ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

これなる松永弾正(信長夜話・その54)

永禄11年(1568)10月、織田信長は上洛後、西国街道沿いの諸城を攻略して、ひとまず本陣にしていた芥川山城にもどった。

足利義昭とともに、しばらくのあいだ芥川山城にとどまる。
京都、畿内を平定したものの、不穏な動きがあれば軍事行動をとる必要があったからだ。

畿内の国衆らが、続々と芥川山城にやってきて信長と義昭に忠誠を誓った。
「忠誠を誓うなら、早いほうがええで。」「そやなあ・・・」
手ぶらでは行けないので、お土産を用意して、そそくさと芥川山城へ向かったのだろう。
権力者に擦り寄るのは今と同じだ。

信長と義昭は、次々と祝辞をのべられ、おべんちゃらを言われ、「○△殿、大儀!」などと返礼をした(ボクの想像)。

足利義昭にとって気持ちの良いことだっただろう。
有力武将に上洛の催促状を何通もだしても、「すぐにでも上洛したい・・・」という返事をもらうものの、実行に移すものはいなかった(実行に移せなかった)。
それが、いまや畿内の国衆がぞくぞくと忠誠を誓いにやってきているのだ(信長のおかげだが)。

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そのなかに大物がいた。松永弾正久秀(まつなが だんじょう ひさひで)だ。

「大和(奈良)の松永弾正殿にございます。」
空気がガラリと変わった。はなやかな気配は消え、
足利義昭の目は、みるみる険悪なものになった。

平伏する久秀に、義昭は頭の上から、
「・・・ぬけぬけと・・・!ならぬならぬは!・・・かような奴の詫びなど聞き入れることなど出来ぬ!」
「貴様のようなヤツは八つ裂きにしても足らぬは!」
義昭は、怒りに体が小刻みにふるえた。

久秀は義昭の実の兄、先の将軍、足利義輝を殺した仇の一人だった。

「・・・・これなる松永弾正、確かに先の将軍を手にかけたる者なれども、大和(奈良)の平定には欠かせない人材であることもまたしかり。
 ここは心を広くお持ちになり、毒もまた使いよう、と割り切らるるが得策と存ずるが・・・」と信長が義昭を、すこし高い声で諌める。
(やりとりは想像)

大恩人である信長の諌めである。結局、義昭はシブシブ認めた。
久秀は「大和の国、切り取り次第(獲った領地を認める)」のお墨付きをもらう。

この時、信長35歳、松永久秀59歳[永正7年(1510)生まれと想定すれば。久秀の生年はハッキリしていない。もっと年上の説がある]。

実は2年ほど前から久秀は信長に通じていたといわれる(「柳生文書」)。
2年前といえば信長は美濃の斉藤龍興と一進一退をくり返していたころだ。
そのころから、将来、覇をとなえそうな男にツバをつけていたのだろう。

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《久秀が信長に贈ったといわれる九十九茄子(つくもなす)だ。
名前のとうり「茄子」のようだ。
写真を参考に画いた。写真では光の加減や、角度によって見え方が変わるように思う。
高さ二寸二分(約6cm)、胴の幅二寸四分五厘(約7cm)廻り七寸六分(約23cm)、抹茶の茶入れとしてはやや大ぶりだそうだ。
現在、修復されているが現存する。
なんとかして手に入れようとすれば、数億、いや、十数億かもしれない?
ボクの見たこともない金額になるのだろう。》



久秀は信長に、手土産として天下の名物茶器、九十九茄子(つくもなす)を贈った。
前もって信長の興味のあることを知っていたのだろう。
「信長のやつめ、九十九茄子(つくもなす)の魅力が解るか?・・・」と、

久秀は信長の茶道への興味をさらに高めたひとりだったように思う。

信長の集めた名物は、いつかまとめて書きたい。

信長は畿内を制圧と同時に、自治都市「堺」に使者を遣わし(おそらく)二万貫の矢銭(軍資金)を要求した。
次回の「信長夜話」は信長と堺のことを書くつもりです。



松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで)のこと
永正7年?(1510)~天正5年10月10日(1577年11月19日)

出自ははっきりしない(だから、永正7年生まれも怪しい?)
→三好長慶に仕える(ようやく文書に現れる)。
→長慶の死後は三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し、
畿内を支配。
→織田信長が上洛すると、信長に降伏して家臣となる。
→信長に反逆して敗れ、自害した(爆死といわれている)。

