ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

続 評価の本音(ジョーク)

<続 上司から部下への評価の本音>

hontounohyouka12.jpg

企画力がある → 合コン好き

頭の回転が速い → もっともらしい言い訳が上手

言い訳をしない → 頭の回転がニブい

影響力がある → 危険分子

影響を受けやすい → 危険分子

積極的 → うるさい

難しい仕事は論理的に考える → 面倒なことは他の人間にまわす

自分を表現できる → 日本語が話せる

細部にも目を配る → 重箱の隅をつつく

リーダーシップがとれる → 体、あるいは声が大きい

正しい判断ができる → ラッキーなやつ

ユーモアセンスがある → 下ネタを連発する

人を見る眼がある → 権力者に擦り寄る

会社に忠実 → 他に行くところがない



<ジョーク・小噺集> http://kuroneko22.cool.ne.jp/Joke11.htm 
を参考にしました。





<管理人のブエノス小僧から>

暮もおしつまりました。
今年の投稿は今回が最終です。

今年一年、ボクのブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございました。
これから、年賀状作りにかかります。
来年が良い年になりますよう。強く思います。

良いお年を・・・








  1. 2011/12/27(火) 06:57:32|
  2. ジョーク
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評価の本音(ジョーク)

<上司から部下への評価の本音>

hyouka12.jpg

平均的社員 → あまり頭はよくない

コミュニケーションスキルに優れる → 長電話をする

仕事が早い → 雑

仕事が丁寧 → 遅い

仕事を最優先 → デートの相手もいない

社交的 → 酒好き

家族が仕事に協力的 →  家族も酒好き

独立心がある → 愛社精神が薄い

頭の回転が速い → もっともらしい言い訳が上手

情に厚い → チョットしたことでスグ泣く

慎重に考える → 決断力がない

決断力がある → 慎重でない




<ジョーク・小噺集> http://kuroneko22.cool.ne.jp/Joke11.htm 
を参考にしました。







  1. 2011/12/20(火) 07:09:48|
  2. ジョーク
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稲葉山城を乗っ取った男(信長夜話・その35)

永禄7年(1564)織田信長が犬山城の対岸にある鵜沼城や猿啄(さるばみ・現岐阜県加茂郡坂祝町)を攻略した。その7~8ヶ月前の2月に珍事がおこっていた。

信長が目標にしていた斉藤龍興の居城、稲葉山城(現岐阜城、岐阜市内)を竹中半兵衛という男が、わずか16~18人で乗っ取ってしまったというのだ。
「それは本当か?どういうことか?」と信長は思っただろう。

『太閤記』、『武功夜話』、『甫庵信長記』、など資料として疑わしいものに書いてある話だから、この話は本当にあったことなのだろうか?と疑う人もいる。
『信長公記』などの良質な資料には出てこないのだ。
肯定派は、「複数の文献にでてくるからあった」という説のようだ。

ボクが信頼している谷口克広氏が「秀吉戦記」学研M文庫、のなかで「近いことがあったのではないだろうか」という論調で書いているので、ボクは消極的肯定としたい。
それはこんな話だ。

『斎藤龍興は暗愚?で、若い割に物静かな半兵衛を侮っていたのか、家臣達までもが半兵衛を馬鹿にした。
登城した際に龍興の家臣が櫓の上から半兵衛に小便をひっかけるという行為があったともいう(臭さ~!本当ならイジメだね!)。
半兵衛は龍興らの度重なる無礼の仕打ちに怒り、これを懲らしめるべく岳父(妻の父)で斎藤氏の重臣の美濃北方城主・安藤守就に相談、一計を案じる。

稲葉山城には人質として送っていた弟の竹中久作(重矩)がいた。
半兵衛は久作と示し合わせて病と偽らせ、まず屈強の士数名を看病のためと城中へ送り込む。
夕刻、頃合いを見計らった半兵衛は、弟の見舞いと称して長持ちに武具を隠してかつがせ、屈強の士十人ばかりを引き連れて稲葉山城へ向かった。
門番が長持ちを不審に思ったが、これは人々に振る舞うための酒食と説明し、城内に入った。

