けんにょ)は信長との全面対決を選んだのだ。

えらいこっちゃホンマ!どうする?

この続きは、またいつか・・・


semeru12.jpg

<イラストは「三好方を攻める織田勢」とした。>

ドラマや映画の戦国時代の攻城戦には、
城(砦)側には櫓がそびえ、木柵や濠が巡らされている。

攻める側はとみると、「竹束や盾から鉄砲を射かける・・・」と描いているのは良心的なほうで、
やみくもに城(砦)に攻め寄せ、城側の鉄砲になぎ倒される。
攻城側もバカじゃないのだから、そんな無策ではないだろう。

これでは、旧日本軍の「バンザイ突撃」と同じではないか。
貧弱な装備を精神論にすり替えた。

相手も装備が貧弱なら、効果があったのかもしれないが、
米軍のような優秀な装備の敵には、無謀だった。無残だ!


脱線した。

『信長公記』に攻め手側のことが書かれている。

① 井楼(せいろう、櫓のこと)がでてくる。

攻城側も濠ちかくに井楼(櫓)を立てた。
井楼からは城内の敵の動きが観察することができるし、射撃も可能だったろう。


② 『敵城の周囲に散在する入江や堀を草で埋め立てさせた・・・』
『足軽たちが夜ごと作業して築き上げた土手からは矢玉が一斉に撃ち出され、・・・』とある。

攻める側も、濠を埋め、高く土手を築き、より高い位置から射撃したのだろう。
城側からの妨害をうけるから、援護部隊がおかれ、
工事が遅れるから、「夜ごと」の作業だったのだろう。

城や砦は土木工事でつくられた要塞だ。
それを攻めるためには、攻める側も土木で対向するのが必然。

攻城兵器として投石機のようなものも、あったかもしれない、とボクは想像している。
(当時の日本の城や砦は、木と土のものがほとんどで投石機を必要としなかった、という説が有力)


③ 『稀にみる砲戦であり、敵味方の砲音は日夜天に轟き、黒煙が地を覆った。』
と『信長公記』にある。

この時の戦いは、何千という鉄砲の銃撃戦だったのだ。
当時の最新の戦闘があったのだろう。

古い映画の合戦シーンなどでは、情けない鉄砲がよくでてきた。
パン・・・、情けないほどまばらな発砲と弾着。
嘘くさい硝煙。

技術がなかったのか?予算がなかったのか?想像力不足だったのか?
そのいずれもだったのだろう。

納得のいく戦国の銃撃戦シーンをみたのは、黒沢明の映画『影武者』と『乱』だった。
無数の鉄砲の間断のない発射と弾着。

映画の評価は分かれているが、「さすが黒沢!」と思った。
「世界の黒沢」だったから予算の獲得が出来た、という面もあったのかもしれない。
これ以降の戦国銃撃戦シーンは、大きく変わった(変わらざるを得なくなった)。


④ 『井楼には大鉄砲が上げられて城中に撃ち込まれた。』とある。

大鉄砲とは標準型の種子島(鉄砲)を拡大、強化したものだろう。
より重い弾を発射するため、各部は強化され、火薬も多い、当然、重くなる。

信長が用いたとされる三十匁(もんめ、玉は約113g、口径27㎜程度)砲では、
約35~40kgの重さだったのではないだろうか?
一貫目筒(口径約89mm)では、砲の重さが80kg~120kgあったという。

今でも、火縄銃のデモンストレーションなどで、大筒が披露されることがある。
発射準備を整えた大筒を両手で構え、
発射と同時に、体をひねって、その大きな反動を逃がす。曲芸のような射撃だ。

ひとつ間違えば、ケガ(例えば骨折)をするだろう。

弾は炸裂弾ではなく、金属の丸弾だった。
人に直撃すれば死ぬか大けが、
櫓や塀などの構造物に当たれば、効果があっただろう。

それに、敵兵にあたえる心理的影響も無視できない。


今回、使用したといわれる大鉄砲(大筒)は三十匁だったのだろう。
イラストのような木製の台座に据えて、発射したのではないだろうか?

天文十二年(1543)種子島時尭が鉄砲をはじめて入手してから 27年後、
大鉄砲(大筒)を開発、装備するまでになっていた。

需要が活発だったのだろう。派生型が開発された。

標準型(三~四匁の弾丸)、

狭間筒(長銃身、命中精度が高かったのだろう。狙撃銃か?)、

馬上筒(標準方の半分の長さ、両手で射撃したという)、

短筒(小型の鉄砲)、

大口径銃(六匁以上を中筒といった)
大鉄砲(大筒)もそのひとつだったのだろう。


「信長夜話・その94」に続く→




谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
東郷隆・上田信 著「戦国武士の合戦心得」講談社文庫¥495+税
を参考にしました。





  1. 2017/11/21(火) 07:26:37|
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雑賀衆(信長夜話・その92)

前回の「野田・福島の砦(信長夜話・その91)」からの続き→


元亀元年(1970)七月二十一日
阿波で挙兵した三好勢は、八月、野田・福島に砦を築き、京をうかがう様子だった。

二十六日、将軍、義昭からの通報を受け、織田勢は三好勢の籠る野田・福島の砦へ攻め寄せた。
信長は天王寺に本陣を据え、先陣を城に密着させ、多くの陣地を築かせた。

野田・福島に籠っていたのは、細川昭元殿・三好長逸・三好山城守康長・安宅信康(あたぎ)・
十河存保(そごう)・篠原長房・岩成友通・香西佳清・三好為三政勝ら三好党および斎藤龍興・長井道利・
紀伊雑賀(さいか・現和歌山市)の鈴木孫市(孫一とも)ら、約八千であった。

