ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

稲葉山を落とす!(信長夜話・その40)

永禄10年8月、織田信長は北伊勢(現三重県北部)に出陣して土豪たちを降参させた。

そんなおりもおり、美濃三人衆から、「斎藤氏を見限って信長の味方になる。人質を受け取りに来て欲しい。」との連絡が信長のもとに届いた。
北伊勢の陣中に届いたのだろう。
美濃三人衆とは、安藤守就(もりなり)、氏家直元、稲葉良通(一鉄)の三人。美濃の有力国衆だ。

信長は吏僚の村井貞勝と島田秀順(ひでより)を人質の受け取りに派遣する。
そして信長は、まだ人質が到着しないのに稲葉山城(現岐阜城)攻撃に出陣した。

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<稲葉山城攻囲中の織田信長とした。甲冑はボクの想像だ。背景は永禄銭の軍旗>



稲葉山の尾根続きの瑞龍寺山(ずいりょうじやま)を占領。
美濃の人たちが「あれは敵か味方か?」と慌てふためく中を放火してまわり(一般市民は大迷惑だったろう)、あっというまに城を裸城にしてしまった。
翌日、四方に鹿垣を作って城を包囲した。

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<稲葉山城攻囲中の織田軍>



そんな中、美濃三人衆も来着したが、信長のあまりの素早さに舌をまいたという。
「このように信長公は何事につけ神速極まる下知をされる御方であった。」(信長公記)
「役者が違う!」という感じがする。信長の面目躍如だ。

9月にはいり、ついに龍興は城をすて、長良川を船で逃れる。
このとき、斉藤龍興19歳、信長34歳。
こうして信長は稲葉山城(岐阜城)を攻め落として美濃を手中におさめた。

美濃攻略戦に約7年をついやした。
信長は稲葉山城を「岐阜城」に、井口(いのくち・岐阜の当時の地名)も岐阜と改める。
美濃勢が信長の配下に組み入れられたことで、その戦力は倍になったのではないだろうか。


《斉藤龍興(たつおき)について》

天文17年(1548年)、斎藤義龍の庶子として生まれるとされる。
すなわち、信長の舅、斉藤道三の孫にあたる。

龍興の父・斉藤義龍は織田信長と一進一退のつばぜり合いを演じた。
岩倉織田氏の信長への反抗も、後ろに義龍がいたとされている。信長にとっては強敵だった。
その義龍が永禄4年(1561年)、急死する。龍興は13歳で家督を継いだ。

龍興は信長の侵攻に対抗するため、北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとするが、信長に機先を制され、浅井長政は信長と同盟を結んだ。
逆に浅井長政までもが美濃に侵攻する気配をみせる。

侵略してくる信長と戦い、永禄6年(1563年)の「新加納の戦い」や、永禄9年(1566年)の「河野島の戦い」など戦術的に勝った戦もあったが、戦略的には押されっぱなしだった。
永禄8年(1565年)東美濃の「加治田、堂洞城の戦い」では関城主であり大叔父の長井道利も破れ、弱体化する。

永禄10年(1567年)9月、信長に稲葉山城を攻められ、龍興は城を捨て長良川の河口、長島へ逃れる。
このとき龍興19歳。

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<斉藤龍興は肖像画が見当たらない。イラストは馬上の斉藤龍興。胸に十字架を下げているところとした。暗愚なイメージではなく。美濃を追われたが、誇り高い龍興とした>



稲葉山城を逃れた龍興は、長井道利と共に長島一向一揆に参加。
やがて畿内へ移り、永禄13年(1570年)1月には三好三人衆と結託して、信長が擁立した将軍・足利義昭を攻め殺そうとするが、敗退(本圀寺の変、六条合戦)。

更に同年8月には、三好康長・安宅信康・十河存保と共に三好三人衆の篭城を支援し、石山本願寺法主・顕如の合流により、信長を敗走させた(野田城・福島城の戦い)。
きっと、龍興は溜飲をさげただろう。

その後、縁戚関係にあったことから越前国の朝倉義景のもとへ移り、客分として仕えたとされる。
天正元年(1573年)8月、義景が信長と対決するために近江国に出陣すると、これに従軍した。
朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰坂(とねざか)で追撃を受けた際、戦死した(刀禰坂の戦)。
かつての重臣であった氏家直元の嫡男・氏家直昌に斬られたという説がある。享年26(若い)。

