ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

好き嫌いを言ってみる。

ボクの住む名古屋地区に桜が咲き始めた。

何日か後には被災地で生き残った桜が咲き始めるだろう。

「桜よ咲け、せいいっぱい咲け、被災地の空に。そうだ、それでも桜は咲く。」



今回もくだらないブログを掲載します。以下。

ninjinkirai112.jpg

「この歳になってもニンジン大嫌い」
たしか、こんな川柳を見たような記憶がある。

ボクも子供のころニンジンはあまり好きではなかった。
大人から「好みは変わるから」と言われ、「そんなものか?」と思っていた。

ボクも大人になり(見てくれだけは)ニンジンを抵抗なく食べるようになった。
「ベータカロチン(カロテン?)がイッパイで体に良い」などという知識がついたせいかもしれない?
でも、こんな川柳があるところをみると、大人になっても嫌いが続くことがあるようだ。


●ボクの苦手な食べもの(自分では好き嫌いが無い方だと思っている)

<昆布>
「昆布が苦手なんて、ちょっとわからない?」と思われるかもしれない。
食べないことはないが、積極的ではない。わざわざ注文しては食べない。

子供のころ、近くの商店街で1日と15日に大売出しがあって、昆布を売る屋台が出た。
オボロ昆布を作る実演をしていたかもしれない。

あの昆布臭い匂いが子供のボクの鼻についた。それが苦手になった原因だと思う。
酢昆布やおぼろ昆布は今でも苦手だ。
昆布出汁、ひじき、海苔、昆布じめの刺身は好きだ。

<納豆>
これも、食べないことはないが、積極的ではない。わざわざ注文しては食べない。
ボクの育った家では納豆を食べる習慣がなかった。

納豆を食べる人を見たのは、ボクが大人になってからのような気がする(納豆を知ってはいたが)。
味が嫌いというわけでもないのだが、気乗りしないから挑戦することが面倒だ!(家人は勧める。体に良いという。)

namako112.jpg

<なまこ>
ボクの歳の離れた長兄が「酒のさかなにぴったり!」と言って、
「なまこの酢のもの」をよく食べていた。
長兄は食通を気取るところがあった。

しかし、ボクは酢のものの鉢の中を見て、ちょっと遠慮させてもらった。
生きているナマコを見て、さらに距離を置くことになった。
「おいおい、これを食うのかよ?」

どこからか、「あんなウマイものを・・・バチあたりめが・・・」と聞えてきそうである。
ナマコを口にした記憶がない。ついでながら「ホヤ」も、

(注)イラストは生のなまこ


●生まれてこのかた一度も食べたことがないもの(機会がなかった)も上げてみる。

<からすみ>
ボラの卵の加工品。高級品である。酒の肴だという。食べたらファンになりそうだ。

<くさやの干物>
猛烈な匂いだという。これも食べたらファンになりそうな気がする。

<トリュフ>
ご存知、フランス料理に使われる高級品。たしか、豚に見つけさせるという茸。
フォアグラは食べたことがあるが、トリュフは記憶にない(食べたかもしれないが?)。
特に食べてみたいとは思わない(負け惜しみかな?)。

<鮒ずし>
琵琶湖の近くで作る習慣があるという「鮒のなれずし」。
独特の味らしい。チーズのようだと聞く。
前出したボクの長兄は「あれはウマイ!酒にピッタリ」とのたもうた!

<フカヒレ、つばめのの巣>
高価なので食べていない(貧乏人は食べられない)。

「嫌いなもの」「食べたことがないもの」はじっくりと思いだせば、他にもありそうだが、
面倒くさくなったのでやめる(よく面倒くさがるヤツだ!)。すみません。

いつか「ボクの好きな食べもの」も書いてみたい。





  1. 2011/03/29(火) 06:47:56|
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信玄に会った(信長夜話・その15)

地震から1週間以上経って、被害状況がわかってきました。
被災地の荒涼とした瓦礫の映像を見るのがちょっと辛い。
被災された方、避難されている方の不安はボクの想像を超えていると思います。

そんななかですが、救援、支援に皆(国民)の意識がこれほどひとつになっているのを、
ボクは今まで知りません。
「日本は変わるな!それも良い方に!」そんな予感がします。


「こんな時にブログなど書いていて良いのか?」と迷います。
腹の足しにすらなりませんが、掲載することにしました。
以下、


尾張に天沢という天台宗の僧がいた。所用で関東へ下る途中、甲斐で土地の奉行にすすめられて武田信玄に会うことになりました(信長公記「天沢長老物かたりの事 」)。

奉行が強引に誘ったのかも?いや、限りなく可能性は薄いですが、信長から天沢に「万に一つ、信玄坊主(永禄2年、1559年に出家して信玄と号した。)に会見出来たら、いかなる男か見てきてくれまいか?」と申しつけたかもしれません?

