ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

雨女!

「お盆が過ぎたら海に行ってかんよ!波が高くなるし、クラゲも出るで!」
と、かあちゃんが言う。
「本当かなあ?」と思いながら海へ行った。

波が高くて「おそぎゃぁ!」(名古屋弁、「おそろしい」の意)やら、
クラゲにそこかしこを刺されてしまった。

ボクはひとの言うことをきかない子供だった。
そんなことを思いだす。
今年の夏も終わりだ。

ameonna22.jpg

今回は「雨女」。

学校の入学式、卒業式はかならず雨。
修学旅行も雨。成人式も雨。
テルテル坊主はまったく効き目なし。

ところが、マラソン大会のようなやりたくない行事のときは堂々たる晴れ。

T君たちと海へ行く計画があった。ところが、豪雨!「豪雨女」になった。

彼女が来ると雨が降る。
じゃあ、「晴れ男」といっしょだったらどうだろうか?・・・はたして・・・
やっぱり雨!
「晴れ男」を撃破!筋金入りの「雨女」がボクの知り合いにいる。

ボクは「晴れ男」ではないが、天気に恵まれている。
雨が降りそうな空模様、「なんとかもつだろう?」と出かける。
すると、家に帰った直後に雨が降りだしたりする。その逆も、

そんなことが何度もあるのだ。
金運が無いことはハッキリしているが、雨神(晴れ神)には気に入られているようだ。

「雨女」を調べてみた。
「雨の降る夜に、雨おんばという怪女が現れるといわれ、子供をさらう。
雨の日に訪れる神が堕落して妖怪化したもの」という話が長野県下伊那郡にあるそうだ。
旱魃(かんばつ)のときに「恵の雨」を降らす、ありがたい妖怪という見方もある。






  1. 2011/08/30(火) 07:11:35|
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参謀本部のお墨付き(信長夜話・その27)

今日も朝から雨が降っている。
涼しい。秋のようだ。

前回の<信長夜話・その26>からの続きです。

「桶狭間の戦い」は長い間、信長の迂回奇襲だったということになっていた。
その発端は江戸初期に成立した小瀬甫庵(おぜほあん)作、『信長記』だと言われている。
甫庵は太田牛一の『信長公記』を読んで『信長記』(通称、『甫庵信長記』)を書いたと思われる。『甫庵信長記』は小説だ。
当然ながら、甫庵は、話を面白くするためなら、作り話も書く。

常識化していた「迂回奇襲説」に対して、20世紀も終わりになって異論が出された。
「一級史料といわれている太田牛一の『信長公記』には「迂回奇襲」なんてことは、どこにも書いていない。素直に読めば、信長は正面から攻撃した。と書いてあるのではないか。」という単刀直入な疑問だった。

この疑問が研究者達を動かし、今や「正面攻撃説」 が主流になっている。
それまで「ひょっとしたら・・・」と思っていた研究者がいたかもしれないが、常識化した説に異論をとなえるのは勇気がいるのだろう。

ボクはノンフィクション派だから、このイラストエッセー「信長夜話」も史実(現在、史実と思われていること、新しい発見があると、史実は簡単に覆る)をなぞるようにしているつもりだ。

どうしても史実以外のことを書くときは、「ボクの想像」「と思う。」などの言葉をはさむようにしている。
それでも、イラストを描くときに「こう描いてみたい!」という誘惑によくかられる。
だから、イラストは文よりも創作が入いる。ましてや・・・である。

『信長公記』を書いた太田牛一は信長に仕えた侍。信長の戦にも参加した。弓の名手だったと言われている。
信長と話したかはわからないが、おそらく、信長を見たことがあっただろう。
同じ時代を生きた(信長より長生き)。だから、臨場感のある記述を残している。
「桶狭間の戦」のとき、太田牛一は33歳。信長27歳。甫庵は4年後に生まれる。

ありがたいことに太田牛一はメモ魔でノンフィクション派だった。
牛一の『信長公記』がなかったら、信長のことがここまでわかっていなかっただろう。
信長研究の貴重な史料だ。

