ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

人間五十年(信長夜話・その23)

前回の(信長夜話・その22)からの続きです。


『永禄3年(1560年)5月19日(6月12日)午前4時ごろ
夜明け時になって信長公に鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入る。

注進をしずかに聞いて、信長公は奥に入る。そこで敦盛を舞う。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか・・・」

舞終わるや、「貝を吹け」「具足をもて」とたて続けに下知すると、具足をすばやく身につけ、立ちながら食事をした。

信長公は馬に飛び乗ると、清洲の城門を駆け出る。
急な出陣に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎。』
と「信長公記」は伝えています。

有名な場面です。注進を聞いてから敦盛を舞うシーンは良いですねぇ!
生死を別ける、血なまぐさい戦場に駆ける前に、舞を舞うとは・・・。なんというカッコ良さ!

立ちながらに飯を食うところも良いねぇ!
27歳の信長の気魄が伝わってくるようだ。
血圧が上がり、躁状態になっていた。脳と体が戦闘モードに切り換っていたのだろう。
「義元の大軍だと、上等だがや、やったるがや、義元に一泡ふかせたるわー!」(名古屋弁)
信長主従六騎は熱田までの三里(約12km)を一気に駆けた。

信長好みの出撃だ。まず信長自信と少数の近習で出撃、途中で一息いれてるところへ配下の軍勢が追いつくという形だ。
配下の武将との打ち合わせや前もって命令をしないのだろう。「俺の動きを見ていろ!」ということだったのだろうか?

「辰の刻(午前7時)ごろ、上知我麻神社(かみちまがじんじゃ、現熱田神宮敷地内にある)の前で東方に二条の煙が立ち上っているのを見て、信長公は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知った。
この間、出陣を知った兵が一人二人と追い着き、人数は二百ほどになっていた。」(信長公記)

信長の長所はそのスピードにある。軍の機動、決断の早さだ。
信長に爽快感があるとすれば、それもひとつではないだろうか?

「信長は午前8時ごろ上知我麻神社を立ち、内陸を通り(海岸近くではなく)、途中丹下砦に立ち寄り、10時前には善照寺砦に入り軍勢をととのえた。」(信長公記)

当時は熱田神宮の近くまで伊勢湾が入りこんでいた。
江戸時代には熱田神宮近くの宮(みや)から桑名(現三重県桑名市)まで船便があった(七里の渡し)。
現在、「宮の渡し跡」は公園になっていて、常夜灯、時の鐘などがある。

syutsujin22.jpg
《イラストは熱田(現名古屋市、熱田神宮)に向かって駆けだした信長。
雲をよび、風をよび、雨をよんだ!
その日は強い湿気を感じる蒸し暑い朝だった(ボクの想像)。》

「後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎であった。」と信長公記にある。
真実を伝えることを目的とした大田牛一(「信長公記」の作者)だから、本当だったのだろう。
真実は作り事(小説)より凄みがある。もちろん、間抜けなことも作り事より面白いとボクは思う。

映像としては、駆け出す信長に慌てて五騎の小姓が後を追うというのが魅力的だが、疑問がある。
当時は、主人の槍や弓など持つ足軽や、馬のクツワをとる従者が数名つき従う。
小姓衆にも従者がついたとすると、主従6騎とはいかない。もっと人数が多い。
15人~20人ぐらかな?本当に主従6騎で出撃したのだろうか?


戦が終わったところで、付き従った小姓衆に集まってもらい、古いコンパクトデジカメで集合写真をとらせてもらった。ついでにインタビューをこころみた。

ボク 「この度の勝ち戦、おめでとうございます。」

小姓衆 「・・・・」
何者だこいつは?変なやつだ。といぶかしげな眼で見られる。

佐脇 藤八  「そのほうが手にしておるその小さなもので、我らの姿を映しとるというか?」

ボク 「さようでございまする。このボタンを押しますとスグに映しとることが出来まする。」
ボク 「さすれば、いざ!」カシャ!カシャ!カシャ!
説明していると、なにかの拍子にヘソを曲げられるといけないので、そそくさと写真を撮った。
撮影がすんでインタビューを試みる。

