ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

野村合戦三(信長夜話・その90)

中華食材のテレビCMで、ぐっさんと回鍋肉?を取りあっているのは高畑充希だと思っていた。
「このCMのころと比べると、最近の高畑充希は大人びてきたものだなぁ・・・」とボクは思っていた。

ところが、そのテレビCMに出ているのは別人で、杉咲花というタレント(女優?)だという・・・
えっ!そうなの、えっ!似てるなあ!
共通遺伝子が多いのだろうか?



ということで、
前回の「野村合戦二」の続き、以下。

有名な「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。
織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙した(兵数には異説あり)。

巳の刻(午前10時ごろ)、
野村(地名)では、浅井勢が姉川を渡河して織田勢を攻めた。
浅井勢は兵力でまさる織田勢を圧倒するも、しだいに織田勢に押しかえされる。
たまらず、浅井勢は北国脇往還を北へ退却した。

織田勢は小谷の近くまで追撃したという。
浅井勢の多くの死傷者は、このときに出たのだろう。

zanteki12.jpg
<傷ついたりして逃げおくれた兵は、よってたかってなぶり殺しにあっただろう。
野生の動物のように、
中には、命乞いをしたものもいただろう。

まだ息のある敵兵はとどめをさされた。
この戦に限らないが、戦ではねられた首のほとんどは足軽や雑兵だったといわれている。

こういった戦の後の処理は、このあたりまでではなかったか?
勝者は敗者の領地、領民を吸収して勢力を増していく。
大陸のような皆殺しの思想はなかっただろう。>




信長は再び横山城を包囲、これを無血開城させた。
定番として木下秀吉を置く。

さらに南の磯野員昌(かずまさ)が守る佐和山城(現滋賀県彦根市)を丹羽長秀に包囲させ、
翌年二月二十四日に開城させた。磯野員昌は退去。
員昌はのちに信長に仕える。

信長は戦に勝っても、勢いにのって小谷を攻めることはしなかった。冷静だ。
戦う可能性のある勢力は、他にもある。自軍の消耗を避けたのだろう。


「・・・首数の事、さらに校量(きょうりょう・比べ量ること)を知らず候の間、注するに及ばず候。
野も田畠も死骸ばかりに候。誠に天下のために大慶これに過ぎず候。」
六月二十八日付け、細川藤孝宛、信長書状(『津田文書』)

細川藤孝(ふじたか)は当時、将軍、足利義昭の側近だった。
藤孝は、この書状を義昭に見せるだろうと、信長は思っただろう。
信長の書状、それは将軍義昭への威圧でもあったのでは?

『津田文書』の他にも信長書状が残っている。
信長は「野村合戦(姉川の戦い)」の勝利を喧伝したのだ。


一方、「徳川対朝倉」を簡単に・・・

野村(地名)の西、三田村(地名)で、兵力の劣る徳川勢が朝倉勢とぶつかった。

徳川勢が攻める。
朝倉勢はジリジリと後退した。
朝倉勢の士気は低かったのだろう。

朝倉をのぞく三軍は当主みずからが出陣しているが、朝倉義景は出陣していない。
かわりに朝倉景健(従兄弟?)に総大将を任せた。

当主のやる気のなさは
上級指揮官→下級指揮官→兵へと、末端まで伝わるものだ。
事におよんでの朝倉義景の処し方をみると、戦国大名として、織田信長の敵ではなかっただろう。

そして、「野村(地名)で浅井勢が崩れた」という報が朝倉勢に伝わると。
朝倉勢は退却にうつった。良いところなしだ。

浅井、朝倉勢は退却の際、多くの戦死者を出した。
しかし、「姉川の戦い」から3か月後、浅井朝倉連合軍は志賀に出陣、信長と対峙している。
損害は限定的だったのだ。

「出る杭は打たれる」
この後、反信長勢力の抵抗が強くなっていく・・・


<番外>
姉川の戦いには、こんな説もある。

1、横山城を包囲していた織田信長は、浅井長政は戦いを挑んでこないだろうと思い、
姉川を背にして包囲を続けた。
それを、夜陰にまぎれたのだろうか?忍び寄った浅井勢が織田勢を背後から襲った。
野村合戦(姉川の戦いでの織田対浅井)は浅井勢の奇襲だった。
(ボクは信じていない)

2、初戦で織田勢を崩したのは礒野 員昌ではなく遠藤 直経(えんどう なおつね)だった。

3、徳川と朝倉勢はにらみ合っただけで、戦わなかった。
(本当かもしれない)



礒野 員昌(いその かずまさ)のこと
大永3年(1523年)~天正18年9月10日(1590年10月8日)

今回の野村合戦(姉川の戦い、織田対浅井)で先陣をつとめ、
優勢な織田勢相手に奮戦したといわれている礒野 員昌。

「礒野」はこの字だったようだ。

礒野氏は、代々京極氏の家臣であった浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下に加わる。
父・員宗の死後、叔父の員清が家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。

員昌は佐和山城(現滋賀県彦根市)を本拠とし、対六角氏戦で度々武功を重ねた。
(佐和山城は「関ケ原の戦」の時は石田三成の居城)

元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いで、員昌は先陣をつとめ、織田勢相手に奮戦する。
しかし、多勢の織田勢に押しかえされ浅井側は総崩れとなり敗退した。(浅井勢の敗因には他説あり)
員昌の猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残る(『浅井三代記』)。
(「員昌の姉川十一段崩し」は史実としての評価は低い)

野村合戦の後、礒野 員昌の佐和山城は敵中に孤立。
翌元亀2年(1571年)2月24日、佐和山城を攻撃され信長に降伏した(『信長公記』 )。

降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江国高島郡を与えられた。
この頃、織田家の宿将は、琵琶湖周辺に配置されていた。
この高島郡の拝領は、「横山の木下藤吉郎、佐和山の丹羽長秀、安土の中川重政、長光寺の柴田勝家、
永原の佐久間信盛、宇佐山の明智光秀」と同等という破格の待遇であった。
織田側も員昌を認めていたのだろう。

それにしても、ついこの前まで敵将だったのに・・・
員昌は、なにかスゴイおみやげをもっていったのだろうか?
但し、信長の甥の津田信澄を嗣養子とさせられている。
すなわち、次の代は津田信澄(織田一族)が嗣ぐことになる。

