ブエノス小僧のイラストブログ

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浄土真宗と一向宗は同じ?(信長夜話・その97)

ボクは無宗教と言っていい。
外国人から見れば「そんなヤツの言うことは信じることが出来ない」というヤカラだ。

随分と前だが、もし宗教を選べといわれたら、「仏教」だと思った。
理由があったわけではない。直観のようなものだ。
他の宗教には違和感があった(今もそうだ)。

実はボクの実家は「浄土真宗大谷派(東本願寺)」だ。
すでに両親は亡くなっている。
兄がその後を継いだ。

わけあって、禅宗から浄土真宗に宗旨替えをした。ボクも関わった。

ボクは年一回、お盆の先祖供養に行く、兄とボクの二人で、
正直に言えば、それもボクはすこし「めんどくさい」と思っているが、
兄一人では「張り合いがないのでは?」と思って出かけている(恩ぎせがましい)。

ボクは仏縁の薄い人だ。
それで良いとおもっている。ボクなりの考えがあるが、今回は触れない。

ブログのカテゴリー「信長夜話」を書くにあたって「浄土真宗、本願寺、一向宗」のことを調べた。
先入観と想像にまかせたことは書きたくないからだ。
くしくも、実家の宗派にすこしは近ずくことになった(これも仏縁?)。


「信長対本願寺」を書くには、「浄土真宗、一向宗」に触れないわけにはいかない。
しかし、簡単ではない。
時間の経過とともに、解釈が加えられ変化するから。なにごともそうだ。


ということで、ボクの初歩的疑問を調べてみた。

1、浄土真宗と本願寺と一向宗は同じ?
2、浄土真宗の教えってなに?
3、阿弥陀仏とは?
4、浄土真宗のはじまりとその後?



1、浄土真宗と本願寺と一向宗は同じ?

本を読むと、「一向宗」「浄土真宗」「本願寺」が、同じかのような印象をうける。

初め、一遍〔延応1年(1239)‐正応2年(1289)〕の教団である時宗を「一向宗」とよんでいた。
一遍が『一向専修(ひたすら修行、または念仏する)すれば阿弥陀樣が浄土へと救済してくれる』と説いたからだ。

時宗のことはややこしくなるので、省略。

時が過ぎ、親鸞を宗祖とする「浄土真宗」の本願寺教団を「一向宗」と呼んだ。
『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、
とくに阿弥陀仏の名を称えることと解釈された。

浄土宗は親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」と呼んだ。
(浄土宗とは親鸞の師匠、法然の宗派)

しかし、親鸞の浄土真宗教団はこの名を自称しなかった(ややこしい)。
教団外からの呼び名だったということになる。

平安末期、法然の教えは急速に広まったため、弾圧を受け三つに分裂。
そのひとつが親鸞の「浄土真宗」(親鸞死後からの宗派名)だ。
「浄土真宗」とは「浄土を顕かにする真実の教え」からきた。


「浄土真宗」の中興の祖といわれる本願寺八世、蓮如は
「われわれ浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない・・・違反者を破門する」とまで述べている。
しかしそれは、浄土真宗の門徒ですら「一向宗」を自称する者が多くいたからだろう。

《*蓮如「応永二十二年(1414)2月25日 - 明応八年(1499)3月25日」、信長の生まれる35年前に亡くなっている。》

なので、教団内では正式に「一向宗」は使われることはなかった。
「浄土真宗」または「真宗」と称した。
しかし、浄土真宗門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、
真宗教団のことを教団外から「一向宗」と呼ぶ風潮は続いた。

結論、一般的には「浄土真宗」を「一向宗」と呼んだのだ。


「本願寺」とは→
「浄土真宗」の一宗派、言ってみれば総本山。
実は本願寺以外にも「浄土真宗」にはいくつかの宗派がある。「真宗十派」ともいわれる。
以下、

真宗大谷派(おおたに)→東本願寺

浄土真宗本願寺派(ほんがんじ)→西本願寺

真宗高田派(たかだ)

真宗佛光寺派(ぶっこうじ)

真宗興正派(こうしょうじ)

真宗木辺派(きべ)

などなど

現在でも東と西の本願寺派が大勢力だ。

amida11.jpg


2、浄土真宗の教えってなに?

親鸞は、7000巻余りのお経の中で、お釈迦さまの本心が説かれているのは、
『大無量寿経』ただひとつであると言った。

『大無量寿経』には、阿弥陀仏の本願が説かれている。

「お釈迦さまは、私がこの世に生まれてきた目的は、阿弥陀仏の本願を説いて、人々を幸せに導くためなのだ。
阿弥陀仏の本願の説かれている『大無量寿経』は、未来永遠に残り、多くの人を幸せにするであろう…」と、

このようなことが書かれているお経は、他にはない、という。
「ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、全ての人は往生することが出来る」と説いた。

浄土真宗は、多くの宗教儀式などにとらわれず、報恩謝徳の念仏と聞法を大事にする。
加持祈祷を行わない。作法や教えも簡潔であったから、庶民に広く受け入れられたのだ。
ということは、他の宗派は宗教儀式などにとらわれ、加持祈祷を行ない、
作法や教えがムズカシかったのだろう。

そのため、他の宗派からは「門徒物知らず」(門徒とは真宗の信者のこと)などと悪口も言われたらしい。
勢いを増していく浄土真宗への「やっかみ」もあったのだろう。
坊主は「物事にとらわれるな(執着するな)」と説くことが多いが、とらわれていたわけだ。


3、阿弥陀如来ってなに?

阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教の如来の一つ、梵名はアミターバ。
あるいはアミターユス といい、それを阿弥陀と漢訳した。

梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」の意。

無限の寿命、限りない光(智慧)、を持って人々を救い続ける、西方極楽浄土の教主(東方は薬師如来)。
四十八願(しじゅうはちがん)という誓いを立て、「南無阿弥陀仏」と唱えたあらゆる人々を必ず極楽浄土へ導く、という。
また、他力本願も四十八願の誓いから来ており、本来は阿弥陀様にすがって極楽に行こうという意味。

お釈迦さまが、「私の尊い先生を紹介しましょう」と、教えてくだされたのが、阿弥陀仏(弥陀)、だという。


4、浄土真宗のはじまりとその後?(親鸞~蓮如~顕如)

平安末期、親鸞は法然(浄土宗)に師事した。

「浄土真宗」は鎌倉時代中期、親鸞によって始められた。
(親鸞自身は独立の意思はなく、終生、法然の弟子だと思っていた)

室町時代中期、中興の祖「八世・蓮如」が現れて、「浄土真宗」は著しく興隆することとなる。
しかし、蓮如の活動が、比叡山の勢力圏である近江の村々に広く及んだため、
叡山の反目をかう。寛正六年(1465)本願寺は襲撃をうけて破壊された。

蓮如は、近畿を転々とした。
やがて越前(福井県)の吉崎を拠点として北陸を布教。
蓮如は民衆にわかりやすく浄土真宗の教えを説いた。
その教えは各層(武士にも)各地にひろがった。

ともすれば、ムズカシイ言葉で語りたがる教えを、わかりやすい言葉と内容で布教した。
これが蓮如のスゴさのひとつだろう。

「なぜ、物書きはムズカシイ言葉を使いたがるのだろう?
それは、自分を知的に見せたいためだ。こんな言葉も知っているのだ、・・・」と、
ある作家の本に書いてあった。ボクは納得した。

カタカナ語を使いたがる手合いも同じだろう(ボクはカタカナ語が嫌い)。
得意げにカタカナ語を使う人をボクは軽く軽蔑している。

脱線した。

教えを説く立場の蓮如が、わかりやく説いた(書いた)。
当時でも平易に説く僧は少数派だったのだろう。
だから後々まで「蓮如は平易に浄土真宗の教えを説いた。」と言われるのだ。

次の実如・証如・顕如の時代は、戦国の争乱期にあたる。
天文元年(1532)山科本願寺は日蓮宗徒や細川氏らの攻撃をうけて炎上(信長が生まれる3年前)。
そこで、大坂の石山(大阪本願寺、現大阪城の地)に移り、ここを本寺とする。

このころ本願寺は加賀(現、石川県)を支配下に置き(門徒衆の国)、
全国にわたって門徒を擁していたので、その社会的地位は大いに向上した。
そして宮廷や公家にも接近した。

永禄十一年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
元亀元年(1570)、本願寺(顕如)と信長は衝突する。
約10年間にわたる石山合戦だ。
(「信長対本願寺」については、この『信長夜話』で書くので経過は省略)



浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」と唱える。「ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ・・・」と。
「南無阿弥陀仏」の「南無」とは「お任せします」ということだ、ときいたことがある。
(南無八幡大菩薩、南無妙法蓮華の南無も同じ)

そうか!「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏にお任せする」ということなんだ。
「人間の知恵など、たかが知れている。人はいつもアレコレ悩む。
そういうことは阿弥陀様にまかせて、本当に大事なことに力(頭)を使いなさい。
たとえ苦難があったとしても、阿弥陀様がお前を導いてやるよ・・・」ということなんだ、とボクは解釈した。

たった六文字で、これだけのことを想起させるのだから、大したものだとボクは思った。

日本人は「神に甘える」ことが下手だと言われる。
なにもかも自分で解決しようとする(出来るかどうかは別)。

キリスト教徒の「主の思し召しのままに・・・」「主の御心のままに・・・」などは、
迷ったり、困難に遭遇したときの「神への甘え」だろう(意地悪く見れば)。
「ベストを尽くしますから、あとはお願いします」と、

イスラムなら、「インシャアッラー」
アラビア語で「もしアッラー(唯一神)が望むなら」という意味。
「人としてできることはするけど、うまくいくかどうかは神のみぞ知る」というような解釈だ。


ボクは深遠な仏教の教えは知らないが、
「仏教の教えは人生の参考書になる」と思ったことがある。

仏教は「物事にこだわるな、執着するな」と説く。
それが悩み、苦しみの元だから。
「愛するな」ともとれる。愛=執着だから。

人生は四苦八苦と説く。
それを、すこしでも軽くするのが「こだわるな、執着するな」だと、解釈している。
理解できる。でも簡単ではないだろう。
そう説く坊主にも、こだわりや執着があるように、ボクにはみえる。

仏教の教えには参考になることが多い。長所だ。
しかし熱心な信者のなかには「正しいことを貫くのは、良いことだ」と思い込み、
他人を苦しめたりする。原理主義者なりやすい(どんなことでも)。

何事も良いことばかりではない。

信長と対峙した本願寺教団にも、原理主義的傾向がなかったとは言えないだろう。







  1. 2018/05/08(火) 07:31:19|
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上町台地の北の端(信長夜話・その96)

今回は、信長と約10年にわたって戦った顕如の本拠地、「大阪本願寺」(石山本願寺)のこと。

普通、「石山本願寺」と呼ばれることが多い。
秀吉時代に天満に本願寺が移されたため、後世、それと区別するため「石山本願寺」と呼ばれることになった。(異説あり)
当時は「大阪本願寺」と呼ばれていたようなので、今回は「大阪本願寺」とする。

明応五年(1496)、あの蓮如がこの地に御坊を築く。
大阪平野を南北に連なる上町台地(うえまち)の北の端。大阪市内唯一の台地。
その後、大阪本願寺(石山本願寺)は寺内町とともに発展、豊臣時代を経て大都市、大阪となる。
大阪人は秀吉好きだが、蓮如にも感謝したほうが良いかもしれない。

当時は「虎狼のすみか」だったといわれていた。
森や藪だったのかもしれないが、それほど辺鄙ではなかったのではないだろうか?
近くに古くからの交易の要衝「渡辺津・わたなべのつ」があった。

渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運海運の拠点だ。(大量輸送の手段は船だった)
さらに、京や堺、和泉・紀伊、山陽方面をつなぐ陸上交通の要でもあった。
多くの人が行きかい賑わっただろう。


渡辺津から台地に上がる急坂があった。これを「大阪」と呼んだ。
「大阪本願寺」の名の所以だという。

上町台地の北の端ということは、そこで台地は終り、低地へ下ることになる。
そこには大和川や淀川が海へと流れ込んでいた。
大阪を流れる多くの川が集まる場所だった。

大小の洲や湿地が、あちらこちらにある複雑な地形だ。
防衛上の利点、交通、交易の要衝。
「信長が欲しがった」という説が一般的だ。おそらくそうだろう。
信長より前に、この地に目をつけた蓮如はスゴイ!


isiyama143.jpg

<イラストは天満森(てんまがもり)上空から台地上の大阪本願寺城(城と呼ぶにふさわしい)を望む。
右の川を挟んだ集落が「渡辺津」。

本願寺城の南には天王寺(信長が第一次石山合戦のとき、最初、本陣を置いた)。
その先、遠くは河内長野から高野山。
イラスト向かって右は大阪湾が近い。正面後方は南都(奈良)方面。左後方は京へつながる。

だいたいこんな感じだったようだ。
信長との和議成立後、大阪本願寺は焼失。その地に秀吉が大阪城を築いた。
現在、秀吉の大阪城は発掘調査中だ。
顕如時代の本願寺は、まだわからないことが多くあるのだろう。

イエズス会、ガスパル・ヴィレラが永禄四年(1561年)8月の手紙に大阪本願寺のことを書いている。

『・・・日本の富の大部分は、この坊主の所有である。
毎年、はなはだ盛んな祭りを行い、参集する者ははなはだ多く、
寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者を出す。
・・・夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。
朝になって鐘を鳴らして朝のお勤めの合図があると、皆、御堂に入る。・・・』と、

イラストは「図説・戦国合戦集」学習研究社 ¥1,900+税、を参考にしました。>



大阪本願寺は、堀、塀、櫓を設けて防備力を増していき、「寺内町」が形成された。
大陸の城郭都市のようだ。
御坊を中心に、その周辺に法主一族や有力家臣の屋敷があった。
住民は商人、職人、農民、のほか、芸能民なども住んでいたという。
経済発展とともに町は拡大、「摂州第一の名城」と言われるほどになり、「大阪本願寺城」とも呼ばれるようになった。

顕如は「大阪本願寺城」にあって、織田信長との約10年間を戦うことになる。
(「大阪本願寺城」周辺の戦いは数回)
織田水軍が勝った「第二次木津川口の戦い」以後、天正六年(1578年)~天正八年(1580年)の約1年半、
無補給で耐え続けた。日本史上まれだ。



<蓮如~顕如の大阪本願寺>

明応五年(1496)、八世、蓮如が御坊を築く。

延徳元年(1489年)蓮如は法主を実如に譲り、山科本願寺に隠居した。
しかし、布教活動は盛んに行っている。

明応五年(1496年)9月に坊舎(大坂御堂)の建設を開始。、
これを中心に建設された寺内町が大坂の元となったと言われている。
建設には堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆が協力した。

明応六年(1497年)4月に上棟があり、11月には寺院が完成した。

永正三年(1506年)、「実如」は、摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて参戦した。
細川政元と畠山義豊との「明応の政変」以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められていたのだ。
ということは、すくなくともこの時までに本願寺は相当の武力を有していたことになる。

享禄四年(1531年)、本願寺教団内部で対立が起こるが、これを抑えて法主の指導力を強化した。
(後の「山科本願寺の戦い」まで含めて「享禄・天文の乱」と呼ぶ)

享禄五年(1532年)5月、河内の飯盛山に立て籠もった木沢長政を
主筋である畠山義堯、三好元長、筒井氏の連合軍が攻めた。

実如の後継者「証如」は、細川晴元からの救援の要請に応じて大坂本願寺から門徒衆2万の兵を率いて参戦。
6月には、攻囲軍を退散させる(飯盛城の戦い)。
2万の兵といえば、一流の戦国大名の動員兵力だ。

さらに一向一揆は三好元長(法華宗)を堺まで追い回し、自害に追いやった。
続々と集まった門徒は10万まで膨れ上がったと伝わる(10万ですぞ!)。
しかし、ここで解散をしないで大和へも乱入。(本部の制御が効かない状態だったのだろう)

天文元年8月初旬、一向一揆に危機感を覚えた細川晴元が本願寺の末寺や大阪本願寺に攻撃を仕掛けてきた。
晴元からの要請に応じた法華一揆衆や六角定頼らは同年8月23日、3万から4万の兵で山科本願寺を寺内町共々焼き討ちにした(山科本願寺の戦い)。
(法華衆も武装していたのだ、現在の仏教とは大違い!)

この時、証如は大坂にいた。そして大阪本願寺時代が始まる。
山科本願寺から持ち出された仏像も転々としたのち、ようやく翌天文二年(1533年)7月25日に鎮座。
この年を築城年とされている。この鎮座の時期が理由だ。

この間も細川晴元と大阪本願寺との戦いは続き、木沢長政や三好長慶らが大阪本願寺攻めに加わった。
敵味方がクルクル変わる。
大阪本願寺では坊官(最高指導者の家政を担当した僧侶のこと)の下間頼盛が指揮官として赴任、
紀伊の一向門徒衆にも援軍を要請したりした。

天文四年(1535年)11月末、「山科本願寺の戦い」から約4年後、ようやく両者で和議が成立。
下間頼盛は一揆を扇動した罪で兄の下間頼秀と共に本願寺から追放。後に暗殺された。
(前年の天文三年に織田信長が誕生している)

戦いの中で大阪本願寺は寺領を拡大、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、
塀、柵をめぐらし寺内町の防備を固めた。
証如の時代、すでに堅固な城郭都市になっていたと考えられている。

