ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

やっかいな隣人!(信長夜話・その29)

「返す刀で・・・」という言葉があるが、「桶狭間の戦」から1ヶ月後、信長は美濃(現岐阜県地方)に侵攻する。
この1ヶ月の間に信長は上洛を考えたのだろうか?
それとも以前から考えていたのだろうか?

「桶狭間の戦」直前、「もし自分に天運があり、今川勢を押し返すことが出来たら(義元の首を上げれるとは信長は思っていなかった)、上洛をめざそう・・・」と思ったのかもしれない。
現に「桶狭間の戦」の前年、ひそかに京の将軍義輝に謁見している。権力の実物を見に行ったのだろう。

それは実体のない形式的な権力ということを、勘の良い信長はスグに見抜いただろう。
上洛するためには(形式的な権力でも接近、利用するためには)、そのルートを確保する必要がある。
また織田氏を強化するためには領土を広げる必要があつた。
他国からたやすく攻め入らせないようにするため、そして他国を圧迫、侵略するため・・・
それは東ではなく、西、すなわち京方面だった。


永禄3年(1560)の6月と8月に約千ほどの軍勢を率いて信長は木曽川を渡河、美濃に進攻した。
この年の5月に信長は桶狭間で今川義元の大軍を打ち破っている。忙しい。
戦勝の勢いに乗ったのだろうか?

しかし、父親である道三を敗死させ、跡を継いだ嫡男、斉藤義龍(よしたつ)にことごとく敗れた。惨めな負け戦だったといわれる。

義龍と美濃衆はあなどれなかった。
岩倉織田氏が信長に反抗したのも、信長の異母兄、信広が背いたのも義龍と連絡してのこと。
義龍が陰にいたのだ。
永禄3年(1559)信長がひそかに上洛したとき、信長を暗殺するため、鉄砲を装備した刺客を放っている。
信長にとって、やっかいな隣人だ。

戦ばかりでなく調略にも長けていた義龍。義龍も必死だったのだろう。
ところが、その「やっかいな隣人」斉藤義龍が永禄4年5月11日、急死する。義龍34歳。
信長にとっては好運。
秀吉や家康にも言えることだが、天下人になる者は、本人の努力もあるが、強運の持ち主だ。

もし、義龍が急死しなければ、美濃攻略は長期化して、歴史は変わった可能性がある。

義龍の急死から、わずか2日後、永禄4年5月13日、報告をきいた信長はただちに出陣。
このスピードこそ信長の真骨頂。
信長の得意技、敵対する有力者が自軍に寝返ったりすると、間髪いれず出撃する。
想定を超えたスピードが敵の動揺と誤算を誘う(従う部下は大変)。
マラソンのとき給水でスパートするタイミングと似ている。

木曽川を舟橋を架けて渡河、勝村(かつむら・現海津郡平田町勝賀)に信長は陣を布く。
翌日、斉藤側も墨俣砦から出陣、森部(現安八郡安八町)まで進出。
信長は勝村から北上、長良川を渡って森部へ、そこで両軍は激突する。
織田方1500、斉藤方6000といわれている。

mataza42.jpg
イラストは「森部の戦い」での前田利家とした。雨のなかでの戦だったといわれる。
森部はすぐ近くを長良川が流れている。
イラストでは前田家伝統の鯰尾の兜としたが、このころ利家が鯰尾の兜を着用したかどうかはわからない(おそらく着用していない)。
利家は派手で奇抜な格好をすることを好んだといわれるから、「それなら鯰尾の兜が良い」とボクのいい加減な想像で画いた。利家は身長180cmぐらいの長身。


信長は軍を三隊に分け、斉藤勢を挟み撃ちにする。
数刻の戦いの末、斉藤方は長井甲斐守(ながいかいのかみ)、日比野下野守(ひびのしもつけのかみ)以下170名ほどが討ち取られ敗退。信長の勝利だった。
この戦には前田利家が信長に無断で参戦している。
利家は2年前、拾阿弥(じゅうあみ)を切り殺して、信長から勘当されていたのだ。
利家は奮戦して手柄をあげ、ようやく信長に許されたという。

森部で斉藤勢を破った信長は尾張に帰らず、墨俣砦を奪ってそこに陣をかまえる。
5月23日、義龍の後を継いだ斉藤龍興(このとき13歳。道三の孫)は稲葉山(現岐阜城)から軍勢を出し、稲葉山の西、十四条(じゅうしじょう・現岐阜県本巣郡真正町)に陣を布く。
信長は墨俣砦を出撃、十四条で合戦となるが、織田信益(織田信清の弟)が討たれる負け戦となった。
斉藤勢は依然として強い!そして地の利もあった。