その後、員昌は天正元年(1573年)9月の杉谷善住坊(織田信長を狙撃した男)の捕縛。
天正3年(1575年)8月の越前一向一揆の鎮圧に従軍。

しかし、天正4年(1576年)正月には、津田信澄が高島より上洛しており(『兼見卿記』)、
また、同年12月に朽木商人宛に、天正5年(1577年)閏7月には横江祟善寺宛に、津田信澄が安堵状を発行している。
この頃には員昌の権益は縮小、または家督の譲渡が行われていたと考えられる。

天正6年(1578年)2月3日、員昌は信長の意思に背いて叱責され出奔、
領地の高島郡は津田信澄に与えられた。
信長の叱責の内容は不明。一説には家督を譲るよう、信澄や信長が迫ったのを拒んだためという。

出奔後の員昌の行方はわかっていない、
「本能寺の変」において信澄や信長が亡くなると、高島郡に戻って帰農し(帰農ですよ!)天正18年(1590年)に死去した。
68歳だった。

礒野 員昌は畑の空を見上げながら、なにを思ったのだろうか・・・(よくある表現だな)
ボクは映画「ゴッドファーザー」で、年老いたビトー・コルレオーネ(マーロンブランドが演じた)が、
トマト畑で亡くなるシーンを思いだす。


子の礒野行信以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(伊勢、津藩藩祖)に仕えた。
藤堂高虎はこの「野村合戦」に浅井勢の足軽として参加、手柄をたて浅井長政から感状をあたえられている。
その後、高虎は天正年間に、員昌に仕えていたことがある。

藤堂高虎はつぎつぎと主君を変え、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦」当時には大名になっていた。
足軽として参加した「野村合戦」から30年後だ。
豊臣秀吉までとはいかないが、大化けした。
高虎は、自分を正当に評価しない主君を見限って変えた、という逸話がある。
脱線した。

礒野 員昌の孫の行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦いで増田盛次を討ち取る手柄を上げている。
娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人・小堀政一を生んでいる。




谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。







  1. 2017/04/25(火) 12:40:43|
  2. 信長夜話
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野村合戦二(信長夜話・その89)

今年も「桜の季節」をむかえることができそうだ。
若いころには、そんなことを思いもしなかった。
二か月もすれば初夏、六月がやってくる・・・



ということで、前回の「野村合戦一」からの続き・・・


有名な「姉川の戦」の実相はわかっているようでわからない?
実際に参加してもわからなかっただろう。

「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井氏では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉氏では地名から「三田村合戦」と呼んだという。

「姉川の戦」はこうではなかったか?

野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。



元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くに移動、陣をしいた。


横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告が入る。
「浅井勢がこちら向かっている。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)」と・・・


「おおっ、新九郎(浅井長政のこと)のやつ、やる気だな」(長政は信長の義弟)
信長は浅井長政は小谷から出撃してはこない、と思っていた。
七日前、小谷を包囲したときには長政は信長の挑発には乗ってこなかった。
浅井勢は織田勢より劣勢だ。平地での戦は浅井勢にとって不利だ。


元亀元年(1570)六月二十八日早朝

浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と、姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

軍勢の戦闘員は全体の5割とも4割ともいわれる。それ以外は補給を担当する輜重隊(しちょう)などだ。
だとすれば、織田の戦闘員は七千、徳川は二千、浅井は四千、朝倉は四千、ということになる。

浅井を四千にしたのは地元だから、補給もしやすかったと想像した。
織田、徳川、朝倉は遠征だから輜重に従事するものが多かっただろう。
そうだとすれば、戦闘員の兵力差はあまりない。


浅井長政は朝倉氏からの援軍が来たこの時が、信長に戦いを挑む好機だとおもっていた。
朝倉は浅井と同盟関係にあるものの、いつも援軍を差し向けるという保証はない(援軍を差し向けるのにも負担がかかる)。
雪の季節や農業の繁忙期(兵のほとんどは農業従事者)には難しくなる。

前述したように織田と浅井の戦闘員の兵力差はそれほどはない。
浅井勢の士気は旺盛だ。
うまくいけば、織田勢を突き崩すことが出来るかもしれない?
そうなれば、横山城守備隊も織田勢の背後から戦闘に加わるだろう。
と長政は想像したのではないのか?

信長の首を上げることはできなくても、
織田勢に痛撃を与えることが出来れば、しばし信長は手を引くだろう。
その間に軍を整え、反信長勢力との協力体制を固めて、信長に対峙しようと長政は思った。


信長は横山城に対して美濃衆を抑えにおいて、
姉川の対岸の浅井勢に対するため、横山城を背にして陣を組み直した。
龍ケ鼻の近くが信長の本陣だったという。
「龍ケ鼻・たつがはな」とは横山城のある丘陵の先端の地名。「辰鼻」という表記もあるようだ。


<織田の布陣>
先頭から、
坂井政尚(2,000)、池田恒興(1,000)、木下藤吉郎(1,000)、柴田勝家(2,000)、森可成(2,000)、
佐久間信盛(2,000)、織田信長本隊(3,000)、丹羽長秀(不明)
横山城への備えとして氏家直元、安藤範俊などの美濃衆(合わして1000)

<浅井の布陣>
先頭から
磯野員正(1.000)、浅井政澄(1,000)、阿閉貞秀(1,000)、新庄直頼(500)、浅井長政本隊(3,000)
横山城守備として
大野木秀俊、三田村邦宏、野村直元、野村直次、(500)

<徳川の布陣>
先頭から
酒井忠次(1,000)、小笠原長忠(1,000)、石川数正(1,000)、徳川家康本隊(2,000)

<朝倉の布陣>
先頭から
朝倉景紀(2,000)、前波新八郎(2,000)、朝倉景健本隊(4,000)

各武将の布陣はこの説に従うことにする(他の説がみあたらなかったから)

浅井 6,500、朝倉 8,000、織田 15,000、徳川 5,000、ということになる(非戦闘員もふくむ)。
軍勢の正確な数は当時でもわからなかっただろう。兵数はボクが適当に割りふった。

anegawafukan22.jpg
<姉川を空から見たところ。上が北だ。
右手前の下の丘陵が「龍ケ鼻」。この近くに信長の本陣があったといわれる。
絵には入っていないが、下(南)に横山城があった。

絵の中ほどを左右(東西)にくねりながら流れるのが姉川。
絵の上部(北)に大依山(おおよりやま)。その左(西)に小谷。

「龍ケ鼻」から姉川の間に織田勢は数段の陣をしいたといわれている。
姉川では織田勢と浅井勢の先鋒が衝突している。

その上、姉川の北に浅井の各隊と長政本隊。

姉川を左(西)にたどると、徳川勢と朝倉勢がぶつかっている、ところとした。>



姉川は、川幅200m、彼我の距離800mぐらいではなかったか?
(現在は管理されて水量は少ない)