甫庵は太田牛一を「愚にして直な(正直すぎる)」と評している。
「事実に固執していては面白い話は書けませんよ」ということなのだろう。
牛一の『信長公記』を下敷きにして『甫庵信長記』を書きながら、よく言うよ!とボクは思う。

しかし、牛一の『信長公記』は写本でしか伝わらず(写本でも伝わって良かったが)、
かたや、甫庵の『信長記』は江戸時代初期に刊行され、人気があった。
結局、人気のある『甫庵信長記』が本当なのだろうという気分が醸成された。
(今でもNHKテレビの「大河ドラマ」を史実だと思っている人が沢山いるぐらいだから。)

明治時代に入り、帝国陸軍参謀本部が『日本戦史 桶狭間役』を編纂するにあたり、参考にしたのが『甫庵信長記』だった。
当時の超エリート集団(学校での成績が良い。権威がある)である参謀本部がお墨付きを与えたのだ。
さらに多くの文筆家が『甫庵信長記』『日本戦史』を下敷きにして「桶狭間の戦い」のことを書くにおよんで、「迂回奇襲説」は固定化され、常識化した。

rikugunsanbou22.jpg

参謀本部が「迂回奇襲説」とした理由(ボクの想像)

(1)2万5千(『日本戦史』)もの今川の大軍を2千の寡兵で信長が破ったことを、皆が納得出来る説明をしなければならない。参謀本部は作戦立案のプロ集団なのだから(建前として)。
「信長は豪雨にまぎれて、ひそかに桶狭間を見下ろす高みに迂回してまわりこみ、奇襲をかけた。油断をして、宴を催していた今川勢はひとたまりもなく敗れ去った。」と、これなら説得力があると思ったのだろう。

(2)『日本戦史』の成立当時はロシアとの関係が悪化して、強国と戦う可能性があった。実際、日露戦争で戦うわけだが、そのためには、軍内部にも国民にも「迂回奇襲説」は都合が良かったのだ。
「例え相手が強国で大軍でも、作戦によっては勝つこともできる。」は都合が良かった。

(3)日本人は奇襲や奇手が好き。

(4)「迂回奇襲説」は参謀本部好みだ。正面から堂々と戦うなどということは、参謀本部好みではない。「迂回奇襲説」はいかにも作戦らしいではないか。参謀本部とは作戦を練る部署。
好意的にみれば、無意識に組織の利益を考えたのではないか?

誤解を覚悟でいえば、ボクは権威に懐疑的だ。超エリート集団である参謀本部でもこの程度。
記録性の高いといわれた太田牛一の『信長公記』ではなく、作り事が多い小説『甫庵信長記』を元に戦史を組み立てたのだ。自分(組織)都合が優先されたのだと思う。
それとも『信長公記』の存在を知らなかったのだろうか?


そういった自分(組織)都合が、実際の作戦立案でも発揮されたのではないのか。

<ノモンハン事変> 
充分な準備をしたソビエト軍を甘くみた無敵関東軍(そう喧伝された)の負け戦。

<インパール作戦>
さしたる補給計画もなく、ビルマからインドをめざした陸軍の悲惨な負け戦。

<ガダルカナルのヘンダーソン飛行場奪取作戦>
桶狭間の戦の「迂回奇襲説」を彷彿とさせる作戦を行った。おそらく参謀の頭には『日本戦史』の「迂回奇襲説」があったにちがいない。結果は攻撃部隊は壊滅。
道なきジャングルを迂回して攻撃するも、強固な敵の縦陣にはばまれ、さらに圧倒的な敵火力に殲滅された。

陸軍ばかりではない。事前の図上演習で自軍の都合が良いように、サイコロの目を解釈したミッドウェー攻略作戦(不確定要素はサイコロを振ってきめた。損失空母の数など)。

最高の頭脳といわれた参謀本部(海軍は軍令部)がやってきたことが、この有様だ。
こんな作戦で戦うことになった現場の将兵はたまったものではないと思う。
似ているとは思いませんか・・・

