ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

清洲同盟(信長夜話・その31)

「次郎三郎殿(家康の通称)は東を・・・」
と三郎様(信長の通称)が言ったかどうかはわからないが、「桶狭間の戦」から2年後、松平元康(後の徳川家康、以下、家康)は清洲に出向いて、信長と同盟を結んだ。
「清洲同盟」だ。永禄5年(1562)1月15日、信長29歳、家康20歳だった。

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この時、織田信長と家康は「今ヨリ水魚ノ思ヲナシ、互ニ是ヲ救ン事聊モ偽リ有ベカラズ」という起請文を交わし、「牛」という字を記した誓紙を三等分に分け、水野信元を加えた三人で飲んだという。

「織徳同盟」「尾三同盟」とも記されるこの同盟は、自分の都合が変われば、同盟など有名無実と化す戦国の世で、信長が本能寺で亡くなるまで存続した稀有な同盟だった。
信長には東の強敵(今川、武田、北条)にたいする壁としての家康。家康は三河の統一、対今川に専念したいための、利害の一致があった。

織田と松平(徳川)はそれまで確執があり、松平内部ではこの同盟に公然と反対する一派があった(酒井忠尚ら)。
それを抑えてのトップの決断だった。
同盟は水野信元が仲介した。水野信元は信長とは同盟関係。家康とは親戚。
皮肉にも、水野信元はこれ以後、信長からの存在理由が希薄になり悲劇が待ちうけている。

建前は「対等な同盟」であったが、その後、織田と徳川の差が開き、家康が従属するかたちになっていった。
はっきりとした差がついたことがこの同盟を長持ちさせる一因だったかもしれない。

ただ、「対等な同盟」ということになっているが、そんなことは初めからありえない。
いまでも企業合併のとき「対等合併」などと言うが、そんなことはありえない。
力の弱い側に気をつかって、そんなことを言うのだろう?「従属合併」などと言えば、まとまる話もまとまらない。

信長は「桶狭間の戦」の勝者。注目の戦国大名。
かたや、家康は「桶狭間の戦」で負けた今川方の武将だった。

「桶狭間の戦」の後、家康は東に退却。今川が放棄した岡崎城に入城、西三河の制圧に奔走する。
言はば「危機を迎えた本社を見捨て、どさくさにまぎれて、株式会社今川の岡崎支社を乗っ取り(奪い返し)、<松平株式会社?>と名乗ったわけだ。」

「子供のころ、家康は今川に人質として取られ、つらい思いをした。」というのが一般的だが、ボクは疑っている(疑い深いやっちゃ!)。
時にはさみしい時もあっただろうが、今川義元が家康にひどい扱いをしたとは思えない。

義元は、臨済宗の僧・太源崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)を家康の師につけ英才教育を施している。 
太原雪斎は今川義元の師でもあり、僧であり、武将であり、外相?であり、参謀(当時はそんな役名はないが)でもあった。当時、一流の知識人だ。
家康が8歳~17歳の多感な少年期に太原雪斎の教えを受けたことは大きかったのではないだろうか。

今川義元は家康に、義元の「元」の字をつかわせたり、義元の姪で関口親永の娘・瀬名(後の築山殿)を娶とらせたりしている。
義元は家康を今川家を支える有力武将として育てようとしていたと思う。

この時代、中小の戦国大名の家に生まれれば人質に出される可能性が高いことなど、家康(当時は竹千代)は承知していたと思う。承知していたから、辛くないということはないが、現代の感覚とは違ったのではないか?。

もちろん、今川譜代の家臣と松平の家臣とには差があっただろうが、それは当たり前。平等だったら、それも問題になるだろう。
家康は「桶狭間の戦」では前線で大高城に兵糧を入れる作戦に従事するが、これとて当たり前で、帰参したり寝返ってきたものが最前線を担当するのは当時の常識だった。ましてや、土地勘のある三河勢なのだから。

家康の苦労話は、「岡崎城乗っ取り(奪還)」「後の築山殿の殺害」の正当化、「家康立志伝」に利用されたようにボクは思う。

イラストは同盟が成立して「湯漬け」を食す信長と元康(家康)とした。固めの「湯漬け」だ。
「湯漬け」いうと現代の「お茶漬け」を想像するが、現代の「お茶漬け」の位置づけとはチョッと違うようだ。
正式な接待にも出される。おそらく、当時の先端をいくファストフードだったのではなかったか?
ボクも「お茶漬け」は大好き。魚の干物と漬物で行きたい!

信長の好物「干し柿」も並べられたと想像している。
「次郎三郎殿(家康の通称)もいかがかな、この干し柿。うまいぞ!八丁味噌ばかり食っていては塩分の取りすぎになるぞ!」と信長が言ったかどうか?・・・
(注)当時、八丁味噌そのものがあったかどうかわからない。おそらく無かった。

信長は「湯漬け」をかっこみながら、この元康(家康)が戦国の最終勝者になるとは思っていなかっただろう。
強運の持ち主、二人が飯を食っていた。


イラストの信長は長興寺(愛知県豊田市)所蔵の有名な、あの肖像画を参考にした。イラストのような信長像を見た人も多いだろう。
右の松平元康(徳川家康)は有名な日光東照宮所蔵の歳をとった家康の肖像画を参考にして「若いころは、こんな感じかな?」と画いた。
29歳の信長、20歳の家康の割にはすこし老け顔になってしまった。参考にした肖像画が中年から老年なので影響を受けてしまった。

このころの家康は、話すのがヘタで口数の少ない男だったのではないか?とボクは思う。
秀吉の口八丁手八丁と比べると地味な感じがしたかもしれない。
家康が信長から信頼されるためには、「同盟への誠実」が必須だったのではないか?

