ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

上洛へ(信長夜話・その47)

織田信長は岐阜に足利義昭を迎え、立政寺(りゅうしょうじ)を義昭の仮住まいとした。

準備を整えた信長は上洛へと行動にうつす。信長35歳の夏だった。
永禄11年(1568)8月7日、信長は近江へ入り、小谷城の浅井長政(信長の妹、お市の亭主)の案内で佐和山城に入った。

この城はこのころ浅井氏の城だが、32年後の「関が原の戦い」のときには西軍の実質的主将、石田三成の居城になる。現在の彦根市の町の近くにある小高い山だ。

まず、信長はここに7日間滞在して南近江の六角承禎(じょうてい)への説得をこころみる。
足利義昭の使者に自分の家臣を添え、六角氏の居城、観音寺城(かんのんじ、現滋賀県蒲生郡安土町)につかわした。
義昭の使者からは「協力するなら京都所司代(知事、警察長官などを兼ねる、京の重要ポスト)に任命しよう」という条件が承禎に伝えられた。

しかし、結局、承禎は「うん」とは言わなかった。
彼はすでに三好三人衆(14代将軍、義栄を擁立した勢力)と通じていたのだ。
信長は力ずくで南近江を通ることになった。

ボクの想像だが、7日間もかけて説得にあたった信長は、六角承禎に自分に近いものを感じていたのではないだろうか?
承禎は楽市楽座を布いていた。楽市楽座は信長の専売ではない。
承禎は商業、流通に注目していたのだろう。当時、南近江は京に近く、流通が盛んだったのだ。

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《湿った空気のなかを行く信長の軍勢》

永禄11年(1568)9月7日、信長は岐阜を出陣する。
同盟を結んでいた徳川家康、浅井長政の兵、美濃、尾張、北伊勢の兵を合して6万もの大軍となった(4万~5万という説もある)。

かつて「尾張のうつけ(ばか者)」といわれた男が・・・、
また、8年前の「桶狭間の戦い」の時、尾張に押し寄せた4万(2万という説もある)の今川勢に対して、動員兵力がわずか3千だった信長が、今や6万の大軍を率いているのだ。

兵に食わす、めし代だけでも大変だ。信長の経済力は並大抵ではない。
この当時、6万もの大軍を動員できる戦国大名はそうはいない。信長はトップクラスの戦国大名になっていた。

信長は出陣の前に足利義昭に近江を平定したら迎えをよこすことを約束していた。
9月8日、信長軍は近江に入った。「岐阜→大垣→関が原→米原→彦根」の行軍ルートだったのだろう。

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信長軍は高宮(現滋賀県彦根市)に着陣、3泊する。そこで兵を休め、戦闘態勢を整えた。
9月11日、信長は愛知川(えちがわ)北岸に陣を張る。次回に続く。


ところで、なぜ「上洛」というのだろうか?京へ行くのだから「上京」「入京」で良いように思うのだが・・・。調べてみた。

かつて嵯峨天皇〔延暦5年9月7日(786年10月3日)~承和9年7月15日(842年8月24日)〕が、平安京の西側(右京)を唐の首都である「長安」、東側(左京)を唐の副都である「洛陽」と名付けた。
しかし当時、右京は居住に適さない湿地が多かったことなどから平安時代の後半には、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。
このため京都を「洛陽」と呼ぶようになる。

京都へ上ることは「上洛」とも称され、現在の「上京」と同様の意味で用いられた。
逆の意味に、下洛(げらく)がある。下洛とは、京都を離れること。
上洛という煌びやかイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩えることもある。という。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。










  1. 2012/05/29(火) 07:07:31|
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義昭、岐阜へ(信長夜話・その46)

ご覧になりましたか?金環日食。
過去に今回のような金環日食を見ることができたのは、平安時代という。
ということは、織田信長は経験していないことになる。
経験したわれわれは、ついているのかもしれない?