信長は西軽海(にしかるみ)に後退。北軽海に進出した斉藤勢と夜、再び戦うが、闇が深くなり戦闘を断念。
斉藤方は稲葉山に軍を返し、信長は翌日、墨俣を経由して本拠地、清洲に帰陣した。

以上のことからもわかるが、墨俣にはすでに斉藤方の砦があった。
信長もその砦に陣を布いている。
木下藤吉郎(秀吉)の「墨俣一夜城」の逸話はとても怪しい。
まして、現在、当地にある模造天主には困ったものだ。


<前田利家について>
ご存知、加賀百万石の元を作った人。金沢では大変人気のある人。
戦国武将ではA級の人気がある。

天文6年(1537年)、尾張国海東郡荒子村(現・愛知県名古屋市中川区)の土豪、前田利昌の四男として生まれる。幼名は犬千代。

天文20年(1551年)に織田信長に小姓として仕える。14歳である。
若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をした「かぶき者」であった。信長も似たようなものだ。
おそらく、信長のことを仕える前からよく耳にしていただろう。

翌年の「萱津の戦い」で初陣。首級ひとつを挙げる(大したものだ!)。
元服して前田又左衞門利家と名乗った。
この頃、信長とは衆道(同性愛)の関係にあったことが加賀藩の資料『亜相公御夜話』にある。
「鶴の汁の話(信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話)」として残されている。

弘治2年(1556年)「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらもこれを討ち取る。「浮野の戦い」にも従軍して功積を挙げる。「槍の又左」の異名で呼ばれ始めたのもこの頃からという。
利家は信長の尾張平定時の主な戦に参戦している。いや、参戦しているだけでなく、前線で敵とわたりあった。若き利家は武闘派だったのだ。
この戦いの後、赤母衣衆(信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊。)筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた。

永禄2年(1559年)、信長の異母弟で同朋衆(雑務や芸能にあたった人々のこと)の拾阿弥とトラブルを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔。
この罪での成敗(死刑?)は避けられなかったが、柴田勝家や森可成らが信長に取り成し、出仕停止処分に減罰され浪人暮らしをする。
この間、松倉城城主の坪内利定の庇護を受けるなどで、命をつないでいる。

その後、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」では、出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てたが、帰参は許されなかった。

翌永禄4年(1561年)、今回の「森部の戦い」にも無断参戦する。
ここで斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。
2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、ようやく帰参を許される。

利家はよほど信長の下に帰参したかったとみえる。
「森部の戦」のとき、利家24歳。信長は28歳。

若き日の前田利家です。
その後の利家については改めて書くつもりです。


<鯰尾の兜について>
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イラストは前田利長(利家の長男)所用、銀箔押鯰尾形兜(ぎんぱくおしなまずおなりかぶと、富山市郷土博物館蔵)
鯰は地震を起こすと言われていたので、敵を驚かすという縁起をかついだと言われる。
イラストの兜は1m以上の高さがあると思われる。
材料は鉄、皮、紙だった。

もし、利家がこの兜を着用したら、身長180cmぐらいの長身だったから、
兜の頂点まで3m近いことになる。
おそらく、とても大きく感じさせることを計算にいれたのだろう。

しかし、「よくもまあ、こんなデザインを思いついたものだ!」と思う。
凄惨な戦があるなかで、工芸、芸術が盛んになったのだろう。
戦国時代は「躁」の時代だったのではないだろうか?

前田家には他にも鯰尾の兜が伝わっている。
利家には金色の熨斗烏帽子(のしえぼうし)兜が伝わっている。これまた上に長い。
戦国大名の子孫には兜のデザインを踏襲した例がよく見られる。




谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。
「図説・戦国甲冑集」学習研究社¥2,100 を参考にしました。




  1. 2011/09/27(火) 08:49:59|
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上様の好きな物(信長夜話・その28)

「My favorite things」(私の好きなもの)はミュージカル「サウンドオブミュージック」のなかの1曲ですが、今回は信長の好物について。

織田信長は甘党だった。酒は飲まなかったようだ(形式上、杯に口ぐらいつけただろうが)。

「信長の酒は悪い酒で、酒席で明智光秀にからんだ。それも光秀謀反の一因だった。」などという、描かれ方をされることがよくあるが、それは違う。
「こうだったら面白い」ことと「史実」はちがうことが多々ある。これもそのひとつ。
こまったことに「こうだったら面白い」ことの方が信じられやすい。

信長と何度も会ったことのある宣教師、ルイス・フロイス(ポルトガル人)は「日本史」のなかで「(信長は)酒を飲まず、食を摂し」と書いている。
フロイスは文才があって、「日本史」は布教活動の記録として書かれた。宣教師としての偏り(かたより)がすこし見られるものの、信頼できる内容といわれている。
日本人とはちがう観察眼で信長、秀吉や戦国日本が書かれている。とても興味深い。

