ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

頭と尻尾はくれてやれ!

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<魚の頭と尻尾はくれてやれ!>
株の格言のひとつ。 
利食いを上手くこなすための相場訓。

相場の大底から大天井までを一匹の魚にたとえている。
全部食べるのではなく、頭の天井と底値の尻尾は他の投資家に食べさせて、真ん中のおいしい部分を食べるのが儲けるコツということ。
心を広く構えて、頭と尾は他の投資家にあげるくらいの余裕が利食いを上手くこなしていける。
「利食いは腹八分」「売り買いは腹八分」と同じ意味合いの相場訓だ。

株投資の王道は「企業に惚れろ!」とよく言われる。
「その企業の高い理念に賛同して、株を買うことで応援、オマケとして利益を得る。」ということなのだが、これは少数派だろう。
ほとんどは企業理念はさておき、株売買で生まれる儲けをねらっている(キャピタルゲイン)。
お釈迦様の教えから遠いところにいる人々だ(ボクも遠い)。

ボクの友人に株に一喜一憂しているヤツがいる。
負けているようだ?
その友人は、ときどき格言が口をついて出る。

ボクは今はやっていないが、ずいぶん前に株をやったことがある。
ご想像のとおり、負けた。
株取引に関する格言がいくつかある。
株価の上下で生ずる泣き笑い。金に関わる泣き笑い、下品だが面白い。
下品は面白い。

株は心理戦だ。多くの人が「うわー!めちゃんこ下がってる!恐ろしい!泣いているヤツがいるな!」と皆があきれて見放しているときにその銘柄を買わなくてはいけない。

「そんなことわかっているは!」と思うだろうが、これが出来ない。「まだ下がる!」と思うからだ。
皆と逆のことをすることは簡単ではない。だから、勝利者は少数。
株は「へそ曲がり」向きだ。

株は波のように、高くなったり安くなったりするわけだから、波の安いところで買って、高くなったところで売れば、その差が儲けになるのだが、人情として安さの頂点で買い、高さの頂点で売りたい。

ところが、その頂点がわからない。
「もうすこし上がるな、頂点はもうすこし上がったところだろう?」と予想していると、突然(そう見える)、大きく下がりはじめる。
「そうか、あれが頂点だったのか、持ち直したら売ろう」と思っていると、どんどん下がり、見かけの儲けは吹き飛んでしまう。

株は上がる時はボチボチ、下がるときは一気。
高値では、下がり始めたら皆が我先にと売って逃げ出すからだ。

逆に、「もうすこし下がったら買いだな!ムフフフ・・・」などと思っているとガクンと上がり始める。
シャクだから買い損ねてしまう。買わなくては儲けは出ない。

「魚の頭と尻尾はくれてやれ!」
「欲深いと、せっかくの大魚を逃すぞ!ほどほどに!」
ということなのだろう。

株の格言が面白いのは、株以外にも通ずるからだと思う。
株は人間の心理を読むことなのだから・・・・



<100連発!株の格言集>を参考にしました。
http://kakugen.kabumaps.com/









  1. 2012/01/31(火) 07:12:26|
  2. 格言
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北伊勢に攻め込む!(信長夜話・その38)

「堂洞砦(どうぼら)の戦」から2年後の永禄10年(1567)の春、織田信長は滝川一益を伊勢に派遣する。
伊勢の実態を調べること、各勢力に対する調略が目的だったのだとボクは思う。

前年の永禄9年、信長は河野島に出兵するも、美濃の斉藤龍興に負けている『中島文書(山梨県)』。
この段階では美濃勢の強さは顕在だったようだ。

足利義昭は織田信長(上杉謙信にも)にしきりに上洛に供奉(ぐぶ)するよう催促しているが、信長にその余裕はなく、、あきらめざるを得なかった。
義昭はシビレを切らしたのか?永禄9年(1566)9月8日、朝倉義景をたより越前に移った。

信長は永禄10年(1567)8月に北伊勢(現三重県北部)に出兵する。
美濃を攻めている最中に南西方向の北伊勢に攻め込んだのだ。信長、34歳である。
その数、数万騎といわれている(『勢州軍記・せいしゅうぐんき』)。
数万騎はオーバーだと思う。せいぜい5~6千ぐらいか?