さて、織田信長は永禄11年(1568)2月に北伊勢に侵攻して、神戸氏、長野氏を降した。

同年7月25日、越前一乗谷の朝倉氏に身をよせていた足利義昭を岐阜に迎える。

足利義昭が頼りにしていたのは越前の朝倉義景と越後の上杉謙信だったといわれる。
義昭のなかに美濃を手中に収めた信長が有力な候補として浮上したのだろう。

義昭は自分を供奉して上洛するよう、朝倉義景や上杉謙信への催促はもちろんしていたが、信長にもたびたび催促していた。
朝倉義景は煮え切らない態度を続け、上杉謙信は本庄繁長(しげなが)の謀反があって、それどころではなかった。

信長も美濃の斉藤氏との争いのなかにあって色よい返事が出せずにいたが、美濃攻略をようやく成し遂げ、北近江までは妨げるものはいなくなった(北近江は同盟を結んでいる浅井氏だ)。

信長はチャンスと思ったのだろう。行動にうつす。
上洛は早いもの勝ちだと思ったのかもしれない。


越前にいた義昭は、信長から上洛の知らせをきいて喜び、さっそく岐阜への旅の準備を整える。
朝倉義景に将来も見捨てないことを約束すると7月13日に越前一乗谷を後にする。
義昭の努力が実を結んだのだ。

村井貞勝と島田秀順(2人とも信長の吏僚)らが信長からの向かえの使者としてさしむけられた。
一行は途中、近江小谷城へよって浅井長政(信長の妹、お市の亭主)のもてなしを受ける。
強い日差しのなかの汗ばむ旅だったろう。

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《義昭を迎えるため、あわただしい岐阜の立政寺とした。》

信長は美濃と近江の境目(関が原あたりか)まで出向いて義昭を迎えた。
そして岐阜効外の立政寺(りゅしょうじ)を義昭の仮住まいとした。
そこで宴が催され、銭、太刀、武具、馬、などなどが信長から義昭に贈られた。
将軍になる人への贈り物だから、フンパツしたにちがいない。
義昭32歳、信長35歳だった。


足利 義昭(あしかが よしあき)
天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は不明。

義昭は永禄8年(1565)に実兄の将軍足利義輝が襲殺されたとき、奈良興福寺一乗院の門跡だった。法名覚慶と名乗る(跡継ぎ以外の兄弟は出家するのが慣例)。
このとき、覚慶(義昭)も松永久秀らによって捕らえられ興福寺に幽閉・監視された。

しかし、和田惟政、細川藤孝・・・らに助けられて脱出。近江の和田惟政を頼って落ち延た。この和田館で義昭は足利将軍家の当主になる事を宣言する。

矢島御所では三好長逸の軍勢3000騎の突然の襲撃をうける。
奉公衆(義輝の親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来たが、矢島御所のある南近江の領主、六角義治が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、8月には妹の婿である武田義統を頼り若狭へ、さらに越前の朝倉義景をたよった。

三好三人衆らは、足利義輝を襲殺したのち、永禄11年(1568年)2月8日、三人衆の推挙により第14代将軍として義栄を将軍に就任させていた。義栄はまだ室町将軍として利用価値があると考えた三好三人衆や松永久秀に翻弄される。
そして、三好三人衆と松永久秀との争いのため、義栄は京に入ることも出来なかったという。



テレビドラマでの足利義昭はいつもイタイ(今風の言葉でいえば)人物として描かれる。
「軟弱な貴族趣味のくせに権力欲とプライドだけが強い、形骸化した権力にしがみつく屈折した男」いう設定だ。対立する信長との対比のためか、いつもこの設定なのだ。

しかし、織田信長と不仲になった後、信長包囲網の中心のひとりは、この義昭だった。
一時、その包囲網は信長を追い詰め、信長をにっちもさっちもいかない状況まで追い込むことになる(志賀の陣)。

義昭は貴族趣味があったかもしれないが、当時の教養人は義昭に限らず貴族趣味なのだ。
貴族趣味が教養人だった。
また、足利将軍家に生まれたのだから、権力欲とプライドがあっても当たり前。
世が世なら、天下に号令する立場だったのである。

