ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

信長の剣(信長夜話・その45)

織田信長は職人や芸能者の第一人者に「天下一」という称号を許し、税免除などの特権を与えた。
大工、石工、陶器作り、畳職人にも与えている。
職人や工芸や芸術を評価して社会に認めさせた。

信長は茶道に強くひかれていたことはよく知られているが、刀にも興味があったと思われる。
自分の好みでもあったが、褒美の品として、また贈り物として幾振りもの刀を信長は所蔵していたのだろう。

名刀には、物語や伝説がつきものだ。伝説も刀の価値の一部だ。
織田信長が所有した幾振りかの刀について調べてみた。


童子切安綱(どうじぎりやすつな )

平安時代の大原安綱の傑作。天下五剣(室町時代頃より特に名刀といわれた5振の名刀のこと)のひとつ。
伝説の鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を切って退治したときの刀ということから、この名前が付いた。

江戸時代に、6人の罪人の死体を積み重ねて切断、さらに刃が土台まで届くほどのすさまじい切れ味だったと伝えられている。
織田信長が所蔵した後、秀吉、家康と時の権力者の手に渡った。
現在は国宝として東京国立博物館に眠る。

話はすこしそれるが、酒呑童子(しゅてんどうじ)という名前が実にいいね!
声にだして言ってみるともっと良い!
酒呑童子伝説はいくつもあるが、ボクの好きな伝説を書く。

酒呑童子は少年のころメチャクチャに美しかったという。
言い寄る女がゴマンといたが、すべてをすげなく断った。

想いを遂げられずに悲しんで死んだ多くの女たちの恨みによって、酒呑童子は醜い姿の鬼になってしまう(女の恨みは怖ろしい)。
送られた恋文を燃やしたときの煙にまかれて鬼になったのだという。

酒呑童子は、その醜い姿を隠すように各地を点々とした後、大江山に住みついた。
(なまじ美しかったからなあ・・・)
大江山は丹後半島の付け根にある連山の名前だ。
当時は京からはるかに遠く、山深いところだった。

時を経て、酒呑童子は巨大で奇怪な鬼になり、多くの鬼の手下を従えるようになっていた。

酒呑童子は手下の鬼たちを引き連れ、夜な夜な京に現れて、お姫様やカワイイ娘を大江山に拉致した。
もてあそんで飽きると、切り刻んで喰ってしまった(なんということを・・・!鬼畜!)。

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《武士が台頭しはじめた平安末期は、大鎧(おおよろい)の時代だった。信長の時代に対鉄砲に開発されたという「当世具足」に比べると、工芸的華やかさはあるが、ムダが多いように思う。》


酒呑童子を退治するため、源頼光、渡辺綱が率いる屈強の武士たちが都で編成された。
一行は首尾よく酒呑童子の館にたどりつき、毒酒を飲ませ、動けなくなった酒呑童子の首を上げた。

斬られた瞬間、酒呑童子の首は宙を飛び、源頼光の兜にガッと噛みついたという。(恐ろしい!面白い!)
その刀が、童子切安綱なのだ(長くなったが、ボクは酒呑童子伝説ファンだからご容赦)。

信長もこの話を知っていただろう。「これが、酒呑童子の首をはねた童子切安綱か・・・」と見入ったにちがいない。

酒呑童子伝説はボクが子供のころにきいた物語のなかでもっとも刺激的な話だった。
酒呑童子を打つために編成された部隊?のなかに坂田金時(幼名、金太郎)がいることもボクには興味深かった。

酒呑童子は一説には漂着した西洋人ではなかったか?とも言われている。


鬼丸国綱(おにまるくにつな)

鎌倉時代初期、山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。

「鬼丸」という号の由来は太平記にある。
それによると、北条時政が夜な夜な、夢の中に現れる小鬼に苦しめられていた。

ある夜、時政の夢の中に老翁が現れ、「自分は太刀の国綱である。汚れた人の手に握られたため錆びてしまい鞘から抜け出せない、早く小鬼を退治したければ自分の錆を拭い去ってくれ」と言った。

早速、国綱を手入れし部屋に立てかけておいたところ、国綱が倒れかかって、火鉢の台の飾りの銀製の鬼の首を切り落としたという。
それ以来、時政の夢に小鬼が現れることはなくなった。
この事件によりこの太刀を「鬼丸」と命名したといわれている。