エリートを養成するとき、民も官も学校の成績を尊重するが、それは古の隋、唐の科挙制度とあまり変わらない。
もうひとつの評価基準が必要だ。
それを、どういう基準にするかはムズカシイと思うが、別の視点の評価が必要だとボクは思う。

ちょっと脱線してしまった。

今回で「桶狭間の戦」についてを終わります。ちょっと疲れました。
「信長夜話」はこれからも続きます。また見てね。




<参謀本部について>
参謀本部とは軍事組織における師団長・旅団長・連隊長・大隊長に当たる高級指揮官の作戦指揮を補佐する機関。軍事組織における指揮系統は単一であるために参謀本部に一切の指揮権はない。指揮官が参謀本部の補佐を得ながら作戦指揮において独自に決める。

その歴史はプロイセン王国で発展した。それまでは指揮官は自らの判断で指揮統率を行っていたが、ナポレオン戦争の頃から参謀組織の必要性が認められるようになった。

平時より軍事研究を行い、戦時においては指揮官を補佐する常設機関がプロイセン軍に採用され、普仏戦争でのプロイセンの勝利によって認められた。
これは後に各国軍に導入され、日本においても参謀総長と軍令部総長は天皇の参謀に当たった。

簡単に言えば、「作戦は、学校の成績が優秀で、専門に研究してきた、われわれ参謀が作戦を練るから、現場はそれを実行して欲しい。」ということだろう。

なにごとも長所と短所があるが、
このシステムの長所は、現場での興奮異常状態での作戦判断ではなくて、冷静な内地で立案するから客観性がある判断が下せる。
短所は、現場の状況や空気がわからない。また、失敗に終わっても参謀本部は実質的責任を負わない(心情的責任、更迭、左遷はあるだろうが)。ということではないだろうか。実際、負け戦の責任は曖昧になった。曖昧だから反省、検証も曖昧だ。

「細かいことを、いちいち気にしていては、大胆な作戦立案はできない。ここは思いきって・・・!」という思いに傾きやすいように思う。

戦国大名だったら、その責任は自分に帰ってくる。多くの死傷者を出せば、保障をしなくてはいけない。最悪の場合は滅亡だ。


<小瀬 甫庵(おぜ ほあん)について>
永禄7年(1564年)~寛永17年8月21日(1640年10月6日)
戦国時代から江戸時代初期にかけての人物。『太閤記』『信長記』を著した。
甫庵の出身は「尾張国春日県人」であるという。

甫庵は織田家家臣の池田恒興に医者として仕えた。恒興の死後は豊臣秀次、宇喜多秀家に仕え。関ヶ原の戦い以後には堀尾吉晴にも仕えた。
太田牛一は晩年にあたる慶長15年に姫路城主池田輝政に『信長公記』を献上しているが、甫庵は翌慶長16年(1611年)頃には『信長記』を刊行している。

吉晴没後は浪人となったが、息子の小瀬素庵が前田利常に仕えた縁で加賀藩で知行を貰い、蟄居して諸書の著述をし、医書などを刊行した。寛永10年代には『太閤記』を刊行している。

甫庵はその生涯の大半を医学を生業としたが、今でも有名な理由は著作した本のためだ。
現存する最古の活字本!が甫庵の著した『蒙求』である。太田牛一の『信長公記』を自分流に書き直した『信長記』は江戸時代に刊行され、一般的な書物として読まれるなど、文才があった。
現在同名の書物が複数あるものには、頭に「甫庵」を入れて『甫庵太閤記』『甫庵信長記』などと呼んで区別されている。

太田牛一の『信長公記』が記録資料としての趣が強いが、甫庵の著書は儒教的価値観や自らの再仕官を意図し虚構を入れた資料であることが指摘されている。

小瀬甫庵は「歴史家」ではなく「作家」であった。同時代においても『三河物語』などで甫庵著作の誤りの多さが指摘されている。
桶狭間の戦いや長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちなど、現在一般的に定着している戦国時代の知識の一部は、甫庵の作品に端を発している。





  1. 2011/08/23(火) 07:32:38|
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義元の敗死(信長夜話・その26)