朝もやのなか、姉川の対岸に敵の前衛が見える。

いくつもの集団がみえる。
多くの旗指物が風に揺れている。
使番(つかいばん・伝令)が騎馬で走る。
移動する集団、武具がすれる音、馬のいななき、


野村(地名)では浅井勢(磯野員正隊、1000)から攻めかけたのだろう。

磯野隊(浅井)最前線の指揮官が激をとばす。

「いいか!尾張のへなちょこどもに浅井衆の力を見せてやれィ!」
「お前たちの行く末は、この戦場(いくさば)にある。褒美はのぞみしだいぞ!」
「うぉ~ヴぉ~うぉ~」と兵が答えた。
鬨の声だ。

前線の各隊ごとにあちこちで鬨の声があがる。
鬨の声は兵の士気を鼓舞する。そして敵への威圧でもある。

tokinokoe12.jpg
<イラストは鬨の声をあげる指揮官と長槍隊とした。
この部隊の指揮官は幾度も戦を経験したベテラン
長槍衆はムシロを背負っている。野宿のときなどに地面にしいた。

他方、鬨の声をあげず、シーンと沈黙する部隊もあっただろう。それも不気味だ。>



「前へーっ!」
磯野隊(浅井方)の長柄槍衆が前進、渡河をはじめる。
声はかき消されることがあるから、大太鼓(押し太鼓)を叩いたのかもしれない。
「ドーン、ドーン、ドーン、」は前へ。
「ドンドンドンドン」は引け、の合図。

最前列には、敵の鉄砲や弓矢を防ぐため、楯をもった足軽が並ぶ。
その後ろに長柄槍衆、三段の横陣、兵どうしの間隔は狭い。槍は肩に担いでいる。

川の浅いところを足元を確かめながら渡る。
川の音、はためく大小の旗、鎧や武具がすれる音、兵の息遣い・・・

ある槍衆は腰の竹製の水筒に手をやった。
喉がカラカラに渇くのだ。


槍衆の背後の指揮官が大声を上げる。「いいか!押しまくれ!下がるものは斬る!」
何人もの甲冑武者が腰のものを抜く。槍足軽への脅しだ。
ドラマにある光景だが・・・

戦場では、恐ろしさと興奮が入り混じった感情が支配する。
普通、道で野犬にであっても怖さをおぼえる。
ましてや敵は武装した人間だ。怖くないわけがない。

イギリス陸軍は、軍曹を恐ろしい上官として兵の意識にに刷り込んだという
敵と対峙したとき、後ろでスゴイ顔で睨みつけている上官の軍曹より、前にいる敵兵のほうがマシ、
と思わせるためだという。以前、そんな記事を読んだ覚えがある。

おそらく本当だろう。西欧の軍隊を手本とした旧日本軍にも同じことがあったのだろう。
それが旧軍の新兵イジメに影響したのではないだろうか?とボクは想像している。

脱線した。
怖じ気づかないよう指揮官が兵を脅したのではないだろうか?
一人の怖じ気が全体に伝わり、崩れることを恐れたのだ。


映画やテレビの合戦シーンというと、必ず兵が走るが、そんなことはなかったのでは?
走っていては、敵とやり合う前に息が上がって戦えない。
甲冑武者の装備は20kg~30kgだった。
足軽具足は5kg+武具+携帯食糧など=10kg~15kgぐらい?だったと想像する。

走る必要もないのに走ったりはしない。歩く速度で押していく。
敵兵とやり合うときに力を出す(出させる)のが自然だろう。


渡河してくる磯野隊(浅井)の長槍衆が川の中ほどを過ぎたころだった。
対岸の藪や竹束などの遮蔽物の陰から、連続した銃声、閃光と煙があがる。
坂井隊(織田)の鉄砲隊が撃ちかけた。

想像を超えた数の鉄砲の射撃だったのではないだろうか?
のけぞる兵、腕をおさえてうずくまる兵、血しぶきをあげて倒れる兵、・・・

すると、浅井側の長柄槍隊の背後から、浅井の鉄砲隊がその発砲地点をめがけて応戦する。援護射撃だ。
前進する槍衆の背後から撃ちかけるのだから、味方の槍衆を誤射することもあっただろう。
戦はそういうものだ。第二次大戦でも味方に撃たれた例はいくつもある。

種子島(火縄銃)の最大射程500m、有効射程200m、殺傷射程80m、と想定した(異説あり)


磯野隊(浅井)の槍衆が鉄砲の射撃をうけて前進がとまった。坂井政尚(織田方)の槍衆が対岸に現れる。
織田の誇る、三間半長柄の槍衆だ。揃いの装備、旗指物、織田の足軽の装備は美しい。
織田は金持ちなのだ。

nagaeyari.jpg
<イラスト左が三間半長柄槍、約6m30cm。イラスト右が三間の長柄槍、約5m40cm。
槍をもつ足軽は1m60cmの身長とした。三間半長柄槍は身長の4倍だ。
三間柄が一般的だった。信長は三間半柄を長槍隊に装備させたという。
「弱兵は接近戦を嫌うので長い槍を装備させた」という説がある>



最前線の部隊は「御貸具足(足軽からみれば御借具足)」という武将が用意した具足を装備していた、と想像する。
最前線には体力があり、訓練をほどこした兵が配置されたとおもわれる。
揃いの装備は敵への威圧にもなる。

当時は武将も部隊も目立つことが必要だった。そのいでたちは派手で個性的だったろう。
「御貸具足」は無制限にあるわけではないので、二線級の部隊の装備は不揃いだったのではないだろうか?



当時の戦では、長柄槍隊こそが決戦部隊だった。その勝ち負けが戦に影響した。
鉄砲も有力な兵器と認められつつあったが、
長柄槍隊の前進を援護したり、敵の前進を阻止する役割をになった。

磯野隊(浅井)の槍衆が坂井隊(織田)の槍衆とぶつかる。
両軍とも、一斉に槍を振り下ろす。目標は敵の槍足軽の頭部だ。

この場合、長柄の織田槍衆のほうが有利だが、叩きつけたり振り上げたりするには体力がいる。
叩きつける回数では織田の長柄槍より短い浅井の槍のほうが勝ったのではないだろうか?