足利幕府の消えかける権威を頼りに(エサに)、有力戦国大名、仏教勢力らと結託してダイナミックな信長包囲網を作り上げた。
武力にも金にも頼らないで(ないのだから頼ることができなかったのだが)、外交力で作り上げた。たいしたものではないか。
さらに一時だが、信長を追い詰めたのだ。ぼくは義昭に殊勲賞をあげたい。

信長の人生のなかでの手ごわい敵のひとりだったとボクは思う。

ボクなら、上品な教養人だが粘り強い、一筋縄ではいかない男として義昭を描きたい。

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《足利義昭の顔》

テレビドラマでの足利義昭を演じた俳優を思いつくままにあげると。
伊丹十三(国盗り物語)、玉置浩二(秀吉)、モロ師岡(利家とまつ)、三谷幸喜(功名が辻)
現存する義昭の木像をみると、顔が似ているのは三谷幸喜ではないだろうか?


谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。








  1. 2012/05/22(火) 07:16:07|
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菜食主義

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「私は現在85歳だが、これまでと同じように元気に仕事をしている。
もうかなり長く生きたので、そろそろ死のうかと思っているのだが、なかなか死ねない。
ビーフステーキを食べれば、ひと思いに死ねると思うのだが、私には動物の死体を食べるような趣味はない。
私は自分が永遠に生きるのではないかと思うと、空恐ろしい気分になる。
これが菜食主義の唯一の欠点である」

ジョージ・バーナード・ショーの言葉。切れ味が良い。
ショーは菜食主義者だったといわれている。

ボク自身は肉も食べるが、どちらかといえば魚や野菜をよく食べる。
四足は食べないという仏教の教えの影響か、深層心理のすみっこに肉食への罪悪感がチョッピリあるのかもしれない。
しかし、体に悪そうなものはウマイなあ!と思う。

菜食主義者といっても程度の差があって、ひとくくりにはできないが、
ミュージシャンや俳優のなかから、菜食主義者(だろう)といわれている人をあげる。
(他の分野の人も入れると多くなるからね)


<ミュージシャン ・音楽家>

坂本龍一
財津和夫(見るからにそんな感じがする)
イルカ (見るからにそんな感じがする)
フジコ・へミング
サンプラザ中野
スティーヴィー・ワンダー
ポール・マッカートニー
リンゴ・スター
ジョージ・ハリソン
ジョンレノン
(ビートルズの4人は全員ということになる)
オノヨーコ(ジョンのつれあいだから当然か)
マドンナ
ボブ・ディラン(やっぱり、そうだったか)
デビッドボウイ
ホイットニー・ヒューストン (意外?)
ジェフ・ベック
カルロス・サンタナ
ピーター・ガブリエル
ミック・ジャガー
エルトンジョン(やっぱり)
シンディーローパー
オリビア・ニュートンジョン(やっぱり)
プリンス
ヴァネッサ・ウィリアムス
ティナ・ターナー(ええっ!本当かよ?)
マイケル・ジャクソン(やっぱり)
ボブ・マーレー
ジュード・ロウ
ビリー・アイドル
アブリル・ラビーン
リヒャルト・ワーグナー (クラシック・作曲家)


<映画スター ・俳優>

浅茅陽子
喜多嶋舞
杉田かおる(意外!)
オリビア・ハッセイ
デニス・ウィーバー
デミムーア
トムクルーズ
ウーピーゴールドバーグ
リチャード・ギアー(仏教に興味があるという)
ブラッド・ピット
アレック・ボールドウィン
キムベイシンガー
リンゼイ・ワーグナー
キャンディス・バーゲン
ぺネロープ・クルーズ
ダスティン・ホフマン(なるほど)
ポール・ニューマン
マイケル・J・フォックス
リバー・フェニックス
ホアキン・フェニックス
リブ・タイラー
ジュリア・ロバーツ
ケイト・ウインスレット
ドリュー・バリモア
ブルックシールズ
アンソニー・ポフキンス
ナタリー・ポートマン
パメラ・リー・アンダースン
キャメロン・ディアス
レオナルド・デ・カプリオ
アンソニー・パーキンンス(納得)