証如時代には中央や戦国大名家への外交が展開された。
天皇・公家衆への接近。戦国大名、甲斐の武田氏、相模の北条氏と親交を結ぶ。
そして敵だった細川晴元の養女を長男、顕如の正室に迎い入れるなど、
戦国大名と同盟を結んで大阪本願寺の絶頂期をむかえた。

証如の後継者、十一世「顕如」の時代となり、本願寺は織田信長と衝突することになる。
そのいきさつは「信長夜話」で書くので、今回は省略。






  1. 2018/04/17(火) 08:10:55|
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顕如光佐(信長夜話・その95)

織田信長の強敵はいくつか挙げられている。
甲斐の武田、越後の上杉、中国の毛利、将軍、足利義昭・・・だが、
最大の敵は「本願寺と顕如」だろう。

経済力、結束力(宗教的、士気)、連携力(ネットワーク、対信長包囲網)、武力(傭兵も含めて)、
広域性(各地に支部?がある)などなど・・・

敵対勢力の戦国大名の配下にも一向宗門徒(本願寺門徒)が少なからずいた。
越後の上杉、薩摩の島津、越前の朝倉などは一向宗と対立、
薩摩の島津はこれを禁じた。
薩摩では「隠れ念仏」という「隠れ一向宗」がいた。

キリシタンへの弾圧や殉教は、小説に書かれ、映画で描かれ、記念館がある。
比べると、一向宗へのそれは、ほとんどない(わずかだが関連本がある)。
日本人はキリシタンにやさしい(偏っている)ようだ。西洋に弱い。

脱線した。

徳川氏の三河でも一向宗に手を焼いている。
並大抵の相手ではない。


今回は信長と約11年にわたって戦い続けた浄土真宗本願寺、第十一世宗主、顕如(けんにょ)について

顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、本願寺を冠して「本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)」とも呼ばれる。
「顕如光佐」、良い名だ。

天文十二年(1543年)1月7日、本願寺第十世・証如の長男として顕如は生まれた。
母は庭田重親の娘・顕能尼。
これが本当なら(本当だろう)、織田信長より九つ年下だ。

天文二十三年(1554年)8月12日、父、証如が重態となり急いで得度が行われた。
翌13日、本願寺を継いだ。
祖母・鎮永尼の補佐を受けて教団を運営する。このとき、顕如、十一歳

弘治三年(1557年)4月17日、細川晴元の養女、如春尼と結婚。
本願寺は妻帯して良い(宗祖、親鸞は肉食妻帯した)。
如春尼の実の姉は武田信玄の正室・三条夫人であり、信玄と顕如は義兄弟にあたる。


顕如の時代、本願寺教団は、門徒による一向一揆の掌握に務めた。
本願寺の浄土真宗の教えには 「王法為本」 というものがある。
これは 「時の統治者(権力者)に従い、政治と秩序を助けることが仏法の道である」 という考えだという。

そして、顕如は管領の細川家や京の公家との縁戚関係を深めた。

要衝である石山本願寺を拠点として、
畿内を中心に寺を配置し、有力大名に匹敵する力をもつようになる。
教団は最盛期を迎える。

1568年、織田信長が足利義昭と上洛すると、顕如自ら織田信長に挨拶をした。

「信長の可能性は未知数だが、治安を回復するのなら歓迎する」という思いだったのだろう。
信長からの5000貫の矢銭(軍資金)の要求も、スンナリと応じた(内心はわからない)。

「まずは相手の出方を見よう、要求があれば一つや二つは呑んでやろう」と顕如は考えたのではないだろうか(ボクの想像)
信長に対して「王法為本」の姿勢だったのかもしれない。

本願寺は武家の封建関係の枠外で権力を握っていたことから、
比叡山延暦寺や堺の町衆などと同様に、信長による圧迫を受けるようになる。
(朝廷、寺社、幕府(将軍)、戦国大名、など異なる権力が複数あった)

信長はさらに要求してきた。
浄土真宗(一向宗)の信者の動きの報告、本願寺として命令を出す際には、信長の許可を取ること、
他の大名家との交渉はやめること、など

kennyo112.jpg

<イラストは石山本願寺の御影堂と阿弥陀堂の前に集まった門徒衆、傭兵たち、とした。
阿弥陀堂は名のごとく阿弥陀如来を安置する。
御影堂は宗祖親鸞や、その師匠、法然の御影を置く。
東(大谷派)と西ではお堂の位置が逆らしい。

イラスト真ん中は顕如。
信長と戦ったぐらいだから、脂ぎった坊主を連想していたが、残っている肖像画を見ると、ほっそりとして知的な感じがする。
目と目の間が広い、鼻が長くて大きい、顔は顎に向かって細く、らっきょのようだ(失礼)。

一休(宗純)や親鸞の肖像画ほどではないが、なかなか良い画だ。
「こんなオジサンいるよなぁ」と思わせる。

肖像画の顕如は目が涼しい。素直な感じがする。
しかし、イラストはボク流に「一癖ある顕如」にしてみた。

本願寺は出陣にあたって、「進むは極楽、退けば地獄」 と鼓舞したという。
高揚感に包まれた多くの門徒衆がいただろう。

しかし、違和感を感じたものもいたのではないだろうか?

