ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

まみあな

ボクは地名にひかれることがよくあります。
それをきっかけに旅することも・・・

好きな地名のひとつ「狸穴」(まみあな)。
ご存知、東京の港区麻布狸穴町のことです。

mamiana24.jpg

「狸穴」ですよ!たぬきの穴!
昔(江戸時代かな?)、このあたりに狸の穴があったのでしょうか?
楽しい地名ですよね。

(注)「まみ」は実はアナグマの意味だそうです。何時のころからか「狸」になった。
という説があります。

ライバル?の狐は「狐塚」がそこかしこにありますが、
狸の地名は珍しいのではないでしょうか?

ボクは初めて「狸穴」の地名を聞いたときは「それどこ?日本なの?」と思った。
語感も日本離れしていると思いませんか?

「マミアナ」ですよ!どこか南方の海辺の町のようでもあります。
「マリアナ」じゃありません。「マイアミ」と似てる!

『ある居酒屋で、愛嬌のある娘と知り合って一夜をともに・・・。
朝、起きると娘の姿はなかった。酒が残った空ろな記憶、
「私、住んでる所はマミアナなの!」歌うような話方だった。』
なんてね!
今でも狸穴には狸が住んでいて人をダマしたりしているのかもしれません?・・・

脱線しました。

以前、狸穴にはソ連大使館があったそうです。ソ連(現ロシア)と「狸穴」、いいですねえ!
「熊穴」なら、そのものズバリですが・・・(失礼しました!)

今回は東京の話。すこしシャクです。
テレビで取り上げられる話題の半分は東京のことです。
おかげで自分の住んでいるところより東京の方が良く知っている、なんてことがあります。

魅力的な地名は他にもイッパイあります。そのうちのひとつ「糸魚川・いといがわ」。
字面をみただけでも面白い!
いつか、「糸魚川」のことも書いてみたく思っています。

今年の投稿は今回が最終です。
「ブエノス小僧のイラストブログ」にお立ち寄りいただき、本当にありがとうございました。
来年も「また、ふざけたことを書いているのだろうな?ちょっと見てやるか!」
と覗いていただければ、とてもウレシイです。

寒いから、今夜は湯豆腐と熱燗だ!

良いお年を・・・・






  1. 2010/12/28(火) 07:07:09|
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オレは信玄だ!(ジョーク)

ある精神病院で、

ナース 「先生、12号室の上杉さんが、3日前からオレは武田信玄だと言い張っているのですが、」

orehasingen0222.jpg
病室で、

医者 「どうして貴方は自分を武田信玄だと思うのですか?」

orehasingen0121.jpg
患者の上杉さん 「夜中に・・・神様にお前は武田信玄だと言われたんだ!」

すると、そばにいた別の患者がボソリと、

「オレはそんなこと言った覚えはない!」

医者「・・・・」





  1. 2010/12/21(火) 06:57:54|
  2. ジョーク
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村木攻め(信長夜話・その11)

天文23(1554)年1月、三河、岡崎(現愛知県岡崎)を拠点として尾張への侵略を企てていた駿河の今川は、重原城を落として緒川城(おがわ、現愛知県東浦、知多半島のつけ根あたり)の水野忠政を牽制。

村木(現愛知県大府、緒川城より名古屋より)に付け城(攻撃する城にたいして築かれる城)を構えて兵を入れた。
近くの寺本城(知多半島のつけ根の伊勢湾側)も駿河方につき緒川城への道を遮断した。

緒川城の水野忠政は三河(今川方)と尾張の接点で尾張方をこの10年間貫いてきた味方です。
信長は後巻として出陣することを決めたが、手薄になった那古野を清洲勢が攻めるかもしれないと思い(このころ、まだ、清洲との決着はついていなかった。)、舅の斎藤道三に加勢を要請した。

道三はこれを快諾。安藤守就(あんどうもりなり)に千の兵をつけて派遣した。
以下、経過です。

天文23(1554)年1月18日、安藤勢が到着、那古野の近くに陣を取った。信長は丁重に礼を述べた。

翌日の出陣の時、宿老の林佐渡・美作兄弟が不意に荒子城へ帰ってしまった。
家老達が取りついだが、信長は「そのようなこと、かまわぬ」とのみ言って出陣した。
(林佐渡・美作兄弟は「この戦さ、信長に分が悪い。ついていくとろくなことにならんなも」と思ったのでしょうか?
信長は「今にみとれよ、その時がきたらタダではすまさんぞ!」と内心思ったことでしょう?)

