ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

万松寺(信長夜話・その5)

父、織田信秀が亡くなった知らせをきいて、万松寺(ばんしょうじ)に駆けつける三郎信長です。

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「信秀殿は疫病にかかって、療養、祈祷をしたが良くならず天文21(1552)年3月3日身罷った。
享年42歳。供養のため万松寺が建立された。」と信長公記にみえます。

ということは末森城で信秀が亡くなった時点では万松寺はなかった。
イラストのようなことはなかった(時代劇でも、このような設定をしますが)。

信秀の葬儀は盛大だった。僧は300人もいたそうです
(家族葬とはいかない。お坊さんへのお礼だけでも大変だ!)。

葬儀での三郎信長は例の格好(袴もはいていない)で、
付き従ったのは林・平手・青山・内藤の家老たち。

信長は仏前で抹香をわしづかみにして投げつけ(位牌へと思う?)、
さっさと帰ってしまった。
有名なシーンです。

なぜ、抹香を投げつけたのでしょうか?
「まだ自分の体制が出来ていないのに死んでしまった。信頼もしていたオヤジ殿だった。
これからどうしたら生きていけるのか?」と三郎信長は思ったとボクは想像するのですが?

それとも「オレの時代が来たな。やったるがや!」という高揚感だったかもしれません?

弟の勘十郎信行は折り目正しい服装・作法で、柴田勝家・佐久間大学・
佐久間信盛らの家臣が付き従った。

それを見た人達が「見てみやー!オヤジ様の葬式にあの格好。やっぱり三郎様はタワケだなも!」とささやき合った。
今なら、皆が喪服のなかTシャと短パンで現れたということでしょうか。

この後、信長は上総介信長(かずさのすけ)と名乗った。
上総といえば千葉県ですが、まったく関係はなかったそうで、勝手に上総介を名乗ったそうです。
これは信長だけではなく、他の大名や武将もやっていました。
「上総介、カッコええがや!これにするは!」ということだったのでしょう。

「守役の平手政秀は眼に余る信長の行為に悩み、腹を切ってしまった。」
と信長公記には書かれています。
これも有名な話で、若いころの信長の時代劇には必ず出てきて、
信長の「うつけぶり」を際立たせます。

でも、これは「信長公記」の作者、大田牛一が上っ面だけを見て書いたのではないでしょうか?
いや、彼は裏側も見えていましたが、このように書く都合があったのだと想像します。

信長と重臣で守役の平手政秀の間にはあるときから確執があったのでは?
平手が織田弾正忠家の嫡男である信長を自分のコントロール下に置こうと画策し、
「そうなってたまるか!」と思う信長との間に。

結局、信長が影でなんらかの圧力を加え、政秀を自刃に追い込んだ。とボクは思う。

ということは、信長は重臣を死に追いやるほどの力を備えていた。
すくなくとも、重臣ひとり?と同程度の実質権力をもっていたと思います。
19歳の信長は家中の権力闘争の中にいた。

万松寺はボクの生まれた家から、歩いて30分ぐらい。
大須から万松寺にかけてのアーケード商店街のなかにあります(万松寺商店街)。

イラストは上前津側(黄金~鶴舞線)から見たアーケードの入り口です。
この入り口からまっすぐ5分ほどで道の左に万松寺があります。

この地区は戦前は名古屋でも指折りの繁華街でした。一度さびれた後、奇跡的に復活、
今は若者たちも集まる下町の繁華街です。

ボクは子供ころから万松寺を知っています。
歴史に興味をもつようになり、信長とのつながりを知って、
「えっ!これってあの万松寺のこと?」と不思議な気持ちがしました。

このアーケードの入り口から数分のところに、
ボクがかつて通ったYMCAや衣服研究所がありました。

信長は平手政秀を弔うため政秀寺を建立します。
「いたし方なかった、許せ!」ということなのでしょうか?

政秀寺は万松寺から北に10分ぐらい歩いたところにあります。100m道路に面しています。
政秀寺のいきさつを知っている名古屋人は少ないかもしれません。




  1. 2010/08/31(火) 06:55:51|
  2. 信長夜話
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五十六・いそろく(ジョーク)

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1942年はじめ、チェスター・W・ニミッツ海軍大将(当時・右端)が
レイモンド・エイムズ・スプルーアンス少将(当時・左端)に、