龍興は畿内在住時、キリシタンを目指した。
ルイス・フロイス(上質な史料とされる『日本史』の著者)からキリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると、聴いた事を書き留め、次に教会へ姿を現した時にはその総べてを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来た。
教会の信者達はとても驚いたという。

ガスパル・ヴィレラに対して
「人間がデウスによって祝福され、万物の霊長であると保障されていると師は言う。
ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか?
万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか?
こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか?」
と質問した。(現代でも抱く疑問だ。)

ヴィレラは龍興の疑問に対し、その総べてに納得がいく様な道理を上げて説明したと記録されている(その説明を聴いてみたいものだ)。
ルイス・フロイスは彼の著した『日本史』のなかで龍興について、「非常に有能で思慮深い。」と記録している。

いかがでしょうか?
現代では、斉藤龍興は人気がない。暗愚な戦国大名というイメージがあるが、すこし違うような気がする。
キリシタンだから贔屓目に見ているのではない。ボクにはキリスト教はシックリこない。
(日本ではキリシタンへの良いイメージの偏見があるとボクは思っている。)

彼はそれなりによくやったのではないのか(暗愚でなくても、負けるときは負ける)?
戦術的であるにしろ、龍興はいくつかの戦で、今や経験豊かな、30代前半の信長に勝利している。
稲葉山城脱出後も死ぬまで反信長を貫いた。
ただ、運のない人だった(バッサリと)。

13歳で唐突に家督相続をした斉藤龍興。当然ながら、重臣たちが補佐する形となっただろう。
重臣の中には新しく幼い主人の能力を注意深く観察したものがいただろう。いや、ほとんどの重臣がそうだっただろう。
中には耳ざわりの良いことを言って接近するものもいただろう。
龍興と信長を天秤にかけていたものもいたろう。
実際、信長からの調略が功を奏して、信長に通じるものが続出した。

龍興は家臣団の掌握に手こずっているあいだに信長に押しつぶされてしまった。
信長とて、家督を相続してから尾張を掌握するまでには手こずったのだ。

「いや、戦国大名の多くは龍興に限らず、似たりよったりの境遇だったのではないのか?」と言われそうだ。ごもっとも。そうなるとやっぱり龍興の力の無さもあったということになるのかな?









  1. 2012/02/28(火) 07:35:53|
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お市の結婚(信長夜話・その39)

北近江の浅井長政と信長の妹(異説あり)、お市との結婚。

織田信長のドラマでは必ず登場するお市だが、
北近江の浅井長政との結婚が何時行われたのか?いくつもの説がある。

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現在、もっとも有力なのは永禄11年(1568)4月頃とする説。
このころの信長は稲葉山城を攻め落とし、美濃を掌握、足利義昭を岐阜(井口の名を岐阜と改めた。)に招く手筈を整えていたころだ。
義昭を供奉して上洛する通り道を確保するため、織田信長はお市を浅井長政に嫁がせ、同盟を結んだ。という解釈。

その根拠として『堀部文書』『古文書纂』や、『福田寺文書』に、浅井長政とお市との結婚に関する記述がみえるという。
お市21歳、長政23歳(当時の結婚年齢としては遅すぎるように思う?)。

もっと前、永禄4年(1561)4月25日から6月20日までのあいだだったのでは?という説もある。
その根拠は、浅井長政の改名だ。
永禄4年(1561)4月25日付で竹生島の年行事御坊中に宛てた書簡には「備前守 賢政」だったのが、同年6月20日付で垣見助左衛門尉に宛てた書簡には「浅井備前守 長政」に改名している。
これはまさしく、結婚を機会に同盟を結び、信長から「長」の字の偏諱を賜わったのではないのか?との解釈だ。

永禄4年といえば、信長は清洲を本拠として、森部、軽海、十四条などで美濃勢と一進一退の戦いをしていたころだ。
ボクは稲葉山攻略前か?後か?とすれば、前だったと思っている。

永禄4年(1561)の5月に強敵だった美濃の斉藤義龍が急死するが、信長は美濃攻略の遠交近攻策として、美濃の西方の浅井長政との同盟を望んだのだと思う。

また、2年前の永禄2年、信長は少人数で上洛、13代室町将軍、足利義輝に謁見している。
信長は上洛を考えていたのではないだろうか?
もし、そうだとすれば、尾張→美濃(斎藤氏)→北近江(浅井氏)→南近江(六角氏)→京 という湖東ルートの確保は信長でなくとも考える。