宣教師が信長に献上品をもっていくと、信長は欲しいものだけとって、他は返したという。
「とりあえず全部もらっておこう」などという欲深ではなかったようだ。

喜んでとったもののなかに「コンフェイトス」がある。
これが、現在の金平糖と同じものかどうかはわかっていないが、砂糖菓子の一種だった。
その後、宣教師が人を介して「コンフェイトス」を信長に届けると「伴天連はどこにおるか?と、はなはだ親愛、鄭重な書状をしたためた」と『耶蘇会士日本通信』にある。

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「コンフェイトス」は日本では珍しい甘味(最近はスイーツなどという)だったが、普段、好んで食していた甘味は「干し柿」だった。
宣教師のルイス・フロイスやガスパル・コエリョも信長から「干し柿」をもらっている。
彼らは、これを「干したイチジク」と記している。「干し柿」を知らないのだから無理もない。
「この干した果物はなんだろう?イチジクだと思うが・・・?」などと宣教師どうしで話たのだろう。

さまざまな人から年中、信長に「干し柿」が届けられたと思われる。

「干し柿」ときいて甘くみてはいけない?
岐阜県美濃加茂の蜂屋には「蜂屋柿」といって超高級な「干し柿」がある。
現在、1個¥1,000~¥1,500ぐらいする。だいたい手にはいらない。
ボクも食べたことがない。絶品らしい。
おそらく信長に贈られたのは、こういった高級品だったろう。

天正4年(1576)、木津川河口の戦で戦死した真鍋貞友の子、9歳の貞成(さだなり)が信長にお目見えすることになった。
床(床の間か?)に美濃の干し柿が沢山、置いてあった。
取次ぎ役の堀秀政に、それを貞成にやれと信長が指示。

秀政が二つもってくると、「もっと沢山やれ。」といわれたので、今度は12~13個もってきた。
もらった貞成は両手で受けきれず、袴の裾を広げてそれを受けた。
それを見た、信長は大変機嫌が良かったという。(『真鍋真入斎書付』にあるという)

緊張しながら、袴の裾を広げて干し柿を受ける子供の貞成を見て、
「そなたが貞友の子の貞成か、その干し柿はうまいぞ、もち帰って食べるが良い。そのままでよいぞ、気使い無用」
貞成退席の後、秀政に「貞成はよろこんどったか?(名古屋弁)そうかそうか・・・」と信長。
ボクはこんな信長を想像するのだが・・・

堀秀政がはじめ、二つしかもってこなかったところがおもしろい!
信長が「干し柿」を大切にして、人に与える時、沢山与えることに躊躇していたのだろう。
ボクと変わらないケチっぷりがオカシイ!
堀秀政は信長の代表的近習で、大変、優秀な人だったといわれる。
信長の好みや性格をよく知っていたのだ。

部下は社長のやることを息を殺して注意深く見ているのもの。


<堀秀政(1553―1590)について>

13歳という若さで信長に仕え、信長にかわいがられた。
一時、織田信包(のぶかね・信長の弟)に預けられていたという。
信包の影響を受け、利発な小姓として育った
信長の晩年には馬周りの指揮官となる。
信長の代表的な近習。

その仕事は、取次ぎ、副状(そえじょう・書状や物に添える書状。書状の内容の補足や、書状が発給された経緯などを書いたもの。主に近習や右筆が認(したた)めることが多い)の発給、使者、外交、各種奉行、と多岐にわたっているだけでなく、武将としても目を見張るものがあった。

越前一行一揆や荒木村重討伐に戦功をあげ、天正九年(1581)第二次天正伊賀の乱(約4万2千の織田軍が4箇所から伊賀に進攻した)において信楽口からの一軍を率いた。信長の信頼が窺える。
秀政は28歳で8千ほどの軍を指揮したことになる。
同年、近江長浜城主。翌年、武田攻め、ついで中国出陣中の羽柴秀吉に検視として従軍中に、本能寺の変(このとき29歳)。

秀吉とともに山崎の合戦で明智光秀を破る。以後、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、紀州攻め、九州攻めに参加。
「小牧長久手の戦い」では自軍が徳川方の攻撃を受けて敗走するが、そのなかで堀隊だけは徳川勢を撃破した。
天正十三年、越前北庄城主。
天正十八年、小田原攻めの陣中で病に倒れた。37歳の若さだった。
北庄長慶寺に葬られ、のちに春日山林泉寺に改葬された。

非常に物腰が柔らかで、人に悪口を言われても、かえって
「よいご指摘をいただきました。」と言ってお礼を言ったという。
そのため、人々は堀秀政を通称である久太郎から、「名人久太郎」と呼んで称えた。という逸話をもつ。

一説には、秀吉は関八州の支配を秀政に任せようと考えていたといわれたり、
病没しなければ、五大老のひとりになっただろう。と言われる。
信長、秀吉と天下人に気に入られたようだ。