桑名(現三重県桑名市)、楠城(現三重県三重群楠町)を攻略、高岡城(現三重県鈴鹿市)を攻撃して、この地方の土豪クラスを降参させた。
信長は8月中旬から下旬の間に帰陣、翌9月には斉藤龍興の稲葉山城攻撃に向かっている。
あわただしい(エネルギッシュ)!こういうハードな機動が可能なのは配下が信長を信頼して士気が高かったからだと思う(信長から見れば掌握していた)。

このころの北伊勢についての史料は『勢州軍記』を基本とするが、これが頼りにならないものらしい。
『勢州軍記』は江戸時代の寛永年間(50~80年後)に神戸良政(かんべよしまさ)が著した。

今回の北伊勢出兵は信頼できる『信長公記』には書かれていないが、連歌師、里村紹巴(さとむらじょうは)の『富士見道記、ふじみみちのき』にそう推測できることが書かれいてまちがいないらしい。
この里村紹巴は「本能寺の変」の前、有名な愛宕神社での明智光秀との連歌の会のメンバーだ。

この「信長夜話」では基本的に時系列で書いている。作戦別のまとめ方もあると思うが、時系列で見たほうが、信長のエネルギッシュな行動がわかりやすいようにボクは思う。

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イラストは川沿いの土手をいく尾張勢とした。実際はこんな具合に整然としたものではなかっただろう。これでは戦う前に疲れてしまう。
三々五々、ダラダラと歩いていたのだと想像する。

当時は幅の広い道はなかっただろうから、万余の大軍ともなれば、延々と隊列が続いたことだろう。
大きな集落に近づくと「2列縦隊!歩調をとれ!」と隊列を組んだのではないだろうか?威圧と威厳を表すために(江戸時代の大名行列も町などにさしかかると、あの隊列を組んだという)。

また、危険地域に入るまでは完全武装はしていなかっただろう。重い鎧を着たままではたまらない。
もしくは、各部隊がまわり持ちで武装して、奇襲に備えさせ、もし奇襲があった場合は、それらの武装した部隊に応戦させ、その間に他の部隊も武装を完了したのではないだろうか?とボクは想像しているのだが・・・。

戦国時代の戦というと、勇壮な野戦を思いうかべるだろうが、その多くは攻城戦だった。
野戦や遭遇戦は自軍にも多くの損害を出す可能性があるため、避ける傾向にあった。
例え、当面の敵に勝利しても、弱体化すると、別の敵に対抗しきれなくなったり、配下が離反する可能性が生じる。

このころの尾張衆は、遠目にもすぐわかったと言われる。鎧や馬具の金銀の金具が日の光を反射してキラキラと美しかったと聞いたことがある。
肥沃な濃尾平野を背景に、親玉の信長の積極経済もあって、尾張衆は裕福な軍隊だったのだろう。
だから弱兵だったと言う説もある。貧しい地方の兵は強いというのだ。説得力がある。


谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。







  1. 2012/01/24(火) 07:15:09|
  2. 信長夜話
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堂洞(どうぼら)の戦い(信長夜話・その37)

永禄7年(1564)織田信長は鵜沼城(うぬま)、猿喰城(さるばみ)を攻略した。
そこから10kmほど先に加治田城(現岐阜県富加町)がある。

加治田城城主、佐藤忠義は美濃の有力な国衆であったが、永禄8年(1565)7月、丹羽長秀を通じて信長に降参を申し入れてきた。
加治田城を味方とすることが出きれば信長の美濃攻略に大きな足掛かりとなる。
信長は大いに喜び、黄金50枚を佐藤忠義に贈った(気がかわらないよう、手付け金?)。

それは美濃の斉藤氏側からみれば、由々しき事態。
長井道利(道三の弟、または子と言う説がある。)が軍勢を率いて関(現岐阜県関市、刃物で有名な町)まで進み、加治田城の南の丘陵、堂洞(どうぼら、現岐阜県富加町夕田)に加治田城に対する付け城を築いた(堂洞砦)。鵜沼、猿喰城から逃げた兵も合流した。

9月28日、信長は加治田城救援のため小牧を出陣。堂洞砦を取り囲む。対する長井道利も堂洞砦の後ろ巻き(救援)として兵を移動させる。
信長は長井の軍勢に押さえの兵を置くと、堂洞砦の塀際まで攻め寄せた。