ボク 「上総介(信長のこと)様のご出陣は朝早くでござりましたが、皆様、小姓衆は起きておられたのでございましょうか?」

加藤 弥三郎 「小姓は当番を決め、起きておるのだ。ここにおる我ら5人が当日の当番であった。
上様の下知を聞いて、他の小姓にも声をかけた。上様は気まぐれなところがお有りになるゆえ、気が抜けぬ。」

ボク 「この度の戦(いくさ)はいかがでしたか?」

岩室 長門守 「雨のせいでぬかるんでいたゆえ難儀であった。敵の駿河衆も同じだったろう。戦が終わってみると、夢中で気がつかなかったが、いくつかの傷があるのに気がついた。
我が方にも多くの討ち死にした者、傷を負った者が出た。激しい戦であったが、天も味方してくれたように思う。」

ボク 「長門守様は、上様からの覚えが高いと聞き及んでいます。さすれば、アチラのほうも?・・・」

小姓衆 「控えい!慮外者めが!」
なんという無礼なことを、ヌケヌケと聞いてくるのだ。という侮蔑の目で見られた。

なんてね。もちろん、こんなことはありません。写真撮影やインタビューはボクの作り話。
「お前の作り話はいらないから!」
「ごもっとも!」


okehazamakosyou22.jpg
《イラストはボクのデジカメにポーズをとる(作り話)信長の出撃時に付き従った5騎の小姓衆とした。》
ご紹介する。

前列、向かって左から

佐脇 藤八  良之 :生年不詳。前田利家の弟。
幼い頃から刀の扱いに長け、佐脇家(佐脇興世)へ養子へ行き、織田信長に小姓として仕えた。
永禄元年(1558年)浮野の戦いに参加。永禄年間の初めには、兄利家とともに赤母衣衆となっている。
永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、尺限廻番衆(敵の城を包囲するために作られた柵の巡回と監視役)を務めた。
「道盛」事件に連座?して追放。元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川ら3人とともに討死した(負傷し、その傷がもとで没したともいう)。


岩室 長門守  重休 (しげやす):生年不詳。早い時期から織田信長に使えたようだ。
永禄2年(1559年)には赤母衣衆に抜擢されている。
永禄4年(1561年)6月に発生した犬山城主織田信清の反乱を鎮圧する戦いにも従軍。
重休は信清方の於久地城攻略(おくち、現愛知県大口町)にあたり城将中島豊後守の調略を試みたが拒否されている。
この為、於久地城の戦いが発生、その戦闘中にこめかみを槍でつら抜かれて討死したという。即死だったろう。

「信長公記」の作者、太田牛一は、重休のことを「隠れなき才人であり、その死を信長も大いに惜しんだ」と記述しており、信長や織田家中の評価が高かった。

加藤 弥三郎:生年不詳。
織田信長に小姓として仕え、永禄年間の初めには赤母衣衆に入っている。
永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、佐脇らと共に尺限廻番衆となる。
一方、『熱田加藤家史』によると、永禄6年(1563年)に信長の重臣「道盛」を斬って出奔。
弥三郎は長谷川橋介・佐脇良之・山口飛騨守とともに信長の勘気をこうむり、家康を頼って遠州に身を隠していたとある。
元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川・佐脇・山口とともに討ち死にした。


後列、向かって左から一人おいて

山口 飛騨守 :生年不詳。
おおむね、加藤 弥三郎に同じ。三方ヶ原の戦いに参戦し、討ち死にした。

長谷川 橋介 (きょうすけ):生年不詳。織田信長に小姓として仕えた。
天文21年(1552年)、信長が山口教吉と戦った赤塚の戦いでは、先陣の足軽として参加。
永禄年間の初めには赤母衣衆に入っている。
永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、佐脇らと共に尺限廻番衆となる。
「道盛」事件に連座して追放され、徳川家康のもとに身をよせた。
三方ヶ原の戦いに参戦し、討死した。


「桶狭間の戦」のころ、5人とも20代前半だったと思われる。

岩室をのぞいた4人は「道盛」事件に連座して追放され、徳川家康のもとにいたが、元亀3年12月22日(1573年1月25日)の「三方が原の戦」で全員討ち死にする。
織田家への帰参を願い、手柄をたてなければと無理をしたのかもしれない。
「三方が原の戦」での徳川、織田連合軍のひどい負け方が感じられる(言い換えれば、武田方の圧勝だった。)

ところで、善照寺砦に入った信長ですが、続きは次回(信長夜話・その24)で・・・



<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html









  1. 2011/07/26(火) 06:50:33|
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その前日(信長夜話・その22)

やったぞ!なでしこジャパン!やったぞ!澤!
ボクは「とりはだジャパン」だ!