「・・・阿弥陀仏の本願を説いて、人々を、本当の幸せに導く為・・・」
と説くが、状況が変われば「人を殺してこい」というのか?矛盾。
「浄土思想を利用した戦意高揚」だ。
暴力と人殺しを生業とする武士と比べると、よく言えば柔軟。悪く言えばズルい。

戦国時代の有力宗教教団は武装していた。「仏+武」だった。

崇高な理想ではじまったものが、ひとたび組織化されると、たちまち組織の存続、発展が第一義となる。
いつもそうだ。>



本願寺内部にはタカ派もいれば、ハト派もいた。
信長からの要求を呑んだことからすると、
顕如は当初はハト派だったのではないだろうか(ボクの想像)

しかし、信長からのさらなる要求、本願寺内部のタカ派からの突き上げ、
本願寺の総合力(軍事力や経済力、)への自信、信長包囲網形成の自信、三好党との密約(ボクの想像)
などが決断させたのだろう。
顕如は信長と敵対する。

元亀元年(1570年)に本願寺と織田氏は交戦状態に入った。
このとき、信長37歳、顕如28歳。


「本願寺×信長」の戦いの経過については、これからの「信長夜話」で書くので省略。

話は一気にとんで、天正8年(1580)正親町天皇の勅によって信長との和議が締結、
本願寺は紀伊(和歌山県)鷺森に移ることになった。
事実上の「本願寺の負け」である。信長47歳、顕如38歳。

「本能寺の変」信長の死・・・

信長に代わって実権を握った羽柴秀吉と顕如は和睦。
秀吉は石山本願寺の寺内町に大坂城と城下町を整備した。
天正十三年(1585年)大坂郊外にある摂津中島(後の天満の町)に移転して天満本願寺を建立。
ルイス・フロイスによると「秀吉の宮殿の前方にある孤立した低地」だったという。

秀吉は「住居に壁をめぐらしたり堀を作る」ことを禁じた。
本願寺は豊臣政権の強い統制下に置かれることになった。

この年、顕如は大僧正に任じられ、翌天正十四年(1586年)には准三宮の宣下を受ける。
また、秀吉から九州平定に同行するよう命じられ、下関滞在。

天正十七年(1589年)、聚楽第の壁に政道(秀吉の)批判の落書が書かれる事件があった。
その容疑者が本願寺の寺内町に逃げ込んだという情報と、秀吉から追われている「斯波義銀・細川昭元・尾藤知宣らの浪人が
天満に潜伏している」という情報を入手した豊臣政権は、
石田三成に命じて寺内町の取締強化と、これらの者を匿ったと断定された2町を破壊する厳しい成敗を行わせた。

肝心の浪人らは見つからなかったが、彼らを匿った罪で天満の町人63名が京都六条河原で磔となった。
顕如も秀吉から浪人の逃亡を見逃した理由で叱責を蒙り(『言経卿記』)、
さらに容疑者隠匿に関与したとして、あの蓮如の孫にあたる願得寺顕悟が自害を命じられた。


信長に敵対して、一時、信長を追いつめた「本願寺顕如」とは思えない。
「王法為本」にもどったのだろうか?

強大な権力は顕如一代のもとで失われていった。本願寺の絶頂期と衰退期を顕如は見たのだ。
天正十九年(1591年)には秀吉から京都七条堀川の地に移転を余儀なくされた。
翌天正二十年(1592年)11月24日に50歳で顕如は示寂した(亡くなった年齢が信長とほぼ同じだ。)

顕如が亡くなると、石山退去時、信長と和睦した顕如に反発した強硬派の長男教如(きょうにょ)に替えて、
三男の准如(じゅんにょ)が十二世宗主に立てられた。秀吉からの要請(圧力)があったといわれている。

本願寺内部での対立が進行する中、徳川家康が京に新たな寺地を寄進。
教如は慶長七年(1602年、「関ケ原の戦」の2年後)に独立して東本願寺を設立。
こうして本願寺は准如の西本願寺と教如の東本願寺とに分裂することになった。

家康の本願寺弱体化対策だったのだろう。
信長、秀吉、家康が本願寺の力を削いでいったのだ。
それほど強大であったということだろう。

本願寺の分裂には、そんないきさつがあった。









  1. 2018/03/27(火) 07:35:11|
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早鐘が突きならされた(信長夜話・その94)

前回の『信長夜話・その93』からの続き→

元亀元年(1570)九月十二日、『・・・公方様(足利義昭)と信長公は
野田・福島から十町(約1090m)北の海老江(現福島区)に移ってここを本陣とし、
諸勢に総攻撃を開始させた。

一方、敵方(三好方)にも根来衆・雑賀衆・湯川衆および紀伊国奥郡衆約二万が来援し、
遠里小野(現住吉区)・住吉・天王寺に陣を張って織田勢へ鉄砲三千挺を撃ちかけてきた。・・・

この火力戦に野田・福島の両城は次第に疲弊し、さまざまに交渉して和睦をはかってきた。
しかし信長公はこれを容れず、「程を知らぬ奴輩、攻め干すべし」といって殲滅を決意した。』

『信長公記』にはそう書かれている。



元亀元年(1570)九月十二日の夜、本願寺勢が織田方の楼の岸(ろうのきし)、川口の砦、に鉄砲を撃ちこんだ。
楼の岸(ろうのきし)、川口、は石山本願寺のスグそば。
本願寺法主、顕如(けんにょ)自ら鎧を着て出陣したという。

顕如は勇ましい人だったようだ。
「反信長」の姿勢を足元の大阪(石山)、そして各地の本願寺(一向宗)勢力にハッキリ示す効果を狙ったのだろう。


本願寺の参戦で戦況は大きく変化した。

『九月十二日夜半に寺内の早鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり。信長方仰天なく候』(『細川両家記』)
本願寺勢は早鐘を合図に出撃したようだ。

これにより、押され気味だった三好勢の士気は上がり、翌13日早朝、織田軍がせき止めていた防堤を打ち破った。
『にわかに西風が吹いて西海より高塩水が噴き上がり、淀川逆に流れたり。
・・・信長方の陣屋とも、ことごとくつかり、難儀に及ぶよしに候』(『細川両家記』)

翌14日、海水がなかなか引かず、15日から17日までは鉄砲による攻撃が出来ず、大規模な戦闘はなかった。



実は九月六日には、本願寺法主(ほっす)顕如(けんにょ)は湖東(琵琶湖東岸)の犬上、神崎、蒲生、の本願寺門徒に宛て、
信長と敵対するよう檄文を送っていた。

以下
『信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。
去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、
破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。
然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。
併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ。