信長にとって、お市の結婚は、美濃攻めと上洛との一石二鳥の価値があったのだと思う。
この婚礼が決まったとき、費用のほとんどを織田家がもったといわれている(当時のしきたりは花婿側がもつ)。
信長は徳川家康との同盟で東を、浅井長政との同盟で西をめざしたのではないだろうか?
家康と長政を両輪と考えていた。


《お市について》
天文16年(1547年)? - 天正11年4月24日(1583年6月14日)
市姫とも小谷の方(おだにのかた)とも称される。また、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。

父は織田信秀、母は側室または正室(継室)の土田御前。信長を嫌ったという説のある母だ。
織田信長は実の兄といわれている。姉にお犬の方がいる。

もし永禄4年(1561)結婚説が本当なら、お市は14歳(天文16年生まれとすると)、
浅井長政16歳ということになる。

普通、お姫様などときくと、みんな美人を連想してしまうが、皆が皆、美人であったということはないだろう。
一般?と同じ割合で美醜があったと思う。
ただ、着ているものが上等であったり、化粧をして、香などたいて、良い匂いをさせていたから、汗臭さい下賤のものからは美しく見えたかもしれない。

そのなかで、美形の家系といわれる織田家、お市は美人だった。
「戦国一の美女」といわれたとも、

戦国時代の女性の名前は史料に残されている人は少ない。
残されていても、「○△の室(正室のこと)」とか「□○の娘」など、名前が書かれてないことが多い。

お市には有名な肖像画(高野山持明院蔵)が残っている。
戦国期の女性の肖像画として出色の肖像画だ。淀殿(お市の長女、茶々)が七回忌の法要に画かせたといいわれる。
名前すら後世まで残った女性は少ないのに、肖像画があるとは、掛け値なしの美しい姫だったのでは。
お市は存在感があり別格だったのだろう。

当時の肖像画は決まりごとがあって、これが実物と似ているかどうか疑問だが、お市の美しさを画きとめたいという絵師の情熱は伝わってくる。

お市は背が高く、同じく背の高い浅井長政(182cmとも)と並ぶと堂々たる夫婦だっただろう。
二人は仲が良かったといわれている。
長政との間に二男三女をもうけた。三女とは「茶々」「初」「江」だ。

この娘たちが、その後の時代に影響を与えたことは、ご存知のとおり。
夫君の浅井長政は消極的な父、久政とちがって、戦国大名として優秀であったらしく、家臣団からの支持を得ていたという。

長政は肖像画をみるかぎり、太っていて、ぽっちゃりしていて、言ってみれば、大福(餅菓子の)のような感じがする。
ヒイキ目に見て、現横綱「白鵬」に似ているかな?
肖像画の出来はお市のそれに及ばない。絵としての格が違う。

お市は美貌ばかりでなく、利発で腹が座った人だったといわれている(「市が男だったら良き武将になったであろう」と信長が言ったとも)から、夫君の美醜などどうでもよかったのかな?
「男はここよ!」と胸に手を当てたかもしれない。
浅井長政については、また書くつもりをしている。

顔だちで、ボクがお市のキャスティングをするなら、北川景子かな?

天正11年(1583年)、二人目の夫の柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ、勝家と共に越前北ノ庄城内(現福井県福井城)で自害した。享年37。
悲劇の最期だったわけだが、戦国一の美女の最期にふさわしい。
「美貌のお姫様に生まれ、良縁に恵まれ、順風満帆の人生だった。」ということでは、これだけの人気はなかっただろう。
美しさと悲劇はセットになっていなければならないのだ。



《歴史~とはずがたり~》を参考にしました。
http://sans-culotte.seesaa.net/








  1. 2012/02/21(火) 06:58:59|
  2. 信長夜話
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銀行の通帳(ジョーク?)

