ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

さばを読む

暑中お見舞い申し上げます。

暑いですねぇ!
暑さはこれからですが、すでにボクは夏バテ。

それに加えて、医者から「アルコールはひかえるように・・・」と、
ビールが飲めない。これまたツライ!
ビールを褒美に、昼の暑さに耐えているのに、その褒美がダメ!とは・・・



ところで、「さばを読む」
この言葉を大人になってから知った。

ボクは、この言葉を使ったことがない。ボクの生まれた名古屋地区では、めったに耳にしない。
東京近辺の言葉ではないだろうか?

もっぱら、テレビで「あの野郎、さば読んだな!・・・」てな感じで使われていた。
「おかしな言葉だなあ!」
「さばというのは、魚の鯖のことだろうか?」
「雰囲気からして、あまり良い意味ではなさそうだ?」と思ったものだ。

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調べてみた。
「さばを読む」という言葉は、江戸時代にはもう使われていたらしい。

さば(鯖)は獲れるときには大漁になる。また、サバは鮮度がすぐに落ちるので、売るときには急いで数えた。
そのため、いい加減な数え方になった。意識的にやったこともあったろう。
後で数えてみると少ないことがあり、数をごまかすことを「さばを読む」と言った、というのが有力な説。

他説に、魚市場のことを「いさば」といった。
ボクは名古屋市の下町育ちだが、近くの魚も扱う食料品店のことを「いさばや」と呼んでいた。
「いさば」で働く人たちは小魚を売るときに早口で数を数え、ホイホイと箱に投げ入れた。

鮮度が大事だから、小魚をていねいに数えるわけにはいかない。
これを「いさば読み」といった。

「いさば読み」された魚は、後で数えると、たいてい数が足りない。
そこで「さば読み」という言葉が生まれた、とする説だ。こちらも説得力がある。

イラストは「さばを読む」男(開いたさば)。
「これでは言葉どおりやがな、ひねりはなしかいな、まったく!・・・」と言われそう。
ごもっとも、失礼つかまつりました。








  1. 2012/07/31(火) 07:08:31|
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まともなビール?を飲みたい!

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「第四の ビール出るまで 待てと妻」
兵庫県の”早寝早起き ”さんの川柳。

ボクは川柳が好きだ。
もっぱら作品を見て(読んで)「クフフフ・・・」「ガハハハ・・・」と楽しまさせてもらっている。

ジョークも好きだが、ジョークの習慣は日本にはない。
日本の川柳はジョークっぽい。

ところで、最近は「まともなビール」がなかなか飲めなくなった。
ボクは家で飲むときは、もっぱら「第3のビール」。
安いので(ヤッパリ!)。

「ビール」→「発泡酒」→「第三のビール」とより安い方向へ退却?を続けている。
川柳のように、ひょっとすると「第四のビール」が現れ、さらに退却をよぎなくされるかもしれない?

「第三のビール」がウマそうな名前をつけて売り出されるが、ハッキリ言ってウマくない!
「これもビールの一種なのだ」と自分を騙して飲んでいる。
「第三のビール」とは良い名前だ。ビールであってビールでない。「ビールのようなもの」。

ボクは、今までにウマイ「第三のビール」に出会ったことがない。
いや、もし、ウマい「第三のビール」を売り出そうものなら、「まともなビール?」は売れなくなってしまうから、売り出すのはムズカシイ!

ボクのビールの味というのは、結局、「キリンのラガー」なのだろうと思う。
ボクは「キリンのラガー」でビールの味を覚えた。
この味から離れれば離れるほど、ウマクないということになる。

それなら「第三のビール」を飲まなければいいじゃないか?と思われるだろうが、
そうもいかない(はぁ!)。人生の矛盾のひとつ(大げさな!)。

「まともなビール?」を飲むことができるのは、ボクの場合、仕事がらみの酒席だ。
「そうだった。ビールはこんな味だったなあ!」と・・・





  1. 2012/07/17(火) 06:57:52|
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京に入る!(信長夜話・その50)

永禄11年(1568)9月24日、琵琶湖を渡った織田信長は三井寺極楽院(みいでら)に着陣。
翌25日、義昭も三井寺光浄院に入った。
京はもうスグだ。
信長の先鋒軍は山科あたり(現在の名神高速の京都東あたりか)に陣取って信長の到着を待っていた。

