ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

身も蓋もない!

tsukitumetara12.jpg

「人間は煎じつめれば、消化器と生殖器でなりたっている」
フランスの文学者グールモンの言葉だという。

これでは身も蓋もない。
でも、これぐらい言ってくれると、チョット気持ち良い!

「キレイだとか、カワイイとか言っているけど、一皮むけば、人間なんて小便とウンコのタンク(貯蔵庫)なのよ!」
というのも聞いたことがある。下品だが、チョット気持ち良い!

話は変わる(いつものように)。
最近の若い女は「ムダ毛の処理」とか言って、体毛を剃ってしまったり、脱毛したりする。
一部を除いてツルツルだ。だから、女の体というものは、そういうものなんだ、と思ってしまう男もいるという。
たまに、「ムダ毛の処理」を怠った女?と会い交えるとショックを受けるらしい。

イラストの女には腋毛を画きいれた。
ずいぶん前の外国映画で美女が腕をあげると、腋毛がフサフサとあったのを覚えている。
一瞬、「おおっ!」と興奮した。雌的セクシーさがある。

デオドラントのテレビCMで、カワイイおねえちゃんが腋の下を見せるのがあるが、ドキッとするときがある。
「おお、大胆な・・・」と思ったりする(知らんがな!)

毛はセクシーさのひとつだと思う。
ときにはフサフサ、ときにはツルツルとお願いしたい。

後ろから、「なんのこっちゃ、アホなこと考えとらんと、サッサと仕事をせんかい!」
「そんな、ポンポンポンポン言われたら、身も蓋もない・・・」





  1. 2012/11/27(火) 07:20:05|
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続けて堺のことや堺(信長夜話・その56)

前回の「信長夜話・その55」に続いて、戦国時代の「堺」のこと。

永禄十一年(1568)10月2日、織田信長は、摂津、和泉に矢銭(やぜに、軍資金)を課(要求)した。
堺には二万貫!という巨額の矢銭であった。

「なにーぃ!二、二、二万貫やてぇ!」
堺の会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)は抗戦の構えをみせた。

上洛を果たして、西国街道沿いをまたたく間に制圧した信長に対して、抗戦の構えをみせたぐらいだから、堺の自信は大したものだった。
それを裏付ける力が、当時の堺にはあったのだろう。

ドラマでは「武力で脅す戦国大名と、経済力と文化力でそれに対抗する堺」といった描かれ方をされる。
戦国大名(信長も)が悪者で、堺が良い者という対比だ。(わかりやすくしたつもりなのかな?)

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《濠と塀に囲まれた堺とした。木製の塀とした。いざというときにはこれに泥を塗り、燃え難くしたという。
塀のなかには兵が駐屯している。堺の自前の傭兵か?三好氏の兵か?

こういう鳥瞰のイラストを画くのは面倒だが、楽しくもある。
「犬も画いちゃおー!ガキが走りまわっているところも画いちゃおー!ここにも足軽を画き入れちゃおー!女も画いちゃおー!」という具合》




イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた(『耶蘇会士日本通信』)。

さらに、宣教師ルイス・フロイスも、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして、国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と書いている。

当時、堺は日明貿易、琉球貿易、南蛮貿易の拠点として国際貿易都市になっていた。
戦から町を守るため周囲に深い堀を廻らせ、門も作られ、戦いが起きると門が閉ざされるようになっていた。
言ってみれば城塞都市だ。

このような防衛設備があったから、堺は戦国大名達や寺社の干渉を受けることなく、明をはじめ、朝鮮や琉球、東南アジア方面との貿易によって、富を築くことができた。

当時の人口は、京都が約20万人、堺は約10万人ぐらいだったという説がある。
当時の京都を現在の東京だとすると、相対的に、堺は大阪に匹敵するほどの大都市だったことになる。

もうすこし小さくみても名古屋ほどの都市だったのではないだろうか?
都である京を除けば、屈指の大都市だったのだ。


ボクは初めて戦国時代の堺のことを知ったとき、とてもロマンティックな感じがした。
「自由都市・堺」という名前付けに惹かれたのだと思う。
西洋の「自由都市」を学者があてはめたのだろう。