shingenekken12.jpg

対面の場、
信玄 「御坊、そのようななところで・・・もそっと近くへ」(これはボクの脚色)
信玄 「御坊の生国はいずれにござるか?」
天沢 「尾張にございます。」
信玄 「どこの郡にござるか?」
天沢 「上総介殿(信長のこと)御居城の清洲から五十町ほど東に下った味鏡(あじま、現名古屋市守山区、ボクの家からクルマで約40分)と申す村の寺に居りまする。」

すると信玄は、信長のことを詳しく話すよう求めました。

天沢 「毎朝、御馬に乗っておられます。鉄砲・弓・刀はそれぞれ師匠について習っておいでです。しばしば鷹狩に出られます…」

信玄 「風流は嗜(たしな)むか?」
天沢 「舞と小唄を好まれます」
信玄 「幸若大夫を呼んでいるのか?」
天沢 「清洲の町衆に友閑(ゆうかん)と申す者がおります。この者がその道に詳しく、よくお召しになっております。
上総介様御自らは、敦盛の一番のほかは舞いませぬ。
人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、といつも口にされて舞われます」

atumori22.jpg

信玄 「小唄もうたうか。異なものを好むことよ。いかなる歌ぞ?」
天沢 「死のうは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたり起こすよの。と唄われます」
(注)(人は必ず死ぬ。生きているうちに何をしようか。それが自分の生きた証になるのだから)
信玄 「ちとその真似をしてはくれまいか?」
天沢 「…沙門の身にござれば、御勘弁くだされ」
信玄 「御坊、ぜひ」
仕方なく、天沢は真似をしてみせた。

信玄 「鷹狩はどのようにしておる?」
天沢 「鳥見の衆と申して二人を一組とし、獲物を見つけると一方が見張りをし、一方が注進に及びます。
また六人衆というものを定め、これに弓と槍を持たせてお手廻りとして使います。
そして騎馬の者があぶをゆわえた藁を手に獲物のまわりを回って注意を引き付け、その隙に上総介殿が近づき、鷹を放ちます。
獲物の落ちる方向にはあらかじめ向待の者を農夫に変装させて配置しており、この者が最後に獲物をおさえます。
上総介殿は名人ゆえ多くの獲物を手にされると聞き及んでおり申す。」

 信玄はこれらの話を聞き、「信長の戦ぶりのよきこと、道理である」と言い、なにやら納得の様子であった。
天沢は帰途も立ち寄ることを約束して退出した。
と「信長公記」は伝えています。

天沢が信玄に会った時期はハッキリしませんが、「桶狭間の戦」のすこし前だったと思われます。
信長23歳のときだとすると、信玄は36歳ということになります。

信玄が信長に興味をもっていたことがわかります。
尾張での信長の活発な動きは信玄の耳にも届いていたでしょう。
乱破(らっぱ)、素破( すっぱ)、と呼ばれる諜報員、商人や流通業者、天沢のような僧、・・・とあらゆる人たちから情報を集めていたと思われます。
(「素破」は“スッパ抜き”の語源だといわれています。)

いやがる天沢に信長の小唄の真似を信玄が強いるところがユーモラス。
信玄に押しきられて天沢が真似を演じるところは、ますます面白い!

まだ、信長と信玄とには距離があり、当面の敵ではないことがうかがえます(信長は後に武田家を滅亡させる張本人なのですが)。

「清洲の町衆に友閑」と出てくるのは、後に信長の側近の大物、松井友閑(まついゆうかん)のことだと思われます。
ということは、友閑は清洲の人で、芸事や芸術?などを信長に教えることで信頼を得るようになったと考えられますね。
「ここはすこし伸ばして唄うのが良いのか?このような足の運びが良いのか?」などと友閑に教えを請うていたのでしょう。

後に松井友閑は信長の吏僚(官僚)として堺奉行などを務め、秀吉政権になっても堺奉行を継続して務めていましたが、ある時、突然、罷免され、その後の消息は不明です。
何があったのでしょうか(不正があったとされていますが?)?
松井友閑についてはいつかあらためて書きたいです。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。 ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」(作者不詳)有名な敦盛の一節。
今では、信長のテーマソングのようです。

ボクはこの敦盛の一節は傑作だと思います。
こういう無常観では「平家物語」の冒頭、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。・・・」
と双璧をなすのではないでしょうか?