8月も16日になりました。
そろそろ、夏休みの宿題に手をつけたほうがいいよ。
このころから、みるみる夏休みが減っていく感じがしたものです。


では今回の本題、<信長夜話・その25>からの続きです。

信長の馬周り(親衛隊)の突撃を受けた今川勢はもろくも崩れた。
「この混乱の中にあって、義元は周囲を三百騎ばかりに囲まれて後退していた。そこを織田勢に捕捉され、数度にわたって攻撃を受けるうちに五十騎ほどにまで減ってしまった。

「信長公も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい、敵を突き伏せた。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬を削り鍔を砕いて激戦を展開した。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次いだ。」(信長公記)

信長は最前線で自ら戦ったようだ。信長はたびたび危ういことをしているが、これもそのひとつ。
馬を下りて戦うのは当時の常識。自軍にも多くの死傷者を出した。
激しい雨は上がっていた。湿気が抜けて乾いた風が吹いただろう。


hattoriokehazama112.jpg

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《イラストは追い詰められて服部小平太一忠(はっとりこへえた)の槍をうける義元とした。体勢を崩しながらも抜刀して反撃する義元とした。心を絶望感が支配していただろう。イラストはブログの設定の都合上、2枚に別けた。》


五十騎ほどにまで減った義元の旗本がさらにまばらになったころ、織田方の服部小平太が槍をもって義元に肉薄する。
義元は刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌ぐ。
すると、横合いから今度は毛利新介が突進してきた。義元は追い詰められた。傷も負っていただろう。

mouriyoshikatu22.jpg
《イラストは左手に義元の首級をもつ毛利新介良勝(もうりしんすけ)。異常な興奮状態とした。右手にもっているのは右手指(めてざし)とよばれる小刀。刃に厚みがあり、敵の首をかき切るために使用したといわれている。通称「鎧通し」。ねじ伏せた時に使いやすいように右脇に指した。場慣れした武士になると二口も三口も指した者もいた。乱戦になると、血を拭って納刀する間もなくなる場合があるからだという。》


毛利新介は義元を突き伏せねじ伏せ、義元の首をかき切った。今川義元、41年の人生だった。
2時間ほど前は戦勝気分で謡いしていた義元だったのだが・・・

義元は軟弱な貴族趣味男などではない。服部小平太の膝を払い、これを凌いでいる。
また、毛利新介との格闘のさい、新介の指を噛み切ったともいわれている。


「戦は掃討戦に移った。桶狭間は谷が入り組み、谷底には深田が作られている。まったくの難所であり、逃げまどう今川勢は田に踏み込んでは足をとられ、織田勢に追いつかれて首を挙げられた。」(信長公記)

なりふりかまわず逃げ惑う今川の兵。もう組織的な行動は出来なくなっていた。パニックに陥いり戦意喪失した兵は追いついた織田の兵によってたかって討ち取られた。
一人に何人もの織田の兵がとりついたのだろう(負けたときはそうなる)。

「信長公の元には首を得た者達が続々と首実検におとずれた。信長公は実検は清洲にて行うと申し渡し、義元の首のみを見、もと来た道をたどって帰陣した。晴れやかな表情であった。」(信長公記)

前にも書いたが、戦の現場で総大将が討ち死にするなんてことは、めったにない。
信長にとっても。義元にとっても、まさか、まさかの結末だった。
静岡の一流大企業が、尾張の元気の良い田舎の中小企業に負けたのだ。

「信長公は馬先に義元の首を下げて日付の変わらぬうちに清洲に帰着し、翌日になって首実検を行った。首数は三千余にのぼった。義元の同朋をつとめていた者が下方九郎右衛門に捕らえられ、引き出されてきた。同朋は義元をはじめ見知った首についてその姓名を書きつけてまわった。信長公はこの同朋に褒美を与え、僧を伴わせて義元の首を駿河に届けさせた。」(信長公記)

首実検の祭、捕らえた義元の同朋(主君の身のまわりの雑事を行う)をつとめていた者に、首に名前を書きつけさせている。
織田の人には、誰の首なのかわからないのだ。見たことも会ったこともない人の首だ。