以来北条家の宝であったが、北条高時自刃の後に新田義貞の手に渡り、その義貞が討ち取られた際に鬼丸も、足利尊氏のもとへ義貞の首級と併せて送られた。
以後足利家の宝として伝来し、後に足利義昭より織田信長へ贈られた。

その後、信長から豊臣秀吉へ。秀吉から本阿弥光徳に預けられた。
さらに大坂の役の後に徳川家のものとなったが、徳川家康・徳川秀忠共にそのまま本阿弥家に預けたという。

明治になり、徳川家からも皇室からも所有権について明示がなされないことに困惑した本阿弥家が、新政府に届け出て、明治14年(1881年)に「後水尾天皇に献上されたものを徳川幕府を通じて本阿弥家に預けていたものである」として明治天皇の元に取り寄せられた。
現在は御物として皇室の所蔵となっている。

なお、「天下五剣」のうち鬼丸国綱だけは「御物」であるために国宝及び重要文化財としての文化財指定を受けていない。
歴史の大物たちの手を転々としたのだ。


大般若長光(だいはんにゃながみつ )

備前長船派(おさふねは)の刀工、長光(ながみつ)の代表作。
室町時代に他に類をみない銭六百貫という代付(だいづけ)がなされたために、大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻にかけて、この名がついた。

足利十三代将軍足利義輝から重臣三好長慶に下賜され、やがて織田信長の手に渡った。
姉川の戦いの功により信長から徳川家康へ、家康は「長篠の戦い」の戦功として奥平信昌(のぶまさ)に与えた。

その後は、信昌の末子で家康の養子にもなった松平忠明が所持し、そのまま忠明の家系、武蔵国忍藩が所蔵したまま、明治を迎えた。

大正時代、同家から売り立てに出されたものを愛刀家の伊東巳代治(みよじ)伯爵が買い受けて愛蔵した。
関東大震災の際には蔵が倒壊、刀身が曲がるという被害を受けたが修復され、以後も伊東伯爵家によって所蔵された。

伊東伯爵の死後、1939年(昭和14年)に旧帝室博物館(現東京国立博物館)に買い上げられることとなり、その際に提示された買上価格、6万円(当時の)はそのあまりの高額に世間の話題となった。
1941年(昭和16年)、遺族からに正式に帝室博物館に譲渡され、戦後も引き続き東京国立博物館で所蔵されている。

ボクはこの刀のことを初めて知ったとき、「大般若」というぐらいだから、刀のどこかに般若の彫り物がされているのだろうと思った。まちがいだった。


宗三左文字(そうさんさもんじ)

三好政長(宗三)が武田信虎(信玄の父)に贈呈した刀。
のちに今川義元の佩刀となったので「義元左文字」ともいわれる。
今川義元は、この刀を愛刀として大切にしていたという。

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永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」において、義元を敗死させた織田信長が戦利品としてこの刀を取得し、「本能寺の変」まで信長の手元にあった。
その後は豊臣秀吉の手に、秀吉死去後は、その子の豊臣秀頼に、さらに、秀頼から徳川家康の手に渡った。
これ以降、徳川将軍家に代々受け継がれていったため、この刀は常に天下を狙う者の手にある運命にあると言われる。

今川義元は「桶狭間の戦」のとき、 宗三左文字を手元に置いていたと思われる。
義元の首級を上げたと言われる毛利新介が戦場にいる信長(信長軍は残敵掃討戦に入っていただろう)のもとに「義元公の 宗三左文字でござる。」と届ける。
信長は鞘を払って刀身を眺め、「どうだ!勝ったぞ!この信長をなめてはいかんぜよ?」と思ったのではないだろうか。


圧し切り長谷部(へしきりはせべ )

信長は、あるとき無礼を働いた観内という名の茶坊主を切り捨てようとした。
観内は恐れをなして、膳棚の下に隠れる。

ところが信長はそのまま膳棚ごと観内を切り捨ててしまう。
このときの刀が長谷部国重だ。
その切れ味の凄さに「圧し切長谷部」の名がついたという。

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その後、この刀は黒田家に贈られた。
黒田官兵衛(如水)は信長を裏切った荒木村重に捕らえられ、
何年も牢獄に閉じ込められていたことがある。

それでも官兵衛は信長を裏切ることはなかった。
「圧し切り長谷部 」はその功を謝して信長から官兵衛に贈られたという。
現在は国宝に指定されている。

信長の所持したことのある刀が今でもあるのだ。なにかの機会に公開展示されることもある。
時間をやりくりして、実物を見てみたい。その刀にまつわる物語やイワレとともにガラス越の刀を見てみたい。