織田勢、幕府奉公衆に対して三好方は両城(砦)に籠り、長期戦の構えをみせた。


信長は、まずは調略をかける(常套手段)。
すると、三好方の香西佳清と三好政勝が織田勢に内応、
城中に織田勢を引き入れる謀略をすすめていた。

三好党の二人だが、三好勢とて一枚岩ではなく、それぞれの思惑があった。
調略はかけるに値する戦術だった。

しかし、城中の警固は厳しく、謀(はかりごと)を断念せざるをえなかった。
八月二十八日、香西・三好の両名は城を脱出して天王寺に走った。内応がバレたのだ。

九月三日になると、
将軍・義昭が摂津国中島(現東淀川区)の細川藤賢(護熙氏の祖先)の居城に動座した
(「移った」でいいと思うのだが・・・)。
現在の阪急十三駅から十三公園付近だろうといわれている。

信長は将軍、義昭の出馬を強くもとめたという。
三好勢が公方様(将軍、義昭)の敵であることを、ハッキリと示したかったのだろう。
公方様(将軍)の権威が依然として強かったのだ。



野田・福島の砦に立てこもったなかに雑賀孫市(さいかまごいち・孫一とも)がいる。
今回は、雑賀衆と雑賀孫市のことを書く。

雑賀孫市の人気が全国区になったのは、故、司馬遼太郎著『尻喰らえ孫市』以来だったように思う。

司馬遼太郎ほど日本人(主に男)に支持された歴史小説作家もいない。
坂本龍馬といえば、いまや日本人の大好き人物だが、
司馬遼太郎著『龍馬がいく』、それに続くNHK大河ドラマ『龍馬がいく』から、
いっきに大人気になったとボクは思う。

それまでは「幕末で活躍した勤王志士のひとり」という程度の位置づけだった。
土佐勤王党の武市半平太(月形半平太)や長州の木戸孝允(桂小五郎)のほうが
ヒーローとしては格上だった。

「現在の龍馬人気を作り上げたのは、司馬遼太郎だ」とボクは思う。
そういう意味では、大したものだが・・・


脱線した。

紀州、和歌山のヒーローといえば雑賀孫市。
高知での坂本龍馬、上田での真田信繁(幸村)、新潟での上杉謙信、その地で悪口をいえば、
ただではすまないように?
和歌山では雑賀孫市の悪口は言わないほうが安全だろう。

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<野田の砦と雑賀孫市(鈴木孫市)とした。
旗印は八咫烏(やたがらす)。
神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという伝説上の大カラス。 三本足とされる。
サッカー日本代表選手の胸のエンブレム、3本足の黒い鳥はこのカラスなのだ。>



今回、調べてみた。
《雑賀孫市のこと》

雑賀孫市は謎が多い(史料もすくない)。

「孫市」 という通称は、雑賀党鈴木家 で代々使われていた。
なので、「雑賀孫市」は、この鈴木家の誰なのかはっきりしていない。

普通、雑賀衆 の 鉄砲隊長であった「鈴木重秀」という人であると言われているが、
鈴木家の当主「鈴木佐太夫」や、鈴木重秀の兄である「鈴木重朝」のエピソードも混ざっているらしい。

なので、「雑賀孫市」は雑賀(地名)の鈴木孫市(複数の孫市のこと)ということになる。
と前置きして・・・


雑賀孫市の生年と没年は不明とした。複数の孫市のことだから。
(鈴木重秀だとしても生没年はわからない)

雑賀孫市は雑賀衆のリーダーだったようだ(雑賀衆のことは後述)。
各地の戦いで、雑賀衆の 鉄砲傭兵集団を率いた。
傭兵なので、対価と引き換えに戦闘に参加する(義理の参加もあっただろう)。

元亀元年(1670)雑賀(さいか)と友好的だった本願寺が織田信長と戦うと、
本願寺側に参戦、雑賀鉄砲隊は織田勢を撃破する。

一人が鉄砲の掃除や火薬や玉ごめの発射準備をととのえ、もう一人が鉄砲を撃つ。
これにより連続射撃を可能にした、と言われている。
当然だが射撃上手が撃ち方をつとめた。
撃ち方は射撃に集中することが出来たから、命中精度もあがっただろう。

この説は、おそらく本当だと思う。
織田勢は攻めあぐね、信長は損害の多さに驚き、包囲、封鎖に切り替えた。
石山本願寺を囲むように多くの城(砦)を築いた。

雑賀鉄砲隊は信長に作戦変更をしいたほどの戦いぶりだったのだ。

当時、最強の織田勢を敵に回しての奮戦。
(甲斐の武田最強説?、越後の上杉最強説?などあるが、)
火力、戦術において、信長は自軍をしのぐ敵にはじめて遭遇した。

そして、この戦術的勝利が雑賀衆の名を轟かせた(現在にいたるも)。

その後も孫市は 織田勢 や織田方についた雑賀衆と戦い続ける。
(雑賀衆は一枚岩ではなく、複数の集団だった)

天正十年(1582)「本能寺の変」、信長の死後、孫市は 豊臣秀吉 の配下となり雑賀衆を後にした。
秀吉 が雑賀を攻めた際には降伏を勧める使者となり、両者の取次ぎ役を務めるが、失敗。

その後、豊臣の「鉄砲頭」となり朝鮮出兵では九州を守る。

秀吉死後、慶長五年(1600)「関ヶ原の戦い」では 西軍(石田三成側)として参戦。
伏見の戦いで 徳川 の重臣「鳥居 元忠」を討ち取る。
しかし、西軍が敗戦したために領地を失い浪人となる。

伊達 政宗に取り立てられる。
伊達の騎馬鉄砲隊は 大阪・夏の陣 で活躍した。
これは、孫市が雑賀に伝わる 騎馬鉄砲術 を伝授したといわれている。

その後、政宗 の取り成しで徳川家に仕え、水戸徳川藩の旗本としての余生だったという。

<注意>これらは複数の孫市の経歴だといわれている。


《雑賀衆のこと》

大阪の南に「紀ノ川」という大河がある。その周辺住んでいた人々が「雑賀衆」だった。
農業以外にも、紀伊の山からの鉱石の採掘や林業。鍛冶 などの工業技術も発達した。
さらに、瀬戸内海 と 太平洋 を結ぶ土地、海運、漁業、貿易、も盛んであった。

雑賀では農業、林業、鉱業、海運、漁業、鍛冶、貿易、など、それぞれに組合のようなものが出来ていた。
それらの代表が運営していた共同体、それが「雑賀衆」。
「雑賀衆」とは小勢力の集まりだったのだ。