多くの武将を失った今川勢は東に敗走した。
尾張、三河国境付近で抵抗する今川方の城は勢いにのる織田勢に落とされる。

そのなかで、鳴海城は岡部元信以下、抵抗を続け、ついに落城しなかった。
元信は織田信長と交渉して今川義元の首と引き換えに開城した。
退却するとき、水野信元の刈谷城を攻撃し水野信近を討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国したという。
今川方にも岡部元信のような武将もいたのだ。

信長公記には、「信長は同朋に褒美を与え、僧を伴わせて義元の首を駿河に届けさせた。」としている。岡部元信に同行させたのだろうか?
信長は戦に勝利したのだから、義元の首はどうでもよかったのだろう。
戦国のならいで義元の首を上げたが、駿河で弔ってやってほしい。ということだったのだろうか?

義元の討死は、短時間で日本中に伝わった。「織田上総介とは、いかなる男ぞ?」
名前だけは聞いたことがあるという人もいただろう。

義元の死後、嫡男、今川氏真(いまがわうじざね)は今川氏10代当主として領国を受け継ぐが、領内の混乱と動揺を収めることが出来なかった。
武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。

氏真は江戸時代まで生きる。そして、今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。
信長より長く生きて、家来の庇護を受けたのだ。
カッコいいやつは早く死ぬ。ボクは氏真の思いに興味がある。


次回、<信長夜話・その27>へ続きます。




●服部 一忠(はっとり かずただ、生年不詳 - 文禄4年(1595年)7月)
尾張出身。通称は小平太、采女正(うねめのしょう)。名は春安、忠次とも。服部小平太(こへいた)の名で知られる。

はじめ織田信長に馬廻として仕えた。
桶狭間の戦い以降は目立った活躍は知られていない。
天正10年(1582年)の本能寺の変ののち豊臣秀吉に仕えて黄母衣衆の一員となる。

天正13年(1585年)、従五位下采女正に叙せられ、小田原の役の戦功により天正19年(1591年)、松阪城の城主に抜擢されて伊勢国一志郡に3万5000石を与えられ、当時、尾張・北伊勢の支配者であった羽柴秀次に付けられた。
文禄の役に参加。文禄4年(1595年)の秀次事件失脚に連座して所領を没収。上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられた。

桶狭間の戦いでは義元に一番槍をつけた殊勲者だが、この時、織田家中に居たかどうかもわからない秀吉(信用のおける史料には出てこない)に切腹を命じられたことになる。


●毛利 良勝(もうり よしかつ、生年不詳 - 天正10年6月2日(1582年6月21日))
通称は新助(新介とも)、新左衛門。諱は秀高とも。身分は織田信長の馬廻であるが、小姓であったともいう。

信長に仕え、桶狭間の戦いでは今川義元の首を上げ名を上げた。その功により、のちに黒母衣衆のひとりとなる。

信長上洛後は大河内城攻め、甲州攻めなどに参加。しかし、桶狭間以後は目立つ活躍もできず、一隊の長に昇ることもなく信長の側近として旗本部隊に属した。天正10年(1582年)、本能寺の変の際は京都に随行しており、信長の長子信忠を守って二条城に篭り、信忠とともに奮戦の末に討死した。


<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html










  1. 2011/08/16(火) 07:46:28|
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どしゃ降りの雨<信長夜話・その25>

「蝉しぐれ」のなかでこれを書いています。
暑さがもどってきました。とても暑い!
不思議なもので「蝉しぐれ」はうるさくない。むしろ、心地良い!