「自由」とは耳ざわりの良い甘い言葉だ。
しかし、今では、いったい、堺のなにが自由だったのだろうか?と思う。

「堺は経済・貿易によって成り立つ、中立公平な自由都市だった」と、簡単に言ってしまうことはできない。
当時の堺の商いの最大のものは阿波、土佐産の木材だったという。
市政に当たった会合衆は、その木材の商売から巨利を得た豪商たちによって形成されていた。

それは、淡路・阿波を拠点とする戦国大名・三好氏の軍事力の保護のもと、商売や輸送を保障されていたのである。
堺と三好氏は、お互いもちつもたれつの関係だったのだ。

どの大名にも属していなかったと思われている堺だが、実質的には“用心棒”の役割を担っていた三好氏を、経済的に支援していたことになり、中立公平だったとはいえない。 

天文15年(1546)に、三好長慶(みよしながよし・信長の前の畿内の実力者)が、河内守護代・遊佐長教(ゆさながのり)の大軍に堺で包囲されたとき、堺の会合衆が仲介役となって、長慶を窮地から救ったこともある。

最近は堺のことを、「自由都市」より「自治都市」と呼ぶことが多い(誤解をまねくからだろうか?)。


堺は、その価値に注目した織田信長に屈服する。自治機能は解体され、信長の支配下(直轄地)に置かれた。
その後、秀吉が大坂城を築くと、堺商人の多くが大坂へ強制移住させられたため、堺の都市機能は低下、同時に全国各地の城下町にも堺商人が移り住むようになったという。

堺では鉄砲の生産が盛んに行われ、
また今井宗久や千利休、津田宗及に代表される茶の湯などが盛んだった。

このころ、堺以外にも大小の自治都市があった。
尼崎、平野郷(現大阪市)、富田林、博多(九州)、伊勢の山田や宇治、など。
織田家の財源だった尾張の津島などもそうだったのだろう。

堺は、おなじく信長から武装解除された今井町(現奈良県橿原市)との交流が深く、「海の堺」に対し「陸の今井」と呼ばれ、今井町は堺同様に自治都市として栄えた。






今井宗久(いまい そうきゅう)のこと
永正17年(1520年)~文禄2年8月5日(1593年8月31日)

戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人、茶人。子に今井宗薫。
通称を彦八郎のち彦右衛門。号は昨夢庵寿林。屋号は納屋。薙髪の後、宗久と名乗る。

祖は近江佐々木氏の末裔(ということは武家の出か?)だという。近江国高島郡今井市城を領したので、今井と称したという。

宗久は堺に出て納屋宗次の家に身を寄せ、武野紹鴎(たけのじょうおう・豪商。千利休の師匠でもある)に茶を学ぶ。
やがて紹鴎の女婿となり、家財茶器などをことごとく譲り受けたという。紹鴎は宗久を信頼したのだ。

当時軍需品としての需要があった鹿皮などの皮製品(甲冑製造などに用いる)を商い、財をなし、さらに各地の戦国大名とのつながりを深めていった(武野紹鴎が皮革を商っていた。)。

永禄11年(1568年)10月、宗久は上洛した信長に摂津の芥川で謁見、名物の松島の茶壺や紹鴎茄子などを献上し、いち早く信長の知己を得る。

同年、信長が堺に対して矢銭(やぜに)2万貫を課した際、会合衆が三好氏の力を背景に抗戦の姿勢を見せたのに対し、、宗久は松永久秀の仲介で信長に謁見し、要求を受け入れるよう会合衆の説得を行い、これに成功した。
宗久49歳、信長35歳のことだった。

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《今井宗久の肖像画は無いようだ。イラストの宗久は、金持ちだから唇が分厚い。
金持の顔(誰というのではなく)というと、「眉が太く、目がちいさく、鼻はボリュームがあり、唇が分厚い、顔のどこかにイボがある」とボクは想像してしまう。

背景の堺の港は本当はもっと小さかっただろう。
実際に、西欧の南蛮船の入港があったのだろうか?ほとんどは琉球(沖縄)や中国の船だったと思う。
それらが西欧の商人、宣教師、物資、を中継してやってきたのだと思う。》




信長は上洛をはたしたばかり、これから、どうなるかはわからない。
信長が石山本願寺(堺の上得意だったといわれる。)や三好三人衆にとってかわることが出きるのか?いまだ読めないときに、今井宗久は信長に賭けたのではないだろうか?