その場限りの誠実など、はいて捨てるほど現れるが、家康の誠実には「その場限り」を感じさせない何かがあった。実はそれが家康の得意技だったように思う。

現在でも好成績営業マンには、以外にも口下手の人が多いという。
口下手の弱点を誠実さで補っているからなのかもしれない。
口下手だから誠実さが際立つともいえる。

ボクは家康があまり好きではないが、
実際に家康に会へば、安定感と誠実感を感じさせる人だったように想像している。

美濃への進攻をはじめていた信長にとって、この同盟でとりあえずは、背後からの脅威を弱めることになった。
もし攻められても、家康がすこしは時間を稼いでくれるだろうと・・・






  1. 2011/10/25(火) 07:20:43|
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いみな(信長夜話・その30)

戦国武将はいろいろな名前を使っていた。
子供のころの幼名に始まり、元服後の諱(いみな・本名のこと)、字(あざな、通称のこと)、官名(朝廷が任じる)、
剃髪したら入道号、死ぬと法号。というのが一般的だったらしい。

織田信長の場合、吉法師(きちほうし)が幼名、信長が諱(本名)、三郎が通称、上総介が官名、
織田三郎上総介信長(おださぶろうかずさのすけのぶなが)がフルネーム。
法名は総見院泰巌大居士(そうけんいんたいがんだいこじ)。

豊臣秀吉の場合、日吉丸が幼名、秀吉が諱(本名)、藤吉郎が通称、筑前守や関白が官名、
国泰祐松院殿霊山俊龍大居士(こくたいゆうしょういんでん・れいぜんしゅんりゅう・だいこじ)が法名(長いな!)。

(注)秀吉が信頼できる史料に初めて出てくるのは「木下藤吉郎秀吉」だそうだから、
幼名の「日吉丸」は怪しい。子供のころのことは、ほとんどわかっていない。

当時は諱(本名)を呼ぶことは、大変に失礼なこととされていた。
目下の者にたいしても、本名を呼ぶのをひかえたと言われている。
字(あざな、通称のこと)や官名でよぶのがマナーだった。

例えば、信長(便宜上、本名を使う)が秀吉に話かけるときは
「筑前、因幡はそのほうが切り取りしだい!」となる。

テレビの時代劇を見ていると、配下の者が「信長様におかれましては・・・」とか
「その儀は信長様へ・・・」などと本名を呼んでいるが、
そんなことはありえなかったことになる。
もし、そんなことをしたら、大変なことになった。

「上総介様におかれましては・・・」「その儀は上様へ・・・」と言わなくてはいけない。
ただ、テレビの場合は、いちいち注釈を加えなければいけないから、現実的ではないが、

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イラストはテレビの見すぎで、愚かにも「信長様におかれましては・・・」と口にしたボクに、
「その方、何者か?怪しげなやつ。この慮外者(りょがいもの)!」と怒る上総介様(信長)とした。

手にした刀は「へし切り長谷部」(信長の愛刀の一振)。
「なにとぞ、なにとぞ、お許しを!」と言い終わらないうちに
ボクは血まみれになって絶命しているだろう。

まあ、信長がこんな話方をしたかどうかはわからない(たぶんにテレビ的)。
それに、ボクのようなものは目どおりすら叶わないから、
イラストのようなことはありえないが、



  1. 2011/10/18(火) 07:24:54|
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イチバン美しいと思う曲

ボクには思い出に残る歌や素敵だと思う曲がイッパイあるが、
「貴方がイチバン美しいと思う曲を1つだけ上げろ。」と言われたら、《ビゼーのオペラ「真珠とり」のなかのアリア、「耳に残るは君の歌声」》を上げる。

実は最近になるまで、この曲がクラシックとは知らなかった。
原曲のタイトルが「耳に残るは君の歌声」というのも、最近知った。

ボクが初めて聴いたのは子供のころ(小学生の低学年だったかな)、ラテンのLPレコードだ。
たしか、「真珠とりのタンゴ」というタイトルだった。
歳の離れた長兄が買ってきたレコードのなかにそれはあった。

小癪にも?長兄はラテンやクラシックなどを聴いていたのだ。
ボクの想像だが、長兄は恋をしていたのだと思う。
その女性がラテンやクラシックが好きだったのがきっかけだろう。

その恋はウマくいかなかった。
ある晴れた日、長兄は子供のボクを名古屋から電車で1時間ほどの、森のなかにある大きな公園に連れて行ってくれた。
おそらく、その女性と来たことがあったのだろう?