九月六日
顕如  門徒中へ』

信長は本願寺に制約を加えようとしたようだ。管理下に置きたかったのだろう。
文中、信長が「本願寺の破却」をせまったように書かれているが、他の史料には見当たらない。
顕如の作り話とみる説が有力。

参戦の正当性、本願寺勢の士気を高めるため、これぐらいの作り話は当たり前だろう。
(戦には、どちらにも正義が必要。)

信長が本願寺の地を欲しがっていた、という説もある。
ボクもそう思う。それぐらい魅力のある土地だった(本願寺の地は現在の大阪城)。

さらに、顕如は九月十日、信長と敵対している浅井氏・朝倉氏へ書状を送っている。
対信長連合を組むため(出陣の要請か)だろう。

本願寺の力をもってしても信長を退けるのは容易ではない。
「信長包囲網」をつくる必要を顕如は考えていた(ボクの想像)。

浅井氏・朝倉が出陣して京に迫れば、三好方+本願寺と対峙している状態では、信長も窮するだろう、と


遅くとも九月六日(檄文を送っていた)以前に、顕如は反信長を決めていたことになる。

その二日後、九月八日に信長は天王寺(野田、福島から南へ5km)から
天満森(てんまがもり)に陣を移している(天満森は川を挟んだ本願寺の対岸)。

やはり、信長は本願寺の敵対を想定していなかったのだ。
信長の情報機関の失態だったのではないだろうか?

sansen12.jpg
<イラストは出撃する「本願寺一揆勢」とした。
普通、「一揆」と言えば、「竹槍、むしろ旗」ということになっている。
映画やテレビが何度もそう画いてきたからだ。映像の力は大きい。

そんな一揆もあったのかもしれないが、「本願寺一揆勢」は違うだろう。
いや、戦国大名に敵対した「一揆」は違うだろう。

江戸時代の百姓一揆と戦国時代の一揆は別物だとボクは思う。
映画やテレビは「江戸時代型百姓一揆」ばかりだ。

もともと「一揆」とは「揆を一にする」、ひとつのの目的のために団結するという意味。

「本願寺一揆勢」の戦闘の中心をなしたのは、紀州の雑賀や根来などの傭兵たちだった(ボクの想像)。
雑賀衆の多くは一向宗(本願寺)門徒だ(根来衆は真言宗)。

各地の勢力からの依頼をうけて派兵されるのが傭兵。
当然、なんらかの報酬が支払われたのだろう。
派兵が決定した時点で報酬が支払われように思う。
(いや、決定した時点で半分、勝利した時点で半分かな?)

もし、依頼者(クライアント)が負けて、滅びてしまうようなことがあったら、
「ただ働き」になってしまうから。
「先銭」の契約だったのではないだろうか?(ボクの想像)

派遣する戦闘部隊は、言わば商品。実績と内容を備えてなくてはならない。
最新の装備を整えていただろう。
「織田勢」と比べても劣らない、いや、それ以上の装備だったのかもしれない(ボクの想像)

イラストの一揆勢は装備が一律ではなく簡易装備とした。
織田勢とイラスト上、区別させるためにそうした。
実際は完全装備だったかもしれない。


戦国大名の兵の多くは農民だ。織田勢とて例外ではない。
「農民=弱い」は間違い。実戦経験のある農民は多くいただろう。

すこし豊かな農民は自前で槍、刀を用意していたのではないだろうか。
「お貸し刀や槍」(大名が用意した装備)より、自前の槍、刀のほうが使い勝手が良い。
「命のやりとり」をする戦場では、その差は重要だろう。

当時、農村間のいざこざ(これも戦)が頻発したという。水問題、境界線問題などなど。
青壮年の男が動員された。戦国時代は武士だけが戦ったのではない。

そのたびに、土地の領主や権力者の裁定を仰いだという。
納得のいく裁定をするのが権力者の存在理由のひとつだった。
(ヤクザの世界でも組と組との抗争を、仲裁することができれば、一目おかれる存在になる)>


脱線した。

本願寺が楼の岸などを攻撃した九月十二日時点では、信長は将軍義昭とともに海老江にいた。
海老江は天満森よりは距離がある(本願寺から)。それでも本願寺に近い。背後は川(水辺?)だ。


三好方の野田・福島を攻めるための織田勢の布陣は、石山本願寺を囲んでいるようにも見える。
本願寺側から見れば脅威を感じたのかもしれない。

現在でも自国の近くで軍事演習をすれば、強い脅威だ。
ましてや、実戦部隊が実戦をしているのだから。

戦争は「恐れと疑心」が引き金を引く。「やられる前にやる」。喧嘩と同じ。


いや、実は三好方と本願寺の顕如との間には、すでに話がついていたのでは?(ボクの想像)。
今回の本願寺の参戦は、その好機をとらえてのことだったのだ。

三好方が当時の信長と対峙するには力不足だ。
それでも三好方が野田、福島に進出した裏には本願寺との密約があったのでは?
そして、本願寺からの浅井、朝倉、

さらに本願寺からの、甲斐の武田、安芸の毛利、という連想が三好方にはあったのではないだろうか?(ボクの想像)
顕如の妻、如春尼の姉は武田信玄の正室、三条の方。顕如と信玄は親戚である。


十四日、本願寺一揆勢は、信長の馬廻りたち(親衛隊)が守る天満森を攻撃した。
それに馬廻りたちが受けてたち、淀川の春日井堤まで反撃、
激しい戦闘の末、一揆勢を追い払った。

『信長公記』には次のように書かれている
『・・・翌14日になって戦線が動いた。
この日一揆勢は大坂を出て、天満の森まで進んできたのである。
織田勢もこれに応じて川を越え、両軍は淀川堤で衝突した。

織田勢の一番手は佐々成政であったが、乱戦の中で手傷を負って退いた。
二番手には前田利家が堤通りの中筋を進み、その右手からは弓衆の中野又兵衛が、
左手からは野村越中・湯浅甚助・毛利河内守秀頼・兼松又四郎らが先を争って敵勢へ殺到した。