最前線の槍衆に疲れがみえる。
「二番、前へーっ!」
背後の新手の槍衆が入れ代わって前に出る。

新手の槍衆が敵に向かって、槍を叩きつける。
怒鳴り声、槍が叩きつけられる音、川の水が飛び散る、鎧のすれる音、
槍がしなって風をきる音、喚声、うめき声、血の匂い・・・

yaritai12.jpg
<槍衆の戦いは我慢くらべだ。
叩きあううちに、 横にいた足軽が陣笠を割られて倒れたり、引き気味になったりすると、
「押されているのではないのか?」という不安がはしる。
接戦では敵の勢いのほうが強いと感じるのが戦場心理だろう。

さらに数人が倒れたりすると、槍衆が崩れはじめる。
逃げ遅れれば命とりになる。
槍衆は集団であることが重要なのだ。>




しだいに坂井隊(織田)の槍衆が押されはじめる。
磯野隊(浅井)は姉川の対岸に届いた。渡河に成功した。
最前線の槍衆が崩れはじめると、後衛に伝染する。

坂井隊(織田)は後退してくる前衛の槍衆に代わって、後衛の槍衆が前に出る。

しかし、勢いにのる浅井の槍衆は坂井隊(織田)の後衛も押しかえす。
ついに織田の最前線、坂井隊が崩れはじめる。


先陣の磯野員正(かずまさ)隊の奮戦に、後に陣をしいていた浅井政澄隊(1,000)、阿閉貞秀隊(1,000)
も姉川を渡河して加わる。
坂井隊(織田)の後ろに布陣していた池田恒興隊(織田)は、後退してくる坂井隊の影響で陣形が乱れる。
浅井勢は押しに押した。勢いのあるうちに勝戦にもちこみたいのだ。
池田隊(織田)も後退しはじめる。

その池田隊(織田)の後ろにいたのは木下藤吉郎隊(織田)だった。使い番(伝令)が走る。
木下隊とその後ろの柴田勝家隊(織田)へは「敵(浅井)の前進をくいとめよ!」
後退した坂井隊と池田隊には「たて直して側面から攻めよ!、包み込め!」と、

木下隊(織田)と柴田隊(織田)は前進してきた浅井の諸隊とぶつかった。
浅井勢の前進阻止のため、鉄砲射撃を加えたいのだが、
後退してくる坂井隊(織田)、池田隊(織田)が混じっているから、むやみに射てない。


両軍の押したり引いたりが続く。
織田は、さらに森可成隊(織田)も加わる。ここが勝負どころだった。

見透しのきく平地での戦いは、兵力のまさる織田方が有利だ。
すこし疲れが見えはじめた浅井勢の前に、織田勢の新手が次々と現れる。

蹴散らされた坂井隊(織田)、池田隊(織田)も態勢を整えて、縦に伸びた浅井勢の側面を攻撃しはじめる。
浅井の先頭部隊が背後を織田勢から側面を攻撃されたことに気付く。不安がはしる。
もし包囲されれば孤立してしまう、と


浅井勢の前進が、ようやくにぶりはじめる。
すると前面の木下隊(織田)と柴田隊(織田)が勢いづく。
ジリっと浅井勢が後退しはじめる。

さらに浅井勢の後退がハッキリしてくる。
姉川の岸まで押しかえされる。

浅井の兵が姉川を渡って対岸へ向かうものが出てくる。
逃げ遅れれば、よってたかって、なぶり殺しにあうからだ。
群れから遅れたり、傷ついた兵は格好の獲物だ。


不安が浅井勢を包む。。
われ先に兵が姉川を渡って逃げる。
指揮官が「引くなぁ!もどせぇ!」と怒鳴っても、崩れたった兵を引き留めることは出来ない。
浅井勢は崩れた。

織田勢は追撃にうつった。
織田の鉄砲隊の発射音が響く。

次回に続く





谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税
東郷隆・上田信 著「戦国武士の合戦心得」講談社文庫¥495+税
を参考にしました。






  1. 2017/04/04(火) 13:38:41|
  2. 信長夜話
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野村合戦一(信長夜話・その88)

3月初旬、近くの歩道橋の上から西を見る。ここにくると習慣になっている。
その歩道橋は濃尾平野の北端、丘陵地の住宅街にある。

名古屋の中心部のビル群が見える。そのむこうに養老山脈、
尾根をたどると南端は、三重県の多度から桑名だ。
逆に北に目をやると、養老山脈のむこうに伊吹山が見えるはずなのだが、
その日は白く濁って見えなかった。雪だろう。

そういえば、「雪中の合戦」は、あまり聞いたことがない。
戦国の世でも、雪の日には、やりたくなかったのだろう。

小谷は伊吹山の西にある・・・




元亀元年(1570)六月二十一日、織田信長は浅井氏の居城、小谷の近くの虎御前山に陣をしいた。
浅井長政の寝返り(信長からみれば)に、敦賀から京へ逃げ帰ってから二か月後である。

信長は小谷の備えを見て、力攻めで落とすのは難しいと思ったのだろう。
信長はジックリ攻める作戦に変更。足がかりとして小谷の南9kmにある横山城(浅井側)に目をつけた。
二十二日、陣を払い、織田勢は移動を開始。横山城を包囲するためだった。

それを小谷の浅井勢が追撃する。織田勢の殿(しんがり)軍が奮戦して撃退(八相山の退口)。
無事、横山城近くの龍が鼻(たつがはな)へ移動した。
六月二十四日、横山城攻めが始まる。

そのころ、徳川家康の援軍五千が到着した。
一方、浅井側にも援軍が到着する。朝倉景健(かげたけ)の八千だった。

有名な「姉川の戦い」の序章だ。

anegawa412.jpg
<イラスト上段、左は浅井長政(このとき26歳)。右は織田信長(このとき37歳)。
下段、左は朝倉景健(このとき35歳)、右は徳川家康(このとき29歳、若いねぇ!)。

朝倉景健は肖像画が見当たらなかった。しかたがないので、面頬(めんぽ・顔面の防具)をつけてもらった。
画きながら思ったのだが、これでは誰だかわからない。
戦場で影武者を見破るのはムズカシかったろう。>