今回の本題です。
前回の<信長夜話・その24>からの続きです。

永禄3年(1560年)5月19日(6月12日)善照寺砦から中島砦に移った信長と恐るべき馬周り(親衛隊)は中島砦を打って出た。義元本隊の前衛、約4千に襲いかかる。
その背後の桶狭間山に義元本隊が陣をおいていたことを信長は情報を得ていた。

中島砦はその名の通り、扇川と手越川の合流する中州にあった(現在は宅地化して民家の一角に石碑が建てられている)。低地にあり、すくなくとも義元の前衛部隊からは、信長本隊の動きは丸見えだったと言われている。
強襲(敵が待ち構えているところへ攻めこむこと)だったのだ。

実は最近まで、信長は今川勢に気づかれないように善照寺砦から北に迂回し、桶狭間北方の太子ヶ根に出て、眼下の谷間で休憩中の今川勢を攻撃したと語られてきた。奇襲だったと言われてきた。

最近では、この迂回作戦は映画やコミック、テレビドラマなどの娯楽性の強いものには見られるかもしれないが、この迂回説を取り上げている研究者は少ない。信長は正面から攻めてきたのだ。強襲だった。
じゃあ「迂回作戦がなぜ長い間、信じられてきたのか?」は別ページで書く。

okehazama07152.jpg
《イラストは混乱の今川方の侍を討ち取る信長の馬周り。よってたかって。》

話を戻す。
信長の馬周りの攻撃を受けた義元の前衛は、押し返され、寸断され、たちまち崩れた。
この前衛部隊は4千といわれているが、そのうち戦闘員は千ぐらいだったという説がある。

今川勢といっても義理で参加したものもいれば、勝ったあとの略奪が目的だったものもいただろう。
戦国時代は江戸時代のような忠義の思想はなく、もっとドライだったといわれる。
「負けそうだ」となればサッサと逃げる。命あってのものだねなのだ。

信長の馬周りは強かったと想像する。これまでの尾張での戦では、負けていない。場数も踏んでいる。

「このすこし前、義元本隊は桶狭間山を下り、前衛部隊と合流しようとしたのではないか?」という説がある。
その理由は、中島砦から桶狭間山へは急ではないが登りだ。敵と戦いながらそれを登り、さらに桶狭間山の斜面を登って義元本隊を崩すのは、さすがの信長でもムズカシイのでは?ということからだ。そうかもしれない。

義元の前衛部隊を桶狭間山の山際まで追い詰めた時、もうこれ以上、水分をはらみきれない暗い空から大つぶの雨が降り出した。バチバチとたたきつける雨。
雨粒が見えるような大粒の雨。稲妻が空を走る!雷鳴が轟く!、強い西風が吹いた。

どしゃ降りの雨は今川勢の顔をたたきつけた。織田勢は背中に雨を受ける格好になった。
今川勢には不利だ。強い雨で前が見えない。
沓掛峠の二抱えもある楠木の巨木が音を立てて東に倒れたという。
竜巻が発生したかもしれない。局地的な豪雨だった。

なんというドラマティックな舞台設定だろう。映画などの作り事ならいざ知らず、史実である。
日本中が信長に注目することになるこの戦の設定として、天が演出したのだろうか?
そして、天は信長に味方した。

ぬかるむ足場、血しぶきと泥、怒鳴り声と悲鳴、蹴飛ばし、ねじ伏せ、貫き、えぐり、刺し殺し、血の匂い・・・!白兵戦だった(雨で鉄砲は使えない)。
逃げ惑う敵の前衛部隊を追って信長は、義元本隊の桶狭間山まで500mとせまる。
逃げる前衛部隊と追う信長の馬周りは混然となって義元本隊に・・・。

okehazama0112.jpg
《イラストは「すは、かかれ!」と大声で下知する信長。一丸となって突進する織田勢とした》

「信長公は槍を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれ!」と最後の下知を下す。全軍は義元本隊めがけ黒い玉となって駆け出した。」(信長公記)
信長は自分の眼で、ハッキリと義元本隊をとらえた。「うっそー!ほんとかよ!」と信長は思ったかもしれない。

義元本隊も混乱のなか、信長の馬周りの突撃をうけ、崩れはじめる。
「弓も槍も鉄砲も打ち捨てられ、指物が散乱した。義元の塗輿までも置き去られた。未刻(午後2時頃)のことであった。この混乱の中にあって、義元は周囲を三百騎ばかりに囲まれて後退していた。そこを織田勢に捕捉され、数度にわたって攻撃を受けるうちに五十騎ほどにまで減ってしまった。」(信長公記)

