ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

はじめての上洛(信長夜話・その19)

「永禄2年(1559)2月、信長は突如、上洛を思いたち、随行八十名を伴って京へ上った。

都を見物したのち奈良・堺へも足を伸ばした。京では公方の光源院義輝殿に拝謁した。
随行の者達は、「此度の上洛、家の名誉ナリ」と、晴れがましい気持で各々装いを凝らしていた。」
と「信長公記」は伝えている。

「晴れがましい気持で各々装いを凝らしていた。」というところがほほえましい。
京へ行くのでオシャレをしたのかな?

信長は、前年の永禄元年(1558)7月に岩倉織田氏を「浮野の戦」で撃破。永禄2年(1559)春には岩倉城を攻略する。岩倉織田氏との戦闘状態の中、膠着のスキを見つけての上洛だったのだろう。

尾張制覇も完成していないのに、メドがついたということだったのだろうか?次なる一手だったのだろうか?
上洛のルートは現在の、清洲→関が原→彦根→京 だったと想像する。
《八風街道(はっぷうかいどう、近江八幡~桑名)だったかもしれない。帰りは八風街道だった。これも山越え。》

随行した八十名(『言継卿記』では五百名!)のなかには津島の商人が含まれていたと思われる。
堺→津島→信長という経済関係を作ろうとしたのだろう。
堺では本格的な茶道に感動したかもしれない?

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上洛の大きな目的のひとつに
13代将軍、足利義輝(よしてる)への拝謁があった。それ相応のお土産をもっていったにちがいない。

「こやつが、尾張の上総介か?元気の良いやつだ。位など授けさせて、わしの勢力下に取り込んでしまおう(常套手段)。こやつの出自は大したことはない。尾張の田舎小大名だ。そういえば、なにやら味噌臭い・・・」と義輝。

「足利将軍の現物は、こういうものか?えらそうなガキだ。臣従したと見せかけて、そのうちに操ってやろう・・・」と信長。
とボクは想像する。
この時、義輝23歳(若い!)、信長26歳(若い!)。「桶狭間の戦」の前年。

信長は権威の利用が上手だった。ということは、既成権力の影響力を認め、その正体も見とおしていたことになる。


このころの足利将軍は大変だったと思う。
直卒の優勢な武力がなく(武家の棟梁なのだが?)、将軍権力を利用しようとする有力大名をとりこみ、その武力を背景に天下を従わせなくてはならない。
そして、世は下克上、建前としての権威は弱り、実力の世界になっていた。将軍への値踏みも厳しくなっていたことだろう。

こうしてみると、信長が手塩にかけて組織した馬周り(親衛隊)たちの存在は大きい。信長が信じることの出来る直卒の戦力なのだ。

信長一行が清洲から上洛するには、他国を通過しなくてはならない。
それらは他の戦国大名の領地、いったい、どうやって通っていったのだろうか?

『上杉謙信が天文22年に上洛したとき、朝倉宗滴に大鷹と鳥籠を贈って越前通過の了解をとり、越中と加賀を支配する一向一揆に対しても「上洛の道中安全のために本誓寺(ほんせいじ)の超賢(ちょうけん)に斡旋を依頼した」と記されている(本誓寺記)。
 永禄2年の上洛でも、謙信は越前の朝倉義景、近江の六角義賢に書状を送って了解を得ている。』と小和田哲男氏が書いている。

信長も同様に、六角氏などに前もって了解をとりつけていたと思われる。また、一度、通過を許可したら、敵対する状態でなければ、襲うようなことはなかったと言われている(そういう仁義があった)。

信長の拝謁から6年後、二条御所に押し寄せた三次(みよし)三人衆と松永久秀の兵に足利義輝は殺される。
義輝は将軍の権威の復活に努力した、やる気のある将軍だったと言われているが、義輝が殺害されたことで、足利将軍の権威は再び地に落ちた。

また、義輝は剣豪将軍のほうが有名かもしれない。
上泉信綱・塚原卜伝に指導を受け、卜伝からは一説には奥義「一の太刀」を伝授された。と言われている。

二条御所で襲われた時には足利家秘蔵の刀を数本畳に突き刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。
しかし、多勢に無勢、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害された。
黒澤映画のようだ!享年30(満29歳)。