普通、「姉川の戦い」は以下のごとく語られることが多い。

二十七日の夜に浅井・朝倉軍は移動、浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

1、二十八日未明、野村では浅井勢が織田に攻めかかり、三田村では徳川勢が朝倉勢に攻めかかった。

2、浅井勢の勢いすさまじく、織田の13段の備えが11段まで崩された。

3、三田村で多勢の朝倉勢相手に押していた家康は、榊原康政に命じて側面から攻めさせた。

4、側面をつかれた朝倉勢はもろくも崩れ、さらに浅井勢も崩れ、ともども小谷に向けて敗走した。


テレビドラマなどでは、ほとんどこの説に従っているようだ。

徳川勢大活躍!、しかし、これでは徳川勢がカッコ良すぎる。

『徳川実紀』や『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』などを参考にしたのだろう。

『徳川実紀』は徳川幕府の公式文書。
文化6年(1809年)に起稿、
嘉永2年(1849年、4年後にペリー来航)12代徳川家慶に献じられたという。
「姉川の戦い」から約280年後に成立した。280年後ですよ。

すでに、家康は神格化されていた。神君だ。
「姉川の戦」の部分は、徳川幕府へヨイショするために脚色した、と疑われている。
『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』は史料としての評価は低い。

この説は、家康をカッコよくデッチあげた可能性が高いと見られている。


また、
浅井勢の士気が高かったのはうなづけるが、いくらなんでも織田勢が弱すぎる。
織田勢は浅井勢よりはるかに優勢だ。総勢の数字上は約3倍。

奇襲ではなく強襲(敵が待ち構えてるところを攻める)、正面攻撃だ。
さらに戦場は姉川の川原、見透しのきくところである。

直前の二十二日、小谷からの移動中、織田の殿軍は浅井の追撃を退けている(八相山の退口)

信長の軍事力の中核は尾張衆や美濃衆だった。
美濃衆は斎藤義龍の時代、信長も手をやいた。強かった。

「肥沃な土地の兵は弱く、貧しい土地の兵は強い」という説があるが、疑わしい。
もし織田勢が弱兵であったとしても、戦は兵の強さだけで勝てるわけではないだろう。
作戦、士気、経済力、装備、指揮官への信頼、過ち、偶然・・・などなど、

iza111112.jpg
<イラストは馬上の若武者とした。

はためく旗、馬の呼吸、鎧の擦れる音、
静寂、草の匂いがする

敵の前衛が見える。
多くの旗指物がゆれている、兵の機動、鬨の声が聞こえてくる。

戦場に老人はいなかっただろう(指揮官をのぞいて)。
十代後半から三十代ではなかったか?

精兵(せいびょう)というとき、それは兵の年齢も指していたのではないだろうか?と思った。
体力差のある兵が混在していると、作戦が立てにくいから。>



では、資料性が高いと言われる『信長公記』は「姉川の戦」をどう書いているのだろうか?以下。

『そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、
小谷城の城東に位置する大依山(滋賀県浅井町)に陣を張った。

待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、
六月二十七日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。

陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 二十八日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて備えた。
これに対し織田・徳川連合軍は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、
東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。

 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。
敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。

戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。
そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった。
浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、
前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。

この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。
しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、
信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、
横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。

 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは七月一日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。
佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、
北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 七月六日(正しくは七月四日)、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。
京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、八日に岐阜へ帰還を果たした。』(『信長公記』現代語訳)

以上が『信長公記』の記述。
わかったようでわからない?
実際に「姉川の戦」に参加した人にきいても、その実相はわからなかっただろう。

『信長公記』には徳川勢の大活躍は書かれていない。
「それは、筆者の太田牛一が主君の信長に遠慮したせいだ」という説もあるが、どうだろうか?



「姉川の戦」はこうではなかったか?
野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。


「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井家では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉家では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くへ進軍。

横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告があった。
浅井勢がこちらにやってくる。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)、と・・・

次回につづく


<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。









  1. 2017/03/14(火) 07:02:12|
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八相山の退口(信長夜話・その87)

元亀元年(1570)6月21日、織田信長は浅井氏の小谷城の目と鼻の先、虎御前山(とらごぜんやま)に陣をしいて、小谷城の回りを放火した。

信長は「小谷城への力攻めは自軍にも多くの損害が出る可能性がある」と判断。
ジックリ攻める作戦に変更。
小谷の南東9kmにある横山城(浅井側)を攻めることにした。
横山城を攻略し、これを拠点に小谷を攻めるつもりだった。

6月22日、虎御前山の陣を払い、織田勢は南東に移動を開始。
敵(小谷)に後ろを見せての移動だ。危険!

「織田勢が撤退している」と判断したのだろう、浅井勢が追撃にうつる。
織田勢にダメージを与える好機だ。

退きながら戦うというのは想像以上にムズカシイことなのだろう。
相撲でも、相手が引いたときに攻めるのが勝つ定石だ。

このとき、殿(しんがり)を命じられたのが信長の馬廻り(親衛隊)の三人だった。
簗田広正(やなだひろまさ)、佐々成政(さっさなりまさ)、中条家忠(ちゅうじょういえただ)の諸隊が、目覚ましい活躍を見せる。
各隊が入れ代わりながら、追撃してくる浅井勢に鉄砲を放ったのだろう。
一隊の指揮官である中条家忠自身が負傷しているぐらいだから、激戦だったと想像する。

「翌22日、小谷を前に信長公は一旦兵を後退させることを決意し、殿軍に鉄砲五百挺と弓衆三十余りを据え、簗田左衛門太郎広正・中条将監・佐々成政の三名を奉行として指揮を命じた。

すると、総軍の後退に気づいた敵足軽が攻め寄せてきた。
殿軍のうち簗田広正は中軍より少し左手を後退していたが、肉薄してきた敵勢を引きつけて応戦し、散々に打ち合った。
このとき簗田勢の太田孫左衛門は敵首を挙げて引き揚げ、信長公より多大な褒賞にあずかった。

また佐々成政は八相山の矢合神社前で敵に捕捉されたが、これも見事な武功を挙げて無事撤収に成功した。
さらに中条将監は八相山下の橋上で敵と衝突したが、将監は敵勢の攻撃により負傷してしまった。

また中条又兵衛(中条家忠の一族だろう?)も橋上で敵ともみ合いになり、双方とも橋から落ちた。
しかし又兵衛はひるまず、橋の下でさらに戦ったのち見事その敵の首を挙げた。比類なき高名であった。

信長公はこれら後衛の奮戦によって無事後退することができ、その日は八島に陣を取った。」(『信長公記』現代語訳)

singariyumi22.jpg
<イラストは奮戦する佐々隊の弓衆とした。
3人の指揮官のなかで佐々成政だけが家紋がわかっているので。

鉄砲が有力な武器だということで装備がすすんでも、弓は依然として有効な武器だった。
それにしても弓はカッコいい!