会合衆のなかで新興であったといわれる納屋(宗久の屋号)の地位を上げるため、
露骨に言えば、実権を握るために大博打を打ったのではないだろうか?
そのためには、今回のことを飛躍のチャンスと、これまた畿内での新参者の織田信長に接近した(ボクの想像)。


もし、宗久にインタビューが出来たとしたら(ボクの想像)。

「信長様とのご会見、いかがでしたか?」
宗久「・・・信長様?ウム、尾張守様(信長のこと)のことやな・・・」
当時は名前で呼ぶのは、とても失礼なことだった。
宗久「・・・なんといえば良いのやろ、あのお方は、お考はもちろんじゃが、今までお会いしたどの方とも違うてましたな。体から気というか波というか、こちらに押し寄せてきますのや。時代を捕まえたお方というのは、こういうお方なんやな、と感じましたな・・・」
宗久「ただ、あのお方を理解できる方は少けないやろなぁ・・・」
と、ボクは豪商の宗久のオーラに圧倒されながら、聞いた。


会合衆のなかで、いち早く宗久が信長に謁見したのも、信長の物腰や振る舞い、言葉の勢い、そして気や目の力、を確かめにいったのだとボクは思うのだ。
信長が畿内を治めることに失敗すれば、納屋は大損をし、悪くすれば潰れるかもしれない(ボクの想像)。

会合衆の大勢は反信長であった。実績のある三好三人衆や本願寺のほうがリスクが低いと思った。
ましてや信長からの矢銭2万貫要求など、とんでもない話だったのだろう。


宗久は、信長と会合衆の仲介に成功したことで、
これ以降、信長に重用され、さまざまな特権を得る。
だいたい、信長は命がけで行動する度胸のある男が好きなのだ。

永禄12年(1569年)には、堺近郊の摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職(塩の権利はスゴイですよ!)、淀川の通行権を得る(流通をおさえる)。
元亀元年(1570年)には長谷川宗仁とともに生野銀山、但馬銀山を支配する(銀だ!これもスゴイ!)。

また、河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった(軍需産業だね、これも儲かる!)。
これらにより、会合衆の中でも抜きん出た存在となり、信長の天下統一を支えた。
また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務める。

信長の死後、豊臣秀吉にも仕え、堺の万代屋宗安、住吉屋宗無(山岡宗無)とともに秀吉の御咄衆(政治や軍事の相談役、諸国の動静を伝えたり、世間話の話相手)を務めた。

また茶頭として天正15年(1587年)に秀吉が主催した聚楽第落成の交歓茶事北野大茶会にも協力をし、所蔵茶器が第4位を占めた。

しかし、秀吉は宗久よりも新興の薬種商・小西隆佐や千利休らを重用したため、信長時代ほどの地位ではなかったと言われている。
先代(秀吉からみての信長)の取り巻きは煙たいものだ。
いや、宗久は秀吉というより利休に嫌われたのかもしれない?


文禄2年(1593年)に死去、「本能寺の変」から11年後、享年73だった。著作に茶会記録の『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』などがある。

宗久が橿原市今井町の牧村家(現豊田家)に建てた茶室は、松永安左衛門(電力王と呼ばれた)が昭和15年(1940年)に豊田家より買い受け、小田原市に移築、黄梅庵(おうばいあん)と名付けた。

昭和53年(1978年)、相続人の松永安太郎が無償で堺市に寄贈、市制90年記念事業の一環として昭和55年(1980年)10月、大仙公園内に移築された。宗久の茶室を見ることができるのだ。




<万屋満載>
http://194116410.at.webry.info/201206/article_6.html
を参考にしました。





  1. 2012/11/20(火) 07:18:21|
  2. 信長夜話
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ムチャクチャな話や堺(信長夜話・その55)

