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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

天下布武(信長夜話・その41)

永禄10年(1567年)9月、織田信長は稲葉山城を攻略した。
稲葉山城と井口(いのくち)をそれぞれ岐阜城、岐阜と改め、小牧山から岐阜に移る。

同年11月、信長に対して、正親町天皇(おうぎまち)から綸旨が下される。
「今度国々、本意に属すの由、武勇の長上 天道に感応す、古今無双の名将、いよいよこれ乗り勝つられべく条・・・」
「尾張・美濃の平定はめでたいことだ。天も感応する古今無双の名将である。はやく京に上って来て朝廷を助けるように・・・」という内容。

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天皇から「天道に感応する古今無双の名将」と褒められた、この時から信長は「天下布武」の印判を使用し始める。
一般的には、「天下布武」とは「武力で日本全国を制覇する」と解釈されているが、「武」は「武力」ではなくて、「七徳の武」のことだそうだ。
「武の七つの徳を備えた者が天下を治めるにふさわしい」ということ。「春秋左氏伝」が出典。

天下とは、日本全土という意味ではなく、もっと大きな、世の中という意味。
信長は「天に任されて世の中に武を布くのは自分だ。徳を以て世を治める」と豪語したのだ。

「七徳の武」とは、「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」という七つの徳を持つものである、とされている。

こういったカッコイイ文句を刻ませた印を用いた例は信長だけではない。
北条氏綱の「禄寿応隠・ろくじゅおうおん」、今川義元の「如律令・にょりつりょう」、
徳川家康の「福寿・ふくじゅ」、上杉謙信の「摩利支天・まりしてん」や「飯綱明神・いづなみょうじん」、織田信雄の「威加海内・いかかいだい」、などなど。

当時、印を用いるのが戦国大名の流行だったのかもしれない?

「天下布武」の印は、元亀元年(1570年)に、輪郭を二重にして下部を切った馬蹄型の物にかわり、さらに、天正4年(1576年)に、信長が右大臣に任ぜられた折には、昇り龍二匹が天下布武の文字を囲んだ印につくりかえられた。

『いずれも一見して奇態な印文配置。印鑑をつくりかえたのと時をほぼ同じくして、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が信長の未来を予言している。奇怪な印が信長の晩年の逆運を呼んだと思われる。』とは印相判断の解釈(結果を知ったうえでの解釈だからなあ・・・)。
そうすると、みやげ物などに「天下布武」の印を模したものがあるが、よろこんで身近に置いてはいけないことになる。

「岐阜」という地名は沢彦宋恩(たくげんそうおん。政秀寺)が、「岐山から起こって天下を平定した周の文王」の故事にならって命名した(異説あり)。
「天下布武」の四文字も沢彦が贈ったもので、信長は自分の理想に合う言葉であるといって喜んだそうだ。

信長の周囲には沢彦のような中国古典籍に造詣が深い人物がいたのだ。当然、武の意味も信長は知っていたはずだ。
このことを見ると「信長はほとんどまわりの意見を聞かず、すべて自分の裁量で決めた。」といわれているが、本当だろうか?疑っている。

信長は「天」にこだわりを持っていたといわれる。
「天下の儀、何様も信長に任せられ置くの上は・・・」「天下の御静謐の条・・・」など、信長の文書中には「天下」の文字が多く見られる。
また安土城の「天主」(天下の主)や、信長が改元させた元号の「天正」(天下を正す)など、「天」を常に意識していたようだ。


イラストは「天下布武」の印にハーッハーッしている信長。
「信長はお前のようにハーッハーッはせえへんよ!」
ごもっとも、失礼しました。




<織田信長について>を参考にしました。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/nobunaga.htm

鈴木眞哉著<戦国武将のゴシップ記事>PHP新書¥700(税別)を参考にしました。







  1. 2012/03/06(火) 07:07:34|
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