ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

タワケ殿に会いたい!(信長夜話・その9)

天文22年(1553)4月下旬。美濃の斉藤道三が
「富田(現愛知県一宮)の正徳寺にて織田殿と対面いたしたい」との旨を申し送ってきた。

信長が前年の8月に清洲方を「萱津の戦い」で破ったことは道三も知っていたでしょう。

「尾張の上総介殿(信長)はタワケだ」というウワサを聞いていた道三は「タワケ=強い?」
というアンマッチが「一度会ってみたい。」と思わしたのでは(ボクでも会ってみたいと思う)?

もとより娘、帰蝶の婿殿(婚約していた)である。

「皆がタワケという場合は案外、逆かもしれない?」と道三は思ったと
「信長公記」は伝えています。
「商品開発会議などで皆が賛成したものはダメで、皆が反対したものに脈があるのだ。」
という話と似ています。

皆が賛成したものは、当たり障りの無い平凡な商品にしかならず。
皆が反対したものは個性があり、うまく育てれば独走になる可能性があるということなのでしょう。

まずは信長と会って、話をしてみて、やっぱりタワケならば、ころあいを見て尾張を攻めれば良いし、
ウワサと違って素質十分ならば、婿殿として遇し、あわよくば同盟を結べば良い。
いずれにしろ会うことに損はない。というのが道三の胸の内だったのではないでしょうか?

以下、経過です。
《 》のない文は「信長公記」の現代語訳です。
《 》内はボクの想像と感想です。

utukenogyouretu41.jpg

utukenogyouretu32.jpg

信長はその申し出を快諾して、木曽川を越えてやって来た。
《現愛知県一宮市あたりが両国の接するところだったらしい。
この時、清洲との緊張関係は続いていたと思います。
イラストのように共の者達が完全武装をしていたかどうかは疑問?》


道三は800人ほどの家来を肩衣・袴を着せて威容を整え、寺前に整列させ、
その前を信長公の行列が通るようにした。
道三自身は町屋の家に隠れ、やって来る信長公の行列を覗き見しようとした。

《ウワサに聞くうつけ(たわけ)ぶりを見てやろうと思ったのでしょうか?
それとも信長の自然体を見たかったのでしょうか?
信長を道三がのぞき見る光景はちょっとユーモラスで楽しいですね!

正徳寺に両方あわして約二千人が集まったことになります。
富田(現一ノ宮)の住民は「正徳寺さんで何かあるの?ようけ(多くの)人が集まっとらっせるが。戦さでもはじまるんだろうか?
子供に外に出てかんように言っとかないかんぞう!・・・」と話あったかも・・・》


信長公は例の茶筅の髪に湯帷子の袖をはずし、大小は荒縄で腰に巻き、芋縄を腕輪にし、
腰には猿使いのように火打ち袋や瓢箪を七つ八つぶらさげ、下は虎革と豹革の半袴、といった格好でやってきた。
供の者は七百人ほどで、足軽を先頭に、三間間中柄の朱槍五百・弓鉄砲が五百ほどだった。

dousan21.jpg

《「・・・来よったな。おっ、あれがウツケ殿だな!おもしろい格好じゃ!おおっ、長い槍だ!弓鉄砲が五百ほどもあるぞ!」と道三は口の中でつぶやき、信長の「うつけファッション」と尾張衆の装備の新しさに驚いた。と解釈されています。

(イラストの覗き見をする道三は肖像画を参考にしました。)

「信長公記」の記述では信長の供の者の数が不自然です。「三間間中柄の朱槍五百・弓鉄砲五百がほどだった。」ということになると、それだけで1000人になります。
当時の信長の動員兵力は1000ぐらいだったと思われます。そうすると全軍を連れてきたことになります。

会見といっても、相手が油断していれば殺害する(される)ことも考えたでしょうから、
「やるならやってみろ、ただでは帰さんぞ!」ということも想定した供揃えだったかもしれません。

また、「オレに敵対するとこの連中と戦うことになるのだぞ」という威圧の意味もあったでしょう。
信長の共の者たちは馬周り(親衛隊)が多くを占めていたと思われます。》


信長は寺に着くと四方に屏風をめぐらせ、その中で髪を整え、いつのまにか用意した褐色の長袴をはき、見事な拵えの小刀を差した。家中の者どもはこの有様を見て驚いた。

《信長はパフォーマンス好きです。史料を見るといろいろなパフォーマンスをして現代の人を楽しませてくれています。
ひょっとすると道三の「覗き見」も信長は諜報機関から聞いていたかもしれません。
Tシャツ短パンで来た男がスーツにネクタイ、ポケットチーフを胸にぶちこんで現れたようなものです!
物腰もちがっていたでしょう。

皆が自分のことを「うつけ」(タワケ)と言っていることを計算にいれたパフォーマンスです。
道三も驚いたでしょう。ついさっき「うつけファッション」を見たところなのですから。》


信長は御堂のなかへ入り、おのおのの家臣が見守るなか、道三と対面。
挨拶をし、湯漬け(ご飯に湯をかけたもの、当時のファストフードだった)を食べ、盃をかわし(にごり酒でしょう)、無事終了した。
《何を二人は話したのでしょうか?とても興味があります。濃尾同盟の話などしたのでしょうか?