メンバーが、これで薄給から脱出できるね。
号外の写真も良いねぇ。

それにしても、今年、2011年の日本は・・・
3月の悲しみと絶望、そして、この7月の歓喜と涙。

「ネバーギブアップ」は聞き飽きた感じがして、ありがたみに欠けていたが、
なでしこジャパンの奮戦をみた後では「そうだ、あきらめてはいかんな!」と思う。

日本の男ども、フンドシをしめ直せ!ゆるフンではあかんで!
(ボク自信に言っております。)

すみません。頭から脱線しました。
では、今回の本題です。



前回の<信長夜話・その21>からの続き。

永禄3年(1560年)5月17日(6月10日)、
今川義元が率い、尾張に押し寄せた軍勢は四万五千(信長公記)とも二万五千ともいわれている。
二万五千説が有力だが、もっと少なく二万という説もある。

勝った側は「敵は大軍だった」と言いたがるのだ。
二万という説の根拠は、当時の織田信長と今川義元の勢力範囲の石高から推定した動員兵力だ。
信長の一万、その内の五千が展開した。(尾張は肥沃な土地で石高が大きい。)今川は二万。

石高からの推定が信頼できるかどうか?の問題はあるが、これを取り上げることにする。
軍勢というのは正確な数がわからない。当時でも推測だったと思う。

「桶狭間の戦」における両軍の兵力配置。

<織田方>
丸根砦守備隊 四百(佐久間大学盛重)
鷲津砦守備隊 六百(織田玄蕃と飯尾近江守親子)
遊撃隊 三百(佐々隼人正、千秋季忠)
善照寺/中島砦 千七百
信長本隊 2千

合計五千だ。戦場が近いので補給などの非戦闘員は少なくてすむ。その多くが戦闘員だったと思われる。

<今川方>
鳴海城守備隊(岡部元信) 三千
大高城守備隊(鵜殿長照) 二千
丸根砦攻略隊(松平元康) 千
鷲津砦攻略隊(朝比奈康朝)二千
沓掛城守備隊(浅井政敏) 千五百
清洲先遣隊 (葛山信貞) 四千五百
義元本隊(義元、三浦義就) 六千

これで合計二万である。遠征軍なので非戦闘員が多くなる。非戦闘員は九千ぐらいか?
戦闘員は一万一千となる。


今川方に寝返った鳴海城と大高城にたいして、信長は付城(つけじろ、敵の城に対する臨時の拠点)を築いて対抗した。
鳴海城に、丹下、善照寺、中島、の3砦。大高城に鷲津、丸根、の2砦を築き、封鎖と攻城をもくろむ。

その鳴海城と大高城への後詰め(ごづめ)として、補給と織田方付城攻撃のために義元は尾張へ進行したのだ。
もし、信長の率いる織田主力が出てきたら、これを兵力差で蹴散らし、その後、尾張を侵食するというのが義元の腹づもりだった。

永禄3年(1560年)5月17日(西暦6月10日)、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城(現愛知県豊明市)に入った義元は、翌5月18日(6月11日)夜、松平元康(徳川家康)の三河勢に大高城に兵糧を入れさせた。

テキパキとした手順は義元の作戦通りだったのだろう。義元は負ける可能性はかなり低いと思っていた。
そして、信長が出撃してくる可能性も低いと・・・


●永禄3年(1560年)5月18日(6月11日)<決戦前夜>

『今川勢は明日の19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで、織田方の各砦を落としにかかるに違いなしとの予測が、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。

しかしその夜、信長公は特に軍立て(いくさだて・軍勢の配置)をするでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑して帰っていった。』
と信長公記にある。有名な場面。

当時の信長(総大将)は絶対的な存在ではなかったと見える。「嘲笑して帰っていった」とあるのだから。


denrei22.jpg
《イラストは前線からの注進にはせ参じた伝令とした。
「ご注進!丸根砦の大学様より、今川勢に攻撃の気配ありとのこと・・・!」
合戦シーンには欠かせない緊迫した場面だ。