生駒光忠(いこまみつただ)

織田信長の愛刀の1つ。備前長船光忠の作。

備前国は刀剣の産地として名高く、長船派は現在の岡山県瀬戸内市長船町に居住した一派で、多くの著名刀工を輩出、光忠は一派の実質的な祖とされる。

信長は華やかな光忠の作を特に好み、20 数振りを集めた(一説には30数振り)。
中でも三好義賢が戦死時に帯びていた「実休光忠」に執着し、集めた光忠の中から、義賢と交流のあった堺の商人に鑑定させ、愛蔵したが、「本能寺の変」で焼失した。


ボクは本物の日本刀にはさわったこともない。
聞いた話だが、竹を芯に藁をかたく巻いたもの(人体を斬ったときに近いといわれている)を切ったときのこと、適切な角度で獲物を斬ると、ほとんど抵抗を感じることなく切れてしまうという。

今回とりあげた国宝級の刀より低級と思われる刀でも鳥肌ものの切れ味があるのだから、
信長が「圧し切り長谷部」で棚ごと茶坊主を切り捨てたという伝説も、ありうる話かもしれないい。

今や見ることも触ることも日常ではめったにない日本刀は、その切れ味について、いろいろ想像をかきたてられるが、おそらく世界の刀剣のなかで別格の切れ味だと思われる。

剣と刀のちがいは、剣が直刀で、刀はそりがあって、片側に刃のあるものといわれる。
ただ、今回のタイトル「信長の剣(つるぎ)」としたのは「信長の刀(かたな)」より語感が良いのでそうした。
小説「燃えよ剣」「剣客商売」・・・というタイトルがあるのだから、現在では剣と刀のちがいがあいまいのような気もするが。














  1. 2012/04/24(火) 07:20:24|
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いつ出会ったのか?(信長夜話・その44)

永禄11年(1568年)7月25日、織田信長は越前から足利義昭を岐阜に招いた。上洛の準備が出来たのだ。
このとき、義昭に付き従った光秀が細川藤孝の紹介で信長と対面した。と言われているが、それでは唐突な感じがする。

織田信長と明智光秀の出会いはいつ頃だったのだろう?

信長が稲葉山城を攻め落としたのが永禄10年(1567)9月。翌11年7月25日に足利義昭が岐阜に到着する。素直にみれば、この間ではなかったか?

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足利義昭からの使者として、細川藤孝(元総理大臣の細川護煕氏はその子孫だったはずだ)とともに、数度、信長に会っていたのではないだろうか?
信長には将軍という権力を利用したい思いがあっただろうから、「義昭様を供奉して上洛してほしい」という催促を伝えにくる光秀を好意的にみていただろう。

きけば、光秀は公家や文化人とも交流があり、公家のしきたりや公家の言葉にも通じているという。
また、「十兵衛(光秀の通称)殿は種子島(鉄砲)の扱いに長けていると聞き及んでおりまする。」と信長に紹介した者がいたのかもしれない。

信長は人材登用に積極的だった(登用せざるをえなかった)。織田家は膨張していた。
上洛がせまっているこのころ、対朝廷、対公家工作ができる武士が必要だと信長は思っていただろう。
「この男は使える」と光秀の能力が魅力的にみえた。
そして信長は光秀のなかに自分と似たものを感じたのかもしれない。

では、光秀は信長をどう見たのだろうか?

当時の主君である朝倉義景(光秀は義景から足利義昭につけられた。)と信長を比べただろう。
足利義昭は一乗谷(朝倉氏の本拠地、義昭は朝倉氏に身をよせていた)で幾度も朝倉義景に上洛を促したが、義景の答えは煮え切らない。

一向一揆にたいする不安で動くことが出来なかったといわれている。
一説には、歳の若い側室(小少将もしくは諏訪殿と呼ばれた)にメロメロで、その側室のいいなりだったとも(女はこわい)。

一方、信長は形ばかりの挨拶を嫌い、すぐに用向きを伝えることを好んだ。
だれに相談をすることもなく、決断、指図した。
光秀は目を見張った。時代を背負う人間のオーラを感じた。

「上様は登用のさい、出自などは気にかけておられない」と内々にきいていたかもしれない。
目的達成のためには常識やしきたりなど意に介さない信長に「驚き、恐れ、強さ、速さ、懐疑、爽快感、自分に似た合理性・・・」を光秀は感じた。「この男はただ者ではない」と・・・。

「自分の教養と才覚をもってすれば、もっと重く用いられてしかるべきだ!」という不満をもっていた光秀は信長に希望を見たのではなかったか?