このとき、毛利秀頼と兼松又四郎の二人は協力して下間丹後配下の長末新七郎と戦い、これを突き伏せた。
毛利は兼松に向かい、「首を取り候え」と功を譲ろうとしたが、
兼松は「それがしはただの手伝いにござる。お手前こそ取り候え」といって受けなかった。

二人はしばらく言い合ったが結局双方とも譲らず、せっかくの大将首を置き捨てにして退いてしまった。
戦は乱戦となり、野村越中(将軍義昭の直臣)が討死した。』


今まで優勢だった織田勢が押されがちになった。
三好方の野田、福島の砦を包囲していた織田勢に、新たに強力な敵(本願寺)が現れたのだ。
こんな戦闘が「竹槍、むしろ旗」に出来るはずがない(ボクの想像)。

十六日、信長は本願寺との和睦に動く。
しかし、何度も交渉するが、物別れに終わった。

二十日、本願寺一揆勢は榎並(えなみ、本願寺の北5kmほど、現城東区)の織田方を襲った。
さらに本願寺の圧力が加われば、信長本隊すら危ない(ボクの想像)。

二十二日、信長は将軍義昭とともに、海老江の陣を引き払い、天満森に戻った。
天満森には信長の馬廻り(親衛隊)が守っていた。

そこへ琵琶湖西岸、「宇佐山」を守っていた「森可成(よしなり)討死」の報せが入ってきた。

続きはまたいつか・・・


次回、「信長夜話」は織田信長と約十年にわたる戦を続けた顕如光佐(けんにょこうさ)と本願寺について書きたい。





谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 、を参考にしました。





  1. 2018/03/06(火) 07:35:44|
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日夜天に轟き(信長夜話・その93)

「今年もボジョレーヌーヴォーの季節になりました。」
スーパーで試飲する男女が、「フルーティーで飲みやすーい!」と笑顔。
「今年は天候にも恵まれ、出来が良いそうです・・・」
と、夕方のテレビニュースのなかで流れた(CMではない)。

その通りなんだろう。
でも去年も、そんなこと言っていた。いや、一昨年もそうだった。
いや、毎年、同じようなことを言っている。

「今年は〇△が悪かったので、美味しくないんです・・・」
とは言えないのだ。
だとすれば、情報としての価値はない。

毎度、「フルーティーで飲みやすーい!」のだから。
美味しく出来た年と、美味しくない年があるのは、当たり前なのだが・・・

それは、タレントの飲食店での食レポ(こういうらしい)も同じ。
「うまくない!」という言葉は禁句なのだから。




ということで、
前回の「雑賀衆(信長夜話・その92)」からの続き→


元亀元年七月二十一日
阿波で挙兵した三好勢は、八月、野田・福島に砦を築き、京をうかがう様子だった。
二十六日、織田勢は三好勢の籠る野田・福島の両城へ攻め寄せた。

信長は先陣を城に密着させ、多くの陣地を築かせた。
信長自身は天王寺に本陣を据えた。


『九月八日には大坂から十町西の楼の岸(ろうのきし)に砦が築かれ、斎藤新五・稲葉一鉄・中川重政の三人が入った。
また川向かい.の川口(現西区)にも築城、平手監物・平手汎秀・水野監物・佐々成政らが入れ置かれた。』
『信長公記』の記述。


「楼の岸」も「川口」も、本願寺のすぐそば。

ここに出てくる地名「楼の岸」だが、どう読めばいいのだろう?
ボクは「ろうのきし」としたが・・・?

「楼」の訓読みは「たかどの」、もの見櫓の意味。「たかどののきし」だろうか?
調べてみたが「読み」がみつからない。きもち悪い。
「書いた人も読みがわからないので、ルビをふらなかったのかも?」などと邪推(じゃすい)している。


脱線した。

『九月九日、信長公は天満の森(川をはさんで本願寺の対岸)へ本陣を移し、
翌日から敵城の周囲に散在する入江や堀を草で埋め立てさせた。

そして十二日、公方様と信長公は野田・福島から十町(約1090m)北の海老江(現福島区)に移ってここを本陣とし、
諸勢に総攻撃を開始させた。

足軽たちが夜ごと作業して築き上げた土手からは矢玉が一斉に撃ち出され、
先陣の兵は先を争って塀際に押し寄せ、井楼には大鉄砲が上げられて城中に撃ち込まれた。

一方、敵方にも根来衆・雑賀衆・湯川衆および紀伊国奥郡衆約二万が来援し、
遠里小野(現住吉区)・住吉・天王寺に陣を張って織田勢へ鉄砲三千挺を撃ちかけてきた。

稀にみる砲戦であり、敵味方の砲音は日夜天に轟き、黒煙が地を覆った。

この火力戦に野田・福島の両城は次第に疲弊し、さまざまに交渉して和睦をはかってきた。
しかし信長公はこれを容れず、「程を知らぬ奴輩、攻め干すべし」といって殲滅を決意した。」』
「信長公記」の記述だ。

さすが、太田牛一(『信長公記』の筆者。信長研究の一級史料)。臨場感がある。



記述のなかで、
『三好方がさまざまに交渉して和睦をはかってきた。』とある。

三好方は信長が呑めそうもない条件を、つきつけたのではないだろうか?
おそらく、時間かせぎだったのでは?本願寺の参戦を待っていたのでは?

それにしても、信長はこの時点で石山本願寺が敵対してくるとは、思っていなかったのだろうか?
信長が本陣とした「天満が森」や「海老江」は本願寺とは目と鼻の先、
もし本願寺が敵対してきたら、海や川に追い落とされる危険がある。

それとも、信長は「本願寺が敵対してきても蹴散らすことができる」と思っていたのだろうか?


