ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

犬山を攻める(信長夜話・その33)

織田信長は永禄6年(1563)に清洲から小牧山に移った。
このころ尾張で信長に敵対していた織田信清(信長の従兄弟にあたる)の犬山城(現愛知県犬山市)攻略に乗り出す。
信清は美濃の斉藤氏と結んで信長に対抗していたのだろう。

これより2年前の永禄四年(1561)、信長は犬山の支城である小口城(現・愛知県丹羽郡大口町小口)を守る中島豊後守を調略しようと試みるが失敗。力攻めとなった。

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小姓衆が先駆けとなり惣構(そうがまえ)を突破、押し入ったが、この戦いで信長の小姓、岩室長門守は槍でこめかみを突かれて討ち死にした。
彼は桶狭間への払暁の出撃のとき、信長に付き従った小姓、5騎のひとりだ。
優秀な若者だったと言われている。

小口城は、大久地城、箭筈城(やはずじょう)とも呼ばれた。
東西約50間(約90メートル)・南北約58間(約105メートル)の曲輪に二重の堀と土塁があったと言われる。

歴史的にはマイナーな城だが、現在、城址公園があり、空堀 、模擬物見櫓がある。
城=天守閣という短絡型ではないところが好感がもてる城址公園だ(公園だが)。

今回の犬山攻めでは、信長は犬山の支城である、この小口城や黒田城(守将、和田新介・現愛知県一宮市木曽川町黒田字古城)を丹羽長秀の調略で内通させた。(黒田城は、あの山内一豊の生まれたところだという。)

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《イラストは犬山城の天守(当時は2層)を木曽川の対岸の川原から見上げたところ。
その向こうに城郭がひろがり、さらに町家があったと思われる。
おそらく、信長勢は町屋にも火を放ったのだろう。
左手が木曽川の上流で、現在はすぐのところを犬山橋と名鉄の鉄橋が架かっている。
犬山側から鉄橋を渡ったところに鵜沼城があった。
犬山城と鵜沼城は木曽川をはさんで至近距離に存在していた。》


こうして、支城を無力化したのち、
「信長勢は両名の手引によって犬山へなだれ込み、城下を焼いて裸城にし、鹿垣をもって城を十重二十重に取り囲んだ。攻囲はそのまま丹羽長秀が担当し、まもなく城は落ちた。」(信長公記)

城主の織田信清は城を抜け出し、甲斐の武田氏に身を寄せたという。その武田氏も後年、信長に滅ぼされる。信清の最期はわかっていない。

信長は犬山を攻略したことで、ようやくにして尾張のほとんどを平定した。
このとき、信長は31歳。14歳の初陣から17年を要した。
好運にめぐまれたが、食いちぎるような尾張平定であったとボクは思う。


<犬山城について>
1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移った(犬山城)。現存する天守の2層まではこのころ造られたと考えられている。

その後、 信康が戦死して子の信清が城主となる
1564年(永禄7年) 織田信長との対立の末に信長によって攻め取られた(今回の記事)。

城は木曽川が狭くなる左岸の崖の上にある(川側からは攻めずらい)。
犬山は江戸時代は、尾張藩家老の成瀬家の治める地であった。
現在でも犬山城は成瀬家の持ち物だと思う(不確か)。

ボクは子供のころ、父ちゃんに連れられて犬山城の天守に登ったが、急な階段が大変だった記憶がある。
上り難くしてあるのだろう。当たり前だが、観光のために作られたのではない。


犬山城天守は現存する数少ない天守として貴重だ。
かつて黒澤明が映画「影武者」のときロケハンをしたという。戦国期の城の参考にしたのだろう。

犬山は現在、犬山城を中心に地元の名鉄資本の観光地になっている。はじまりは、おそらく阪急電鉄の宝塚を参考にしたのではないだろうか?

木曽川沿いに観光ホテルや旅館が多い。
城の大手(城へ通ずる主要道)の商店街は以前は元気がなかったが、最近はそれなりに整備されて、人気が出てきたように見える。

犬山城をはじめ、織田有楽斎(信長の弟、東京の有楽町の語源になった人)の建てた茶室「如庵、じょあん」(名鉄犬山ホテル内)、寂光院(紅葉が有名)、犬山鵜飼(犬山にも鵜飼があるのだ)など、観光ネタが多い。もっと人気があってもよさそうな町だと思う。

4月に催される「犬山まつり」には数台の「からくり山車」が引き回され、犬山城天守の前の広場でずらりと並べて「からくり」を披露する。観光客が見物に訪れる。
ボクは数年ほど前に、世話になった人からイギリス人旅行者の「犬山まつり」への案内を頼まれたことがあった。
ボクは英語が話せるわけではないので、イギリス人とはまともな会話にはならなくて、かっこ悪かった思い出がある。

「からくり山車」の祭りというと飛騨高山の「高山祭り」が有名だが、愛知県には、この犬山や碧南など、その地方所有の「からくり山車」を披露する祭りがいくつかある。中部圏は日本のからくりの宝庫だ。