信長軍の上洛のウワサは京に広まっていた。
南近江の六角氏をあっさりと破った情報も伝わっていただろう。

「あの六角はん(なれなれしい)が負けたらしい?」
「ほな、織田上総介(尾張守かも)はスグかて上洛しますなあ!」
「なんにかてお味噌をつけて食べる(そんなことはありませんが)尾張の田舎モン、そやさかいになにをするかわかりまへんなあ。」
「しんどいことですは。この先、どへんなるんやろう?」
(こんな感じだろうか?おかしな京言葉になっていたらスミマセン)

近日中に信長軍の上洛が確実になった。京は大騒ぎになる。
尾張の田舎大名、織田信長(京から見ればどこでも田舎)という馴染みのない男に、公家も市民も底知れぬ不安にかられたのだ。

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《京市中を行く信長の軍勢。不安げに見つめる市民》

一方で、正親町天皇(おうぎまち)は信長と連絡をとっていた。
前年の11月、信長に綸旨(りんじ・天皇の命令を奉じた文書)を出している。
信長は美濃を平定したところだった。
内容は「御料所の回復させること、信長の勢力拡大を期待する。」だった(立入文書・たてり)。
9月14日付けでは、禁中の警護、京市内での乱暴、狼藉を禁止することを信長に命令していた(経元卿御教書案・つねもときょうみきょうしょ)。

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《東寺に入る信長、現在の東寺の山門をモデルにした》

そして、永禄11年(1568)9月26日、たいした抵抗もなく、ついに信長は京に入る。そして東寺(とうじ・現京都市南区)に陣を張る。
足利義昭は清水寺(きよみず・現京都市東区)に着陣した。

上りの新幹線(東京方面行き)のなか、京都駅の直前、右の車窓に見える五重塔が、信長が着陣した東寺だ。
なんという京都らしい景色だろう!思わず「京都だぁ!」といつもボクは思ってしまう。

信長上洛のときに着陣した東寺が今もある。鳥肌ものだ(ボクは本当に感激すると鳥肌がたつ)。

脱線しました。もとにもどします。
京市民は金目のものを隠し、若い娘、子供は外にださないようにして声をひそめ、こっそりと外の様子をうかがっていた。
道には人影はなく、野良犬が吼えるのみだった(ボクの想像)。

京は、かつて進駐してきた兵たちの乱暴、狼藉を経験していたにちがいない。
兵のなかには、盗賊まがいの連中もいただろう。戦働きは、場数を踏んでいる連中の得意種目だ。

戦闘が終わっても興奮状態にある兵は、乱暴、狼藉、略奪、をはたらくことによって、精神のバランスを保とうとするのかもしれない?
指揮官も兵への褒美として、それを黙認することが多い(現代でも)。

しかし、信長軍は厳しく統制されていた。公家、市民が心配した乱暴、狼藉は起こらなかった。
信長は京市民を掌握するため、細心の注意をはらった。
「兵に告げよ。京市中で不埒なマネをしたヤツは、この上総介が成敗する!」てなことを言ったのかもしれない。
京市民の間に、信長と軍勢に対する敬意が広がっただろう。

このとき、織田信長35歳、足利義昭32歳、正親町天皇52歳、武田信玄48歳、上杉謙信39歳、だった。


上洛で数万の人が京に入ってきたわけだが、宿所はどうしたのだろうか?
寺や宿を手配して、割り振ったのだろうが、多くは野宿をしたのだろうか?