《バーナード・ショウについて》
ジョージ・バーナード・ショウ(George Bernard Shaw)はイギリスで19世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家。風刺のきいた社会性のある戯曲を数多く残す。
イギリスの代表的知識人として、劇作、批評、政治などで幅広く発言。
社会主義者、菜食主義者、皮肉屋でもある。









  1. 2012/05/15(火) 08:03:32|
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狭き門から入れ

ボクの言葉の記憶。

そのひとつ、”狭き門から入れ”

「ことわざ」のようなものか?と思っていた。
「皆が行く楽なほうではなくて、誰も行かない苦労しそうなほうを選べ!」というようなことだろう?と、
画家の岡本太郎も、似たようなことを言っていたように思う。

すなわち、「皆が行きたがらない狭き門から入れば、苦労をして鍛えられ、競争者の少ない無限の野を進むことが出来る。」ということだろうと思っていた。

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ボクは学生のころ、友人から「本ぐらい読め!」と言われるくらい本を読まなかった。
(その反動か、今は読書漬けになっている。)

アンドレ・ジィド著『狭き門』という本がある。
本屋の企画「読んでおきたい本、50冊」のなかの1冊だったのか?
「いまね、ジィドの『狭き門』を読んでいるんだ」と、そのころお付き合いしていた彼女が言っていたのか、はっきりしない。

そのタイトルをカッコイイとボクは思ったように思う。
ボクの記憶は、ジィドの『狭き門』と新約聖書の言葉がゴッチャになっていた。


自分の記憶に決着をつけるため(大げさな)調べてみた。

“狭き門から入れ”はイエスの言葉だ(本当にイエスが言ったかどうかは?)。
「新約聖書のマタイによる福音書7章13節」に出てくる。

”狭き門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない。”
というのがそれだ。

「善良で真実の門を通ることの勧めであり、それから外れた邪道に行く事は滅びの道に入る事だ」と解釈されている。


ジィドの『狭き門』をボクは読んでいない(なーんだ!)

『狭き門』の単純化したあらすじ、

ジェロームは、2歳年上の従姉であるアリサに恋心を抱く。アリサもまたジェロームを愛しているが、結婚をためらう。
神の国に憧れを持つ彼女は、最終的に地上での幸福を棄て、ジェロームとの結婚をあきらめ、ついには命を落とす。

アリサの自己犠牲の精神が美しく描かれているが、
ジィドはアリサの自己犠牲を批判していると解釈されている。
ジィド自身の体験が元となっているという。

ジィドは新約聖書からタイトル『狭き門』を思いついたようだ。


イラストは「そこをいく迷える人、こちらから行かれるが良いぞ!そっちの狭いほうではない!こちらからじゃ!」と怪しげなヤツ(この場合、常識や大衆や権力)が広い門を指差している。

皆がいくからこっちだろう?などとボンヤリとついていってはいけない。
「皆で渡ると怖い」ということもある。原発のように。



「世界・名著のあらすじ」永岡書店¥486+税 を参考にしました。






  1. 2012/05/08(火) 07:20:43|
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待つ女、待つ男

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まだいるなあ、あの柱のところにいる二人。

長いなあ!女は男を待ち、男は女を待つ、若いというのは待つエネルギーもあるんだなぁ!

しかし、なんだねぇ、オレがみたところ、右の男は彼女とはまだだね。
わかりやすく言うと、まだヤッていない(露骨な!下品!)。

左の女のほうは、こっちはもうヤッているとみるね。長い時間、待てるということは・・・
(どうでしょうか?)

用事を済ませて戻ってみると女も男も、もうそこにはいなかった。
あきらめたのか、相手と会うことができたのかはわからない。



だれでも携帯をもつようになった今では、こんなことも少なくなった。

以前、ボクは3時間待ったことがある。ボクは待つ男(待たされる男)だった(ヤッパリ!)。








  1. 2012/05/01(火) 07:44:46|
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