この戦には「信長公記」の筆者、太田牛一が参加している。
ここは臨場感あふれる、太田牛一の「信長公記」(現代語訳)を紹介する。

『加治田城の危機に際して信長公はすぐさま援軍をもよおし、28日、敵の堂洞を突いた。堂洞は三方が谷となって落ち込み、東の一方だけが丘続きとなった堅牢の地、この日は強風が吹いていた。

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信長公はこの状況を見て、陣を駆けめぐって「松明を用意せよ。塀際まで押し寄せ、四方より投げ入れるべし」と下知してまわった。
同じ頃、長井道利は堂洞砦から二十五町の距離まで進軍していたが、織田勢の盛んな勢いの前に足軽さえ出せなかった。

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信長公は砦を囲み、作戦通り砦内へ松明を投げ入れて二の丸を炎上させ、そこから一気に攻め寄せて本丸に取り付いた。
当時、太田又助といった拙者は、このとき二の丸の焼け残った建物の屋根にただ一人のぼり、本丸の敵を一本の無駄矢もなしに射続けた。
信長公は拙者のこの戦振りに感じて三度まで使者を下され、知行を重ねられた。』(信長公記)

「信長公記」の筆者、太田牛一が弓の使い手で活躍したことがわかる。自分の戦功も控えめであるがバッチリ書いている。

信長の時代の飛び道具というと鉄砲のイメージが強いが、実際は弓矢もかなり使用されていた。理由は
(1)射程は短いが速射が出来る。当時の鉄砲は次発まで時間がかかる。おそらく、鉄砲隊と弓隊をセットとして編成していたのではないだろうか?
(2)鉄砲に比べて安い。鉄砲は馬1頭と同じぐらいだったという。
(3)鉄砲に比べて軽い。重いものを抱えての行軍は大変だっただろう。
(4)鉄砲に比べて扱いなれていた人が多かった。
など。

信長は最前線で指揮をとっている。『「松明を用意せよ!・・・」と下知してまわった。』というところなど、現場にいないとわからない。さすが太田牛一!

『午刻よりはじまった戦もすでに酉の刻(5時)を過ぎ、薄暮にさしかかったころ、河尻与兵衛秀隆が本丸への突入に成功。
つづいて丹羽長秀の部隊も突撃したが、岸勘解由や多治見党はなお果敢に抵抗し、城中は敵味方の見分けもつかぬ混戦となった。
しかしつぎつぎと押し寄せる織田勢の前に城衆は次第に討ちとられ、大将分の侍も大方が討ち取られ、夜になって砦は落ちた。

砦の陥落後、信長公は加治田へ出て佐藤親子を引見し、その夜は息子の右近右衛門の屋敷へ泊まった。
親子はそれぞれ感涙にむせび、感謝の言葉も容易に浮かばぬ様子であった。

翌29日、信長公は山下の町で首実検をおこなったのち帰陣の支度にかかっていた。
そこへ変報が入った。稲葉山の斎藤龍興がみずから出陣、関の長井勢と合流して押し寄せてきたというのである。その数約三千。
これに対して信長公の人数はわずかに七、八百にすぎず、手負いの者も多かったので信長公は退却を決意した。

幸いにも背後は一面の広野となっており、逃れやすい地形であった。
織田勢はまず陣を固く構えて敵に備え、そのあいだに負傷者と雑人を退却させた。
そのあとで健全な武者たちが陣を払い、馬を軽々と引きまわして退いていった。
敵はまったく成果なく、残念この上ない様子であった。』(信長公記)

この堂洞の攻城戦が力攻めで激戦であったことがうかがえる。
この戦の功労者は丹羽長秀だった。調略、城攻めに活躍している。



《太田牛一(おおた ぎゅういち / うしかず、)について》

和泉守。通称は又助(またすけ)。牛一が実名か号かは諸説あり、実名を資房、信定とする説もある。
牛一の読みは、ぎゅういちとされるが、晩年、うしかずと改めたとの説がある。

1527年(大永7年)尾張国春日井郡山田荘安食村(現名古屋市北区)に生まれる。
織田家臣の柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣(右筆ではない)となる。
1564年の堂洞砦攻めのとき38歳(信長より6歳年上)。