この上洛行では、信長にもうひとつのドラマがあつた。
長くなるので次回の「信長夜話」で書きます。

イラストは平伏する信長と、それを見下ろす義輝とした。




  1. 2011/05/31(火) 07:09:39|
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浩はバカ!(ジョーク)

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浩(ひろし)が仕事に疲れて家に帰ると、妻が友人の貞夫とベッドにいるのを発見した。

浩 「お前たち!ベッドでいったい何をしているんだ!」

妻 「ほら言ったでしょ、浩はバカだって!私たちが何をしているのかわからないんだから!」




植村黎 編・訳「ポケット・ジョーク」角川文庫 ¥300 を参考にしました。




  1. 2011/05/24(火) 06:55:30|
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毛がはえたようなもの?

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脱サラした友人と、
「よく決心したな。ラーメン店を開店したんだって、必ず行くよ!」
「おう、ありがたい。屋台に毛がはえたような店だけど!」

バイクにまたがる知人と
「かっこいい!バイク買ったの?」
「いやー、原チャリに毛がはえたようなものっスヨ!」

ちょっと謙遜した言い方。
原チャリや屋台のオーナーには失礼な話ですが、悪気はありません。悪しからず。

でも、本当に毛がはえたら・・・?

「民宿に毛がはえたようなもの」
「オーデコロンに毛がはえたようなもの」
「学芸会に毛が生えたようなもの」

「少女(少年)に毛がはえたようなもの」はチョット卑猥?






  1. 2011/05/17(火) 07:07:13|
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修理亮様のこと・(信長夜話・その18)

今回は修理亮様(しゅりのすけさま)のことを書きたく存じ候。

戦国時代には江戸時代のような忠義の考え方はなかったと言われている。
自分が従う大名の資質と将来性、自分への評価などに対して、戦働きをした。
現代よりも割りきりがあったというべきか?
そんな時代に信長に忠誠を誓った男(と思う)がいた。

柴田権六勝家(ごんろくかついえ)、修理亮(しゅりのすけ)は勝家の官名。
大栄2年(1522)尾張の上社村(かみやしろ、現名古屋市名東区)に生まれた(異説あり)。
織田信長より12歳年上。
権六というからには6番目の子だったのかな?

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ボクは以前、この近くに住んでいたことがある。名古屋の東部。東名名古屋インターの近くだ。
当時は新興住宅地で、造成された空き地があちこちにあった。
「柴田勝家誕生の地」という碑を見たような気がする(不確か)。

勝家が歴史に登場するのは信長の父、織田信秀の家臣としてだ。
「信長公記」に早くから登場している。
信秀の死後、勝家は信秀の息子の織田信勝(信長の実弟)の家老となる。
1556年(勝家、35歳)、信勝の名代(代理)として、林通勝や林通具と共同で稲生の原にて信長と戦い敗れる(稲生の戦)。その後、許される。

永禄元年(1558)勝家の密告に、信長が弟、信勝を清洲城で暗殺(前回、「信長公記・その17」)。
信勝の遺児、津田信澄は、信長の命により勝家が養育することになった。
勝家はこのころから、信長に従ったようだ。

その後の信長の尾張平定戦や美濃攻めにはあまり用いられなかった。
信長は勝家をまだ信用していなかったのだろう。なにせ、信長に槍先を向けた過去があるのだから。

それ以降、信長の膨張に従って、湖東、京、野田・福島、長島、小谷、志賀、越前、加賀・・・と各地を転戦、信長の筆頭家老のひとりになる(もうひとりは佐久間信盛)。
「日本史」の著者、ルイス・フロイスは「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」と勝家を記している。

勇猛と実直(おそらく)さからか信長の信頼は厚かったと思われる。
「本能寺の変」の直前には北陸方面軍の総司令官。これが人生の頂点だった。
勝家の信長評を聞いてみたい(信長を絶賛したかもしれない?)。