戦国時代の雑賀衆は大きく分けて、5つの土地ごとの組合のようなものに分かれていた。
そして、それぞれが独自に行動していた。

また、雑賀衆(さいか)の近くには 「根来衆」 と呼ばれる勢力も存在していた。



1543年、九州の南、種子島に1隻の船が漂着、
この船に乗っていたポルトガル人が新兵器 「鉄砲」を持たらした。
種子島の豪族 種子島時尭は、二丁を金二千両で購入した。 

そして、この二丁の鉄砲のうち一丁を譲り受け、紀伊にもちかえったものがいた。
それが、雑賀と関係のある 「根来衆」 の津田監物だったという。
種子島時尭とは貿易を介して繋がりがあったのだろう。

そして、この鉄砲を元に 根来衆 の鍛冶屋 芝辻清右衛門が試作に成功
(なんと、堺衆ではない!)。
それが雑賀にも伝わり、雑賀衆・根来衆 は鉄砲集団へと変わっていった。

鉄砲を量産。それが出来たのは、雑賀や根来が優れた鍛冶技術を持つ集団だったからだ。

鉄砲には火薬が必要だ。
当時、日本では材料となる硝石が取れなかった。
しかし、雑賀や根来では、活発な貿易を通じて硝石を入手出来た。
鉄砲を戦術化する条件をそなえていたのだ。



戦国の世、雑賀衆は要請を受けて傭兵を派遣していた。
それが、最新兵器、鉄砲を装備したわけだから、各地の勢力から頻繁に援軍を依頼されるようになる。
「雑賀を制すものは全国を制す」 とさえ言われたという。

鉄砲を装備した傭兵集団として注目された 雑賀衆 は、三好と織田が戦うと、
織田に雇われて 織田勢と共に戦った事もあった。

しかし織田信長は、元亀元年(1670)、一向宗の「本願寺」と全面戦争に突入する。
雑賀衆 には一向宗の門徒が多く、本願寺の本拠地である大阪(石山)にも近い。
本願寺とは友好的な関係にあった。
そのため、「雑賀衆」は本願寺の要請を受け、織田と戦う事になる。

かたや「根来衆」は真言宗の根来寺を中心とした宗教勢力だった。一向宗ではない。
それもあって、根来衆は 織田を支援、この影響で根来衆に近かったいくつかの雑賀衆も織田に味方した。
雑賀衆は分裂した(そもそも一枚岩ではない)。

織田側 に味方した雑賀衆はそれほど活躍していないという。
雑賀衆同士での戦いは避けていたらしい。

一方、本願寺を支援した 雑賀衆 は大活躍する。
石山本願寺を援護し、鉄砲の連続発射によって織田を撃破、攻め寄せる織田勢をことごとく撃退。
この戦いで 雑賀鉄砲隊の指揮を取ったのが、雑賀孫市(鈴木孫市)だった、と言われている。

そして、信長と本願寺との戦いは、十年におよぶことになる。



信長 は 本願寺との戦いが膠着状態と判断したのだろう。雑賀を先に討伐することにした。
雑賀に攻め寄せた。十万の大軍、織田の主力だった。 
雑賀孫市はこれを迎え撃ち、損害をあたえるが、多勢に無勢、雑賀衆は消耗、孫市は降伏した。

雑賀衆 は分裂状態となる。
孫市、率いる 本願寺派 と、根来衆に近い 織田派 の雑賀衆だ。
雑賀孫市 の雑賀衆が「雑賀党」、根来衆に近い雑賀衆は「太田党」と呼ばれた。
「太田党」は太田定久とその一族がリーダーだった。

その後の孫市の消息は各説あってハッキリしない。



「本能寺の変」で信長が亡くなると、豊臣秀吉 の時代が来た。

秀吉 は、雑賀衆や・根来衆 が持っていた紀伊の独自支配を認めなかった。
秀吉 は統一した制度で日本を統治しようとした。特例は認めなかったのだ。
それに 雑賀・根来衆 は反発。

そんなとき、秀吉 と 徳川家康 が対立、家康は 雑賀衆・根来衆 に傭兵としての援軍を求めた。
「太田党」が主導する 雑賀衆 と 根来衆 は、秀吉 と 家康 が戦っている間に(「小牧・長久手の戦い」)、
紀伊の 豊臣方を攻撃、秀吉軍の背後を脅かした。


しかし秀吉 と 家康 が講和。
豊臣秀吉 は敵対行動を取った 雑賀・根来 の討伐に動く。
今回も十万の大軍だったという。

雑賀・根来軍 は合わせて約2万、篭城戦で迎え撃つ。
当初は 根来衆 が活躍するが、次第に根来の城も 陥落、本拠地の 「根来寺」 も炎上した。
残った 雑賀衆 も次々と 秀吉軍 に降伏。「根来衆」は消滅した。

そんななか、雑賀衆 の「太田党は、秀吉に徹底抗戦の構えを見せる。
秀吉 はこの「太田党」を降伏させるべく、すでに配下となっていた雑賀孫市が説得に向かうが失敗。

太田党は「太田城」に篭城し、謎の兵器「飛んできて火炎と煙を噴出す筒」(手榴弾?)を使って抵抗。
手をやいた秀吉 は太田城 の周りに堤を作り「水攻め」にした(秀吉の得意技)。

大雨が降り水攻めは成功、太田城は兵糧もなくなり、
太田党 の武将達は自害、城兵は降伏、こうして 雑賀衆 は消滅した。


雑賀衆 は、時の権力に歯向かい、自治権を主張、敗れ消滅する。
「爽やかさ」を感じる。敗れたのが良い。
司馬遼太郎が小説(小説です)にしたのも、わかるような気がする。


次回、「信長公記・その93」に続く→




●《雑賀衆と雑賀孫市》
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm
●谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
を参考にしました。




  1. 2017/11/01(水) 07:10:55|
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野田・福島の砦(信長夜話・その91)

10月7日昼、CBCテレビ(中部日本放送)制作、『父ノブナガ』を、ながら視した(本を読みながら)。
田辺誠一、竹中直人、出演だった。

出来は、可もなし不可もなし(見ても見なくてもいい)。
織田信長(竹中直人)が時空を超えて、さえないサラリーマン(田辺誠一)に不定期にのり移る(憑依)、という話だった。

しかし、「時空を超える」のが好きだねえ!