1月21日、信長出陣!守山の織田信光も一緒です(信光は信長に協力的ですね。信光はこの年の11月、家臣に暗殺されます。)。
熱田(あつた)から船で知多半島西岸に渡ります。(熱田は名古屋、いや、愛知県最大の神社「熱田神宮」があるところです。当時はすぐ近くまで海でした。)

この日は大嵐で船頭が止めたそうですが、かまわず強行します。
(当時の船は何人ぐらい乗ることが出来たのでしょうか?信長、信光が率いたのが800の兵だとすると、一艘に20人が乗るとして、約40艘になります。40艘ぐらいならなんとか集めることが出来たかもしれませんね?

murakijyouzeme0122.jpg


イラストは大波に翻弄される信長と馬周りとしました。先頭で怒鳴っているのが信長ですが、ちょっとカッコ良すぎますね。
実際は船上では鎧は着けていなかったでしょう。転覆でもしようものなら泳ぐに泳げません。
また、船酔いで皆、へたばっていたのではないでしょうか?ゲロゲロやっていた。)

三日後、1月24日の明け方、信長、信光、水野軍は村木城を攻撃します。
東の大手からは水野軍、西の搦手(からめて)は信光軍、大堀のある最も攻め辛い南を信長がうけもちました。

murakijyoume1211.jpg

信長勢はまず堀端から城の狭間(さま)を鉄砲で攻撃、塀を崩して城内に攻め込みます。
約9時間にわたる激戦となった。両軍とも多くの死傷者を出して午後5時ごろ城方の降参で決着。

信長の小姓や馬周り(親衛隊)も多くが討ち死にしました。
(すでに信長は鉄砲隊をもっていたようですね。鉄砲で攻撃したとすると、雨は降っていなかったようです。
イラストの信長は当世具足へ移行期の甲冑です。鉄砲の出現や戦闘様式の変化に対応するため。)

1月25日、信長は那古野に凱旋。

1月26日、留守居を頼んだ安藤守就を訪ね、重ねて礼を述べ、戦さの一部始終を語った。

翌1月27日、安藤は美濃へ帰陣。強風豪雨を冒しての「村木城攻め」の顛末を詳しく報告した。
これに対し、道三は、
「おそろしき者よ。隣にはいてほしくなきものだわ」と語ったと「信長公記」は伝えています。

信長21歳の正月でした。

安藤守就は後に信長の配下として活躍しますが、ドラマチックな人生を送りました。


谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。




  1. 2010/12/14(火) 06:53:30|
  2. 信長夜話
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3グラム?

karuikuti31.jpg

「口軽い、計ってみると3グラム」 川瀬秋広氏の川柳。

「口止めを、したからきっとしゃべるだろ」
(作者名をメモするのを忘れてしまいました。スミマセン)
これもボクが好きな一句です。

● NHKラジオ第一放送『かんさい土曜ほっとタイム・「ぼやき川柳」』から引用しました。
http://www.nhk.or.jp/kansaihot/senryu/index.html

ボクはジョークが好きですが、川柳も好きです。
笑ってしまうようなのがあると、メモしておいて後でみて「クックック!」と笑ったりしています(おかしなやっちゃ!)。

自分でも川柳をひねってみたいと思いますが、
なんとか作ってみたものの、ひいき目にみても良くありません。




  1. 2010/12/07(火) 07:10:03|
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