織田信長は、将軍足利義昭を奉じて上洛、時を移さず、西国街道周辺を制圧した。

永禄十一年(1568)10月2日、摂津、和泉に矢銭(軍資金)を課した(『細川両家記』)。
石山本願寺に五千貫、法隆寺に千貫余、そして堺には二万貫!という巨額の矢銭であった。
(10月2日、信長は池田勝正の池田城を攻撃中だ)

おそらく、計画のうちだったのだろう。
信長は上洛後、矢つぎばやに事を進めた(信長らしい)。

信長の抵抗勢力は戦国大名や土豪ばかりではない。本願寺や叡山などの宗教勢力(財力と軍事力をもつ)、莫大な経済力を背景に傭兵(軍隊)をもつ自治都市もそのひとつだった。

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《堺の会合衆(えごうしゅう・かいごうしゅう)は、36人の有力商人で構成された。中でもとりわけ有力な10人を納屋衆とよんだ》


信長からの理不尽な要求(堺からみれば)をうけて、堺衆はこれを拒否!防戦の準備をした。
「去年十月ゴロヨリ、堀ヲホリ、矢倉ヲアゲ、事ノ外用意共イタシ候」(『津田宗及茶湯日記』)
さらに、摂津平野郷の年寄衆に対し、共同防衛を促した。

「むちゃくちゃな話やないかぁ、上総介(信長のこと)は狂犬のようなやっちゃなあ。みさかいなく噛み付いてきよる。
尾張の成り上がり者に好き勝手はさせしまへんで!こちかて考えがある。
阿波の三好様と平野郷へ使いを出しなはれ、浪人を集めなはれ!金と種子島(鉄砲)はぎょうさんあるよって!」
(ボクの脚色)

このころ、会合衆(えごうしゅう・かいごうしゅう)はタカ派が優勢だった。
堺の用心棒、三好三人衆の軍事力を頼りにしていたのだろう。
畿内で実績のない信長よりも、今まで付き合いのある三好三人衆のほうが組しやすいと踏んだのだ。


石山本願寺はすんなりと出した。
「五千貫だと?少(すけ)ないな、信長もかわいいことを言う!」と顕如(本願寺宗主)、
本願寺の莫大な財力からすれば、五千貫などハナクソのようなものだ(ボクの想像)。

この後、信長は本願寺と戦うことになるが、その圧倒的財力と軍事力の前に苦戦を味わうことになる。
当時の本願寺は一流の戦国大名以上の力をもっていたのだ。

二万貫の要求は堺からみれば、理不尽にうつったが(ボクだったら、気絶する!)、
信長からすれば、新しい秩序への敵対勢力をつぶすには軍事費がいる。
それをどこから調達するか?もっている所から出してもらおうと思った。
すなわち、豪商や裕福な寺社、などだ。

もし、信長がこのとき「天下一統」(当時は「天下統一」のことをこう言った)を視野にいれていたとすれば(いれていたと思う)、そう考えたのも不思議ではない。
堺が要求をのむのなら、権益を保護し、軍事物資や武器なども堺に発注してやろうと、

また、信長の保護を受けるということは、堺が三好三人衆と上得意の本願寺と距離をおくことになるということでもあっただろう(このころ信長と本願寺の関係は良好)


『こういうことを見るとよう、金持ちになるのも程度ものだで。過ぎれば、怪しげなヤツや良からぬヤツが拠ってくるわなぁ。
たまに、高級住宅街でスゲーッ!と思う家を見かけることがあるが、これでは「ねらって!」といわんばかりだぎゃぁ。もっと質素な家がええんだわ(良いのだよ)!本当に。
結局よう、莫大な金を手にしてもよう、使える金にはおのずと限度があるということだわ・・・』(名古屋の貧乏おじさんの負け惜しみ)。


ところで、信長が堺に課した二万貫とは、現在の価値にすると、どれくらいなのだろうか?
しらべてみたが、なにを基準にするかがムズカシイらしい。
60億、600億、2000億円などの各説がある(幅がある)。