思いつくだけでも、土曜日、NHKテレビ総合『アシガール』、
女子高校生が時空を超えて、戦国時代と現代をいったりきたりする(現在、流されている)。
宝くじのCMに役所広司演じる黒沢風武士が現代にワープ、というのも、現在、流されている。
小栗旬主演『信長協奏曲』も「時空超えもの」だった。

おなじような設定に、制作者は気後れしないのだろうか?

ついでだが「どちらかが不治の病で余命いくばくもない」という恋愛ドラマ(映画)も次々と作られる。

「ひとつや二つなら新味もあろうが、やたらではな・・・〇△くないのか?」
と思う(声には出さない)。




ということで、今回の「信長夜話・その91」


元亀元年(1570)野村合戦(通称、姉川の戦い)にひとまず勝利した織田信長は、七月四日夕刻に上洛、
ただちに将軍御所におもむき、勝利を報告した。
将軍、義昭へは、信長に相対した浅井・朝倉からも報告が入っていたかもしれない(ボクの想像)

七月七日未明、信長は京を発ち岐阜にもどった。

七月二十一日、三好長逸(ながやす)は阿波(現、徳島県)で挙兵、二十七日には摂津中島(大阪市東淀川区)に上陸、
天満森(てんまがもり、現大阪市北区)に陣をしいた。
総勢一万三千だったという。

三好勢は阿波から海路、来たことになる。
一万三千すべてではないにしても、五千にしても、船に乗ってきた。

一艘に50人の兵が乗ったとして、百艘になる。
一万三千すべてなら二百六十艘になる。
当時の海の輸送力が現在の(ボクの)想像以上だったようだ。

脱線した。
前年の永禄十二年(1569)一月、三好勢は本圀寺にいた将軍足利義昭を攻めるも失敗、
阿波に退いた経緯があった(本圀寺の変)。
これが契機となって二条城(現在の二条城ではない)の造営につながった。


渡海した三好勢は石山本願寺(現大阪府中央区)の西、野田と福島(現大阪府福島区)に砦を築いた。

管領家嫡流の細川六郎(昭元)を盟主(同盟の中心人物)とし、
三好長逸・三好康長・安宅信康・十河存保(そごうまさやす)・篠原長房・岩成友通・
香西佳清・三好為三政勝らの三好党、
および斎藤龍興(かつて、美濃をのがれた、あの龍興だ)・長井道利・
紀伊雑賀(さいか・現和歌山市)の鈴木孫市(孫一とも)ら八千だった。

三好勢は反信長勢力と協力して、信長を京から追い落とすことにあったのだろう。
本願寺とも話はついていたのかもしれない(ボクの想像)。
野田、福島は石山本願寺に近い(約4km)
一万三千ほどで、優勢な信長と対峙するのだ。自軍のほかにも強力な味方のアテがあったにちがいない。

摂津では池田重成が三好方の伊丹正親と戦う。
三好一族の安宅信康(あたぎのぶやす)も淡路から尼崎(あまがさき)に進出してきた。


京の将軍、義昭は信長に通報する。そして畿内の守護たちに三好勢の追討を呼びかけた。
義昭は信長の武力を頼みとしていた。

河内の三好善継(幕府・織田方にも三好姓がいてややこしい)と畠山高政は
河内の古橋城(現大阪府門真市)で三好勢を防ごうとするも、攻略されてしまう。
三好勢の戦意は高かった。

大和の松永久秀は大和と河内の境界の信貴山城(しぎさん・現奈良県生駒郡平群町)に移って、三好勢と戦う態勢をとるが、
大和では国衆が不穏な動きをみせているため、積極的に出られない。

状況は三好方が優勢だったのだ。

tenmagamori12.jpg
<イラストの地図は上が北。
複数の川が海に流れ込む複雑な地形、大小の洲が多くあった。

もっと多くの洲に分かれていたともいわれる。
本願寺もイラストのごとくではなく、洲の一つにあったという説がある。
当時の正確な地図はわからないのだろう。

野田、福島砦、はそういった洲の、低湿地のなかの、
すこしは小高いところに築かれたのだと想像する。
多くの湿地や水路が防御に役立ったのではないだろうか。

野田、福島砦、石山本願寺付近は海に近い。本願寺から西へ5kmほどで大阪湾だ(当時)。

野田、福島は現在では大阪の中心地、JR大阪駅や梅田に近い。
石山本願寺は現在の大阪城にあったと言われている。

そう思って見ると、大阪には海や川に関係する地名が多い(大阪は八百八橋といわれた)。
難波、木津、住之江、海老江、中之島、船場、北浜、など>



信長は八月二十日、岐阜を発った。二十三日、京の宿所、本能寺に入る(あの本能寺)。
一日休息しただけで、二十五日、南に向かった。
信長はグズグズしていない。この行動力と早さが、信長に爽やかさをおぼえる。ボクは。

このとき直接、信長に従ったのは三千ほどだったという。
だが、前々日に京を発した織田勢は四万の大軍だった。

信長は淀川を越えて河内へ入る。枚方(ひらかた)の招提道場(現大阪府枚方市の敬応寺)に陣を取 った。
この後、本願寺と戦うことになるが、この時点で、信長は戦うことを想定していなかったようだ。
本願寺は手を出さないだろうと思っていた。
なぜなら招提道場は本願寺の道場だった。蓮如とも関係の深い寺だったからだ。


二十六日、信長は三好勢の野田・福島砦から5kmほど南の天王寺に陣をしく。

信長配下の武将や三好義継、松永久秀、和田惟政、などの畿内の守護、
幕府奉公衆、が参加して三好方の野田、福島、両砦を包囲した。
『諸勢には天満の森から川口・渡辺・神崎・上難波・下難波をつらぬいて浜の手まで及ぶ陣地を築かせた』(信長公記)