織田信長という人は、ときどき慎重さを欠く。
言い換えれば、人を信じる(信じたい)ところがあるように思う。
だから興味深いとも言える。
「そつのない慎重な物言い」より、「失言もありの、心のうちが垣間見える物言い」のほうが面白い、のと同じだ
(傍観者からは)。

永禄十一年の上洛の際、わずかな供回りで浅井氏の佐和山城で七日間、とどまった。
このとき、浅井家中では「またとない機会だから、信長を討ちとってしまおう」という声があった。
浅井長政が、それを抑えて事件は起きなかった、
という説がある。

元亀元年の「金ケ崎の退き口」。
越前敦賀に攻め入った信長に、義弟の浅井長政が反旗をひるがした。
包囲されるのを、からくも?すり抜けて退却に成功。
長政の寝返り(信長からみれば)は、まったくの想定外だったのだろう。

天正六年、重く用いた(信長からみれば)荒木村重の離反(謀反)。

きわめつけは、御存じ、天正十年の「本能寺の変」、明智光秀を信じていたのだろう。
これまた、破格の待遇で重く用いていた(信長からみれば)。

などなど・・・

脱線した。

信長が想定していたかどうか?はわからないが、
はたして、石山本願寺に早鐘がなった。
本願寺の顕如(けんにょ)は信長との全面対決を選んだのだ。

えらいこっちゃ、ホンマ! どうする?

この続きは、またいつか・・・


semeru12.jpg

<イラストは「三好方を攻める織田勢」とした。>

ドラマや映画の戦国時代の攻城戦には、
城(砦)側には櫓がそびえ、木柵や濠が巡らされている。

攻める側はとみると、「竹束や盾から鉄砲を射かける・・・」と描いているのは良心的なほうで、
やみくもに城(砦)に攻め寄せ、城側の鉄砲になぎ倒される。
攻城側もバカじゃないのだから、そんな無策ではないだろう。

これでは、旧日本軍の「バンザイ突撃」と同じではないか。
貧弱な装備を精神論にすり替えた。

相手も装備が貧弱なら、効果があったのかもしれないが、
米軍のような優秀な装備の敵には、無謀だった。無残だ!


脱線した。

『信長公記』に攻め手側のことが書かれている。

① 井楼(せいろう、櫓のこと)がでてくる。

攻城側も濠ちかくに井楼(櫓)を立てた。
井楼からは城内の敵の動きが観察することができるし、射撃も可能だったろう。


② 『敵城の周囲に散在する入江や堀を草で埋め立てさせた・・・』
『足軽たちが夜ごと作業して築き上げた土手からは矢玉が一斉に撃ち出され、・・・』とある。

攻める側も、濠を埋め、高く土手を築き、より高い位置から射撃したのだろう。
城側からの妨害をうけるから、援護部隊がおかれ、
工事が遅れるから、「夜ごと」の作業だったのだろう。

城や砦は土木工事でつくられた要塞だ。
それを攻めるためには、攻める側も土木で対向するのが必然。

攻城兵器として投石機のようなものも、あったかもしれない、とボクは想像している。
(当時の日本の城や砦は、木と土のものがほとんどで投石機を必要としなかった、という説が有力)


③ 『稀にみる砲戦であり、敵味方の砲音は日夜天に轟き、黒煙が地を覆った。』
と『信長公記』にある。

この時の戦いは、何千という鉄砲の銃撃戦だったのだ。
当時の最新の戦闘があったのだろう。

古い映画の合戦シーンなどでは、情けない鉄砲がよくでてきた。
パン・・・、情けないほどまばらな発砲と弾着。
嘘くさい硝煙。

技術がなかったのか?予算がなかったのか?想像力不足だったのか?
そのいずれもだったのだろう。

納得のいく戦国の銃撃戦シーンをみたのは、黒沢明の映画『影武者』と『乱』だった。
無数の鉄砲の間断のない発射と弾着。

映画の評価は分かれているが、「さすが黒沢!」と思った。
「世界の黒沢」だったから予算の獲得が出来た、という面もあったのかもしれない。
これ以降の戦国銃撃戦シーンは、大きく変わった(変わらざるを得なくなった)。


④ 『井楼には大鉄砲が上げられて城中に撃ち込まれた。』とある。

大鉄砲とは標準型の種子島(鉄砲)を拡大、強化したものだろう。
より重い弾を発射するため、各部は強化され、火薬も多い、当然、重くなる。

信長が用いたとされる三十匁(もんめ、玉は約113g、口径27㎜程度)砲では、
約35~40kgの重さだったのではないだろうか?
一貫目筒(口径約89mm)では、砲の重さが80kg~120kgあったという。

今でも、火縄銃のデモンストレーションなどで、大筒が披露されることがある。
発射準備を整えた大筒を両手で構え、
発砲と同時に、体をひねって、その大きな反動を逃がす。曲芸のような射撃だ。

ひとつ間違えば、ケガ(例えば骨折)をするだろう。

弾は炸裂弾ではなく、金属の丸弾だった。
人に直撃すれば死ぬか大けが、
櫓や塀などの構造物に当たれば、効果があっただろう。

それに、敵兵にあたえる心理的影響も無視できない。


今回、使用したといわれる大鉄砲(大筒)は三十匁だったのだろう。
イラストのような木製の台座に据えて、発砲したのではないだろうか?

天文十二年(1543)種子島時尭が鉄砲をはじめて入手してから 27年後、
大鉄砲(大筒)を開発、装備するまでになっていた。

鉄砲の需要が活発だったのだ。派生型が開発された。

標準型(三~四匁の弾丸)、

狭間筒(長銃身、命中精度が高かったのだろう。狙撃銃か?)、

馬上筒(標準方の半分の長さ、両手で射撃したという)、

短筒(小型の鉄砲)、

大口径銃(六匁以上を中筒といった)
大鉄砲(大筒)はそれを発展させたものだったのだろう。


「信長夜話・その94」に続く→




谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
東郷隆・上田信 著「戦国武士の合戦心得」講談社文庫¥495+税
を参考にしました。





  1. 2017/11/21(火) 07:26:37|
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