退却する軍はもろい。士気が萎えている。撤退戦で多くの損害が出ることは歴史が証明している。撤退戦はムズカシイ(商売も)。

yosimotonoumamawari12.jpg
《イラストは追い詰められる義元の旗本。このなかに今川義元がいる。もう雨は上がっていた。》

今川義元と旗本は馬印(大将の位置を知らせる作り物や旗のこと。例えば、家康のは金の扇)はもとより、旗など目立つものは捨てさせ、義元を取り囲むようにして退却していた。
旗指物など目立つものがいっさいなく、誰かを取り囲むようにして退く一隊は、追う信長側から見れば、逆に目立ったのではないだろうか?
高級将校が多かっただろうから甲冑や武具の金具がキラキラ光っていただろう。その一団だけ美しいのだ(ボクの想像)。

東をめざして逃げる義元と旗本は、追いすがってくる敵のなか、多くの旗指物のなかに揺れる唐傘の馬印(信長の馬印)を見た。それは幻を見るようだった。そして・・・・。


続きは、次回<信長夜話・その26>で書きます。


この日は朝から6月(西暦)にしては猛烈な暑さだったことは何度も書いた。日本列島の南の海に強い高気圧があり、暖かい空気がどんどん流れ込んでいた。
気温36度、湿度85%。そして上空には寒気が流れ込んで、大気は不安定な状態だった(その日の気象を調べたわけではない)。豪雨が降り出す前の猛烈な不快な暑さだ。

初戦からの勝ち戦で今川勢に油断が忍び寄っていたのではないか?
各部隊ごとで順に、重い鎧(約30kg)を脱いで風を通していたのではなかったか?鎧のなかは汗でグジョグジョだった。
それは義元本隊といえども同じではなかったか?とボクは想像している。

この当時、完全武装をした兵とそうでない兵が接戦をしたら、その差は大きかったと思う。
「本能寺の変」のとき信長の死後、信長の嫡男、信忠以下、千ほどが二条御所(当時の)に立て籠もって優勢な明智勢と戦ったが、奮戦むなしく多くが討ち死にしている。武装らしい武装をしていなかった(出来なかった)。
彼らは信長とともに各地を転戦した歴戦の馬周りたちが多くいたのだ。


<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html






  1. 2011/08/09(火) 06:57:00|
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午(うま)の刻、中島砦(信長夜話・その24)

8月に突入しました。
ボクの住む名古屋地区は、6月末は36度前後の日が続く酷暑でした。
8月に入って雨模様ということもあるのでしょうが、6月末より気温が低い(ありがたい)!
奇妙な夏です。


それでは、前回<信長夜話・その23>からの続きです。

永禄3年(1560年)5月19日(6月12日)早朝、清洲を飛び出した信長主従は、熱田、丹下砦を経由して善照寺砦に入った。善照寺砦は織田方の5つの付城のなかで最大だった。主将は佐久間信盛。

午前10時ごろ、織田方の付城のひとつ、佐久間大学以下、7百が守る丸根砦は松平元康(のちの徳川家康)千2百に攻められ陥落。
さらに織田玄蕃以下、4百の守る鷲津砦も朝比奈泰朝(あさひなやすとも)2千の軍勢に攻め落とされ、生き残ったものは中島砦に逃げた。

今川義元と今川本隊は朝に沓掛城を出て、桶狭間山に進出、ここに陣を張り、兵馬を止めて休息していた。
「時刻は19日の正午にさしかかっていた。義元は鷲津・丸根の陥落を聞いて機嫌をよくし、陣中で謡をうたっていた。」(信長公記)

総大将の信長が善照寺砦に入ったのをみて、織田方の遊撃部隊の佐々隼人正政次(さっさまさつぐ)、・千秋四郎季忠(せんしゅうすえただ)らの3百あまりが今川本隊の前衛(4千ほどか?)に向かって打って出たが、この攻撃はすぐに今川勢に潰される。

