ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

白石正一郎のこと。

siraisisyouitirou34.jpg

白石正一郎(しらいししょういちろう)文化9年3月7日(1812・4・18)生まれ。
高杉晋作より27歳年上。坂本龍馬より24歳年上。

西郷や龍馬などのビッグスターも結構ですが、ボクは正一郎のような脇役に興味がある。

調べてみましたが、正一郎の肖像画や写真が見つからないので、こんなイラストになりました。
ひょっとすると高杉晋作のようなザンギリ頭だったかもしれない?

後ろに居並ぶ男達は高杉が創設した奇兵隊の人達。「奇兵隊の写真」を模写しました(正確ではない)。その写真には狐目や狐顔の精悍な若者が写っています。

白石正一郎は幕末の馬韓(下関)の豪商。小倉屋という貿易商を営み、商船を何隻も所有し、大地主、多くの商い(米、反物、タバコ、塩、木材、質屋、酒蔵、荷受、倉庫、運輸・・・)を営んだ大金持ち。

そんな正一郎が、尊王攘夷派の大物達と親しく接するうちにその思想に傾いていく。
初めは、京や江戸の情勢、世の趨勢、を見極めるための情報収集という目的もあったと思う。
正一郎は商人(豪商)ですから、新鮮な角度の高い情報を欲した。

将軍継承問題で江戸へと向かう西郷隆盛に一夜の宿を提供しました。
おそらく、西郷と新しい世の中について話し合ったことでしょう。
あの西郷ですから、一気に正一郎の心は加速したのではないでしょうか?

彼は長州の志士はもちろん、他藩の志士も援助しました。
宿泊や、追われる者をかくまったり、資金援助をしたりと。
援助された志士は400人以上といわれています。

西郷隆盛、月照(げっしょう)、真木和泉(まきいずみ)、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、坂本龍馬、中岡慎太郎・・・と錚錚たる顔ぶれです。
また、奇兵隊の装備を正一郎が整えたといわれています。
今の金でひとり200~300万かかったといわれています。

文久三年(1863年)、高杉に感銘をうけた正一郎は、それまでの莫大な貯蓄をすべて高杉に差し出し、自分も弟とともに奇兵隊士となって参加!自宅も奇兵隊の本陣として提供するのです!

高杉晋作という人は魅力的な人だったのでしょうね。正一郎は高杉に惚れたのかもしれません?同性愛ということではなく(いや、ひょっとすると?)、男が男に惚れたのだと思う。
男の道楽?は「呑む、打つ、買う」と言われますが、一番、金がかかるのは男に惚れること(同性愛ではなく)だときいたことがあります。際限がない。

幕末の長州藩は恭順、倒幕と揺れ動きます。この間、奇兵隊を経済的に支えたのは正一郎でした。
正規軍ではないので、藩はまともに援助しなかった。

他人の金となると、つかい方が荒くなるのは、どこかの国の役人と同じ(失礼!)。
まして「日本国のために!」などという大義がくっつけば、押さえが利かなかったでしょう?
経済感覚がない高杉ですら心配したと言われています。

ついに、小倉屋の資産も底をつき、慶応元年(1865年)頃には破産寸前の状態に陥った。
ついに、明治八年(1875年)破産。
奇兵隊も悲惨なことになっていました。使い捨てにされたのです。

新しい明治政府の元志士たちから「白石正一郎を新政府の要人に、」という声が起こります。
恩に報いたいと思ったのでしょう。
しかし、正一郎は、すべてを断り、故郷の赤間神宮(下関)の2代目宮司として、ひっそりと暮らす事を選びます。

明治十三年(1880年)8月31日、69歳で世を去りました。

高杉や西郷の人生も「すごい人生だな!」と思いますが、正一郎の人生はドラマでよく取り上げられる志士たちよりも新鮮な感動がボクの胸にせまります。
高杉の話に発奮して眠れなかった夜のこと、小倉屋と正一郎のために働いてくれた人達との別れ(いたしかたなくクビにした)、新政府の誕生、そして破産。

こんな人生もあるのだな!とボクは思います。
ボクにはとても出来そうにありません。

「温和で清廉、実直な人物である」、西郷の白石正一郎評です。



<今日は何の日?徒然日記>を参考にしました。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/08/post-ef82.html



  1. 2011/06/28(火) 09:02:02|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

輪廻転生

zense13.jpg

「あっ!ちゃんゴキ!このやろう!」バシッ!