手前の弓衆には頭に鉢金をしめてもらった。
弓衆や鉄砲衆は軽装を好んだように思うから。

イラストの姿勢は跪座(きざ)というらしい。
5~6本の弓を用意、姿勢を低くして楯や遮蔽物の間から続けて射る。矢継ぎ早に。>



一番、簗田広正から二番、佐々成政が殿(しんがり)の位置についたとき、佐々と親しい多くの馬廻りが本陣を忍び出て加勢に駆け付けた、と『甫庵信長記』にある(『甫庵信長記』は信頼性に劣るといわれている)
織田順元(のぶもと)、生駒家長、戸田勝成、平野甚右衛門、高木佐吉、野々村主水正、土肥助次郎、山田半兵衛、塙喜三郎、太田牛一(ぎゅういち・『信長公記』の筆者である)、たちだったそうだ。
おもしろい話だ。

殿の活躍で、織田勢本体は龍ケ鼻(たつがはな、現長浜市)に無事、移動することが出来た。
この戦いを「八相山の退口・はっそうざんののきぐち」という。八相山は虎御前山のことらしい、ややこしい!
「やあいやま」という資料もある。


このとき、信長は配下武将の鉄砲衆から臨時に殿軍の指揮下に組み入れさせた。
鉄砲衆500、弓衆30、だったという。
これが本当だとすると(史実だとされている)、織田勢には最低でも500の鉄砲衆がいたことになる。
織田勢の鉄砲衆の総勢はそれ以上だっただろう。

弓衆は鉄砲の装填時のスキを補佐させるものだった。
弓は鉄砲より習熟を必要とする。

さらに、鉄砲、弓の他に楯足軽(楯を移動させたり、くっつけたりして即製の防衛線を作り出す)や、敵兵の突出から、それらを守るため槍衆も付随させる必要がある。
槍衆を前面(この場合、最後尾)にして、その後ろに楯、鉄砲、弓が位置についたと想像する。
ということは、槍衆の後ろから味方の鉄砲、矢が放たれることになる。誤射もあっただろう!


このころには鉄砲が有力な兵器であることが認識されていたので、各武将は鉄砲衆を引き抜かれるのをいやがった。
それを信長が従わせたところをみると、信長は配下武将を掌握していたと思われる。

総大将が手足のように配下武将を動かしていたかのような印象をもつが、
そんな状態は少なかったのではないだろうか?
父信秀から家督を譲られたころの信長は、織田家重臣の掌握は出来ていなかった、というより離反していた。

そのため、商人や神官や土豪などの次男や三男など、後継ぎではない者たちを取り立てた。取り立てざるを得なかった。
それが信長が能力主義になっていった原因のひとつだった、とボクは想像している。

それにしても、「金ケ崎の退口」といい、今回の「八相山の退口」といい、織田勢は見事な殿戦(そんな言葉はないが)をみせる。
織田は撤退戦(同時に追撃戦)の研究をしていたのではないだろうか?
3年後、朝倉勢を追撃して甚大な損害を与えた「刀禰坂の戦い」をみても、ボクはそう思うのだが?

6月24日から織田勢は横山城を包囲。
まもなく徳川家康の軍勢が到着、5千だったという。
同じころ浅井側にも援軍が到着する。
朝倉影健(かげたけ・当主朝倉義景の従兄弟)の越前勢、8千だったという。




話は変わる。
伊達正宗、上杉謙信、真田信繁(幸村)・・・などを戦国のA級スターだとすれば、
佐々成政はB級、簗田広正、中条家忠はC級といったところうだろうか?(ファンにはすみません)
歴史の調べ事をしていると、あたりまえだが、B級、C級、D級・・・の人が現れる。

ボクはそういった歴史にチラと現れる人物の人生にスゴク興味がある。
スターではなくても、それぞれの人生に春夏秋冬があったにちがいないのだから。
ということで今回の「八相山の退口」での指揮官三人の人生を調べてみた。以下。


簗田 広正(やなだ ひろまさ)のこと
生誕不詳~天正7年6月6日(1579年7月9日)

織田氏の家臣。簗田政綱(出羽守)の子。通称は左衛門太郎
簗田広正は織田信長に仕え、尾張国九之坪城と沓掛城(現、愛知県豊明市)の城主。

父、政綱は「桶狭間の戦」のとき、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝えた。
義元の首を挙げた毛利良勝よりもその功績は大きいとして、沓掛城主となったという説が一般的だが、
史実としてはわかっていない。

元亀元年(1570)簗田 広正は今回の「八相山の退口」で殿軍の指揮官のひとりを務める。
馬廻りのなかでは大身(たいしん)であったと想像されている。二百~三百の兵を従えていたのではないだろうか?

天正3年(1575)、頭角を現し、朝廷からの叙任で羽柴秀吉・明智光秀や塙直政らとともに叙位任官を受ける。
右近大夫となり、九州の名族である別喜(もしくは戸次)の姓を下賜された。人生の絶頂期だっただろう。

あくる天正4年(1576)に加賀国の大聖寺城を与えられて加賀一向一揆の討伐に当たる。
しかし兵力が不足し、調略もうまくいかず討伐は失敗、尾張国に召還される。
その後、柴田勝家がその任を引き継ぐが、勝家(北国方面軍を任された総大将、兵1万以上)をもってしても加賀平定に4年がかかっている。

天正6年(1578年)織田信忠に属し、別所長治の反乱に対応している。

名は一般に「広正」と言われているが、『尾張群書系図部集』ではその名は父・出羽守の実名とし、別喜右近(べっきうこん)の実名は正次としている。
そのため、父、政綱と同一人物とされることもあるという。本当にややこしい!
いずれにしても父子ともに実名は同時代史料では確認できていない。

また、子の長教は天正10年(1582年)甲州征伐の際、信濃国鳥居峠の戦いで戦死。
孫の教貞は織田信雄に仕えたとしている。
なお『寛政重修諸家譜』では「梁田出羽守」の子を正勝としている。
正勝の家は江戸幕府旗本として最大で1,200石を領したが、正勝の曾孫の代で無嗣断絶している。


佐々成政(さっさなりまさ)のこと
天文5年1月15日(1536年2月6日・異説あり))~天正16年閏5月14日(1588年7月7日)
通称、内蔵助(くらのすけ)