また、これを信長がよく口にしたというところが、たまらなく良いですね。
「死のうは一定(いちじょう)・・・」の小唄も良いですね。
これまた、無常観をうたっています。
信長は強い無常観とともに戦国の世の49年を生きた(ボクはそう思います)。

「人間五十年・・・」を地でいったわけですね。
(注)人間の50年は下天の1年にすぎない。
天の見事な演出でした。
事実は小説より面白い!

敦盛その人の話も魅力的ですが、脱線がすぎるのでやめます(やめるのかよ!)。

イラストは奥に座すのが信玄です。
巨匠、長谷川等伯が描いた肖像画の傑作、高野山成慶院蔵の信玄像(と言われていた)を参考にしました。

黒澤明の映画「影武者」で当初、故勝新太郎氏を主演として進められたのは、この肖像画に似ていたからでしょう。もちろん演技も買っていたからでしょうが。

今ではこの肖像画は信玄ではなく、能登(現石川県)の戦国大名「畠山義続」というのが優勢です。

イラストは敦盛を舞う20代前半、尾張の小大名にすぎないころの普段着の信長としました。


<私訳信長公記>
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
を参考にさせていただきました。





  1. 2011/03/22(火) 06:24:15|
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言葉がみつかりません。

今回の巨大地震(東北、関東、長野県東部)の被災状況を見ると、
言葉がみつかりません。

被災された方々の心中をお察しします。
亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りします。


「ブエノス小僧のイラストブログ」を書く気がしません。

今回はいつものイラストブログを中止します。

津波が去った瓦礫の映像は、空襲を受けた町の焼け野原の写真を見ているようです。
日本の四分の一が壊滅したように感じられます。
なぜか、ぶつける相手のいない腹立たしさがこみ上げてきます。

被災地で救援にあたっておられる方々に敬意を表します。
救援の手を差し伸べてくれている各国に感謝します。

<追伸>
ボクは無事です。
ボクの住む名古屋地区では大きな被害は出ていないようです(3月15日現在)。






  1. 2011/03/15(火) 07:07:15|
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上司(ジョーク)

<鳥のペットショップにて>

tori32.jpg

客 「誰も飼っていない変わった鳥が欲しいの?」

店員 「じゃあ、こいつはどうですか?7万8千円です。」

客 「かわいい!」

店員 「いくつかの言葉を話すことが出来るんですよ。」

客 「へえ~!」

店員 「こっちのは48万。」

客 「めちゃんこ高いじゃん!」

店員 「こいつはね、パソコンが使えるんです。ブログをやるんですよ、そしてアフィリエイトだって出来るんですから!」

客 「へー!じゃあ、お金をもうけてくれるわね?」

店員 「でも、アフィリエイトで儲かった人を、私は聞いたことがありませんが?」


jyousitori12.jpg

客 「その右の態度の大きい、可愛げのない鳥は?」

店員 「83万です。」

客 「えええっ!何で、そんなに高いの?もっとすごいことが出来るの?」

店員 「いえ、そいつは何も出来ないのですがね、いまの2羽がそいつを上司と呼ぶもんですから・・・」

客 「・・・・」









  1. 2011/03/08(火) 06:49:52|
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稲生の原(信長夜話・その14)

NHK大河ドラマ「江 ~姫たちの戦国~」がはじまりました。

お江様が安土城で信長から槍を突きつけられるは、信長と二人で琵琶湖に船を浮かべるは、
本能寺の変で命からがら逃げる家康主従に同行するは、
明智光秀と、信長のこと、天下のことを話しあうは、と八面六臂のご活躍でござ候?
テレビドラマだから、いたしかたなしと思われ候へども、
すこし勝手がよ過ぎるように思われ候?

大河ドラマ批判はこれぐらいにして、

弘治二年(1556)、今から455年前、
信長の実弟、織田勘十郎信勝(おだのぶかつ、「信行」と表記されていることが多いが「信勝」が本当という説が強い。ここでは信勝とします。)を信長の筆頭家老、林秀貞(信長のですよ)と柴田勝家が支持し、信長に敵対し始めます。
信長を廃して、信勝を押すということだったのでしょう。(柴田勝家は、このころ信勝の重臣)

弟、信勝は家臣の人望があったといわれています。
良く言えば、礼儀正しく、既成権威を重んじ、重臣たちの言うことにもよく耳を傾け、信長より常識人で周りの空気が読める人だったのでしょう。
逆から見れば、周りに流され、自分が無く、優しいだけで重臣たちから組し易いと思われていたのかもしれませんね。

信長は、態度はデカイ、上からものを言う、利用できない権威や常識などはクソ食らえ、助言には聞いたふりをするだけで自分のやり方を通す。
つけ入ろうとする人にはやりにくい男なのです。