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その後は吏僚となり、本能寺の変のときは近江の代官を務めていた。
変後は丹羽長秀に2000石をもって仕えた。
後に豊臣秀吉に召し出され、文禄2年(1593年)には大島光義と共に弓大将として肥前名護屋に在陣。
翌3年(1594年)、明使の接待をつとめ、慶長3年(1598年)の醍醐の花見では秀吉の側室三の丸殿の警護を務める。
慶長18年(1613年)3月、病死。86歳という長寿だった(関が原の戦」から13年後)。

太田牛一は、信長、秀吉、家康の時代をその目で見たことになる(おそらく実物も)。
メモ魔だったといわれている。書き溜めたメモと文才で「信長公記」を著した。

信長配下としてリアルタイムで信長の時代を生きたこと、記録として書きととどめたことなど「信長公記」は信長研究の一級資料だ。おそらく数度、信長を見たり言葉をかけられたことがあったのではないだろうか。

若いころの信長のことがわかっているのは「信長公記」があったからで太田牛一のおかげだ。
「信長公記」はこれを下敷きに書かれた信長物の元となった。

牛一の著書としては「信長公記」が最も有名だが、他に「太田和泉守記」「大かうさまくんきのうち」などがある。
弓の名手で文筆家、文武両道だったわけで、カッコイイ!そして、現代に至っても名前を挙げられてるのだから・・・

太田牛一には肖像画がみあたりません。よってイラストはボクのデッチ上げ。
こんなオジサンではなかったか?



<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html





  1. 2012/01/17(火) 07:06:05|
  2. 信長夜話
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将軍暗殺!(信長夜話・その36)

織田信長が鵜沼城(うぬま)や猿啄城(さるばみ)を攻略し、稲葉山城(現岐阜城、岐阜市内)を竹中半兵衛が乗っ取るというクーデターを起こした翌年、
永禄8年(1565)5月19日、ときの将軍、足利義輝が松永久秀らに襲殺される(永禄の変)。

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同年7月28日、義輝の弟、覚慶(後の足利義昭)は奈良を脱出、近江矢島(現滋賀県守山町矢島)に逃れる。
信長も数日後にはこの事件を知っただろう(信長は美濃攻略の真っ最中)。

世は「下克上」大流行だった。将軍廃立の実質的権限が管領、細川氏から細川氏の執事の三好氏へ移り、その三好氏も今や家老の松永久秀が実権を握っていた。
義輝は三好氏と争うが、たびたび敗れ、何度も京を逃げ出している。

建前としての権力となっていた足利将軍はそれを利用しようとする勢力に翻弄される。。
方や、将軍も近寄ってくる勢力を逆利用して足利将軍家の力を回復させようと思っていた。

色あせた幕府だが、まだ「足利将軍」の名は利用価値があった。
「尾張の織田信長」は知らなくても「足利将軍」は誰でも知っていたからだ。
京を知らない地方では妄想も働いてブランドの力はさらに大きかっただろう。

もし将軍の呼びかけに応じて大名が大軍を率いて上洛したら、その軍事力で言うことをきかぬ輩どもを成敗させ、その軍事力を背景に幕府権威を回復させ、幕府中心の政治をやる。
その褒美として大名には幕府の重要な役職を与え、天皇に頼んで位を授けてもらうというものだったのだろう。

なんのことはない、人のフンドシで相撲を取り、人のフンドシで威圧し、そのあげく、自分の家来にしてやるということなのだ。
いや、権威というものは、どんなものでもそんなものかもしれない。
ムシの良い話を権威に包んでわからなくしているのだとボクは思う(ボクは権威には懐疑的!)。

ところが、義輝が頼りにする戦国大名は自国のことで精一杯で、それどころではなかった。


室町幕府13代将軍、足利義輝は「剣豪将軍」と言われる。
永禄2年(6年前)に信長が京で謁見をゆるされたのは、この義輝だ。

義輝は父、足利義晴の病死とともに11歳で家督を相続する。
そのころに有名な剣客、塚原卜伝(ぼくでん)から新当流の手ほどきを受けたといわれる。
若くして自分の身は自分で守ろうと思っていたのかもしれない。
襲殺される前年、上泉伊勢守秀綱を京の二条第(にじょうてい)に向かえ、兵法について下問し、新陰流の剣技を演じさせている。

襲われたとき義輝は、所蔵していた名刀を何本も床に突き刺し、刃こぼれや曲がったりすると、それを引き抜いて戦ったといわれる。
義輝と近習は奮戦するも、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として義輝に同時に突きかかり、殺された。
29歳(満)だった。生母である慶寿院も殉死している。