実際はイラストのように完全武装をしていたのだろうか?疑問だ。
もっと軽武装だったのでは?と思う。そのほうが馬も走りやすいし、騎乗しやすかったのではないだろうか?
ただ、絵的には軽武装では戦国時代の伝令らしく見えないので完全武装とした。
丸根、鷲津砦から清洲までは馬を飛ばせば1時間程度だったと思われる。》


marunetoride12.jpg
《イラストは5月19日早朝(西暦なら6月だから夜明けは早い)から、今川方の攻撃をうける丸根砦(守将、佐久間大学)を今川方の大高城から見たところとした。
この左方向、1000mあたりに鷲津砦(守将、織田玄蕃と飯尾近江守親子)がある。

イラストの左方には大高城から海が見えていたろう。海が近い。現在では想像しにくい。》


すでに、信長の気持ちは決まっていた。今川勢の西上の情報はすでに得ていたことだろう。
何通りかの策を考えたにちがいない。消去法で残った作戦に心は決していた。
後は出撃のタイミングだけだったと想像する。

信長の作戦はこうだった。
行軍と織田方付城の攻撃などで分散、疲労した今川方の一部隊(今川全軍ではない)を自軍の最強部隊(馬周り)をもって叩く。信長の馬周りたちは新手である。
この作戦ならば兵力差があっても、局地戦での勝はあると踏んだ。

一部隊を痛撃して、今川方が兵を引くか、和議(停戦)にでもなれば上首尾と思っていた。
このままでは義元に戦の主導権を握られっぱなしだ。今川方の一部隊を撃破することで新しい局面を作れると信長は思った。

もしこの時、信長が消極的な行動をとれば、「上総介(信長のこと)は頼りにならない!」と織田方の武将たちはサッサと信長を見限り、次々に寝返って、ジリ貧になっただろう。

一方、大軍を擁した義元だが、もし損失が大きいと、隣国の強敵(武田氏、北条氏)とのバランスが不利な方向に崩れてしまう。思っているほど今川有利でもなさそうだ。これは信長とて同じ条件だが、

今まで、『「今川の大軍に挑むとき、ねらうは敵の総大将、義元の首ひとつ!」と信長は思った。』などとカッコ良く言われてきたが、
そんな可能性の低いことを信長は思っていなかった。
結果を知っている後世の作家や研究者が考えたことだ(いい加減なものだ)。

戦場で義元本人に遭遇できる可能性は低い。また運よく見つけたとしても敵陣を崩せるかどうかもわからない。逆に優勢な敵に包囲殲滅されるかもしれない。
だいたい、合戦の現場で総大将が討ち取られることなどめったになかった。
そんなことは当時の常識だったろう。

信長の心はすでに決まっていたのだから、清洲での戦評定(作戦会議)など、疲れるだけで付き合ってられなかったと想像する(今でも、うんざりする会議がある)。

そして、5月19日(6月12日)が訪れる・・・


<桶狭間の戦いを推理する 久田巻三>参考にさせていただきました。
http://homepage1.nifty.com/rekisi-iv/nobunaga/okahazamasuiri.htm

<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html






  1. 2011/07/19(火) 07:34:51|
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駿河を発す!(信長夜話・その21)

今回の<信長夜話・その21>から、一週間に一回、数回にわたって「桶狭間の戦」について書きます。

この「桶狭間の戦」の結果、各地の大名が織田信長をA級戦国大名として認識した。そういうエポックメーキングな戦だった。
無味乾燥で、歴史の面白さを感じさせない学校の教科書にも「桶狭間の戦」は必ず出てくる。

映画、テレビで何度も描かれた。そのほとんどが「奇襲で今川の大軍を破る信長」という内容だが、今では「奇襲ではなく強襲(待ち構えてるところに攻めこむこと)」が有力だ。
今まで史実と思われていたことが疑わしいと言われている。(藤本正行氏の功績大)

<今川義元の西進>
永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発し、尾張を目指して西進した。
総勢4万5千(信長公記)とも2万5千ともいわれている(もっと少なく2万という説もある)。2万5千説が有力だ。

