ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

六条合戦(信長夜話・その58)

今日は12月25日、クリスマスイブはいかがでしたか?
ボクは鮭の鍋に熱燗でしたが、

寒波が押し寄せている。とても寒いですね!
443年前も、そんな寒い冬だった・・・


織田信長は上洛を果たし、足利義昭を室町幕府15代将軍に就け、岐阜へ帰還した。
上首尾の永禄11年だったことだろう。

しかし、年が明けて、永禄12年1月4日(1569年1月30日)三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は堺で軍勢を整えると、京に進み、義昭の仮御所、本圀寺(ほんこくじ)を取り囲んだ。
信長が岐阜に帰っていることを狙って押し寄せたのだ。

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《イラストは本圀寺を包囲する三好勢。三好勢の突入にそなえる明智光秀以下の本圀寺の警護部隊とした。手前が本圀寺境内。
突入にそなえて鉄砲隊を配置している。
冬まっただ中、西日本までシベリヤ寒気団に覆われ、とても寒い天候だった。雪が舞っただろう。(京は夏は暑く、冬寒い)》



義昭側の兵力は奉公衆と明智光秀を中心とする近江、若狭の国衆だったといわれている。2~3千という説がある。
かたや、寄せ手の三好三人衆の兵力は、書きしるしたものが見つからないが、総勢1万(不確か)は下らなかったのではないだろうか?

劣勢の義昭側は本圀寺に立て籠もる。しかし、本圀寺は所詮、寺である。軍事施設ではない。陥落は時間の問題と思われた。
しかし、本圀寺の警護部隊は奮戦する。

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《本圀寺の警護部隊の山県源内の奮戦とした。敵将、薬師寺の旗本へ突入して敵勢を切り崩したといわれる。
イラストは山県源内を単独のように画いたが、実際は乱戦のなかでの活躍だったのだろう。
山県源内は激闘ののち討死する。
山県源内の肖像画は見当たりません。よってボクのデッチあげ。
イラストのように刀で鎧武者は切れないのでは?と思う。》



『信長公記』には・・・
「三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し、薬師寺九郎左衛門を先懸けに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた。
門前はまたたく間に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち、敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた。

このとき寺内にあって公方様(義昭)を警護していたのは、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らであった。

このうち若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く、そろって敵将薬師寺の旗本勢へ突入し、並居る敵勢を切り崩して激闘した。
しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き、両名とも槍下にて討死した。

他の御所勢も奮戦し、敵が突入してくればその都度これを押し返し、なかには敵勢三十騎を一度に射倒して敵が算を乱す場面も見られた。三好勢は攻めあぐねた。」(『信長公記』現代語訳)


寄せ手のなかには、かつて、信長に美濃を追われた前の美濃領主、斎藤龍興が参戦している。

結局この日は、警護部隊の活躍もあって本圀寺は陥落せず、日暮れとなったため、三好勢は兵を収めて翌日の戦闘に備えた。

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《桂川近くでの三好勢とぶつかる畿内から駆けつけた救援軍とした。
手前、鉄砲隊が救援軍。》



ふたたび『信長公記』から・・・
「そのような中、三好左京大夫義継(三好長慶の甥。このときは三好三人衆と対立していた。ややこしい)・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆らの援軍がようやく到着し、桂川河畔で三好勢とぶつかった。

戦は黒煙うずまく激戦となったが、救援軍は三好三人衆側の高安権頭ら敵方の大将を次々と討ち取って勝利を得、三好勢の撃退に成功した。
 戦の後、救援軍は岐阜の信長公のもとへ急使を送って変事出来を知らせた。」(『信長公記』現代語訳)


救援に駆けつけた「池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆」とは信長上洛後に配下になった畿内の有力国衆だ。
「戦は黒煙うずまく激戦となった」と『信長公記』にあるが、民家に放火でもしたのだろうか?
この後、三好勢は阿波(徳島)に退却したという。

それを追って救援軍は堺にせまり、今回、三好勢に肩入れした堺を糾弾した。<「続けて堺のことや堺(信長夜話・その56)」>を参照してください。

この事件(戦)を「本圀寺の変」と呼ぶ。「六条合戦」とも呼ばれている。
(ボクは「六条合戦」のほうが良いと思う。)
後の「本能寺の変」を思わせる(顔ぶれのなかに明智光秀がいる)。

この「六条合戦」(「本圀寺の変」)は、普通、経過をふれることがありませんが、
ドラマティックだとボクは思う。


信長は救援軍からの知らせをうけ、岐阜城でこの事態を知る。
この日は、グっと冷え込んでいた。
「誰かある!」
「ははっ!○△□、これに!」
「馬ひけーっ!」
おりからの雪(おそらく)。信長は京に向けて脱兎のごとく岐阜城を飛び出す。

次回の「信長夜話」はそのあたりを書きたく思っています。

今年はこれが最後の投稿です(今年も暮れる!)。
<ブエノス小僧のイラストブログ>をご覧いただき、ありがとうございました。
良いお年を・・・



(注)<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html








  1. 2012/12/25(火) 07:17:52|
  2. 信長夜話
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五番に省略(信長夜話・その57)