ゴキブリを怖がって、殺すことが出来ない男はかなりいる。
「キャーッ、イヤ~!」と可愛げに怖がっている女姓が、誰もいないところでは、こともなげに殺してしまうこともある。

「ちゃんゴキのゴいス」とは、「ムッシュかまやつ先生」主演のアースの殺虫スプレーのコマーシャルのセリフ。(「ゴいス」は商品名の頭文字を並べたようだ?)
ボクのお気に入りCM。

「ムッシュかまやつ先生」は良い!不思議な雰囲気、これぞ個性的!
種類はちがうが、最近、マスコミに破滅的話題を提供した内田裕也氏と双璧をなす。
脱線しました。スミマセン!

ボクは「ちゃんゴキ」を見つけると、古新聞や雑誌(捨てていいもの)を手に、スナップをきかせて、バシッ!
まだ、ピクピクしていたら、とどめをバシッ!
半殺しになったのが、こちらに向かってくるのが怖いから、

ボクは虫ぎらいではないが、「ちゃんゴキ」はキライ(すり込まれているのかも?)。
油油したこげ茶色の体、トゲトゲがある足、長い触覚、素早い動き、さらにこいつは飛ぶのだ!

ボクが子供のころ、「人は死ぬと、さまざまな物に生まれ変わり、長い長い時をへて、運の良いのがまた人として生まれ変わるんだわ。」とおばあさんから聞いた。
「虫に生まれ変わったりするの?」
「そうだよ。この世で悪いことをすれば、虫やゲジゲジに生まれ変わったりするんだ。」
(だからお前も・・・!という意味だったのだろう)
確かそんな会話だった。

ボクは不思議で恐ろしい気持ちになった。呼吸は浅くなり、鼻の穴を広げていただろう?

じゃあ、蟻や団子虫や水澄ましも、夕暮れ空のコウモリも、誰かの生まれ変わりなのかもしれない?
あそこで手をぺロペロなめているチー(ボクの家にはそういう名前のメスの三毛猫がいた)も誰かの生まれ変わりなのか?今は猫だが。
そういえば昨夜、「もうニェムいニャー!」と言ったような気がする。

ボクを見ると吼えかかる近藤さんの飼っている根性の悪いエル(犬の名前)も・・・。
猫に生まれ変わったり、便所の脇に生えている草に生まれ変わったりか?・・・
ぞうり虫というのもありだなぁ。

ゲジゲジやハエに生まれ変わるのは勘弁してほしいな。
お勝手(ボクの家では台所のことをこう呼んでいた)の腐りかけた柱や薄汚れた隅っこをゲジゲジは徘徊している。
嫌われているから、何も悪いことはしていなのに、踏み潰されるかもしれない?
痛いのだろうか?痛点はあるのかな?と想像がひろがる。

ボクの気配を感じて身構える足元の「ちゃんゴキ」も・・・?