歴史上、これまでにも、京には幾度も軍勢が入ってきた。それなりに収まっていたのだろうから、
京には新しく入ってきた数万の人間を養える余裕(宿所など)があったのだろうか?
興味がある。

信長が思っていたよりスムーズに上洛を果たした同じ日、
配下の柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚、らの先鋒軍は西国街道(山崎街道)を南下、勝龍寺城(しょうりゅうじ・現京都府長岡京市)への攻撃を開始した。
詳しくは次回の「信長夜話・その51」にて・・・。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。







  1. 2012/07/10(火) 07:45:59|
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琵琶湖を渡る!(信長夜話・その49)

7月に入りました。昨日は暑かった。
晴れているのに、湿度が高く、「夏が来たぞ~!」という感じだ。


さて、
織田信長は、上洛に立ちはだかる南近江の六角承禎を破った。
実質の戦闘、わずか1日で六角氏を撃破したことになる。

もう京都への道をさえぎる勢力はいない。
永禄11年(1568)9月14日、信長は足利義昭を迎える使者(不破光治)を岐阜へ送る。

今か今かと知らせを待っていた義昭は喜び、すぐに岐阜を発った。
9月22日桑実寺(くわのみでら・現安土町)で信長軍と合流。

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「信長公は馬を進め、23日は瀬田まで進んだが、ここで船の手配がつかずに一日を費し、翌24日、琵琶湖を渡って三井寺極楽院(みいでら・現大津市)に到着した。
軍勢は大津の松本・馬場に宿陣し、義昭殿は渡江して三井寺光浄院に宿泊した。」(信長公記)

信長は瀬田から渡ったようだ。守山から渡ったという説もある(現在の琵琶湖大橋あたりか?)。
大軍だから、数箇所から渡ったのかもしれない。

信長軍の全軍ではないにしても大変な数である。兵ばかりではない、馬や物資もある。船が整わなかったと「信長公記」にある。
琵琶湖周辺の漁船、小船なども残らず動員しての輸送だったのだろう。堅田衆(かただ・当時、琵琶湖を支配していた)が協力したのだろう。

ここまで来れば、京はもうスグだ。
足利義昭のワクワク感はいかなものだったろうか?
いや、全軍がワクワクしていたと想像する。
京を一度も見たことがないものがほとんどだったのだから。

信長のもとには、続々と京と周辺の詳しい情報がもたらされただろう。
信長は上洛をなしとげたら、あれとこれはスグにもやっておかなければいけない。と段取りを考えていたにちがいない。

ところで、全力で京をめざす信長の背後はどうなっていたのだろうか?
信長上洛軍のなかには同盟を結んでいる、徳川家康(東方への押さえだ)の援軍も含まれていた。
東方には強敵、武田、北条、上杉、がいる。

そのなかで、信長の背後を脅かす可能性が高いのは甲斐の武田だが、越後の上杉と緊張関係にあって、簡単には動けなかった。
さらに、信長は、その武田、上杉の両方に従順をよそおって、友好関係を保っている。

「信長は卑屈なほどであった・・・」という見方があるが、信長の目的が上洛および天下平定(そのころの天下は京とその周辺の近畿地方のこと)にある以上、当然の外交であったとボクは思う。
この時点で東の強敵とは敵対したくなかったのだ。

ルイスフロイスは「・・・尊大で名誉欲が強い。・・・日本のすべての国王・領主を見下しており、・・・」と信長を書いている。
そうだとすれば、信長はプライドを押し殺して、慎重に従順外交をすすめたことになる。

永禄8年(1565)に、信長は武田勝頼(信玄の跡を継ぐことになる)に養女(遠山直兼の娘・菊の方)を嫁がせている(美濃攻略の最中だ)。
信長は友好関係を保つため、多くの贈り物をした(武田信玄にも上杉謙信にも)。

「信玄は信長の豪華な贈り物には目もくれず、それらを入れた漆塗りの箱は簡単な塗りだろうと思い、その漆箱の端を削らせた。漆の層は幾重にもなっており、非常に丁寧な仕上げの極上品だった。
これをみた信玄は贈り物ばかりではなく、それらを入れる漆箱にも細心の注意を払っている信長の誠意に満足した。」という話が「甲陽軍鑑」にある。

信玄がこの程度のことで信長を信用するような甘ちゃんではないと思うが、
漆塗りの箱を削らせたあたりは、ありそうな話だ。

信長には自分の思いを押し通すイメージがあるが、実は硬軟の使い分けの出来る男だった。
そして、その武田と上杉とも数年後に激突することになる。膨張する信長の当然の帰結であった。


イラストは守山で乗船を待つ足軽の一隊とした。
対岸に比叡山、比良山系が見える。


谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。






  1. 2012/07/03(火) 07:46:31|
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