今回の殿軍の指揮官、三人のうちでもっとも有名だ。
歴史の表舞台に上がった人物だから、文献や史料も多いのだろう。

佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区・かつてボクはよく通った)に拠った土豪。
兄が相次いで戦死、永禄3年(1560)に家督を継ぎ、比良城主となる。

織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表す。
永禄4年(1561)、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大手柄を立てる。
永禄10年(1567)、黒母衣衆(馬廻りのエリート集団)の一員に抜擢される。

元亀元年(1570)6月、今回の「八相山の退口」では、鉄砲隊を指揮して活躍(『信長公記』・『当代記』) 。
天文5年1月15日(1536年2月6日)誕生説が本当だとすれば、このとき、34歳ということになる。

天正2年(1574)、長島一向一揆との戦いで嫡男・松千代丸を失う。
天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いる(鉄砲隊を得意としていたようだ)。

天正3年(1575)9月、織田信長は越前を制圧後、柴田勝家を置き北陸方面軍とした。
その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中(現、福井県武生市)3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。

府中三人衆は勝家の与力だが、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍している。
府中三人衆は荒木一族の処刑を命ぜられ実行している。

天正5年(1578)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退。
天正8年(1580)から、一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国平定に関わる。
同年秋には佐々堤を築いている。
天正9年(1581)2月、正式に越中半国を与えられる。
翌年に神保長住が失脚したことにより一国守護となり、富山城を居城として大規模な改修をおこなう。

天正10年(1582)本能寺の変、成政の属する北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点である魚津城を攻略したばかりだった(魚津城の戦い)。
変報が届くと、各将はそれぞれの領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなくなった。

清洲会議において勝家と秀吉との織田家の実権争いが表面化すると、成政は勝家方につく。
賤ヶ岳の戦いには叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すにとどまる。
成政は上杉景勝への備えのため越中を動けなかった。

賤ヶ岳の戦いでは、合戦中の前田利家の寝返りなどがあり、勝家は敗退。
さらに成政には上杉景勝の圧迫もあった。
娘を人質に出して剃髪して秀吉に降伏、越中一国を安堵される。

翌天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いが発生、3月頃の書状においては秀吉方につく姿勢をみせていたものの、
夏頃になって徳川家康、織田信雄方につき、秀吉方に立った利家の末森城を攻撃(末森城の戦い)。
この時期は越後国の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられる。

秀吉と信雄との間で和議が成立、家康が停戦すると、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破、家康に再挙を促した(有名な「さらさら越え」)。
「さらさら越え」のルートに関しては、上杉景勝の家臣から密かに助力を得て越後を通過したことを示唆する書状も存在する。
しかし家康の説得に失敗。織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。

翌天正13年(1585)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲、成政は織田信雄の仲介により降伏(富山の役)。
一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、以後御伽衆として秀吉に仕えた。

成政は「本能寺の変」から「富山の役」まで、反秀吉だったようだ。
秀吉が嫌いだったのだろうか?

天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげ、肥後一国を与えられる。
秀吉は性急な改革を慎むように指示したと言われる。
また、成政は病を得ていたとも言われる。
早速に太閤検地を行おうとするが、それに国人が反発して一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった。
肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)という。

鎮圧しようとした成政が逆に反撃をうけ、二次におよぶ援軍が九州、四国から送られた。
肥後国人一揆だけでも調べるのに値する。

このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効なく、摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。
享年53(53説が最も有力視されているが、異説あり)。無念だったろう。
信長に仕えたのは秀吉より早かったのではないだろうか?
(秀吉が信長に仕えた時期はわかっていない)

それにしても武将佐々成政は赫々たる戦歴だ。エピソードも多い。

秀吉は治めるのが難しい肥後を成政に与えたのは、失敗→切腹を見越しての人事だった?という説をきいたことがある。
おそらく想像だろう。秀吉がそんな算段の記録を残すハズもないからだ。
しかし、証拠はないが、そうだったのかもしれない。
秀吉は主君であり師匠である織田信長の政権を簒奪(結果として)したぐらいだから、その程度のことは軽くやってのけただろう。


中条 家忠 (ちゅうじょう いえただ)のこと
生没年不詳。小一郎、将監。
尾張春日井郡の人。信長の馬廻。天文二十一年(1552)八月十六日、萱津の戦いに従軍。
柴田勝家とともに敵方家老である坂井甚介を討ち取った(信長公記)。

その後、浮野の戦い、桶狭間の戦にも参加。信長上洛後、伊勢大河内攻め、小谷攻めにも従軍。
元亀元年(1570)六月、今回の「八相山の退口」で奮戦。
この時、「当代記」は、彼ら三人を「小身之衆」と呼んでいる。小部隊の指揮官といったところか?
殿(しんがり)はもっと上級の武将があたるのが普通と思われていたのだろう。

その後、姉川の戦い、長島攻めなどに従軍する。
天正5年(1577)3月、雑賀攻めに参加。
天正5年(1577)3月に秀興山正林寺(豊田市広幡町)を創建。また、戦火のため荒廃していた猿投神社の復興にも尽力した。
同年8月30日に没し正林寺に葬られた。

八草城城主(八草村で生まれた説あり)だったという。
八草は名古屋の東にある。ボクの家から一般道で40分ほどだ。ボクはクルマでよく通る。

中条ときくと、ボクは男優の故中条静夫氏を思い出す。
「ザ・ガードマン」などテレビでは脇役が多かったが、ようやく主役級がまわってきたときに亡くなった。そう記憶している。
中条家忠とは関係はないようだ。

今回の三人のなかでは中条家忠は一番地味だ。




<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
谷口克広著「信長の親衛隊」中公新書¥740+税 を参考にしました。







  1. 2016/05/24(火) 08:02:56|
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虎御前山(信長夜話・その86)

ボクは今、濃尾平野の北辺に住んでいる。
名古屋市より標高が高い。

お気に入りの散歩道の高見から南西を見る。名古屋市内が見える。
左に守山から末森山方面(名古屋東部丘陵)が見える。
空気が澄んでいると、名古屋駅周辺の高層ビル群の向こうに、養老山脈の南端、多度(たど)、桑名周辺が霞んでいる。

さらに、その向こうに険しい鈴鹿の山々が見える。
その山々を越えれば京がある。

視線を右に送ると、飛行機が離着陸している。名古屋(小牧)空港だ。
その近くには小牧山がある。
さらに右、遠くにひときわ高い山、伊吹山だ。
さらに右、山に阻まれて見ることは出来ないが、岐阜城のある稲葉山がある。