「これが上総の介か、イケメンじゃのう。鼻が大きいなあ。」と初対面の道三は思った。

信長 「上総介でござる。」
道三 「山城(道三のこと)でござる。」
道三 「今日は天気が良いな」
信長 「左様・・・・」
道三 「ぐびり(酒を飲む音)・・・・」
しばらくして
信長 「舅殿は何がお好きでござるか?」
道三 「鮎じゃよ。長良川の鮎じゃ。長良川の鮎はうまいぞ。ぐびり!」
信長 「・・・・」
道三 「上総介殿は何がお好きかな?」
信長 「ういろうでござる。」
道三 「?・・・・ぐびり」
信長 「・・・・」

会見の後、おのおのが「長良川の鮎」と「ういろう」を送り届けた。
菖蒲を添えて・・・
かどうか?(小説家のようないい加減なことを言うな!)
信長は酒をあまり飲まなかったという説があるから甘党だったかも?

「濃尾同盟」があったとすれば書簡で交わしたでしょうから、
どうでも良いような世間話をしたのでしょう。

それとも、共通の話題は手の内を読み取られるため、口は重く、
モクモクと食べ、飲み、ぼそりと話す。というものだったかもしれません。》


道三は苦虫をかみつぶしたような表情で別れの口上を述べ、二十町(約2km)ばかり見送っていった。
そのとき美濃衆の槍は短く、尾張衆の槍は長大であった。
道三はその対比を見、憮然として帰途についた。

途中、猪子兵助が道三に向かい、「どうみても、上総介はたわけでござりましたな」といった。
道三はこれに対し、「いや、わが子どもは、かならずそのたわけ殿の門前に馬をつなぐことになろう」とのみ答えた。
以後、道三の前で信長をたわけと言う者はなくなった。

《くせ者の道三が信長の素質を認めた会見でした。というより、信長のパフォーマンスに道三が翻弄された会見だったと言うべきかもしれません。
会見の主導権は若い信長にありました。

この義理の親子が直接会ったのはこの1回きりだったように思いますが、
お互いに近しいものを感じたのではないでしょうか?
この後、道三は信長に協力的です。信長に好意と戦略的意義を見つけたのかもしれません。
濃尾同盟として。

また信長は道三最期のときに救援しようとしています(救援を理由に美濃を乗っ取るつもりだったかも?)。
人の出会いは不思議です。
信長は兄弟と敵対しながら、義理の舅殿に共感したのでしょう。実質本位だった。》


「信長公記」は若き信長の史料として一級です。
正徳寺の会見に「信長公記」の作者、大田牛一が参加していたかもしれません。
記述にリアリティーがあるからです。

信長、二十歳の春でした。



  1. 2010/10/26(火) 06:49:38|
  2. 信長夜話
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

信長夜話その8(萱津の原で・・・)

「赤塚の戦い」(前回の信長夜話その7)から4ヵ月後、天文21年(1552)8月15日
清洲の実質的権力者、坂井大膳(さかいだいぜん)が信長に敵対します。

経過を書きます。

清洲の坂井大膳は松葉城(現海部郡大治町)と深田城(現海部郡七宝町)を攻めて人質を取り、
無理やり味方にした。

8月16日朝早く、信長は那古野城をただちに出陣。逡巡しない。
守山(現名古屋市守山区)から叔父の信光(のぶみつ)も応援に駆けつける。

信長、信光の連合軍は稲葉地(いなばぢ・現名古屋市中村区)から庄内川(一級河川)を渡河。
清洲の南方4キロほどの萱津(かやつ・現海部郡甚目寺町)に進出。

清洲城からも実力者、坂井甚助(じんすけ)が軍勢を率いて出撃。
萱津の原で両軍は激突する。「萱津の戦い」です。

数刻の戦いの末、清洲方は50人ほどの武士が戦死。信長方が勝利した。
敵の主将、坂井甚助も討ちとられます。

「萱津の戦い」の後、信長は松葉城と深田城をたちまち占領した。

kayatu11112.jpg

清洲の坂井大膳は守護代家の家宰(かさい・家老)です。
すでに権力は守護でも守護代家でもなくなっていました。
下克上はあらゆるところで表面化していたのでしょう。

今でもこんな光景を見ます。
会社を実際取り仕切っているのは社長ではなく常務だったりします。

このときの信長、信広 連合軍は千ほどではなかったでしょうか?
対する清洲勢も同程度と想像します。
イラストは右側が信長、信広の軍勢です。

萱津の原は庄内川が近くを流れています。
萱津にはボクの取引先があって何度も通ったことを思いだします。
取引先のあの人は今頃どうしているのかな?