義輝は剣術を習うぐらいだから、武士らしい将軍だった。求心力を失った幕府への権威回復にも情熱をもっていた。
しかし、一度、求心力を失った室町幕府を回復させるのは並大抵のことではない。運も含めて、よほどの傑物でもないと・・・。

義輝は将軍をあやつりたい権力(松永久秀や三好三人衆)からすれば「困った将軍」だ。
毎日を趣味三昧に生きて、楽しく過ごしていて欲しかった。
政治的情熱などもっていてはあやつりにくいのだ。

松永久秀は三好長逸、同政康、岩成友通(三好三人衆)と共謀、あやつりにくい義輝を暗殺して、三好氏に養育された足利義維の子、義栄(よしひで)を14代将軍に擁立しようと企てる(実際、義栄は14代将軍になる)。
義栄なら自分達の思うようになると考えたのだ。

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義輝の末弟の一乗院覚慶は、監視のもとに置かれていたが、幕臣、細川藤孝(後の幽斎)の計からいで奈良一乗院を脱出、近江に逃れる。
南近江の六角承禎をたよるが思うようにならず、その後、越前の朝倉義景をたよった(これも結局は、義昭の望んだようにはならなかった)。

この覚慶こそ、最期の室町将軍、15代、足利義昭(このころは還俗して義秋)だ。
この後、義昭は信長に将軍に擁立されるのだが、その後反発。信長包囲網の要(かなめ)的存在になる。

信長に敵対した勢力のなかで、「打倒信長」にもっとも強い執念を燃やした男だ。
ただ、この時点では義昭は自分の身の安全を確保するので精一杯だった・・・。






  1. 2012/01/10(火) 07:00:37|
  2. 信長夜話
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アブラカダブラ!

平成24年 明けましておめでとうございます。
どうか、今年が良い年にあなりますように・・・




何時のことからか、ボクは「言霊・ことだま」を信じるようになった。
「言葉には力(霊的な力とも)がある。」という考え方だ。

「むかつく!」「ぶち切れそう!」「うぜえ!」などと汚い言葉を声に出して言うと。
その場の気が汚れ、耳から入ってくるその音に言った本人さえも影響を受け、心が荒れる。そんな経験は誰にもあるだろう。
そして、当然ながら、その逆の良質な効果をもたらす言葉もある。

古いハリウッド映画を見ると手品師が唱える呪文は決まって「アブラカダブラ」だった。
そこで「アブラカダブラ」を調べてみた。

abracadabra32.jpg

「アブラカダブラ」という呪文には、幸運を呼ぶ力があり、幸せになりたい人は繰り返し書くとよいとされている。
まず「ABRACADABRA」と書き、その下に左右の文字を一文字ずつ省いて「BRACADABR」と書き、同様にその下に「RACADAB」と書き・・と繰り返していくと逆三角形になる(イラストのように)。

それをお守りとして首に巻くと、幸運を引き寄せ、病気も治ると信じられていた。

やがて、書くものから唱えるものへと移り変わり、手品師が箱の中から半裸の美女を蘇えらせるときに唱えるようになったというわけだ。

この言葉は、2世紀に、キリスト教の異端とされたグノーシス派の医者、セレヌス・サモニセスが初めて使った伝えられ、語源はヘブライ語、あるいはエジプト語という説がある。


<今日のオマケ>

ボクは以前に、空間を清浄にして、良質な気を招く言葉として
『法華経の「南無妙法蓮華経・なむみょうほうれんげきょう」と「アヴェ・マリア ・Ave Maria」もそうなのよ!』と聞いたことがある。
『解りやすく言うと、南無妙法蓮華経を1回唱えると¥5儲かると思えばいいのよ!』と、その人は欲深いボクに解説してくれた。

ちなみに「アヴェ・マリア 」はラテン語で「おめでとうマリア」の意味だそうだ。
ボクは「南無妙法蓮華経」に引かれる。



『風水で運が良くなる方法」
http://topinori.blog.shinobi.jp/
を参考にしました。



<訂正>
イラスト内の「ABRACADABRA」の文字列の下から2列目と3列目を間違えてしまいました。スミマセン。










  1. 2012/01/03(火) 07:37:59|
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