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「本能寺の変」の後、信長の跡継ぎ問題で羽柴秀吉と対立するが、エネルギッシュな苦労人、秀吉に政治的にも軍事的にも破れる(「賤ヶ岳の戦い」1583年)。
北の庄(現福井城)で妻であるお市(信長の妹)と自刃して果てる。勝家62歳、お市36歳~37歳。
「戦さ、また戦さ」の人生だった。

賤ヶ岳から北の庄に退却するとき、府中(現福井県武生市)で前田利家に会い、
数年来の骨折りに礼を言い(利家は勝家の与力)、「そなたは秀吉と仲が良いのだから、これからは秀吉に従うのが良い」と告げたという。
そして、利家の娘、摩阿(まあ、良い名前だね!後、秀吉の側室)を返した。

「賤ヶ岳の戦い」での敗因に勝家側で参戦した前田利家勢の戦場離脱があった(秀吉と内通していたのだろう)。
その利家に恨み言も言わずに・・・

「秀吉と比べると、人間としては勝家のほうが上等だったのではないだろうか?」と鈴木眞哉氏が書いている(たしか?)。そうかもしれない。

竹中平蔵氏のように、ああ言えばこう言う秀吉に、無骨な勝家は口ごもるばかりだったのではなかったか(ボクの想像)?勝家のくやしさを思う。

交渉の天才、秀吉相手では、相手が悪かった。
それでも勝家のプライドは秀吉の下につくことを拒否したのだろう。
いや、「秀吉は強敵だが、オレが戦えば・・・」という自信があったにちがいない。
歴戦の武将なのだ勝家は。

秀吉のドラマでは、秀吉の引き立て役として描かれることが多い。最近は見直される傾向もあり、勝家も喜んでいるだろう?

福井では新田義貞や松平春嶽(しゅんがく)よりも勝家は人気があると思うが、
越前の一向一揆殲滅の中心的実行者(信長の命令)だ。その後、善政を行ったとも言われる。
人間は多面体だ。

また、福井県には、夜、戦い敗れた柴田勝家軍が首のない武者や馬が隊列となって現れ、それを見たことを他の人に話すと災いがふりかかる。という言い伝えがあるらしい。
死してもなを楽しませてくれる?・・・「鬼柴田」にふさわしい!

鎧を着けて座る、勝家の肖像画がある。当時のものではないような気がする。
江戸時代に描かれたものだろう。
その肖像画は無視して上のイラストを画いた。

下のイラストは自刃直前の勝家とお市とした。
お市は長身だったという説がある。それに従った。
(戦国時代の死に装束がこんなのかどうかはわからない。)
お市については、あらためて書くつもりだ。

勝家は気の利いた冗談を言うのが苦手で、口の重い、とっつきの悪い男だったと想像している。
でも、外見に反し、人の良いところがあったかもしれない?
実直さを認めた人達から信頼された男だと思うが、人生をまっとうすることは叶わなかった。
若いころ、まさか、自分の終焉の地が北の庄だとは思わなかったろう。

修理亮様は死の間際に、子供のころの上社村の野を吹く風をば、
唐突に思い出したやもしれなく存じ候。





  1. 2011/05/10(火) 07:23:18|
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弟を暗殺!(信長夜話・その17)

黄砂が飛んできている。景色が薄黄色にもやって見える。

玄奘三蔵が旅し、郭侃(かくかん)が駆けたであろう、タクラマカンやゴビ砂漠の砂粒が、風に乗ってやって来るという。

子供のころ、初めて黄砂のことを知ったときは、とてもロマンティックな感じがしたのを覚えている。
最近では、どうも、ロマンティックばかりとはいかないようだが・・・

信長も清洲城から黄砂を春霞と眺めたにちがいない。
「今日は、遠くの山がぼんやりとしとるがや、霞がかかっておるな・・・」とつぶやいたかもしれない。




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永禄元年(1558)11月2日、信長は実の弟、勘十郎信勝(信行と表記されることが多いが、信勝が正しいと言われている。以下、信勝とする)を清洲城北矢倉天主次の間において、馬周りの河尻秀隆、池田恒興(つねおき)らに殺害させた。