このとき、
『天王寺には大坂・堺・尼崎・西宮・兵庫の各地から人々が集まり、
内外の珍物を携えて信長公へ挨拶に訪れる者や、
織田勢の陣立てを一目見ようと見物に訪れる者が群れをなした。』と『信長公記』にある。

戦災にみまわれる庶民?がいる一方で、陣立てや戦を見物する者も多くいたのだ。
自分に禍がおよばない限り、見物の対象だったのだろう。
弁当持参で出かけたのかもしれない。
好奇心と緊迫感の対比があった。

今からみれば、「なんと贅沢な!」と思う。
映画などの作り物ではない、実物の、それも臨戦態勢の織田勢なのだから。

史上、多くの合戦があったが、こういった見物行為があったのだろうと、ボクは想像している。

脱線した。
そんな織田勢、幕府奉公衆に対して三好方は両砦に籠り、兵を出さず長期戦の構えをみせた。


次回、「信長夜話・その92」につづく・・・




*谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。









  1. 2017/10/10(火) 07:21:13|
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野村合戦三(信長夜話・その90)

中華食材のテレビCMで、ぐっさんと回鍋肉?を取りあっているのは高畑充希だと思っていた。
「このCMのころと比べると、最近の高畑充希は大人びてきたものだなぁ・・・」とボクは思っていた。

ところが、そのテレビCMに出ているのは別人で、杉咲花というタレント(女優?)だという・・・
えっ!そうなの、えっ!似てるなあ!
共通遺伝子が多いのだろうか?



ということで、
前回の「野村合戦二」の続き、以下。

有名な「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。
織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙した(兵数には異説あり)。

巳の刻(午前10時ごろ)、
野村(地名)では、浅井勢が姉川を渡河して織田勢を攻めた。
浅井勢は兵力でまさる織田勢を圧倒するも、しだいに織田勢に押しかえされる。
たまらず、浅井勢は北国脇往還を北へ退却した。

織田勢は小谷の近くまで追撃したという。
浅井勢の多くの死傷者は、このときに出たのだろう。

zanteki12.jpg
<傷ついたりして逃げおくれた兵は、よってたかってなぶり殺しにあっただろう。
野生の動物のように、
中には、命乞いをしたものもいただろう。

まだ息のある敵兵はとどめをさされた。
この戦に限らないが、戦ではねられた首のほとんどは足軽や雑兵だったといわれている。

こういった戦の後の処理は、このあたりまでではなかったか?
勝者は敗者の領地、領民を吸収して勢力を増していく。
大陸のような皆殺しの思想はなかっただろう。>




信長は再び横山城を包囲、これを無血開城させた。
定番として木下秀吉を置く。

さらに南の磯野員昌(かずまさ)が守る佐和山城(現滋賀県彦根市)を丹羽長秀に包囲させ、
翌年二月二十四日に開城させた。磯野員昌は退去。
員昌はのちに信長に仕える。

信長は戦に勝っても、勢いにのって小谷を攻めることはしなかった。冷静だ。
戦う可能性のある勢力は、他にもある。自軍の消耗を避けたのだろう。


「・・・首数の事、さらに校量(きょうりょう・比べ量ること)を知らず候の間、注するに及ばず候。
野も田畠も死骸ばかりに候。誠に天下のために大慶これに過ぎず候。」
六月二十八日付け、細川藤孝宛、信長書状(『津田文書』)

細川藤孝(ふじたか)は当時、将軍、足利義昭の側近だった。
藤孝は、この書状を義昭に見せるだろうと、信長は思っただろう。
信長の書状、それは将軍義昭への威圧でもあったのでは?

『津田文書』の他にも信長書状が残っている。
信長は「野村合戦(姉川の戦い)」の勝利を喧伝したのだ。


一方、「徳川対朝倉」を簡単に・・・

野村(地名)の西、三田村(地名)で、兵力の劣る徳川勢が朝倉勢とぶつかった。

徳川勢が攻める。
朝倉勢はジリジリと後退した。
朝倉勢の士気は低かったのだろう。

朝倉をのぞく三軍は当主みずからが出陣しているが、朝倉義景は出陣していない。
かわりに朝倉景健(従兄弟?)に総大将を任せた。

当主のやる気のなさは
上級指揮官→下級指揮官→兵へと、末端まで伝わるものだ。
事におよんでの朝倉義景の処し方をみると、戦国大名として、織田信長の敵ではなかっただろう。

そして、「野村(地名)で浅井勢が崩れた」という報が朝倉勢に伝わると。
朝倉勢は退却にうつった。良いところなしだ。

浅井、朝倉勢は退却の際、多くの戦死者を出した。
しかし、「姉川の戦い」から3か月後、浅井朝倉連合軍は志賀に出陣、信長と対峙している。
損害は限定的だったのだ。

「出る杭は打たれる」
この後、反信長勢力の抵抗が強くなっていく・・・


<番外>
姉川の戦いには、こんな説もある。

1、横山城を包囲していた織田信長は、浅井長政は戦いを挑んでこないだろうと思い、
姉川を背にして包囲を続けた。
それを、夜陰にまぎれたのだろうか?忍び寄った浅井勢が織田勢を背後から襲った。
野村合戦(姉川の戦いでの織田対浅井)は浅井勢の奇襲だった。
(ボクは信じていない)

2、初戦で織田勢を崩したのは礒野 員昌ではなく遠藤 直経(えんどう なおつね)だった。

3、徳川と朝倉勢はにらみ合っただけで、戦わなかった。
(本当かもしれない)



礒野 員昌(いその かずまさ)のこと
大永3年(1523年)~天正18年9月10日(1590年10月8日)

今回の野村合戦(姉川の戦い、織田対浅井)で先陣をつとめ、
優勢な織田勢相手に奮戦したといわれている礒野 員昌。

「礒野」はこの字だったようだ。

礒野氏は、代々京極氏の家臣であった浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下に加わる。
父・員宗の死後、叔父の員清が家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。