ここは気前よく、2000億としておく(ボクの強引)。
現在、主に国内で活動しているキリンビールの連結利益が凡そ1100億~1200億だそうだ。
スッキリしないが、しかたがない。


信長は堺が要求を拒否したことを知ると、「もっての外の御気色!」。
それを知って堺は震え上がり、上を下への大混乱におちいった。

ところが信長は堺を攻めることはせず、京都に引きあげ、十月には将軍義昭に、大津、草津と堺に代官を置くことを願い出た。ひとまず堺は危機を脱したのだ。
信長は畿内の制圧がこの時点では不十分だと考えたためと思われている。

もうひとつ、信長の態度が緩和したかげには、堺の今井宗久の決死的な嘆願があった。
松永久秀を仲介して今井宗久は信長に謁見。天下の名物「松島」という茶壷その他を信長に献上した。

今井宗久は十月二十七日、明智光秀にあての手紙で、宗久が信長に堺南荘の実情を説明した結果、信長がこれを了解し、堺衆と会見することになった。とある。


その後の「信長と堺」の関係を続けて書く。

三好三人衆は信長が岐阜に帰ったスキをついて、翌年正月五日、将軍義昭を京都、本圀寺(ほんこくじ)に攻めるが失敗(六条合戦)する。
このとき三好勢は堺浦に勢ぞろいしたとあるから、堺の商人が手引きしたのだろう。

六日、義昭方の三好義継(三好三人衆ではない、ややこしい)らは山城(京都府)桂川に三人衆の軍を破り、阿波(徳島県)に追ったあと、堺に進んだ。
正月十日、堺の南北荘へ使者をつかわして、堺衆が三好三人衆方を助けたことを責めた。

堺の南北の荘民は恐れをなし、足弱(老人や子供)や荷物(財産か?)などを根来、粉川槇尾寺などに隠し、再び抗戦の構えをみせた。
しかし、結局屈服した。勝ち目なしと判断したのだろう。

二月十一日、堺接収に信長の使者が派遣された。
ここに堺の会合衆(えごうしゅう・かいごうしゅう)は、矢銭二万賞を出したうえ、傭兵などをかかえないことを信長に誓って、ようやく許された。
信長は堺の諸問屋に厳しい年貢を課したため、代表の十人が岐阜にまでおもむいたが、かえって獄に投ぜられ、八人が自決し、二人が堺に逃げ帰った。

信長はこの年二月、軍勢三千をもって別所に陣取り、港町尼崎に矢銭を要求。これを拒否した尼崎衆と戦いをまじえ、四町の間をことどとく焼きつくした(尼崎も自治都市だった)。
堺があくまでがんばれば、尼崎と同じ運命になっただろう。
この危難を救ったのが、今井宗久だったのだ。

信長は戦わずして堺を手に入れる見通しがたったため、堺を引きあげた。
自由都市「堺」は、信長の前に解体したが、その解体は、堺の住民の内部分裂によるものであった。

永複十二年、堺の南荘を安宅信康に、北荘を今井宗久の手引きにより自治体制のまま信長に従属させた。
元亀元年(一五七〇)、松井友閑を政所に任命。
結局、信長は堺を掌握し、その運営は会合衆に任せ、大局をおさえる程度にとどめた。


信長が堺に期待したのは、豪商のもつ物資交換の機能と交通輸送の手段だったといわれる。
とりわけ天王寺屋の津田宗及(つだそうぎゅう)と納屋の今井宗久(いまいそうきゅう)を重用した。

かつて本願寺の御用商人であった天王寺屋は、本願寺を離れて信長に接近、
天正二年には岐阜城において、ただ一人、信長秘蔵の名器を拝見し、歓迎をうける。
そして、信長がもっとも登用したのが今井宗久(納屋)だった。


次回、『信長夜話』は「堺」と「今井宗久」について書くつもりです。
「掘り下げたい」の心だーっ!





<信長と堺の豪商>
http://www.nobunaga-lab.com/labo/05_seisaku/05-01_naisei/05-01-01_keizai/sakai-gousyou.html
を参考にしました。






  1. 2012/11/06(火) 07:28:20|
  2. 信長夜話
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