5月17日(6月10日)、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城(現愛知県豊明市)に入った。
翌5月18日(6月11日)夜、松平元康(徳川家康)の三河勢に大高城に兵糧を入れさせた。

yosimoto32.jpg

映画やテレビでは今川義元は「公家文化かぶれ男」的な描かれ方をされてきた。
輿(こし)に乗っていたということから、「騎乗することができなかった。デブで短足」などなど。

これだけ良く言われない大物戦国大名も珍しい。
日本人は亡くなった人の悪口を慎むと言われているが、後年の義元への悪口はそれを疑わせる。それも根拠が怪しいのにだ。

負けた側は容赦しなくおとしめ、若く荒削りな信長との対比を面白くするために、そうした方が納得しやすかったのだろう。

imagawayoshimoto22.jpg

しかし、実際の今川義元は有能な戦国大名だった。
政治・軍事に卓越した手腕を見せた人物。この当時の屈指の戦国大名だったといっても良いと思う。

義元の代に今川氏の領土は最大となる(たしか)。駿河(静岡地区)、遠江(浜松地区)、三河(現愛知県東部)、尾張の一部(現愛知県南部)におよんだ。
また、義元が行った改革は、その後の徳川幕府でも踏襲されたほどだ。

越前の朝倉宗滴は、『朝倉宗滴話記』のなかで「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」として武田晴信(信玄)・織田信長・三好長慶・長尾景虎(上杉謙信)・毛利元就・らと同列に評価している。

輿に乗っていたことも、今川家は足利将軍家の分家という血筋。特別に輿に乗る事を認められており、輿に乗る事で特別の存在をアピールしたのだ。義元は騎乗することも出来た!

公家文化に精通していたことは、当時の教養の高さを示す、文武両道、政治に通じた大名だった。
今でも静岡では徳川ではなく今川の地という人がいる。徳川は浜松だと。

義元は甲斐の武田、相模の北条という国境を接する強敵と三国同盟を結び、ひとまず背後の憂いをなくした。また尾張へは調略(敵を味方にする工作)をしかけ、織田方の武将を寝返らせている。

まず、鳴海城、大高城、沓掛城を寝返らせた。すぐに今川の多くの兵を入れ、確実なものにする。
その最大のものは鳴海城の山口左馬助父子への調略だった。

信長も反撃をこころみる。
左馬助の筆跡を一年がかりで家来に練習させ、ニセの手紙をわざと今川方の手に渡るように仕組み、山口父子を切腹に追い込んでいる。桶狭間決戦の二年前のこと。
このあたりの両者のカケヒキが面白い。小説が書けそうだ。

義元の西進は長いあいだ、上洛(入京)が目的といわれてきたが、現在では、三河と尾張の国境紛争に橋頭堡の城(鳴海城、大高城)への後詰(救援)。
もうひとつは、もし、織田主力が出てきたら、その兵力差で蹴散らし、鳴海城と大高城を足がかりに、ジワジワと尾張を侵食する。というのが義元の腹づもりだったと推測されている。
もし尾張を手中に収めることが出きれば、駿河から尾張までの肥沃な領土を手にすることができる。

義元は上洛(入京)など考えてはいなかった。後年、話を面白くするための作り話だと思われる(小瀬甫庵など。小瀬甫庵は大田牛一の「信長公記」を下敷きに面白おかしく脚色した小説「信長記」を書いた。)

だいたい、戦国大名の多くが、上洛して天下に号令をかけたいなどと思ってはいなかった。
ハッキリしているところでは、中国の毛利元就がいる。
相模の北条氏、四国の長宗部氏(ちょうそかべ)、越前の朝倉氏などもそうだったろう。
その地方の強国で充分だと思っていた。

武田信玄や上杉謙信も上洛の意思があったかどうかはわからない。
「高校野球の甲子園のように天下を目指して群雄が争った」としたほうが面白いし、わかりやすいから、脚色したのだろう。
また、この当時の天下は京とその周辺を指し、日本全国の意ではなかった。

この時の義元41歳(経験もあり、若さも残っている)、信長27歳、家康17歳(若い!)。
また、この年、永禄3年(1560年)には、あの石田三成と直江兼継が生まれている。
後に家康と対決することになる二人だ。

上のイラストは後世の悪口をもとに画いた。肥満で胴長短足の義元。

下のイラストは尾張への進攻に自信満々の義元とした。
鎧は旧式のものとした。義元クラスになれば、敵兵と切り結ぶこともないから、工芸レベルの高い(実戦向きではない)鎧を着用したと想像した。





  1. 2011/07/12(火) 07:21:01|
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寿司だだだ!