「レイモンド、日本では太郎は長男につける名前なんだ。」
「次郎は次男に、三郎は三男に、四郎は四男にという具合さ。」

スプルーアンス 「なるほど・・・・ということは我らの敵、山本五十六提督(当時の連合艦隊司令長官)は56番目の子ということになりますね!」

ニミッツ 「うん、そうなるな。偉大な男だ。いや、山本提督の父上のことだよ。
われわれはその偉大な父上のご子息の海軍と戦わなければいけないのだよ!」

スプルーアンス 「・・・・?」


<ちょっと解説>
チェスター・W・ニミッツは太平洋戦争でアメリカ海軍を指揮した。
原子力空母「ニミッツ」は彼の功績を称えて名前がつけられている。

アメリカ海軍が日本海軍に押され気味のころも、彼の冷静な判断で持ちこたえて、
その後の勝勢につなげた。

戦時中をご存知の方は
♪いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりや地獄へさか落とし♪
という「比島決戦の歌」を覚えているかもしれません。
戦意高揚のための歌ですが、今聞くと日本的なあほらしさを感じる歌ですね(すみません)。

彼は日露戦争時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎を非常に尊敬していたと言われます
(東郷を尊敬する人は世界中にいます)。
その東郷の後輩たちと戦うことになったわけで、戦争の皮肉を感じます。

敗戦後(終戦ではない)キャバレーになっていた記念館の戦艦三笠(ほとんど外形をとどめていなかった。アメリカ兵による破損もあった)の復旧に手をかした。
彼のおかげで日本政府も戦艦三笠の保存に乗り出したことはあまり知られていません。

勝った側の余裕というひねくれた見方も出来なくないですが、
勝った側でも、やらないヤツはやりません。

アメリカ海軍の有名な猛将、ハルゼーは戦艦三笠をソビエト(当時)に渡そうと考えていたといわれています(戦艦三笠は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破したときの東郷の旗艦)。

チェスター・W・ニミッツは「惻隠の情」がわかる人だったのかもしれません。
原爆投下に対しても反対派だったといわれています。


レイモンド・エイムズ・スプルーアンス
1942年当時、世界最強の機動部隊(空母を主軸とする艦隊)・第一航空艦隊(日本海軍)にミッドウエイで痛撃を与えたアメリカの空母部隊の司令官。
戦後の駆逐艦に功績を称えて名前がつけられています(スプルーアンス級駆逐艦)。

それまでは巡洋艦部隊の司令だったのを抜擢された。
空母部隊以外からの抜擢(ハルゼーが推薦したと言われています)です。
もしミッドウェイで負けていたら、ニミッツの責任問題になっていたろうと言われています。

ミッドウェイ海戦後も太平洋戦争の大きな海戦の指揮をとった。
B-29による民間人への無差別爆撃に反対していたといわれます。
彼もニミッツほどではないが、東郷を尊敬していました。





  1. 2010/08/24(火) 07:01:38|
  2. ジョーク
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耳にタコ?

「耳にタコ!」

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「そのタコじゃないでしょ!」と即、ツッコミが入りそう。

そのとうり!

この場合のタコは摩擦によって硬くなった皮膚の一部のこと。
例えば、文筆家のペンダコのように。
「何度も同じことを聞き飽きた。」の意。

「そんなことはわかっとるわ!」

ごもっとも、でも 
「えーっ、うそ!海にいるタコじゃないの?酢ダコにするやつ。最近はモロッコ産のが多い。
それがなにかの拍子に耳にはり付いてしまった。ということじゃないの?」
という方がおみえになるかもしれませんから?・・・
(パチンコで勝った説明とジョークの解説ほどしらけるものはありません・・・)

「シマ馬もシマをとったらただの馬」
ボクの好きな川柳のひとつ。

今回のイラストはこの類(ちょっとちがうかな?)。





  1. 2010/08/17(火) 08:16:16|
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駈け落ち(ジョーク)

駈け落ちした二人が「いいこと」していると、
親から娘にメールがきた。

「二度と家に戻ってくるな!そうすればすべてを許す!」
娘「・・・・」

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不思議なもので、女と男は皆から祝福され、認められた間柄ほど燃えにくい。
「祝福されない関係」になるほど燃えやすい。

「不道徳」「非常識」「秘密」「獣のよう」「非日常」「非論理的」「許されない」
「いけない」・・・
という言葉に発情するのが女と男?

「晴天白日の恋など、恋ではない!」と言った人もいるぐらい。

見方を変えれば、悩み事を自分で作り出しているわけですが、
ひょっとすると人は悩みたくてしかたがないのかもしれません?

「いけない関係」も晴れて「許された関係」になると、「あれ!こんな筈では・・・」

まったく女と男というヤツは・・・?