最近、どうしても「真珠とりのタンゴ」が聴きたくなって、ネットでこの曲が収録されているCDをさがした。
「The man who cried」のサウンドトラック版が出てきた。
「耳に残るは君の歌声」が3曲も入っている。サルバトーレ・リチトーラが歌っている(ボクが知らない歌手だ。知識がないので)。
3曲はアレンジを変えてのことだろうと思い、さっそく購入して聴いた。

CDが映画「The man who cried」のサウンドトラックだというので、その映画を調べた。
2001年に公開された英仏合作の映画だった。今をときめくジョニーデップが出演している。
ボクはこの映画の記憶がまったくない。

このCDのなかには「帰れソレントへ」「星も光りぬ」も入っていて気に入った。
「星も光りぬ」は歌劇「トスカ」のなかの一曲。ボクは好きだ。
子供のころマネをして唄っていた。
鳴き唄になる芝居がかったところが面白かったのだが、そのドラマ性も感じていた。

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ボクはクラシックファンではない。知識もほとんどないに近い。楽器が弾けるわけでもない。
イラストはビゼーの肖像画を参考にして画いた。
ボクがビゼーについて知っていることといえば、歌劇の傑作「カルメン」の作者であること、中学校の音楽教室の黒板の上の横長の粗末な額のなか、著名作曲家の肖像画一覧にビゼーがいたことを思い出す程度だ。

ボクが美しいと思う曲を、今、思いつくままにあげてみる、
「青空」「ダッタン人の踊り」「星も光ぬ」「別れの唄(ショパン)」「黒いオルフェ」・・・



ジョルジュ・ビゼーについて
(Georges Bizet, 1838年10月25日~1875年6月3日)

フランスの作曲家。
父は声楽教師、母はピアニストという音楽家族に生まれる。
9歳でパリ音楽院に入学。記憶力抜群であったという。
また、ピアノの名手だったようだ。

オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストへは進まず、
歌劇などの劇音楽の作曲家をめざした。

25歳のときの歌劇『真珠採り』でオペラ作曲家の地位を確立する(なんと25歳!)。
今回の「耳に残るは君の歌声」はそのなかの1曲だ。

その後、歌劇『カルメン』などを作曲するが、1875年3月にパリで行われた『カルメン』の初演は失敗だったという。
ヒロインが女性労働者だったことが原因だといわれている。
評価などそんなものだ。

『カルメン』はよく出来た物語だと思う。
フランスの作家プロスペル・メリメが1845年に発表している。
そして歌劇『カルメン』もスゴク良い。スペインを感じさせてくれる。

ビゼーは『カルメン』初演の約3ヵ月後、1875年6月3日、敗血症のため36歳7ヶ月の若さで世を去った(若いなぁ!)。
神様は才能のある人間が好きで、自分のもとにスグ呼びたがるらしい。

ボクはノンフィクション派で歴史好きだが、
音楽も、それにともなう人の人生を知ると、思いが深まる。


  1. 2011/10/11(火) 07:18:15|
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こうなったら「なでしこ」!

nadesikohe13.jpg

「政治は本当に頼りにならんなぁ!」と主人が愚痴る。

妻 「おとうさん。今はこれらしいは」とユニフォームを指差す。

主人 「”なでしこジャパン”か、ヤッパリこれかなあ、頼みの綱は!」
主人 「どうか、日本を元気にしてちょう(名古屋弁、「して下さい」の意)!パンパン(拍手)」
二人でユニフォームに手を合わせる。

主人 「この円高、なんとかならんきゃあ、本当に、パンパン(拍手)。このままでは、うちの工場(こうば)はやっていけんは(名古屋弁、「やっていけない」の意)パンパン」

妻 「ほんとだよ、米もサカナも買わないかんし(名古屋弁、「買わなければいけないし」)、お頼みもうします。ほんとに!パンパン(拍手)」

主人 「地デジにしないかんということで、地デジにしたんだけど、いっぴゃあ(一杯)チャンネルが増えたけど、そんなに見れぇへんがね(見れない)、もう・・・パンパン」

妻 「うちの貴子、何処かにもらってくれる人がおらんだろうか(いないだろうか)?もう32だぎゃあ。パンパン」

主人 「・・・ついでに頼んどこ。日本の外交下手はなんとかしてちょう。パンパン」

妻 「ほんなら私も。医者から”痩せな、もう知らんよ。ムズカシイ病気になっても・・・”といわれてしまったんだわぁ。パンパン」
妻 「私も昔はカワイかったんだよ。お父さんがクルマのなかで、突然、抱きついてきたぐらいだで・・・。それがどうでゃ今は・・・、「痩せれる」という、なんとかいうクスリ、飲まないかんだろうか?パンパン」
主人 「・・・あのときはよう、お前が・・・・パンパン」

主人 「夜に何度もトイレに起きないかんのだわ。なんとかならんだろうか・・・パンパン」

主人 「かあさん、遅ぇなぁ?<角貞>の木の葉どんぶり(渋いねえ)!あそこはよう、中華そばはマズイは、出前は遅いはで、なんとかならんきゃ!パンパン」

二人とも、いい加減にしなさい!






  1. 2011/10/04(火) 06:53:32|
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