「明日、この世の終わりがくるとしたら、何を食べる?」と問われたら、
ボクは迷わず「寿司だだだ!」と答える(強調の「だ」連発)。
言わば「魂の食!」(オーバーやね!)

まずはマグロの赤身の握りを口にいれ、ビールをングングング・・・
「プハーッ、うめーっ、ちくしょー!」
次はアナゴでビールをングング・・・
次は玉子の握りで・・・
(ギョクなどと知ったかぶりは言わない!)
このあたりまでは一気にいく。

よく、寿司屋で「タコを刺身で・・・」などと注文をしたりする人がいるが、
ボクは寿司が好きなのであって、刺身ではない。
「ネタと酢飯を手で握ることで、材料以外のうまさが生まれる。」ときいたことがある。

ビールのあとは、すこし冷えた白ワインだ。たまらねぇコースだぜ(なぜか江戸っ子)。
(「日本酒だろう?」といぶかしがる御意見もあるかと思いますが、失礼ながら無視!)

ボクが小学生に上がる前だったと思う。
そろそろ寝ようかな?と思っていると(午後9時ごろか?)、歳の離れた長兄がゴキゲンで帰ってきた。
「これ、みんなで食やぁ!」と寿司折がふたつ。

sushiori162.jpg

かあちゃん(うちは母のことを「かあちゃん」と呼んでいた。)はウレシげに「じゃあ、お茶を入れてこよう」とお茶を用意。
家族を忘れずに寿司折をぶら下げて帰ってきた長兄の思いが、かあちゃんには嬉しかったのだと思う。おそらく。(接待のおみやげかもしれないが?)。

紐を解き、包み紙を外すと、経木の折が現れる。経木の折は木の匂いがする。経木の折は良いなあ!最近は経木の折を見かけなくなった。原価が高いのだろう?
蓋の薄板を取ると、寿司が並んでいる。「美しい!」

sushi23.jpg

マグロの赤、玉子の黄、イカの白、とり貝の茶色、海老のピンクと白、ツメ(甘だれ)を塗ったアナゴやシャコ、ノリの黒、カッパ巻きやハランの緑、とどめのガリ・・・
経木の色を背景に、それらの寿司がかわいく並んでいる。これはデザインだ!

ウニ、マグロのトロ、数の子、あわび・・・、ももちろん大好きだが、「上寿司」でなくても良い。「並」で充分にボクは楽しむことができる。

「マグロを食べてみやぁ!」と、見とれているボクをかあちゃんが促す。
醤油を少しつけて口中に・・・
マグロの淡い甘さと歯切れ、それに酢飯がからむ、
「こんなウマイものがあったとは!」と思った。

突然、鼻の奥に強い刺激、みるみる涙が・・・
「なにこれ!どういうこと?」はじめてのワサビだった。
さわやかなビックリ!
ボクへの割り当ての寿司はまたたくまに胃のなかに収まった。

今では世界を席捲した寿司だが、
「強い香辛料を使った料理を食べつけている外国人に、平目や鯛などの淡い味のちがいがわかるのかな?」と思ったりする。
それともヘルシーとデザイン性で食べていのかもしれない?
「外国の寿司は別の食べ物?」という報告もある。

ボクが子供のころの我が家は貧しかった。それまで寿司折などというのもは見たこともなかった。
食卓は茶色系だった。そこに寿司折の鮮やかな色と淡く新鮮な味。
食べ物の鮮やかな思い出だ。

仕事帰りに駅からの道沿いにある小さな寿司屋へ寄って、「握ってもらおうか、マグロの赤身とアナゴ。それとビールね」などという生活にあこがれた。
そんな環境にいまだ到っていない・・・
マゴマゴしていたら、町の寿司屋はつぎつぎと無くなり。回転寿司ばかりになってしまった。

イラストはベルナール・ビュフェ風とした。最近、気にいっている。





  1. 2011/07/05(火) 07:15:13|
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