員昌は佐和山城(現滋賀県彦根市)を本拠とし、対六角氏戦で度々武功を重ねた。
(佐和山城は「関ケ原の戦」の時は石田三成の居城)

元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いで、員昌は先陣をつとめ、織田勢相手に奮戦する。
しかし、多勢の織田勢に押しかえされ浅井側は総崩れとなり敗退した。(浅井勢の敗因には他説あり)
員昌の猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残る(『浅井三代記』)。
(「員昌の姉川十一段崩し」は史実としての評価は低い)

野村合戦の後、礒野 員昌の佐和山城は敵中に孤立。
翌元亀2年(1571年)2月24日、佐和山城を攻撃され信長に降伏した(『信長公記』 )。

降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江国高島郡を与えられた。
この頃、織田家の宿将は、琵琶湖周辺に配置されていた。
この高島郡の拝領は、「横山の木下藤吉郎、佐和山の丹羽長秀、安土の中川重政、長光寺の柴田勝家、
永原の佐久間信盛、宇佐山の明智光秀」と同等という破格の待遇であった。
織田側も員昌を認めていたのだろう。

それにしても、ついこの前まで敵将だったのに・・・
員昌は、なにかスゴイおみやげをもっていったのだろうか?
但し、信長の甥の津田信澄を嗣養子とさせられている。
すなわち、次の代は津田信澄(織田一族)が嗣ぐことになる。

その後、員昌は天正元年(1573年)9月の杉谷善住坊(織田信長を狙撃した男)の捕縛。
天正3年(1575年)8月の越前一向一揆の鎮圧に従軍。

しかし、天正4年(1576年)正月には、津田信澄が高島より上洛しており(『兼見卿記』)、
また、同年12月に朽木商人宛に、天正5年(1577年)閏7月には横江祟善寺宛に、津田信澄が安堵状を発行している。
この頃には員昌の権益は縮小、または家督の譲渡が行われていたと考えられる。

天正6年(1578年)2月3日、員昌は信長の意思に背いて叱責され出奔、
領地の高島郡は津田信澄に与えられた。
信長の叱責の内容は不明。一説には家督を譲るよう、信澄や信長が迫ったのを拒んだためという。

出奔後の員昌の行方はわかっていない、
「本能寺の変」において信澄や信長が亡くなると、高島郡に戻って帰農し(帰農ですよ!)天正18年(1590年)に死去した。
68歳だった。

礒野 員昌は畑の空を見上げながら、なにを思ったのだろうか・・・(よくある表現だな)
ボクは映画「ゴッドファーザー」で、年老いたビトー・コルレオーネ(マーロンブランドが演じた)が、
トマト畑で亡くなるシーンを思いだす。


子の礒野行信以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(伊勢、津藩藩祖)に仕えた。
藤堂高虎はこの「野村合戦」に浅井勢の足軽として参加、手柄をたて浅井長政から感状をあたえられている。
その後、高虎は天正年間に、員昌に仕えていたことがある。

藤堂高虎はつぎつぎと主君を変え、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦」当時には大名になっていた。
足軽として参加した「野村合戦」から30年後だ。
豊臣秀吉までとはいかないが、大化けした。
高虎は、自分を正当に評価しない主君を見限って変えた、という逸話がある。
脱線した。

礒野 員昌の孫の行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦いで増田盛次を討ち取る手柄を上げている。
娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人・小堀政一を生んでいる。




谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。







  1. 2017/04/25(火) 12:40:43|
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野村合戦二(信長夜話・その89)

今年も「桜の季節」をむかえることができそうだ。
若いころには、そんなことを思いもしなかった。
二か月もすれば初夏、六月がやってくる・・・



ということで、前回の「野村合戦一」からの続き・・・


有名な「姉川の戦」の実相はわかっているようでわからない?
実際に参加してもわからなかっただろう。

「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。

「姉川の戦」はこうではなかったか?

野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。



元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くに移動、陣をしいた。


横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告が入る。
「浅井勢がこちら向かっている。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)」と・・・


「おおっ、新九郎(浅井長政のこと)のやつ、やる気だな」(長政は信長の義弟)
信長は浅井長政は小谷から出撃してはこない、と思っていた。
七日前、小谷を包囲したときには長政は信長の挑発には乗ってこなかった。
浅井勢は織田勢より劣勢だ。平地での戦は浅井勢にとって不利だ。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

軍勢の戦闘員は全体の5割とも4割ともいわれる。それ以外は補給を担当する輜重隊(しちょう)などだ。
だとすれば、織田の戦闘員は七千、徳川は二千、浅井は四千、朝倉は四千、ということになる。

浅井を四千にしたのは地元だから、補給もしやすかったと想像した。
織田、徳川、朝倉は遠征だから輜重に従事するものが多かっただろう。
そうだとすれば、戦闘員の兵力差はあまりない。


浅井長政は朝倉氏からの援軍が来たこの時が、信長に戦いを挑む好機だとおもっていた。
朝倉は浅井と同盟関係にあるものの、いつも援軍を差し向けるという保証はない(援軍を差し向けるのにも負担がかかる)。
雪の季節や農業の繁忙期(兵のほとんどは農業従事者)には難しくなる。

前述したように織田と浅井の戦闘員の兵力差はそれほどはない。
浅井勢の士気は旺盛だ。
うまくいけば、織田勢を突き崩すことが出来るかもしれない?
そうなれば、横山城守備隊も織田勢の背後から戦闘に加わるだろう。
と長政は想像したのではないのか?