佐々隼人正、千秋季忠も含めた五十人あまりが討死した。しかし、信長はこれに反応しない。
『これを聞いた義元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上機嫌になり、謡を続けた。』(信長公記)

鷲津・丸根砦を落とし、織田方遊撃部隊を一蹴。義元の思い通りに戦は展開する。
織田方遊撃部隊の突撃は、「信長の作戦で、本隊を隠すための陽動作戦だった。」という説と「功をあせった勇み足だった。」という説があるようだ。
たとえ勇み足だったとしても、無駄ではなかったように思う。義元に油断が忍び寄る。

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《イラストは中島砦に進む信長本隊とした。道はもっと細い道だったと思う。義元は信長本隊が中島砦に入ったことを知っていただろう。前衛部隊を配したのはそのためでもあったろう》


「信長公はさらに中島砦に進もうとする。しかし中島砦までは一面の深田の間を縫って狭い道がつながっているのみであり、敵から小勢が丸見えとなるので、家老たちは馬の轡をとって諌めた。
それでも信長公は聞かず、振り切って中島砦へ移った。この時点でも人数は二千に満たなかったという。
信長公はさらに中島砦をも出ようとしたが、今度はひとまず押しとどめられた。」(信長公記)

信長は中島砦の前面の敵(前衛部隊)を疲労した部隊だと思った(思い込んでいた。実は新手)。
信長の2千には士気がみなぎっていた。今、信長が「かかれ!」と下知すれば、我先にと敵に攻めかかるだろう。

そして「今川義元が桶狭間山で休息を取っている。」との情報が入っていた。
その桶狭間山は中島砦から直線距離で約2千5百m先。信長には桶狭間山も見えていただろう。
信長は「これは、ひょっとすると、ひょっとするぞ・・・?」と思った。仕掛けるには絶好のタイミングのように思えたのだ。
だから、家老たちの制止を押し切ってでも中島砦を出ようとしたのだと思う。

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《イラストは全軍に布達する信長。甲冑は当世具足とした。生暖かい風が吹き、雨をはらんだ黒い雲が空を覆っている。》


ここに至って信長は全軍に布達する。「信長公記」を見て欲しい(現代語訳)、以下。

「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである。
くらべてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。
敵懸(か)からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。
分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。
この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」(信長公記)

「分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。」と個人の手柄より戦に勝つことが先だ。と信長は言っている。
「己の利益は後にしろ!負ければ元も子もないのだぞ!」とわざわざ言っているということは・・・
戦国の世も今も変わらないようだ。

「敵が反撃してきたら引いて距離をとれ、敵が退くようなら攻めろ!」と現場の戦い方についても信長は指示している。注目だ!
実際、敵から見るとイヤな相手だ。進退自在に戦うというのだから。
根負けして退却に移ろうものなら、ここぞと攻めつぶす。
おそらく、信長はこのやり方で、今までに何度も勝ったにちがいない。


そして、信長の恐るべき馬周り(親衛隊)はドッと中島砦を打って出た。義元本隊の前衛、約4千に襲いかかる。・・・


続きは、次回(信長夜話・その24)をご覧下さい。


<佐々政次と千秋季忠について>

佐々隼人正政次(さっさはやとのしょうまさつぐ):
生年不詳
天文11年の「小豆坂の戦い」で戦功をあげる。佐々成政の長兄。弟の成政のほうが有名。
弟の成政は信長配下の武将として各地を転戦。秀吉の時代になって徳川家康とともに秀吉に対抗した。
家康と連絡をとるため、雪の立山越え(さらさ越え)をやった武将。
評論家の佐々淳行氏は子孫だと思う(たしか)。

千秋四郎季忠(せんしゅうすえただ):
この時36歳
熱田神宮の大宮司!神官でありながら武士として信長に仕えた。
織田弾正忠家と熱田神宮の関係は近かったのだろう。熱田神宮には信長が寄進したといわれる築地塀がある(今でも)。
愛知県知多半島南端の幡豆城城主。この付近にいた海賊をあしらった逸話がある。



<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html







  1. 2011/08/02(火) 06:46:09|
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