庄内川はボクにはなじみのある川です。
下流のほとりにある高校に通い、
今もここより上流の近くにボクは住んでいます。

萱津の近くに、名古屋三観音のひとつ甚目寺観音(じもくじ)があります。
名古屋三観音とは笠寺観音(かさでら)、荒子観音(あらこ)と甚目寺です。

笠寺は前回の「信長夜話その7 」で出てきました。
荒子観音(名古屋市中川区)は近くに「前田利家誕生の地」の碑があります。
前田家は荒子の土豪だった。

利家はこの「萱津の戦い」が初陣です。15歳。
信長と衆道(男色)の関係だったといわれています。

愛知県は若き信長のゆかりの地の宝庫ですが、
史跡整備と広報に力をいれているとは言えません。
もったいないですね!観光資源だと思うのですが・・・

ところで、戦場で亡くなった遺骸は誰が処理したのでしょうか?
勝利側では見知った人が運んだかもしれませんが、
負けた側はあたふたと逃げたでしょうから遺骸の処理どころではなかった。
勝利側とて運べる遺骸の数はしれていたでしょう。

結局、住民が近くの林や藪に捨て去ったのではないでしょうか?
それを野犬(当時は飼い犬も野犬のようなものだったかも)や烏があさった。
そう想像します。

「萱津の戦い」は暑い時ですから、すぐに遺骸は異臭をはなったでしょう?
たとえ林や藪に捨て去っても腐敗し終えるまで死臭があたりに臭ったと思われます。
戦さの後処理はどうだったのか興味があります。

この「萱津の戦い」で信長を「大うつけ」とバカにしていた人たちが、
「上総の介はなかなかやるなも。強えーなも!
赤塚ではビギナーズラックで引き分けになったと思ったが、なめとったらいかんなも!」
と見直すことになります。

信長19歳の夏のことです。



  1. 2010/10/19(火) 07:09:41|
  2. 信長夜話
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

脇が甘い?

午後3時15分、いつもの喫茶店で友人と、

景気の話などして、おもむろに

ボク 「最近、画いたやつ・・・」
おもむろに紙封筒からこのイラストをとりだす。

waki21.jpg

友人 「・・・・」
胸ポケットからメガネを取り出してかけ、イラストを見る。

ボク 「題は<脇が甘い?>」
友人 「飛んでいるのは?」
ボク 「はえ」

友人 「右下の黒いのは?」
ボク 「鳥男」
友人 「・・・・」

友人 「もうすこし得意の皮肉が入ったほうが・・・」
ボク 「・・・・」

ボク 「<ツメが甘い>というのもあるね?」
友人 「<爪が甘い>ね?じゃあ、<見通しが甘い><人間が甘い>というのもあるねぇ」

ボク 「<しめつけが甘い>というのは?」
友人 「ハハハ!<あそこが甘い>は?」
ボク 「ハハ!・・・」

画いたイラストを友人にちょくちょく観てもらう。言い訳はしない。
画き手ではない人の反応をみて楽しむため。

話題が他に移る。

友人の話に相槌をうちながら、イラストを紙封筒におさめる。

コーヒーを飲む。

「脇が甘い」の語源は相撲用語だそうです。
脇が甘いと相手にまわしを取られたり,
両差し(もろざし)になられたりして体勢が不利になることから,
守りが甘いことの喩えとしてよく使われるようになったらしい。



  1. 2010/10/12(火) 07:14:13|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

母乳が牛乳より優れているところ?(ジョーク)

bonyuu12.jpg

「そこの君、母乳のほうが牛乳より優れているところを上げよ?]


「はい!なんといっても新鮮で清潔である。

猫に飲まれない。

うーん、とても素敵な容器から出てくる。

手触りが良い。

持ち主がきもち良いときもある。

車の中や映画館でも・・・。

前についている。

吸い口がわかりやすい。」


「・・・・」



  1. 2010/10/05(火) 07:02:57|
  2. ジョーク
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0