信長の首を上げることはできなくても、
織田勢に痛撃を与えることが出来れば、しばし信長は手を引くだろう。
その間に軍を整え、反信長勢力との協力体制を固めて、信長に対峙しようと長政は思った。


信長は横山城に対して美濃衆を抑えにおいて、
姉川の対岸の浅井勢に対するため、横山城を背にして陣を組み直した。
龍ケ鼻の近くが信長の本陣だったという。
「龍ケ鼻・たつがはな」とは横山城のある丘陵の先端の地名。「辰鼻」という表記もあるようだ。


<織田の布陣>
先頭から、
坂井政尚(2,000)、池田恒興(1,000)、木下藤吉郎(1,000)、柴田勝家(2,000)、森可成(2,000)、
佐久間信盛(2,000)、織田信長本隊(3,000)、丹羽長秀(不明)
横山城への備えとして氏家直元、安藤範俊などの美濃衆(合わして1000)

<浅井の布陣>
先頭から
磯野員正(1.000)、浅井政澄(1,000)、阿閉貞秀(1,000)、新庄直頼(500)、浅井長政本隊(3,000)
横山城守備として
大野木秀俊、三田村邦宏、野村直元、野村直次、(500)

<徳川の布陣>
先頭から
酒井忠次(1,000)、小笠原長忠(1,000)、石川数正(1,000)、徳川家康本隊(2,000)

<朝倉の布陣>
先頭から
朝倉景紀(2,000)、前波新八郎(2,000)、朝倉景健本隊(4,000)

各武将の布陣はこの説に従うことにする(他の説がみあたらなかったから)

浅井 6,500、朝倉 8,000、織田 15,000、徳川 5,000、ということになる(非戦闘員もふくむ)。
軍勢の正確な数は当時でもわからなかっただろう。兵数はボクが適当に割りふった。

anegawafukan22.jpg
<姉川を空から見たところ。上が北だ。
右手前の下の丘陵が「龍ケ鼻」。この近くに信長の本陣があったといわれる。
絵には入っていないが、下(南)に横山城があった。

絵の中ほどを左右(東西)にくねりながら流れるのが姉川。
絵の上部(北)に大依山(おおよりやま)。その左(西)に小谷。

「龍ケ鼻」から姉川の間に織田勢は数段の陣をしいたといわれている。
姉川では織田勢と浅井勢の先鋒が衝突している。

その上、姉川の北に浅井の各隊と長政本隊。

姉川を左(西)にたどると、徳川勢と朝倉勢がぶつかっている、ところとした。>



姉川は、川幅200m、彼我の距離800mぐらいではなかったか?
(現在は管理されて水量は少ない)

朝もやのなか、姉川の対岸に敵の前衛が見える。

いくつもの集団がみえる。
多くの旗指物が風に揺れている。
使番(つかいばん・伝令)が騎馬で走る。
移動する集団、武具がすれる音、馬のいななき、


野村(地名)では浅井勢(磯野員正隊、1000)から攻めかけたのだろう。

磯野隊(浅井)最前線の指揮官が激をとばす。

「いいか!尾張のへなちょこどもに浅井衆の力を見せてやれィ!」
「お前たちの行く末は、この戦場(いくさば)にある。褒美はのぞみしだいぞ!」
「うぉ~ヴぉ~うぉ~」と兵が答えた。
鬨の声だ。

前線の各隊ごとにあちこちで鬨の声があがる。
鬨の声は兵の士気を鼓舞する。そして敵への威圧でもある。

tokinokoe12.jpg
<イラストは鬨の声をあげる指揮官と長槍隊とした。
この部隊の指揮官は幾度も戦を経験したベテラン
長槍衆はムシロを背負っている。野宿のときなどに地面にしいた。

他方、鬨の声をあげず、シーンと沈黙する部隊もあっただろう。それも不気味だ。>



「前へーっ!」
磯野隊(浅井方)の長柄槍衆が前進、渡河をはじめる。
声はかき消されることがあるから、大太鼓(押し太鼓)を叩いたのかもしれない。
「ドーン、ドーン、ドーン、」は前へ。
「ドンドンドンドン」は引け、の合図。

最前列には、敵の鉄砲や弓矢を防ぐため、楯をもった足軽が並ぶ。
その後ろに長柄槍衆、三段の横陣、兵どうしの間隔は狭い。槍は肩に担いでいる。

川の浅いところを足元を確かめながら渡る。
川の音、はためく大小の旗、鎧や武具がすれる音、兵の息遣い・・・

ある槍衆は腰の竹製の水筒に手をやった。
喉がカラカラに渇くのだ。


槍衆の背後の指揮官が大声を上げる。「いいか!押しまくれ!下がるものは斬る!」
何人もの甲冑武者が腰のものを抜く。槍足軽への脅しだ。
ドラマにある光景だが・・・

戦場では、恐ろしさと興奮が入り混じった感情が支配する。
普通、道で野犬にであっても怖さをおぼえる。
ましてや敵は武装した人間だ。怖くないわけがない。

イギリス陸軍は、軍曹を恐ろしい上官として兵の意識にに刷り込んだという
敵と対峙したとき、後ろでスゴイ顔で睨みつけている上官の軍曹より、前にいる敵兵のほうがマシ、
と思わせるためだという。以前、そんな記事を読んだ覚えがある。

おそらく本当だろう。西欧の軍隊を手本とした旧日本軍にも同じことがあったのだろう。
それが旧軍の新兵イジメに影響したのではないだろうか?とボクは想像している。

脱線した。
怖じ気づかないよう指揮官が兵を脅したのではないだろうか?
一人の怖じ気が全体に伝わり、崩れることを恐れたのだ。


映画やテレビの合戦シーンというと、必ず兵が走るが、そんなことはなかったのでは?
走っていては、敵とやり合う前に息が上がって戦えない。
甲冑武者の装備は20kg~30kgだった。
足軽具足は5kg+武具+携帯食糧など=10kg~15kgぐらい?だったと想像する。

走る必要もないのに走ったりはしない。歩く速度で押していく。
敵兵とやり合うときに力を出す(出させる)のが自然だろう。


渡河してくる磯野隊(浅井)の長槍衆が川の中ほどを過ぎたころだった。
対岸の藪や竹束などの遮蔽物の陰から、連続した銃声、閃光と煙があがる。
坂井隊(織田)の鉄砲隊が撃ちかけた。

想像を超えた数の鉄砲の射撃だったのではないだろうか?
のけぞる兵、腕をおさえてうずくまる兵、血しぶきをあげて倒れる兵、・・・

すると、浅井側の長柄槍隊の背後から、浅井の鉄砲隊がその発砲地点をめがけて応戦する。援護射撃だ。
前進する槍衆の背後から撃ちかけるのだから、味方の槍衆を誤射することもあっただろう。
戦はそういうものだ。第二次大戦でも味方に撃たれた例はいくつもある。