明智光秀の生年は、『明智軍記』の享禄元年(1528年)説、『綿考輯録』の大永6年(1526年)説、また『当代記』の永正12年(1515年)説などいくつかある。
また、出身地は現岐阜県可児市明智の明智城、同県山県市美山という2つの説が有力とされている。

父は明智光綱といわれているが、確かなことはわかっていない。
30代以前の光秀のことはほとんどわかっていない。
越前の朝倉義景に仕えたあたりから歴史に登場する。

『当代記』の永正12年(1515年)生年説をとれば、信長より19歳も年上になる。
『明智軍記』の享禄元年(1528年)説なら6歳年上になる。ボクは、この程度の歳の差だったろうと思っている(なんの根拠もないが)。
ただし、『明智軍記』はたよりになる資料ではない。

よって、出会いの時、信長34歳、光秀40歳ではなかったか?

明智光秀については、この後も何度か書くつもりだ。今回は信長との出会いのころとした。


《明智光秀の肖像画のこと》

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現大阪府岸和田市の本徳寺所蔵の肖像画が有名だ。というより、ボクはこれ以外の光秀の肖像画を知らない。

これは傑作だね!
戦国武将の肖像画のなかでも、もっとも素晴らしいもののひとつではないだろうか。
信長の有名な長興寺蔵の肖像画より上だと思う。

程よい肉づきの顔、前頭葉?が発達した広いオデコ(光秀はデコチンだったのでは?)、
涼しげで知的な切れ長の目、大きくもなく小さすぎずバランスのよい鼻、小さな口(当時の絵のきまりごと?)
見ようによっては仏様のようでもあるし、女性のようにも見える。
静かでやさしいかんじがする絵だ。

これが、本当に光秀なのだろうか?
「裏切りや密会を好み、刑罰を課するに残酷である。また忍耐力に富んでおり、謀略の達人であり、戦いに熟練の士を使いこなす」というルイスフロイスの光秀評がある。

ボクには肖像画とフロイスの光秀評が一致しない。
(フロイスの光秀評は、これ以外にもあるが、キビシイ。光秀はキリシタンに不利なことを言ったかやったりしたのだろうか?)

フロイスほど光秀の人物をスケッチ(文章で)した人はいない。
フロイスは数度、光秀に会っただろう。また、人から光秀についての話を聞いていたと思う。
もちろんフロイスにも思い込みもあっただろう。書き手の思いいれはフロイスに限らずしかたのないことだ。純粋な客観などありえない。

よく「人となりは顔に表れる」などと言われる。
だとすれば、信長の武将として万余の軍勢を指揮して各地を転戦、惨殺や謀殺も指揮した男の顔とは思えない。静かでおだやかな感じがする肖像画だ。
ボクは初めてこの肖像画を見たとき「これが明智光秀か、以外な顔だ!」と思った。

一方、光秀の所領では善政をしいて、領民から尊敬された(福知山)という話もある。
どちらも本当なのだろう。

善政を行って、別の局面では非道をした人は光秀だけではない。
信長は岐阜繁栄の元を作ったといわれているが、非道もしている。いや、戦国の非道王といってもいい。
信長に正義があったとしても、現在の感覚でいえば非道王だろう。

夏目漱石が小説「こころ」のなかで、「よい人、悪い人がいるんじゃない。人は悪くなる時があるものだ。」と書いている。
ひと色の人間なんていない。人はいくつかの色をもっている。

ところで、ボクは何度もこの光秀の肖像画の模写をしてみたのだが、「これなら良いか!」というものは1枚もない。むずかしい!
とても微妙なバランスでなりたっている絵なんだと思う。
だから、上の肖像画の模写も出来はよくない(それは、お前の腕が悪いからなの!)。







  1. 2012/04/17(火) 07:15:57|
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再び伊勢に・・・(信長夜話・その43)

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永禄11年(1568)2月、織田信長は再び北伊勢に侵攻した。
雪がちらついていたかもしれない。
信長は、前年の9月に稲葉山城を落として美濃を支配した。

このタイミングでの信長の北伊勢侵攻は、視野に入ってきた上洛の道筋からみて、側面にあたる伊勢を味方にしておく必要(味方にならないのなら攻める)があると信長は考えたのだろうか?
それとも、伊勢攻略は前からの作戦だったのだろうか?それは伊勢湾を支配することになるからだ。