「からくり山車」もさることながら、祭りの関係者のいでたちも魅力的である。
山車を引く人たちの衣装、年寄り衆の裃姿など、実に良い。金がかかっているのだと思う。
一度、ご覧になられることをお勧めする。

犬山の食べ物としては「菜めし味噌でんがく」だろうか。豆腐のでんがくだ。
ボクは味噌でんがくを肴に冷酒(ひやざけ)を飲むと、時代のかなたに思いが飛ぶのだ。







  1. 2011/11/29(火) 07:26:45|
  2. 信長夜話
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剛の者(ジョーク)

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88歳の様じいが21歳のピチピチかわいこちゃんと結婚するという。
結婚の前に、医者に夫婦生活について相談した。

医者 「どうしても結婚するというのですね?」

様じい 「・・・そうじゃ」

医者 「わかりました。それならば、夜のほうは控えめになさることです。頑張ると生命にかかわるかもしれませんよ。」

様じい 「・・・ヤッパリそうか、ワシが相手ではあの娘がもたんかもしれんな・・・」

医者 「・・・・」






  1. 2011/11/22(火) 07:11:51|
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天城越え

「天城越え」、良いタイトルですね。
「天城越え」というと石川さゆりの演歌の名曲を思い浮かべる人がほとんどだと思うが、松本清張の小説「天城越え」のほうが先に発表されている。

演歌の作詞家は、この小説のタイトルからヒントを得たと想像している。
演歌「天城越え」はカラオケではとても人気があった。
文学的な雰囲気と性的な雰囲気が混じっているところが魅力的なのだろう。

簡単に、清張の小説「天城越え」の筋書きを、以下。

静岡の印刷屋の小野寺のもとに、田島という老人(元刑事)が、「天城山殺人事件」という刑事調書の印刷を依頼しに来るところから話ははじまる。

原稿を見て驚いた小野寺は自分の14歳の時の天城越えを思いだす・・・

実の母親の情交(「情交」とはいいですねえ。)を見てしまった14歳の少年が、天城越えで静岡の兄をたずねる途中、道ずれになった娼婦ハナ(足抜けして逃げるところ)に母親の面影を見る。

小野寺少年は、金の無いハナが途中で出会った土工(肉体労働者)と情交するところを覗き見る。
母親の情交の記憶がよみがえり、少年は土工を殺す。

土工からもらった金をもっていたこと、現場の足跡の九文半が一致したことなど、警察はハナを疑う。
さらに、「直接、手をくだした犯人が他にいるのでは?」と疑うが、ハナは頑として口を割らず、迷宮入りとなった。

「九文半の足跡を女のものだと断定したのが失敗でした。犯人は子供でした」と老人は語る。
そして、犯人である子供の動機が分らないと続ける。

犯人は、少年=小野寺であった。印刷を依頼しに来た老人(元刑事)は小野寺こそ真犯人の少年だと確信して訪ねてきたのだった。
しかし、もう時効だった。

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回想から始まるところや、「伊豆の踊り子」のルートをなぞるところなど、清張は川端康成の「伊豆の踊り子」を下敷きにこれを書いたのだろう。

ボクは「伊豆の踊り子」を中学生のころに読んだ。さわやかな読後感はあったが、物足りなさも感じた。キレイすぎるのだ(キレイごと)。
人間の暗部に触れる清張にボクは惹かれた。

「涙のない喜劇、笑いのない悲劇」は薄っぺらな感じがしてボクは好きになれない。
人間は「絶望のなかで笑い、絶頂の中で泣く」。

「松本清張は自分の作品が文学作品として位置ずけられていないのに不満だった。」という話をきいたことがある(不確か)。
「推理小説」はいくら人気があっても大衆向けだという扱いだった(今でも)。
大衆向けが文学作品ではないとはおかしな話だと思うが、こういったことは他でもよくある。
清張の「天城越え」にはそんなことに対する皮肉がこめられているように思う(ボクの想像)。

清張は「天城越え」以外にも子供による殺人を取り上げている。
短編「潜在光景」は「影の車」というタイトル、岩下志麻主演で映画にもなった。

子供が親を、親が子供を殺すことも珍しくなくなった今では、かつての衝撃はないが・・・

イラストは粗末な納屋(本では草むら。草むらのほうがムラムラするかな?)で情交するハナと土工を、清張と少年時代の小野寺が覗いている。
そして川端康成も・・・









  1. 2011/11/15(火) 07:54:45|
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本格的?