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《 このころの松永弾正久秀は「老人」として出てくる。
久秀のまともな肖像画は見当たらない。想像でイラストを画いた。
若い時の久秀はハンサムだったろうとボクは思う。》



あるとき、信長は、
「この老翁は世の人の成し難き事を三つ成したる者なり。
将軍を弑し奉り、また己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚きたる松永と申す者なり。」
と言って、徳川家康に久秀を紹介したと言われている。

今では、東大寺焼失は三好三人衆側の失火であるとするのが有力だ。
将軍暗殺に関しても、三好之長以来の将軍との確執が、そもそもの原因だという解釈がある。
久秀は領国に善政を敷いた名君として、大和(奈良)信貴山城近郊の人々に現在でも慕われていると言う。


松永久秀は魅力的な人物だとボクは思う。
悪行ばかりが有名だが、一方で、立ち振る舞いが優雅で容姿優れ、連歌や茶道に長けた教養人だったといわれる。

先進の城造りの考えをもち、美的感覚に優れていた。後に武士の礼装となる「裃(かみしも)」の原型を作ったのは久秀だという説がある。
現在の城のイメージである「天守閣」や「多聞櫓」などを初めて創ったのも久秀だと言われている。
その後の城郭建築に影響をあたえた。

信長の安土城も多聞山城の影響を受けた。
久秀は美意識の高い悪人、悪行も辞さない才人。
色気を感じさせる老人だったのではなかったか(今でも、そんなサマジイがいる)。

あの信長が2度も久秀の謀反を許している。
油断ならない男だが久秀の能力を認めていたのだ。
(彼のコレクションが目当てだったとも、)

「偉大なまた稀有な天びんをもち、博識と辣腕をもち、腕利きであるが、狡猾である」ルイス・フロイスの松永久秀評だ。
久秀は伴天連を嫌ったから、酷評かと思ったが、そうでもない。冷静に見たようだ。

信長は「まむし」と呼ばれた美濃の斉藤道三とも気脈が通じたという。
戦国の三悪人のうち二人(久秀と道三)と付き合った(もうひとりは北条早雲)。
信長は、こういうタイプの男に好感をもつ人だったのだろうか、
それとも自分のなかにある「悪」と感応したのだろうか?

久秀の最後の謀反は、天正5年(1577年)信長軍の一隊として石山本願寺包囲の最中に、勝手に信貴山城に帰って立て籠った。
織田信忠(信長の嫡男)率いる大軍に攻められたあげく自刃する(爆死した)。

その時、信長は本願寺攻めに手こずってはいるが、頼みの上杉謙信は遠い。
久秀に勝算があったのだろうか?老練な久秀らしくない。この謀反は謎だ。

結果を知っている今だから、言えることかもしれないが・・・


松永貞市中将(太平洋戦争初期、マレー沖海戦で英東洋艦隊を撃破した海軍航空隊指揮官)とその孫、松永真理(NTTドコモのiモードの生みの親)は久秀の子孫。
さらに、なんと!爆笑問題の太田光の妻、太田光代(旧姓 松永光代)も末裔だという。
へーっ!ビックリ!



ノブナガ探偵事務所
http://yaplog.jp/josh_88/archive/192
を参考にしました。






  1. 2012/10/30(火) 07:19:57|
  2. 信長夜話
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受付嬢

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○○株式会社の□□といいます。第二営業部の長井部長様にお取次ぎいただきたいのですが?

「少々お待ち下さい・・・・」しばらくして、

「第三応接室でお待ちしております。と長井が申しております。第三応接室は2階のつきあたりの右にございます。」
てな、受け答をしてくれる受付嬢。チョッと潤う一瞬。
これが、オッサンだったらガッカリだ。

以前、出入りしていた会社の駐車場のオッサンはひどかった。
ガードマンではなく、社員のようだった(不確か)。

駐車場の入り口で、来社するクルマを上からにらみつけていた。
横柄な態度、その会社へ行くたびに不愉快。

「この会社、大丈夫か?」と思った。来社する人を不愉快にさせるなんて、
「ひょっとすると意地の悪い移動(リストラ)で、駐車場係りにされた元課長かもしれないなぁ?」とボクは思ったりした。