美濃衆も加えた信長軍は、前年8月の北伊勢出兵の2倍の軍勢だったのではないだろうか?1万5千ほどではなかったか(ボクの想像)?
その目標は、鈴鹿、河曲(かわわ)群の神戸氏と関氏、安芸(あんぎ)安濃(あのう)群の長野氏だ。

まず、神戸氏の高岡城を攻めるが、主城、神戸城(現、三重県鈴鹿市)の神戸具教(とものり)は抗戦のかまえをみせた。
これに信長は神戸氏に対して和睦作戦に出る。

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<戦国時代の養子縁組のようすがどんなものかはわからない。イラストを画くため、「固めの杯」的なものとした。
少年は三七(織田信孝)。三月七日生まれだから三七という幼名だったといわれている。>



それは、「信長の三男、三七(のちの信孝)を後継のいない神戸具教の養子にするからオレに従え」という条件だった。具教はそれを受け入れ、信長の幕下に属することになる。
神戸氏に従っていた峯(みね)、国府(こう)、鹿伏兎(かぶと)、などもこれに従う。

ただ、関盛信は近江の六角氏と通じて信長に従おうとしなかった。
盛信の子供を神戸氏の養子にする話があったのに裏切られたことに反発したという話がある。

神戸氏を味方につけた信長は安濃津(あのつ、現三重県津市、県庁所在地だ)まで兵を進める。
長野氏の重臣、細野藤敦(ふじあつ)の守る安濃城(現三重県安芸群安濃町、伊勢国で最大の山城)を囲む。

長野氏の当主は長野次郎具藤(ともふじ)。具藤は北畠具教(とものり)の次男で長野氏の名跡をついだのだが、このとき具藤は10歳ほどの子供だったという。

長野氏の家老、分部光嘉(わけべみつよし、細野藤敦の弟)は信長との和睦を望んでいた。
彼は他の老臣と計って具藤を追い出し、神戸氏と同様に信長の一族を主君にしてくれるように信長に願い出る。
信長はそれを認め、信長の弟の信良(のちの信包・のぶかね)を長野氏の新しい当主として安濃城に入れた。
長野氏に属していた雲林院(うじい)、草生(くさわ)・・・なども全て信長に従った。

こうして、信長は、自軍に多くの損害を出すこともなく、北伊勢を勢力下に置いた。
おそらく、信長にとっては上首尾だったのではなかっただろうか?
信長は戦好きのイメージがあるが、それは違うと思う。
力攻めは自軍にも損害が出るし、金もかかる。
出来ればしたくはなかっただろう(他の戦国大名も)。



《織田(神戸)信孝について》
   
おだ(かんべ)のぶたか  永禄元年(1558年)~ 天正11年(1583年)
信長の三男。 母は坂氏の娘と伝わるが、史料はほとんど残されていない。
 
信孝は信雄(のぶかつ)の弟と言われているが、実際は信孝の方が二十日ほど出生が早い。
母方の出自も問われる時代、嫡男信忠と同腹の信雄が兄となったらしい。

信孝が神戸具盛の娘を娶り、養子に入ったのは永禄二年(1568)。信孝11歳。
この翌年、二男の信雄は伊勢の北畠氏の養子となる(北畠氏は国司であり、家格では信雄の方が上位)。

信孝は伊勢長島や播磨を転戦するが、いつも信雄と一緒だったようだ。
二人を競い合わせようとした信長の策だろうか?
 
天正10年(1582)四国平定の準備中に本能寺の変が起きる。
信孝は参陣していた津田信澄に疑をかけ殺害してしまう(津田信澄は織田信勝の子、明智光秀の女婿)
明智攻めにも参陣するが後手後手に回った。主導権は羽柴秀吉がにぎる。

清洲会議では兄信雄と後継を争うが、秀吉の一計にて家督は信忠の嫡子三法師へ。
信孝は信雄とともに後継人となり、美濃が与えられ岐阜城を居城とする。

その後、信孝は秀吉と対立、柴田勝家に接近。
「賤ヶ岳の戦い」で勝家が秀吉に敗れると信孝も岐阜城を開城した。
尾張国知多半島の野間大坊(大御堂寺)に送られ、自刃させられた(かつての部下である秀吉に)。
26歳だった。