  1. 2011/06/21(火) 07:46:03|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

食べるな、危険!(ジョーク)

kiken112.jpg

男が食す最も危険な食べ物といえばウエディングケーキである。

「ポケット・ジョーク」植松 黎 編・訳 角川文庫¥300を参考にしました。



今回はベルナール・ビュフェ風のイラストにしました。

以前、名古屋駅の近くのビルの地下にシャレたレストランがあった。
低めの天井、大きい曲線のカウンター、壁に沿って何席かのテーブルがあった。
照明は抑えられ、各テーブルの丸い傘のペンダントライトがテーブルを照らしていた。

いくつかのテーブルの側面の壁にビュフェの絵が飾られていた。
無彩色の店内にビュフェは似合っていた(印刷だったろう?)。

そのなかにピエロの絵があった。イスが二つの小さな丸いテーブルがあり、その脇の壁にかけられていた。
ボクのお気に入りの席。ボクはこの絵が好きだった。
客を楽しくさせるピエロが暗い眼をしているのに引きつけられた。

鋭いいく筋もの線。鋭角で太く黒い輪郭線、特徴的なベルナール・ビュフェのサイン。
サインも絵のうちだったのだろう。
余談ですが、ボクはお気に入りのこの席でフラレたことがある。ヤンワリと遠まわしに・・・


<ベルナール・ビュフェについて>
1928年パリ生まれ。戦時下で育つ(17歳のとき第二次大戦が終わる。)。
工場経営者の父との関係は希薄。母を10代で亡くす。

20歳でパリで最も権威のある新人賞・批評家賞を受賞。若くして自分の画風を確立し、画家としての名声を得た。経済的にも安定して絵を画いていける条件を手に入れた(と想像する)。

画家はここまでくるのが大変だと思う。
ビュフェの絵には孤独が感じられる(それが良いのだが)。笑った顔の絵を見たことがない。

晩年、パーキンソン病を患い、71歳(1999年)、自殺する。
自分自身と格闘した人生だったように思う(ボクの想像)。




  1. 2011/06/14(火) 07:30:08|
  2. ジョーク
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

斉藤義龍の刺客(信長夜話・その20)

前回の「はじめての上洛(信長夜話・その19)」の続き。

信長の上洛に、尾張からの使いとして信長一行を後から追う男がいた。
那古野弥五郎家中の者で丹羽兵蔵という。

途中、近江志那の渡し(滋賀県守山あたりか?)で尋常でない人物に率いられた三十人ばかりの一行と同船した。
船中で、彼らは「貴殿、生まれはいずくぞ」と聞いてきた。

「三河の者にござる。尾張を通ってまいった」と丹羽が答えると、一行はツっと視線を下に落として沈黙した。
さらに「尾張では何かと面倒や気遣いが多うござった」と丹羽がいうと、一人が「上総め(信長のこと)は甲斐性無しよ」と言い捨てた。

丹羽は一行に不審を感じ、彼らの泊まる宿場に自分も宿を取り、土地の子供を手なずけて彼らの身元を尋ねさせた。
一行は丹羽を三河者とみて気を許したのか、使いの子供に、「我らは湯入りに来たのではないぞ。美濃から大事の命を受け、織田上総介の討手に上るのだわ」と口を割ってしまった。

 丹羽はこれを聞き、夜間一行の中にまぎれて会話を盗み聞きした。
「あとで公方様の許し状を貰って宿の者に下されれば、宿を襲うて鉄砲で討ちとっても不都合は生じまい」などと言っているのが聞こえた。

 討手の一行は夜のうちに京に到着し、二条蛸薬師のあたりに宿を取った。
丹羽はその宿の門柱を削って目印とし、それから信長公の宿所を尋ねてまわった。

ほどなく上京室町通りの裏辻の宿所にたどり着き、番の者に姓名を告げ、「火急の用あり。金森殿か蜂屋殿に取次ぎ候え」と申し出た。やがて両人が出てきた。

丹羽は二人に対してこれまでの経緯を詳細に明かし、さらに京での宿を突き止めてきた旨を付け加えた。
両人は丹羽の労をねぎらい、奥に入って談合するうち、夜が明けた。

 朝になり、金森長近は丹羽を伴って討手の宿所に赴いた。討手の美濃衆は金森と面識のある者達だった。
金森は一行に対面すると「夕べ貴殿方御上洛のこと、あるじ上総介も存じてござるによって、このように挨拶にまかり越した次第でござる。ついては貴殿方も上総介へ返礼し候え」と申し述べた。