織田信長が駆けた世界が一望できる。



元亀元年(1570)六月二十一日、織田信長は伊吹山の西にいた。
鎌刃城の堀秀村が浅井から織田へ寝返った。六月十九日、時をうつさず信長は出陣する。
調略が成功、浅井氏攻略のチャンスとみたのだ。

その日のうちに堀氏の長比城(たけくらべ、堀氏の家老、樋口直房が城主だったといわれる)に入って、軍勢が揃うのを待った。
軍勢が整うと、出陣から2日後、浅井氏の居城、小谷近くに進出、小谷周辺に火を放った。

『6月21日、長比(たけくらべ)を出た信長公は浅井の本拠小谷まで攻め寄せた。
織田勢のうち森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照は雲雀山(小谷のすぐ近く)へのぼり、山麓の町を焼き払った。
信長公はその他の諸勢を引き連れて虎御前山に陣を据え、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀および江州衆に命じて近在の諸所へ余すところなく火を放たせた。』(『信長公記』現代語訳)

まずは、小谷周辺に火を放ち、浅井の出方をみたのだろう。
もし、浅井が出撃してくれば、優勢な自軍をもってこれを撃破するつもりだった。
織田勢は浅井勢の約3倍だった(異説あり)。

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<イラストは虎御前山の信長と小谷周辺への放火とした。>


『信長公記』には、小谷周辺に放火した、としか書かれていない。
信長は軍の規律に厳格だったと言われている。
それでも、このとき、殺戮、略奪、があったとボクは想像している。

今回、浅井氏に攻めいるころから、信長の思いに変化があったように思う。
「甘い考えではだめだ。もっと厳しく・・・」と、

普通、信長は峻烈な印象をもたれているが、
これまでの信長は峻烈とは言いがたい。
村木城攻め、稲生の戦い、岩倉城攻め、桶狭間の戦い、稲葉山城攻略、金ヶ崎攻め、をみても、
負けた側に寛容であった。

やはり、浅井長政の裏切り(信長からみて)が、よほど堪えたのだろう。
裏を返せば、それだけ浅井長政を信頼していたともいえる。


戦国大名は、雑兵などの略奪(人さらいも)には目をつぶったといわれる。
雑兵達には略奪は臨時収入のようなもので、士気を高める狙いもあった。
越後の上杉氏、甲斐の武田氏の略奪は他国に恐れられたという。
武田信玄の武将だった真田氏も、体の良いことばかりではなかったとボクは想像している。


攻め入ってきた他国の軍勢に略奪、放火を許しているようでは、領主は領民に見限られてしまう。

まともな戦国大名ならば、領民の支持がなければ成り立っていかない、ことぐらいは知っていただろう。
戦国期の領民は虐げられていた、と思いがちだが、
そんなことばっかりではなかった、と想像している。

領民に冷や飯ばかりを食わしているような領主は見限られてしまう。
現在でも、経済格差が過度になることを時の政府は恐れる。
政権交代(革命)がおきる可能性が高くなるからだ。

領民から収穫物の何割かを納めてもらっていたのだろう。
土木工事にも参加してもらわなくてはならない。
さらに、いざ戦となれば、雑兵として参加してもらわなくてはならない。
戦は集団戦の時代になっていた。

経済も軍事も領民の負担で成り立っている。
領主を見限って逃げ出す者が増えれば、根幹が揺らぐことになる。

治安、軍事、裁判権などなどを領主が司り、もちつもたれつの関係にあったのでは、とボクは想像している。

食糧事情もあって、領民が大名に働きかけ、略奪目的の出陣を要請した戦もあったという。
戦の建前はどうとでもなったことだろう。


それでも、浅井長政は信長の放火などの挑発を、ジッと静観していた。
越前からの援軍、朝倉勢の到着を待っていたのだ。
この時、織田1万5千、対する浅井5千(異説あり)。朝倉の援軍が到着すれば、
浅井+朝倉勢と織田勢との兵力差は少なくなる。互角に戦える可能性も出てくる。
(その後、到着した朝倉勢は8千だった。異説あり)


信長は虎御前山(とらごぜんやま)に陣を張った。
虎御前山は浅井氏の居城、小谷の南わずか2km。目と鼻の先だ。
その間を北国脇往還(街道)が通っていた(現在の国道365か?現在は北陸自動車道もその間を通っている)。
虎御前山は標高218m、比高110m。小谷山は標高495m、比高230m。

虎御前山から信長は小谷城を観察、睨みつけていたにちがいない。
信長は小谷の備えを見て、「力攻めをしてもてこずりそうだ。自軍にも多くの損害が出る可能性がある」と判断した。
戦国大名は、ひとつの戦で大きな損害を出すのを嫌った。当面の敵の他にも油断ならない勢力がいたからだ。

信長はジックリ攻める作戦に変更。足がかりとして小谷の南9kmにある横山城(浅井側)を包囲することにした。
二十二日、陣を払い、織田勢は移動を開始。
敵(小谷)に後ろを見せての移動だ。危険!

こういうときに追撃を受けると大きな損害をこうむることがある。
案の定、退却(移動)を知つた浅井の軍勢が小谷を出撃、織田勢の後を追った。
・・・・・



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税、を参考にしました。




<虎御前山(とらごぜんやま)のこと>

信長が陣を置いたといわれる虎御前山。
いかにも曰くがありそう。

今は昔、
美しい姫がいた。中野山の麓に住んでいたという。
悲しいことに姫は、自分が蛇の化身であるとは知らずに育った。

田川の畔に住む世々開(せせらぎ)長者に見初められて婚礼をあげる。
こどもが生まれるのだが、それは、顔が人間で体が蛇という15匹だった。
姫は愕然とした。はじめて自分が蛇だと気づき、我が身を嘆き身を投げて死んでしまった。

残された世々開長者は嘆きながらも、遺された子供たちを育てた。
子供たちは長じるにつれ人間の姿になり、立派な大人になって近隣の15の土地を治めた、という。

そんな虎御前姫だったが、いつまでも人々に慕われ、中野山はいつのころからか虎御前山とよばれるようになったという。
また、現在の町名の「虎姫」もここから来たと言われている。

そんな言い伝えを信長が知っていたかどうかはわからない。









  1. 2016/03/01(火) 07:21:21|
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