また、秀吉に降伏したとき、人質として差し出した生母・坂氏(秀吉の主君、信長の側室である)と妹、娘および側室の神戸の板御前も、秀吉によって殺されている

信孝自刃への秀吉の手際のよさをみると、秀吉が信孝の資質を危険視していたと思われる。
その後、饒舌な秀吉がこのことを話したがらなかったといわれ、後ろめたい気持ちがあったのだろう。

ボクは野間大坊へは数度、行ったことがある。
ここには信孝が自刃した部屋が残されているという。
また、源義朝(よしとも、頼朝や義経の父親)が謀殺されたところでもある。
これだけの歴史的逸話をもつ寺だが、今は元気がないようにみえる。

野間大坊から200~300mほど西へ行くと伊勢湾の海岸に出る。
伊勢湾のむこう、遠く三重県の津や鳥羽方面が霞んで見える。かつては海水浴でにぎわった。


《長野 具藤(ながの ともふじ)について》

長野氏の16代当主。伊勢の国司大名、北畠具教の次男として生まれる。

永禄元年(1558年)、父具教が長野氏と和睦したとき、父の命によって長野藤定の養子として送り込まれ、長野氏の家督を継承する。
その後は父に従って長野軍を指揮し、永禄2年(1559年)に赤堀氏、また関氏などを攻めたが、いずれも敗北。

永禄11年(1568年)、尾張国の織田信長が北伊勢に侵攻して来ると、具藤は徹底抗戦をとなえたが、長野氏一族の細野藤敦と対立して内紛を起こす。具藤は藤敦に敗れて多芸城に逃亡した。
これにより長野氏は和睦派が主導権を握り、翌年、信長に降伏。
信長の弟・信包を長野氏の当主として迎えたため、具藤は当主としての地位を失うこととなってしまった。

天正4年(1576年)11月、信長とその次男信雄(のぶかつ)によって、田丸城において北畠一族もろとも殺害された。25年の人生だった。


《神戸 具盛(かんべ とももり)について》

生年不詳。伊勢の国人領主である神戸氏第7代当主。
同名の祖父(第4代当主)がおり、混同されやすい。

それまで神戸氏は、祖父の実家である北畠氏に属していた。
具盛の家督継承直後から神戸氏は近隣勢力からの侵攻に何度も遭うがよく戦った。

永禄11年(1568)の信長の侵攻には抗戦の利あらずとして信長の三男信孝を養子として迎え和睦。
姉は織田信包の室だから、隆盛著しい織田氏との関係を深めた。家の安全と繁栄を願ったのだろう。

その後、織田家の部将として転戦。
観音寺城の戦いでは、義兄である蒲生賢秀を降伏させるなど、手柄を立てる。

しかし養子である信孝を冷遇していたため信長の怒りを買い、元亀2年(1571年)、具盛は近江日野城に幽閉され、神戸氏の家督は信孝が継承した。
そして、それに抗議した山路弾正をはじめ、一族や家臣の多くは殺害された。

この事件は、信長の謀略のような気がする。いいがかりをつけたようにボクは思う。
結果からみて信長の体のいい乗っ取りだ。
養子に行った信孝(10代)がさみしさもあって、信長にグチを言ったのかもしれない?それを信長は冷遇ととった。
それとも、これ幸いと神戸具盛を幽閉してしまったのでは?とボクは疑っている。
伊勢攻略では同じような例があるからだ。

「本能寺の変」の後、天正11年(1583年)、羽柴秀吉により織田信孝が切腹させられると、織田信雄の家老である林与五郎が神戸城主となった。
具盛は与五郎の嫡子十蔵に信孝の室(具盛の娘)を嫁がせ、神戸氏を継承させた。

その後、神戸与五郎らが蒲生氏郷らの羽柴軍に敗れると、具盛は織田信包を頼り安濃津に逃れ、同地で死去したといわれる。 慶長5年10月26日(1600年12月1日)、「関が原の戦」から1ヶ月ほど後のことだった。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。
















  1. 2012/04/10(火) 07:30:32|
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新入社員教育は・・・(ジョーク)

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新入社員の季節。

課長 「われわれは、この若い新入女性社員たちに正しいことと悪いことの区別をキッチリと教えなければいけませんな。」

部長 「そのとうり!じゃあ、課長は正しいことのほうを受けもってくれ!」

課長 「・・・・」




なにかで、こんな感じのジョークをみた(読んだ)ように思うのだが、思いだせない。

3日前に、ボクの散歩道で、花が咲いた桜を2本みつけた。
ようやく、桜の季節がやってきた。寒かったからなあ、今回の冬は。








  1. 2012/04/03(火) 06:59:01|
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