信長25歳。桶狭間の2年前。殺された信勝は23歳?(生年がはっきりしていない)、
河尻秀隆31歳、池田恒興24歳、だった。


ずいぶんと前だが、「人は人殺しをするとき、体中の毛が逆立つんだよ!」と戦争へ行った人から話をうかがったことがある。
猫や鳥も威嚇するときや、戦闘態勢に入ると毛を逆立てる。人間も動物なのだ。
実行犯である河尻や池田達もそうだったのだろう。

河尻秀隆、池田恒興は後に信長配下の有力武将(トップクラスではない)になる。

河尻秀隆は「本能寺の変」の後、任されていた甲斐(旧武田領)の一揆を鎮圧できず、逃げるときに武田の遺臣に殺された(55歳)。
池田恒興の母、養徳院は信長の乳母。よって恒興は信長の乳兄弟で義兄弟にあたる。
秀吉時代に「長久手の戦」で討ち死にする(48歳)。

信長が岩倉織田氏と対立しているなか、信勝は岩倉と謀って、信長の直轄領である篠木三郷(しのぎさんごう)の押領をまたしてももくろんだ(前出「稲生の戦」の原因になった)。
信勝はこの地にご執心だったようだ?

信勝は津々木蔵人という若衆を重用して、重臣の柴田勝家を軽んじるようになった。
勝家はこれに怒り、信勝の再度の謀反の企てを信長に密告。
信長は病をよそおい表へ一切出なくなった。

信勝は御袋様(土田殿、信長、信勝の生母)や柴田勝家から「御兄弟の間柄です。御見舞いに行かれませ」と勧められ、清洲へ見舞いに赴いた。と「信長公記」は伝えている。

信長は信勝を殺す謀(はかりごと)をめぐらせ、
信勝は「見舞いを装って、信長の病がどれほど進んでいるのか見てやろう」と思ったのではないだろうか(ボクの想像)?

「信長が臥(ふ)せっているところに信勝が近づき、声をかけた瞬間、
信長がガバとかけ布(布団?)をはねのけ、隠しもった鎧通し(短刀)で信勝の胸を貫く」という暗殺シーンが描かれることが多い。
ドラマティック(刺激的)だから信長自らやったことにしたいのはわからないでもないが、史実は前出の通り。

猛禽類(ワシ、鷹、など)の一種に卵が複数生まれると、
先にかえったヒナが眼も明かないうちに自分の背中を使って、他の卵(他のヒナだったかもしれない)を巣から押し出して地面に落としてしまう。というのを読んだ覚えがある。
落とされた卵は地面に砕け、巣に残ったヒナが親鳥が運んでくるエサを独り占めするのだ。

闘争心に優れた血が残っていく摂理なのだろう。
この信勝暗殺事件を思うとき、その記事を思い出す。

信長は非情だというのが常識になっていて、「裏切り者は絶対に許さない」と思われているが、それは違う。
信勝も一度は許されている。信長に兵を向けたにもかかわらずである(稲生の戦)。
どうも信長の基準は「二度目は許さん!」だったのではないだろうか?
(松永久秀などは二度も許されている。有能だったのだろう。)

また、「実の弟を殺すとはなんたること・・・!」と思われるだろうが、他の戦国大名も似たり寄ったりだ(もちろん、それなりの理由はあるが)。
武田信玄(晴信)は父(信虎)を追放。自分の長男(義信)を廃嫡して東光寺に幽閉。義信は2年後に亡くなっている。30歳だった。
斉藤義龍は父と合戦、父(道三)を殺させた。
徳川家康は自分の長男(信康)を死に至らしめている。

実は現代でも、身内同士の凶悪犯罪が想像以上に多いというのを聞いたことがある。
親密な間柄は反転したときは恐ろしいことになるのかもしれない?

信勝の居城は末森城(現名古屋市千種区)だった。
名古屋の地下鉄東山線「覚王山駅」から10分ぐらい歩くと城跡(城山町)がある。今でも空堀などが残っている。

このあたりは名古屋の山の手のカッコイイところ。二の丸跡に建っている昭和塾堂の尖塔がエキゾチックだ。
ボクは名古屋の下町のゴチャゴチャしたところで育ったから末森あたりにあこがれた。





  1. 2011/05/03(火) 07:30:43|
  2. 信長夜話
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