  1. 2010/08/10(火) 07:07:50|
  2. ジョーク
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タワケ?(信長夜話・その4)

前回「信長夜話・その3」からの続きです。

「当時の信長公は、湯帷子の袖をはずし、半袴をはき、火打ち袋などをぶらさげ、髪は茶筅に結い、紅や萌黄の糸で結び、太刀は朱鞘のものをもちいていた。
配下は全員赤武者とし、市川大介に弓、橋本一巴に鉄砲、平田三位に兵法を学び、鷹狩を好んだ。

行儀は悪く、町では人目も憚らず柿や瓜をかじり、餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって歩いていた。
その頃城下は穏やかで品のよいものであったから、この有様は大うつけとよばれるほかなかった。」
と信長公記は書いています。

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若き日の三郎信長のイメージはこれで決定づけられました。
映画、テレビなどはこのイメージで描かれます。

今なら、ヤンキーか暴走族の総長のような男だったのではないでしょうか?

領民の大人は「今、向こうへ行かれたのは三郎様(信長)じゃねぁか?変わり物だわなも、あの方は。このさき困ったことにならなええが?」と不安を覚え。

若者は「カッコええがや!オレもあんな風に目立ってみてゃーがや!」と密かに思い。

重臣は「父親の信秀様は三郎様(信長)の好き放題にやらしとる。
三郎様が評判どうりのタワケ(馬鹿者のこと)なら、時をみて織田弾正忠家を乗っ取ったろ!」
それとも「ダメなヤツということがわかったら、美濃や三河に鞍替えしなあかんなー。」
と考えていたことでしょう。

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三郎信長は「○△のときは□□のようになされませ。」「×△はこのようなシキタリになっております。・・・」など、合理的理由のないシキタリや常識を内心せせら笑い、そんなことを言う相手を「バカかこいつら・・・」と見下していた。
今でも若者にありがちな思いですが、それを現実で押し切るスゴさを三郎信長はもっていたのでしょう。

このころの信長は直属の親衛隊(馬周り)の構築に努力していたと思う。
「山田村の五助か、おみゃーは五男だろう、これからどうやって生きていくつもりだ?ちゃんと生きてけるのか?」「いっぺん、遊びにこい!」と、自分の将来に不安を感じている同世代、もしくは年下の若者にキサクに声をかけた。

「どうやって生きていくのか?」それは自分のことでもあったのです。

重臣たちの力(武力も含む)を頼りにしているかぎり、自立はむずかしい。
耳ざわりの良いことを言っているが、信頼出来るヤツは少ない。
いや、不利と判断すればサッサと見限る。それが当たり前だった(今でも)。
結束力の強い自前の親衛隊(馬周り)をもつ必要があった。

「軍事力と経済」が国を強くする。
そのためには領民から信頼されること。安心して商売、農業ができること(経済力)が必要だと考えた。

そして港(湊)を抑え流通を牛耳ること、流通業者や商人から矢銭(用心棒代・みかじめ料・軍事費)を出させること、それは領民への税負担を軽くし、新しい武器を買い入れ、大きく膨らむ軍事費にあてるため。
ということぐらいは一瞬に頭のなかを駆け巡った。
このティーンエイジャーは日本人ばなれした合理性で見抜いていた。

自分の仲間や親衛隊のだれかが、不当な扱いを受けたり、泣きついてきたら、
信長自信が話をつけに行ったかもしれません。
悩みや困りごとには親身に力を貸したでしょう。
それが、初期の仲間や親衛隊の結束力を強くすることになるからです。

当然、織田弾正忠家の嫡男である看板を利用した。
ヤクザ組織の初期段階と同じですね。

戦国大名などといえばカッコよく聞えますが。
暴力(武力)を主軸とした、非合法もありの地方政治家なのです。
ヤクザは暴力(武力)を主軸とした、非合法経済組織です。

今回は名古屋弁を思いっきり使ってやった!
当時の尾張弁とは違うかもしれませんが、
すくなくとも他県出身の時代小説作家が使う怪しげな尾張弁よりは近いでしょう。
ボクの名古屋弁は本物ですから。

信長が一時、居城とした那古野城から歩いて15分ぐらいのところにボクの取引先がありました。
那古野城は現在の名古屋城二の丸あとあたりと推測されています。

時代劇では、荒々しい、怒鳴り散らす信長がお決まりですが、静かに物事を洞察する信長も描くべきです。
信長の史料をみていると、粘り強く、冷静に対処することに気がつきます。

「天使のように大胆に、悪魔のように細心に」以前、こんなCMコピーがありましたね。






  1. 2010/08/03(火) 07:26:28|
  2. 信長夜話
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