「残業があって、今日は疲れた・・・」
帰って晩ご飯を作るのもめんどくさいので、商店街にあるカレー屋ですませることにした。

「そういえば、ここはインド人がやっている。」

待つこと数分、注文したカレーが目の前に、
「あれ?スプーンがない。 ・・・あ、そうか、ここは本格的なんだ。」

「たしか、こんな具合に、指先で包むようにして・・・」
と慣れない手つきで、カレーとご飯をまぜながら食べた。

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半分ほど食べたとき、お店の人が申し訳なさそうな顔でスプーンをもってきた。

「ええっ!忘れただけかよ!・・・まぎらわしいじゃないの!私の立場はどうなんのよ!この!」と怒鳴ってやった、心のなかで。



以前に見たブログの記事を参考にしました。そのブログの名前は思いだせません。





  1. 2011/11/08(火) 07:09:30|
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小牧山へ(信長夜話・その32)

『永禄6(1563)年のある日、信長公はおもだった家臣すべてを引き連れ二之宮山(現愛知県犬山市二之宮、大縣神社あたりか?)の高所にのぼり、
「この地に築城する」と突如宣言した。
そして、この谷には誰々、あの峰には誰々という具合に屋敷割りまで決定してしまった。

その日から信長公は二之宮移転のことを何度も口にするようになり、どうやら本気で考えているらしいことが家臣たちにもわかってきた。
家臣団は混乱におちいった。住み慣れた清洲を引き払って二之宮のような山中に移る苦労は、はかりがたいものがあった。
清洲の町民達にとっても迷惑は同様で、たがいに顔を合わせては口々に不満をささやきあった。』と「信長公記」にある。

前年の永禄5年に清洲同盟を松平元康(家康)と結んだことで、東からの脅威への一応の備えが出来た。
信長は本格的に美濃攻めを決めたのだろう。
清洲から、いちいち長い距離を行軍して美濃に攻め入ることはムダが多い(金も疲労も)。
前線に近い位置に司令部を移動させるのは軍事の常識だ。

『そのような中、信長公は「やはり、小牧山にする」といって正式な移転地を小牧に変更した。
清洲から小牧へはふもとまで川続き(五条川)であり、人馬・道具の移動は自在である。
人々は喜んで支度をはじめた。
ここに信長公の知略があった。最初に難所の二之宮への移転を表明し、その後で場所を移りやすい小牧に変えたことで、清洲からの移転そのものに対する不満をやわらげたのである。』(信長公記)

「この話はありそうだな!」とボクは思う。
それにしても、清洲同盟の翌年に小牧築城である。信長の行動力は魅力的だ!

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小牧山東麓には家臣団の武家屋敷群が、南麓には城下町が形成された。
武家屋敷の境には、幅2m以上の堀が掘られたという。防御のためだろう。
東南の隅には、小牧山城では最大の規模を持つ曲輪402があり、一辺75mの方形(約1700坪)の武家屋敷であったとみられる。
これが信長の館跡ではないか?と推測されている。

小牧山は濃尾平野のほぼ真ん中に位置する独立峰。周りは平野だ。
「峰」といっては「峰」が気を悪くすらいぐらいの小高い丘のような山だ。
成人の足なら麓から散歩道を15分ほどで頂上に達するだろう。

現在、小牧山には頂上にコンクリート作りの三層の模擬天守がある。
近くには山はなく、周りからこの天守が見える。
当時には、こんな天守はなかっただろう?あったとしても、櫓のようなものだったと思う。
見晴らしの良いところに櫓を構えるのは物見のためだが、この櫓が天守に変化して、それが領主の威厳を示すようになるのは、もう少し後のことだ。
信長時代の小牧山の頂上には大型の櫓のようなものがあったのではないだろうか。

現在の模擬天守はノンフィクション派には、なんとも魅力のない建物だ。
中身は小さな安手のビルのようだ。
入館料を払って中に入ると、信長以後の「小牧、長久手の戦」(秀吉と家康が戦った)関係の展示がしてあるが、
わざわざ見るほどの内容ではない。
こんな展示内容でお金を取ってはいけない(ちょっとキツく言い過ぎた)。

近くに山はないので、小牧山の頂上からは、このころ敵対していた犬山(現、愛知県犬山市)や斉藤龍興の稲葉山(岐阜城)が、晴れた見通しの良い日には望めたかもしれない。
いや、信長は望んだにちがいない。

名鉄小牧駅から小牧山までは、ボクの散歩コースのひとつ。
現在の小牧山は公園になっており、春は桜の名所だ。
山裾の散歩道を歩くと「小牧、長久手の戦」時代の土塁(土を積み上げて築いた防御用の土手)跡を見ることができる。ボクにはこの土塁跡が魅力的。想像を刺激される。

信長時代から、一時、廃城になっていたのを「小牧、長久手の戦」の時に家康が手を加えて再要塞化した。
家康はここに本陣をかまえ、優勢な秀吉の軍勢に対峙した。
現在、見ることのできるのはこの時代のものがほとんどで、ちょっと残念だ。
信長時代の遺構がボクは見たい。
翌年の永禄7(1564)年、城が完成。信長は小牧へ移った後、二度と清洲を本拠地とすることはなかった。

イラストは小牧山の頂上に作られた天守(櫓)から稲葉山と山裾を見たところを画いた。
ちょっと稲葉山が近くに見えすぎだ。実際はかすむほどの距離がある。
イラストには瓦葺きの屋根が見えているが、瓦葺きの天守はなかったと思う。


<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html





  1. 2011/11/01(火) 06:56:05|
  2. 信長夜話
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