半兵衛ら十数名は城内の一室で武具に身を固め、大広間の当日の番将、斎藤飛騨守を「上意」と声を掛けざま抜き打ちに真っ二つに斬り伏せた。
異変に気づいて駆けつけた数人の家士を斬り捨てると、半兵衛は合図の鐘を郎党の竹中善左衛門につかせた。
山麓に待機していた安藤守就らの兵二千が、この合図により一斉に城内へとなだれ込んだ。
龍興はなすすべ無く城から脱出、稲葉山城は半兵衛ら十数人の一時的な「クーデター」によって占領された。』

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《 イラストは半兵衛が稲葉山城を乗っ取り中のところとした。
山の頂上にある天守最上階から半兵衛が斉藤龍興を蹴落としている。
石垣の下を、武装した半兵衛配下の武士が天守に攻め入るところ。
龍興は蹴落とされたのではなく、逃げ出したのだが、象徴的に画いてみた。

天守は現在の岐阜城(模擬天守)を参考にした。当時の天守がこんなだったかはわからない。
だいたい、領主が天守にいるのもおかしい?稲葉山の麓に住んでいたのではないだろうか?

天守は標高329mの稲葉山(現金華山)の頂上にある。
周辺から山を見上げると天守が小さく見える。岐阜市の象徴だ。
現在は麓から頂上へはロープウエイが運行されている。

麓は公園になっていて「岐阜歴史博物館」「名和昆虫博物館」などがある。信長は岐阜を攻略して、ここに壮麗な居館を造った。現在、その遺構を発掘研究中である。
有名な鵜飼は稲葉山城(岐阜城)のすぐそばの長良川で行われる。ライトアップされた岐阜城と鵜飼の篝火が夢幻(ゆめまぼろし)のようだ。

現在の天守は急な山の斜面の上にあって攻めにくそうだが、この城はこの後、何度も落城している。攻めにくいが守りにくい城でもあった。 》


半兵衛の乗っ取りの動機がウソっぽい感じがする。別の動機があったように思う。
こんな事件がおきたということは、龍興は求心力を失いつつあったのだろう。
見込みのないお館様にはサッサと見切りをつけ、生き残るために寝返ったりするのは当たり前の時代だった。
お館様とてふんぞりかえってばかりはいられなかったのだ。

その後、この事件を知った織田信長から、「美濃半国を お前にやるからどうだ?」と稲葉山城を渡すよう誘いをうけるが、半兵衛はそれを断り、すぐに城を龍興に返したことになっているが、
どうも、半年ほど稲葉山城(岐阜城)を占拠したらしい(信長が犬山城を攻め落としたころ)。

占拠した半兵衛と安藤に美濃の国衆の支持が集まらず、城を返したのが本当らしい。
もし反龍興派が支持していたら、竹中政権が美濃に出来たのかもしれない?

半兵衛は秀吉を描いたドラマでは軍師として必ず登場する。
竹中半兵衛重治は美濃不破郡岩手山城主、竹中重元の子だといわれている。
父は早くに死没(早死にの家系か?)。半兵衛は若くして当主になり斉藤龍興に仕えた『竹中家譜』。

秀吉が半兵衛を数度訪問して、自分の軍師になってもらう話が有名だが、『三国志演義』の三顧の礼とソックリで作りごとだ。
実際は岐阜を攻略した信長に仕えて、信長を主君とした。その信長から木下秀吉に与力として付された(出向?また、当時、軍師などという職はない)。

秀吉の与力として半兵衛は活躍する。
近江坂田郡の有力者、堀秀村の重臣、樋口直房を説得して味方にしたのは半兵衛だという。
「姉川の戦い」以後、秀吉は対浅井の最前線にある横山城に入れ置かれる。