性格が良く気配がよめ、のみ込みの早い頭の良さ、そしてハンサムだったといわれる(信長の寵童をつとめたといわれる。)。
いざ戦になると度胸が据わっている。非の打ち所がない(いじわるな見方をすれば、面白くない)。
信長がかわいがっただけのことはある。

北陸の要衝、北庄城(現福井市)を秀吉から任されるまでになったのだから、大出世だが、超大物にはいたらなかった(若くして亡くなったこともあるが)。
なにもかもソツなくこなす才人、それが堀秀政の限界だったのではないのか?とボクは思う。

今でも、叩き上げの社長を見ていると、社員の考えていることを、あまり気にしていない。
例えば「社員旅行いきたくないな!」などということなど考えたこともない、という風情だ。そういうことに鈍感なのが多い。
それは失敗してもめげないタフさにも通じているように思うのだが・・・

しかし、これも結果を知っているボクだから言えるわけで、
あの世で「お前のようなハナクソのような小者!に言われたくはないは!」と秀政は思っていることだろう。
「ごもっとも!」

horihidemasa13.jpg
堀秀政の肖像画を模写してみた。
「このウラナリの胡瓜みたいなのが、あの堀秀政?」
「手抜きじゃねえのか?」と思われそうなイラストですが、
元の肖像画がこんな感じなんだから、しかたがない。



鈴木眞哉著「戦国武将のゴシップ記事」PHP新書¥700(税別)を参考にしました。




  1. 2011/09/20(火) 07:33:51|
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名刺交換

meisikoukan23.jpg

数度の訪問ののち、「じゃあ、会長もいっしょにお話をうかがいましょう」と営業の北村さんがウレシイ返事をいただいた。

約束の日、資料を整え、先方の会社にうかがう。
まずは名刺交換。「はじめまして、○○株式会社、営業2課の北村です。」とまずは役職の上位の方から名刺交換。

「あれ、様子が変だ。」ハッとした。
痩せた若い方が先方の会長だったのだ。
恰幅の良いおじさんは課長だった。
ウッカリしていた。

「ええっ!若い方かよ!間違えるだろう!これでは」と思っても、もう遅い。
こういう場合は「失礼しました。」と言うのが良いのか?
知らぬふりをして、名刺交換を終えるのかは迷いますね。

思い込みは恐ろしい。

こんな経験、おありになるのではないでしょうか?
ITが勢いが良かったころは、若い社長や会長がいましたね。


話は変わります(いつものことながら)。

先日の大型遅速台風12号は三重県、奈良県、和歌山県に被害をもたらした。
平成に入っての最大の台風被害と報道されている。
被災された方のつらさを、お察しします。

三重県から和歌山県に通ずる国道42号は、ボクの大好きな道。何度も旅した。
険しい峠から海岸へとダイナミックな景色。
この地方は運良く?開発が遅れたため、素朴な日本がある。


以前、「11PM」というテレビ番組があった。
金曜日は大橋巨泉氏の司会で人気があった。
司会は今ではMCと言うそうだ。すこし前はメインパーソナリティなどと言ったように思う。
カタカナや横文字が好きな業界らしい?

脱線した。

そのなかで「巨泉は予言する」という企画があり、
「30年後?には、酸を含んだ雨が降り、晴れれば猛暑、降ればどしゃ降りになる。東京はヒートアイランド現象といって、東京の周りよりも夏は暑くなる。そして、そこらじゅうで電子音が鳴る。」
「いやだねえ!きっこ(松岡きっこさんのこと)、どうするよ?」と巨泉氏が言っていたと記憶している。
当っているではないか。
ほかの予言もあったと思うが、この部分しか覚えていない。

「太平洋の高気圧と大陸の高気圧に阻まれて、台風は歩くほどのスピードで北上。そのため広い範囲で長い間、雨が降るのです。」といった気象予報をテレビで見る。

「なるほど」と思うが、「じゃあ、どうして、こんな激しい気象になっているの?地球的規模の異常原因があるのではないか?」という疑問には、テレビの気象予報士は答えていない。はがゆい思いだ。






  1. 2011/09/13(火) 09:18:11|
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それはファンタジー!(ジョーク)

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書店にて、

客 「“男が女を支配する方法”という本はどこにあるかね?」

店員 「はい、そちらの『ファンタジー』のコーナーにございます」

客 「・・・・」

客 「じゃあ念のため、“女が男を支配する方法”という本もあるの?」

店員 「それでしたら、こちらの『実用書』のコーナーにございます」

客 「・・・・」




植村黎 編・訳「ポケット・ジョーク」角川文庫 ¥300 を参考にしました。






  1. 2011/09/06(火) 06:58:39|
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