信勝は信長の直轄地、篠木三郷(現、愛知県春日井市。ボクの家から車で30分ほど)を押領(おうりょう)します。信長への挑戦です。
さらに、庄内川の際に砦を築いて川の東部分を占領しようとします。勝算があったのでしょう、当然。

信長はそれに反応、川の反対側、名塚(なづか、現、名古屋市西区)に砦を築き、佐久間大学に守らせました。一触即発!
8月23日、信勝側が名塚砦攻略に出ます。信勝の名代として柴田勝家が千、林美作守(林秀貞の弟)が七百、併せて千七百の軍勢だった。
翌8月24日、信長は清州を出陣。七百にすぎなかったといいます。2.5倍の敵。

名塚の近く、稲生原(いのうはら)で両軍は衝突します。
柴田勢が東から、林勢が南から、信長勢に挑みかかりました。
初め、信長勢は押され気味で後退しますが、体勢を整え、柴田勢に向かいます。

激戦のなか、信長の馬周り、佐々孫介(さっさまごすけ、佐々成政の兄、ということは、「浅間山荘事件」で警視庁機動隊を指揮したといわれる佐々淳行氏は血縁では?)が討ち死に。

その時、信長が大声で叱咤します。それを見た(聞いた)柴田勢は恐れをなし、崩れはじめます。
敵といっても、今までは身内、それも相手はお館様ですから。
23歳の信長は颯爽溌剌としていたのでしょう。その気に柴田勢は圧倒されたように思います。
信長はどんなことを怒鳴ったのでしょうか?興味があります。

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柴田勢を蹴散らすと、すぐに信長は林勢に襲いかかる。信長自信が槍をふるい、林勢に向かう。
主将自らの奮戦に発奮したのでしょう、非戦闘員の下人たちも武器を取って戦ったと言われています。
敵の主将、林美作は信長みずから突き伏せて討ち取り、戦の勝敗が決しました。

これが本当なら、総大将、信長自信が槍をとって敵と格闘したことになります。
川中島の合戦での上杉謙信と武田信玄の大将同士の接戦が有名ですが(現在、これは無かったということが大勢)、信長が林美作を討ち取ったことのほうがスゴイのではないでしょうか?
信頼されている「信長公記」に出てくるのですから。

信長ほどの大物が若いころとはいえ、みずから敵の指揮官のひとりを討ち取ったのですから、
「川中島の戦い」以上の出来事だと思うのですが?

手勢がわずか七百では信長自信も槍をとって接戦しなければいけなかったことでしょう。
当時の信長は自分自身の武力(運動能力)に自信があったと思われます。

戦いの後、信長は二人の母親である土田殿の命乞いを聞き入れて信勝を許し、
林美作の兄、秀貞と柴田勝家も許しました。度量のあるところを皆に見せたのかもしれませんね。

信長の率いた七百の手勢は信長が手塩にかけて育てた親衛隊(馬周り)です。
それは嫡男以外や、自分の将来に不安を抱くもの達だったと思われます。

戦に参加した多くの人は高値圏にある株を持っている投資家のようなもので、自軍に不利な形勢を感じたら、われ先に逃げるつもりでいたことでしょう(株なら売り逃げる)。
逃げ遅れて集団から外れれば死が待っているからです。

だから自軍が優勢かどうか?非常に敏感になっていた。
なにかをきっかけに不安にかられ、数人が逃げ始めると一気に不安が広がり、軍勢は崩れはじめるのではないのでしょうか?
ボクが現場の兵士なら、そうなると思うのですが・・・。

死も恐れずに戦えるのは一握りの親衛隊(馬周り)のそのまた一部だった。
その一部の多少こそが旗本の強さのちがいだったのでしょう。

ボクは学生のころ、名塚の近くのレストランでウェイターのバイトをしていました。
当時は信長の詳しいことを知りませんでした。信長のことを調べるようになって「この名塚というのはあそこのことだ!」とチョット驚くやら懐かしいやら・・・
稲生原は庄内川がすぐ近くを流れていて、堤際の平坦な原だったと思います。

戦国時代は騎馬の上級武士は下馬して戦ったといわれています(騎兵などいなかった)。イラストはそれに従いました。
槍をもって突進する信長と馬周りです。
下のイラストは信長の攻勢に恐れをなした林美作勢としました。

この戦は「稲生(いのう)の戦い」と呼ばれています。「桶狭間の戦」の4年前。信長23歳の夏。
「桶狭間の戦」以前では象徴的な戦だったとボクは思います。


谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。






  1. 2011/03/01(火) 08:15:59|
  2. 信長夜話
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