秀吉は京へ、岐阜へと、たびたび出かけるが、その留守を守り、代わって城兵を指揮したのは、いつも半兵衛だったそうである。副将の位置にあった。秀吉からの信頼がうかがわれる。
敵への調略もできる誠実な人柄で、躍進期の秀吉を助けた。

半兵衛と黒田長政との逸話もあるが省略する。
その後、秀吉の播磨攻略に与力として従う。「三木城攻め」の陣中で病のため亡くなった。36歳だったという。肺結核という説がある。

後の「関が原の戦」で美濃垂井の竹中重門(半兵衛の子)は東軍に属した。戦の後の遺体処理を行ったという話をきいたことがある(不確か)。 

takenakahanbei13.jpg
 竹中半兵衛の肖像画は良いのがない(肖像画があるだけでも大したものだが)。
どうでもいいような顔が画かれている(実物がどうでもいいような顔だったのかも?)
イラストは現在の竹中陣屋跡(岐阜県垂井町)の門の脇にたつ銅像を参考にした。

特徴的な兜(これも「一の谷」なのだろうか?)、胴の前面には軍配のようなものが打ち出されている。
こんな顔をしていたかどうかはわからないし、胴の軍配?は江戸時代に画かれた肖像画にもあるが、「軍師」の俗説を意識したのだろうか?



谷口克広著『秀吉戦記』学研M文庫¥620+税 を参考にしました。







  1. 2011/12/13(火) 08:08:07|
  2. 信長夜話
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木下藤吉郎秀吉の登場(信長夜話・その34)

犬山城の攻略と同じころ(永禄7~8年と思われる)、信長は木曽川の右岸、伊木山(いぎ、現岐阜県各務原)に砦を築き、鵜沼城や猿啄(さるばみ・現岐阜県加茂郡坂祝町)を攻略した。

信長は木曽川対岸の東美濃から斉藤龍興の稲葉山(岐阜城)を攻める作戦に出たのだ。
以前、稲葉山からみて長良川下流、墨俣(すのまた)に進攻したが、どうしたことだろうか?
東美濃からのほうが攻めやすいと見たのだろうか?それとも揺さぶりをかけたのだろうか?

このころ、信頼できる資料に初めて「木下藤吉郎秀吉」が登場する。
永禄8年(1565)11月2日付け、美濃松倉の坪内利定に宛てた信長の宛行状(あてがいじょう)の副状(そえじょう)として秀吉が発給したものがそれだ。
信長32歳、秀吉29歳(天文6年2月6日・1537年3月17日生まれだとすれば)。

宛行状の副状を発給出来るのは、側近か部将など権威をもったものでなければならないので、秀吉は、すでに部将に昇進している。
信頼できる資料をみるかぎり、秀吉は忽然と登場する。
矢作橋での蜂須賀小六との出会いも、草履を温めた話も、長槍の話も、塀の修理の話も、後世の作り話だ。

秀吉は信長から、鵜沼城の大沢次郎佐衛門を説得するよう命じられる。
秀吉は説得に成功、大沢を信長に帰参させるが、信長の大沢赦免がなかなか出ないので、秀吉は鵜沼城で2日間を過ごし、その度胸が大沢を感嘆させた。という話が『武功夜話』に出てくる。

『武功夜話』という資料は怪しい資料という評価があって、信用できないらしいが、面白い話がのっている。
秀吉は人の心をつかむことの天才だ。大沢次郎佐衛門への調略があったとボクは思う。


話は変わるが、ボクは歴史上の人物をイラストに画くとき、思いにまかせてカッコよく画くことはしたくない。
肖像画がある場合は、それを参考にするのだが、戦国時代の肖像画は無表情なものが多い。また「口は小さく画く。座り方はこう画く。」など決まりごとがあるようで実感が薄い。
資料がない場合は「この人の顔が似ているのではないか?」という人をモデルに画くことにしている。そのほうが表情が画きやすい。

toukitirou12.jpg

秀吉の顔を画くのに、ボクが選んだのは「明石やさんま師匠」だ。
その理由は狩野光信筆、高台寺蔵の有名な秀吉の肖像画だ。
高位についたころの晩年の秀吉だと思う。
この肖像画から想像した30歳代の秀吉は「さんま師匠」が似ていると思った。