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「貴方がこれまでに、一番影響を受けた本はなんですか?」
「銀行の通帳だね。」
バーナード・ショウはそう答えた(ウマイ!)。
阿刀田高著『詭弁の話術』角川文庫¥460(税別)のなかで紹介されていた。

そういえばいたなあ、バーナード・ショウ。
以前は、バーナード・ショウの名前をときどき耳にしたが、最近はほとんどきかなくなった。

誰かにそう訊かれて、即座に「銀行の通帳だね。」と答えるのはムズカシイ。
皮肉屋のショウらしい。
実は、ボク自身も皮肉屋だが、こうはいかない。
『影響を受けた本か?デール・カーネギーの「道は開ける」かな?芥川のあれかな?いや、それとも・・・』などと真面目に考えてしまう(ボクは芥川龍之介が好き)。

だいたい、日本人は真面目だ。ウイットのある話は得意ではない。
こういうのはイギリス人がウマイようにボクは思う。

こういう返答が出来るのは、世間をいつも皮肉っぽく見ているからだろう。皮肉、滑稽をさがしてニヤリと笑いたいのだと思う(楽しみは多いほうが良い)。
西洋にはジョークの習慣?があるからね。

銀行の通帳を見て、目が輝くか、眉間にシワがよるかは人それぞれだ。
ボクの場合、目が輝いたときもあったが、それはとてもとてもとても短いものだった(無念!)。
ほとんどは眉間にシワだ。じっと手を見る!


《バーナード・ショウについて》

ジョージ・バーナード・ショウ(George Bernard Shaw, 1856年7月26日 ~1950年11月2日)は、イギリスで19世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家。
風刺のきいた社会性のある戯曲を数多く残す。
あのミュージカル『マイ・フェア・レディ』はショウの戯曲『ピグマリオン』(Pygmalion)(1913年初演)が原作だ。

イギリスの代表的知識人として、劇作、批評、政治などで幅広く発言。社会主義者、菜食主義者、皮肉屋でもある。イギリス労働党のバックボーンとなったフィビアン協会の発展に尽力したことでも知られる。


今回はジョークのカテゴリーとしたが、ジョークなのか?名言なのか?
ジョークも名言も格言もその境はあいまいだろう。

ショウの似顔絵は比較的、楽だ。長い顔、大きな髭でそれらしくなる。







  1. 2012/02/14(火) 06:59:50|
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チャッチャッチャ、チャッカリッサン

多部未華子 主演?の日産マーチのテレビCMに引かれる。
パリの街を、ガマ口の口金型ティアラをしてマーチに乗る、あのCMだ。
とくに「チャッチャッチャ、チャッカリッサン・・・」と、リズミカルにつぶやくように歌うテーマソングに引きつけられる。

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調べてみると、「カヒミ・カリイ」という女性歌手だった。
本名は比企真理(ひき まり)。アルファベットを並べ替えたのが芸名らしい。
ウイスパーボイスが持ち味だという。

イラストは似顔絵にした。唄はカワイイ系だが、美人系だね。目力を感じる。目力の女(ひと)。

普段、テレビを見ていると、ビックリさせるような演出や音、刺激的な映像と騒々しいBGM。
「歌い上げる」唄や「怒鳴っている」ような唄。
「オレ(私)の唄を聴いてくれーっ!」「テレビを見てくれーっ!」と叫んでいるようだ。
「見て(聞いて)もらってナンボ」の世界だから、刺激的になるのは必然ではあるが、ちょっと食傷ぎみ。

ボクはテレビが好きで。よく見るが、バラエティーなど見ていると、出演者の大げさなリアクションがはなにつくことがよくある。
古いアメリカのテレビのコメディドラマには、笑い声が挿入されていた。
編集で挿入したのだろう。
それが、とても違和感があって、邪魔だった。

ボクは自然がイチバンと思っているが、出演者が自然体でやると、静かなものになってしまうのだろう。
演出として、にぎやかな雰囲気を作ることはしかたがないと思うが、やりすぎは結局、はなにつく。

刺激の強いものばかりにさらされていると、サッパリしたものや、ヤンワリしたものがウレシイ。
低刺激の唄もそういう逆刺激アプローチなのかもしれない。

フランスのポップ歌手、クレモンティーヌが日本のアニメソングを歌っている。
「ゲゲゲの鬼太郎」「宇宙戦艦ヤマト」などのテーマをささやくように歌っている。
ちょっととぼけた、ユーモラスな感じがする。

ボサノバの小野リサや、最近、アメリカなどで人気の由紀さおり、もその線上にあるように思うのだが・・・。







  1. 2012/02/07(火) 07:02:45|
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