種子島(火縄銃)の最大射程500m、有効射程200m、殺傷射程80m、と想定した(異説あり)


磯野隊(浅井)の槍衆が鉄砲の射撃をうけて前進がとまった。坂井政尚(織田方)の槍衆が対岸に現れる。
織田の誇る、三間半長柄の槍衆だ。揃いの装備、旗指物、織田の足軽の装備は美しい。
織田は金持ちなのだ。

nagaeyari.jpg
<イラスト左が三間半長柄槍、約6m30cm。イラスト右が三間の長柄槍、約5m40cm。
槍をもつ足軽は1m60cmの身長とした。三間半長柄槍は身長の4倍だ。
三間柄が一般的だった。信長は三間半柄を長槍隊に装備させたという。
「弱兵は接近戦を嫌うので長い槍を装備させた」という説がある>



最前線の部隊は「御貸具足(足軽からみれば御借具足)」という武将が用意した具足を装備していた、と想像する。
最前線には体力があり、訓練をほどこした兵が配置されたとおもわれる。
揃いの装備は敵への威圧にもなる。

当時は武将も部隊も目立つことが必要だった。そのいでたちは派手で個性的だったろう。
「御貸具足」は無制限にあるわけではないので、二線級の部隊の装備は不揃いだったのではないだろうか?



当時の戦では、長柄槍隊こそが決戦部隊だった。その勝ち負けが戦に影響した。
鉄砲も有力な兵器と認められつつあったが、
長柄槍隊の前進を援護したり、敵の前進を阻止する役割をになった。

磯野隊(浅井)の槍衆が坂井隊(織田)の槍衆とぶつかる。
両軍とも、一斉に槍を振り下ろす。目標は敵の槍足軽の頭部だ。

この場合、長柄の織田槍衆のほうが有利だが、叩きつけたり振り上げたりするには体力がいる。
叩きつける回数では織田の長柄槍より短い浅井の槍のほうが勝ったのではないだろうか?


最前線の槍衆に疲れがみえる。
「二番、前へーっ!」
背後の新手の槍衆が入れ代わって前に出る。

新手の槍衆が敵に向かって、槍を叩きつける。
怒鳴り声、槍が叩きつけられる音、川の水が飛び散る、鎧のすれる音、
槍がしなって風をきる音、喚声、うめき声、血の匂い・・・

yaritai12.jpg
<槍衆の戦いは我慢くらべだ。
叩きあううちに、 横にいた足軽が陣笠を割られて倒れたり、引き気味になったりすると、
「押されているのではないのか?」という不安がはしる。
接戦では敵の勢いのほうが強いと感じるのが戦場心理だろう。

さらに数人が倒れたりすると、槍衆が崩れはじめる。
逃げ遅れれば命とりになる。
槍衆は集団であることが重要なのだ。>




しだいに坂井隊(織田)の槍衆が押されはじめる。
磯野隊(浅井)は姉川の対岸に届いた。渡河に成功した。
最前線の槍衆が崩れはじめると、後衛に伝染する。

坂井隊(織田)は後退してくる前衛の槍衆に代わって、後衛の槍衆が前に出る。

しかし、勢いにのる浅井の槍衆は坂井隊(織田)の後衛も押しかえす。
ついに織田の最前線、坂井隊が崩れはじめる。


先陣の磯野員正(かずまさ)隊の奮戦に、後に陣をしいていた浅井政澄隊(1,000)、阿閉貞秀隊(1,000)
も姉川を渡河して加わる。
坂井隊(織田)の後ろに布陣していた池田恒興隊(織田)は、後退してくる坂井隊の影響で陣形が乱れる。
浅井勢は押しに押した。勢いのあるうちに勝戦にもちこみたいのだ。
池田隊(織田)も後退しはじめる。

その池田隊(織田)の後ろにいたのは木下藤吉郎隊(織田)だった。使い番(伝令)が走る。
木下隊とその後ろの柴田勝家隊(織田)へは「敵(浅井)の前進をくいとめよ!」
後退した坂井隊と池田隊には「たて直して側面から攻めよ!、包み込め!」と、

木下隊(織田)と柴田隊(織田)は前進してきた浅井の諸隊とぶつかった。
浅井勢の前進阻止のため、鉄砲射撃を加えたいのだが、
後退してくる坂井隊(織田)、池田隊(織田)が混じっているから、むやみに射てない。


両軍の押したり引いたりが続く。
織田は、さらに森可成隊(織田)も加わる。ここが勝負どころだった。

見透しのきく平地での戦いは、兵力のまさる織田方が有利だ。
すこし疲れが見えはじめた浅井勢の前に、織田勢の新手が次々と現れる。

蹴散らされた坂井隊(織田)、池田隊(織田)も態勢を整えて、縦に伸びた浅井勢の側面を攻撃しはじめる。
浅井の先頭部隊が背後を織田勢から側面を攻撃されたことに気付く。不安がはしる。
もし包囲されれば孤立してしまう、と


浅井勢の前進が、ようやくにぶりはじめる。
すると前面の木下隊(織田)と柴田隊(織田)が勢いづく。
ジリっと浅井勢が後退しはじめる。

さらに浅井勢の後退がハッキリしてくる。
姉川の岸まで押しかえされる。

浅井の兵が姉川を渡って対岸へ向かうものが出てくる。
逃げ遅れれば、よってたかって、なぶり殺しにあうからだ。
群れから遅れたり、傷ついた兵は格好の獲物だ。


不安が浅井勢を包む。。
われ先に兵が姉川を渡って逃げる。
指揮官が「引くなぁ!もどせぇ!」と怒鳴っても、崩れたった兵を引き留めることは出来ない。
浅井勢は崩れた。

織田勢は追撃にうつった。
織田の鉄砲隊の発射音が響く。

次回に続く





谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
東郷隆・上田信 著「戦国武士の合戦心得」講談社文庫¥495+税
を参考にしました。






  1. 2017/04/04(火) 13:38:41|
  2. 信長夜話
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