肖像画の秀吉は、逆三角型の顔、高い頬骨、目の位置は顔の中心に寄っている。鼻筋は通って長いが分厚くはなく、すこし出っ歯で顎は貧弱だ。髭も薄い感じがする。
この肖像画はハンサムとは言えない。
天下人を画くのに画家の光信は、そこのところは妥協しなかったようだ。
いや、これでも手心を加えたのかもしれない。

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《高台寺蔵、豊臣秀吉の肖像画の模写》


ルイス・フロイスは「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった(多指症)。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と秀吉のことを書いている

それとも「そっくりに画けよ。」と秀吉が光信に要求したのかもしれない。
最大の権力者に登ったのだから、自分の顔の美醜などどうでも良かったか?
魅力的な女性はより取り見取りなのだから。
そんな想像から、この肖像画は秀吉の顔に肉薄しているのでは?と思う。
絵に実感があるのだ。

また、信長はあだ名で呼ぶことを好んだという。
信長が秀吉のことを「サル」とあだ名で呼んだことになっているが、ボクは疑っている(疑い深い)。
もし「サル」と呼ばれていたとすれば、小柄で体を使うことをいとわぬ行動力にあったのではないだろうか?

あだ名で確実なのは「はげねずみ」だ。
信長が秀吉の正室「おね」(後の北政所)に宛てた有名な書状のなかで、秀吉のことを「はげねずみ」と書いている。
それを踏まえて肖像画を見ると「サル」より「はげねずみ」のほうが近いようにボクは思う。

秀吉の見てくれは、背が低く(150cm以下という説もある)、体が小さい醜い男だった。
しかし、たぐいまれな才覚と度胸をもっていた。天は二物を与えなかったのだ。
資料にはいっさい無いが、信長もふっと脅威を感じたことがあったのではないだろうか?

ボクは社長の天才「信長」、サラリーマンの天才「秀吉」と思っている。
信長と秀吉には「あうん」の呼吸すら感じる。
「秀吉」は社長(天下人)になってから、その才能に影がさした。
信長の構想をなぞるようになる。
サラリーマンの天才は社長、信長を超えることは出来なかった。

しかし、天下人になるまでの秀吉は、ホレボレするほどの活躍をみせる。
ここぞというときの機動力は師匠の信長(秀吉は信長に私淑していたのではないだろうか?)をしのぐ。
信長のすばやい機動を学んで進化させたのだろう。
城攻めにいたってはダイナミックで、信長も及ばない。
人扱いにおいては、天性の勘の良さに加えて、悲惨な若いころの体験が磨きをかけ「人たらし」となった。

信長は能力があれば、出自など気にしないで重要な役職を与えたが(戦国時代でも少数派)、並みいる信長配下の部将でも秀吉ほど悲惨な前半生を生きたものはいないだろう。
秀吉は天下人になっても、若いころのことを話たがらなかった。
おそらく、思い出したくもなかったのだ。

藤吉郎(秀吉)が信長に仕えた時期だが、諸説ある。

『太閤記』、永禄元年(1558年9月1日)の直訴説、藤吉郎22歳。
『太閤素性記』、天文22年(1553)、生まれ故郷の中中村に戻っていた藤吉郎を、同郷で信長の小者頭をつとめていた一若(いちわか)からの紹介説。藤吉郎17歳。
『武功夜話』、尾張小折村の商人であり土豪の生駒氏にたむろしていた藤吉郎は、当主、生駒家長の妹「吉乃・きつの」に気に入られる(シモネタを使って気に入られたという)。
その吉乃を介して信長に仕えたという説、など。

吉乃は信長がもっとも愛した女性と言われている。
(吉乃は信長より年上の出もどりだったと言われる。)



谷口克広著『秀吉戦記』学研M文庫¥620+税 を参考にしました。




  1. 2011/12/06(火) 07:33:57|
  2. 信長夜話
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