話は変わる(いつものこと)。
某大企業のイベントの手伝いにかり出されたことがある。
子供対象の手作り教室だった。子供と付き添う親も含めると多くの参加者になった。

某大企業側のスタッフは、受付嬢のような制服の若い女子社員たちだった(そのときはそう思った)。
キレイな子がズラリ!
「さすが△△(某大企業の名前)ですねぇ!粒ぞろいですね!」とボク。
「ああ、彼女たちは派遣ですよ」
「そうですか、なるほどぉ・・・・」と微妙な相槌をうった。

「そんなものか?」とボクの気持ちがひっかかった。

<受付嬢>
採用する際、美しいかどうかを問えなくなったので、派遣社員が増えた。





  1. 2012/10/23(火) 07:02:13|
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俳優、大滝秀治さんのこと

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<以前に画いた大滝秀治さんの似顔絵。>

俳優、大滝秀治(おおたきひでじ)さんが亡くなられた。

87歳だった。ご冥福をお祈りします。
ボクが大好きな俳優さんだった。
手術を選ばないで、おだやかな亡くなり方だったようだ。それは本当に良かったぁ。

「夏の暑いときには亡くならないの、秋になって暑さが和らぎ、暮らしやすくなると逝くのよ、厳しい暑さを乗り越えてホッとしたときに逝くのよ。」
ずいぶん前だが、人が亡くなるときのそんな話をきいたことがある。
妙な説得力があって、腑に落ちた。

あらためて、大滝秀治さん、良い役者でしたねぇ(強く思う)!
出てくるだけで、締まるというか、映画(ドラマ)に現実感が出るというか、いい感じの画面になる。

今、ボクが良い役者だなと思う人を、思いつくままにあげてみる(なるべく現役から)。
桃井かおり、山崎努、奥田瑛二、中谷美紀、笹野高史、(故)原田芳雄、北野武、堺雅人、橋爪功、樹木希林、奈良岡朋子(おなじ劇団「民芸」だ)、小林薫、三国連太郎、上川隆也、・・・

大滝さんは、終戦後、劇団「民芸」に入団。役者をめざした。
しかし、「民芸」の大物、宇野重吉に「君のその声は人に不快感を与える。役者に向いていない。」といわれて、裏方に回ったという(もう、ご存知でしょう)。
それが、いまや屈指の俳優(ボクはそう思っている)になった。

そういうものだろうなと思う。
役者本人の努力も当然あるだろうが、本人の性格や考え方、時間や偶然、選択や運などなどが重なって、大滝秀治さんのような役者が出来上がったと想像している。
貴重な役者さんだった。

大滝さんは「名わき役」の定評があるが、
以前に「うちのホンカン」という駐在さんのドラマで主演を演じている。
人気のある若い役者を主演に据える映画ばかりが作られるが、大滝さんのような役者を主演にすえる映画があっていいと思っていた。


ある時、有名な映画監督が「芝居はしなくていいよ!」と役者に要求した。
わざとらしい演技はするな、ということなのだろう。
監督「それじゃあ、もう一度」
役者が演技をする。
監督「普通、君はそんな風にして振り返るのかい?そうじゃないだろう、もう一度」
役者「・・・・」

演技をしない演技をもとめられる。

そんな話を思い出した。



大滝秀治さんの訃報をきいて、今回の内容にしました。
もう一度、ご冥福をお祈りします。






  1. 2012/10/09(火) 07:06:35|
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バカなまね?(ジョーク)

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帽子の男に若い男が相談をもちかけた。

「ボクは5ヶ月前から、素敵な娘と同棲しています。
彼女は美しく、利口で、愛想が良く、可愛らしい。
アッチの相性もバッチリ!何度もしたい・・・(しらんがな!)。

僕たちは、たがいに認め合っています。口喧嘩などしたことがありません。
彼女とボクは心から愛しあっているのです。
 
そこで、ご意見をおききしたいのですが、ボクは彼女と結婚したほうが良いのでしょうか?」


帽子の男は、それをきいて即座に答えた。
「若いの!そんな素晴らしい関係を台無しにするバカなまねは、止めな!」

「・・・・」





追伸(今回のテーマとはまったく関係なし)

ゴーヤをいただいた。
まずは「ゴーヤチャンプルー」
次は「おひたし」でいただいた。
「おひたし」はなかなかイケル!

ゴーヤを水洗いして、スプーンで種をかき出しながら思った。
「ゴーヤの皮はゴジラっぽい」と。





  1. 2012/10/02(火) 07:07:27|
  2. ジョーク
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