「上総介存知」と聞き、一行は仰天した。

jyouraku0132.jpg

翌日、美濃衆は小川表の管領屋敷に参上した。信長公も小川表見物と称して出てきて、彼らと対面。

信長公は彼らに大音声で呼びかけた。
「汝らは上総介の討手に上りたるとな。若輩の分限で我を狙うとはこれ蟷螂(カマキリのこと)の斧と申すものよ。出来るものか。それともここで試して見るか」
頭の者たちは一様に窮してしまった。

jyouraku0313.jpg

この珍事に対し、京童は大将にはあるまじき振舞いであるといったり、若若しき大将には似合いであるといったり、さまざまであった。
数日後、信長公は京を後にし、近江から八風峠を越えて尾張に帰った。

以上は「信長公記」の内容。

なんと、美濃の斉藤義龍が、信長暗殺に鉄砲を装備した30人ほどの刺客を放ったのだ!
それを、丹羽兵蔵の活躍で知った信長自信が、刺客達の前に現れ「やるか?!」とタンカを切った。というのだ。

ボクは初めて、これを読んだとき、創作ではないのか?と疑った。小説のような話だから。
でも、それが「信長公記」に書いてあるのだ!
戦国大名(このころの信長の最大動員兵力1000人ぐらいか)としては、危うい感じがするが、信長はこの時以外にも危険なことをしている。

上のイラストは刺客達を前にタンカをきる信長。下は信長の気に呑まれてしまった刺客達とした。
信長がイラストのような格好をしていたかどうかはわからない。ボクの創作。
(今回の上洛行ではマントをまとった可能性は薄い。)

信長のマントには戸惑いと誘惑をおぼえる。
「南蛮笠」と呼ばれた帽子は伴天連から贈られて、気に入っていたことがわかっているが、
マントをまとったかどうかは、実はわかっていない。

信長というとマント姿で描かれることが多い。
先進性、舶来好き(好奇心)、バサラ性、他の戦国大名と区別させるため、などの理由で
「信長=マント」となるのだろう。
ボクとしては「マントを着用したこともあるのでは?」と思っている。

信長のマントは画き手(ボク)を強く誘惑する。
南蛮図屏風を見ていると、ジャケット丈のマントを着た異国人も描かれているが、
ヤッパリ、コート丈の長いマントじゃないとつまらない。
「怪傑ゾロ」のようなやつ。


「信長公記」のこの箇所に出てくる3人。

●丹羽兵蔵
イチバンの殊勲者、丹羽兵蔵ですが、この時以外は、調べてみたがよくわらない。
現愛知県北部には丹羽郡がある。丹羽姓は多かったのでは(丹羽長秀が有名)?

●金森長近
このとき36歳。多治見(暑いので有名な岐阜県多治見市)の生まれ。この後、信長配下の有力武将。
柴田勝家の北陸方面軍に属した。飛騨高山初代城主。
飛騨高山、越前大野、郡上八幡などを整備した大名と言われている(たしか?)。
三つとも小京都と呼ばれる観光地。
秀吉、家康と仕え、無事、畳の上で往生を遂げたようだ。
慶長13年8月12日没(1608年9月20日)74歳。「関が原の戦」から8年後。

●蜂屋頼隆
美濃の生まれと言われている(よくわかっていない)。
このとき26歳?(生年がはっきりしていない。26歳なら信長と同い年)この後、信長配下の有力武将として各地を転戦。
秀吉時代には越前敦賀城主。この人も無事、畳の上で往生を遂げたようだ。
天正17年9月25日没(1589年11月3日)55歳。


(注)
<私訳信長公記>
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
の文章を使わさせていただきました。




  1. 2011/06/07(火) 06:49:18|
  2. 信長夜話
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2