織田信長は上洛後の畿内平定をひとまず終え、河内、摂津などの守護を定め(決め)た。
10月14日、足利義昭とともに、京へもどる。
信長は清水寺に、義昭は本圀寺(ほんこくじ)に着陣した。

信長は自軍の統制を厳しくして、天皇、公家、さらに京市民の世論を味方につけることに気を使った。
永禄11年(1568)10月18日、義昭は参内(さんだい)、征夷大将軍の宣下(せんげ)を受け、15代室町将軍となる。

三好三人衆が擁立した先の将軍、義栄(よしひで)は9月に亡くなっていた(権力に翻弄された人生だった)ので、問題はなかった。
はれて、義昭は長年の夢であった征夷大将軍に就任したのだ。
これからも、信長の補佐を頼りに、幕府権力を再構築し、自分を中心とした幕府の夢を描いていただろう。
義昭は人生最良の日を迎えていた。

同月23日、新将軍、義昭は仮御所であった細川邸で能楽を張行(ちょうぎょう、日本語はむずかしい、そしてカッコイイ!))する。主客は信長だった。

『信長公記』は書いている・・・

『細川邸に観世大夫を招いて観能の会を催し、このたびの戦で粉骨の働きをした面々を招待した。

演目は吉例(きちれい)の「弓八幡」を脇能として十三番が組まれていた。
しかし演目を見た信長公は、
「いまは隣国平定をいそぐ時である。これで弓矢が納まりしなどとは、考えも及ばぬ」といって、五番に省略してしまった。

この前後に義昭殿は信長公のもとへ再三にわたって使者を遣わし、副将軍・管領への就任を要請していた。
しかし、信長公はこれを辞退して受けようとはしなかった。
この辞退を「まことに奥床しき振舞い」ととった都の人士は、一様に感心した。

さて、能楽の演目は以下のようになった。
脇能「高砂」、二番「八嶋」、三番「定家」、四番「道成寺」、五番「呉羽」

脇能がおわったあと義昭殿からお召しがかかり、信長公は義昭殿の近くへ参上した。
信長公に義昭殿はみずから酌をして酒を注いでやり、さらに鷹と鎧を下賜した。
武門の名誉これに過ぎたるものはなかった。

このあと義昭殿は四番の道成寺で信長公の鼓を聞きたいと言い出したが、信長公はこれをことわった。
演目は終了し、一座の者には信長公から盛大な引出物が贈られた。

この観能の会からまもなくして、信長公は分国中に数多存在していた諸関税の廃止を実行した。
旅人の往還の便利を考えての政策であり、人々は貴賎を問わず大いに喜んだ。』
(『信長公記』、現代語訳)

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《ボクは能のことはほとんど知らない。
歴史のことを書いていると、たびたび自分の知識外のことにぶつかる。
自分が読み手の場合は適当でも良いが、書き手になるとそうはいかない。
ましてや、イラストを画くから、装束や当時の服装も重要だ(江戸時代風になってはいけない)
めんどくささと楽しさが同居する。
イラストは信長に将軍、義昭みずから酌をするところとした。「こんなにウレシイことはないぞ!ささ、ささ(酒)を・・・」と、
義昭は酌をしながら、信長の目の奥を推し量った(ボクの想像)》。



信長は義昭が企画した能楽、十三番を勝手に五番に省略してしまった。
ひょっとすると、信長は長い酒宴が苦手だったかも?(信長は酒を飲まない。甘党だった。)

「尾張守(信長のこと)はハッキリとした物言いをする男だな。まあ良い・・・」と、この時点では義昭はそう思ったのではないだろうか?
なんと言っても、信長なくしては、将軍就任はありえなかったのだから、

すこしムッとしたが、その気持ちを押さえ込んだ。
義昭みずから酒の酌をしている。
足利義昭は信長に対して、最大限の感謝と気使いをした、と考えられている。


能楽の演目を省略し、「鼓を打って欲しい。」と言われて断わり、
さらに信長は、義昭からの何度もの副将軍か管領への就任要請も断っている。
おそらく、丁重にだろう。
何度も丁重に断わるとイヤミではある。

幕府要人になることなど、サラサラ思っていなかった。
即答をしているように見えるから、信長は前から決めていたのだろう。

結果的に義昭は信長に探りをいれたかたちとなった。
「なに?尾張守(信長のこと)が断わったとな?副将軍・管領といったら、喜んで受けるヤツばかりなのにのう。さてさて?・・・」
義昭に不確かな疑念が生じた。
と、ボクは深読みしたい気がするのだが・・・

これが秀吉なら、これらの将軍からの申し入れは「ははっ!ありがたき幸せ・・・」と受け、
鼓は打つは(秀吉が打てたかはわからないが)、副将軍にはなるは、だっただろう。
自分が幕臣になろうと、実質権力を自分が握り、おいおい解らせれば良いのだから。

信長の生真面目な一面がうかがえるような気がする。
これも信長らしい(きもちいい!)。

脱線するが、義昭が信長に「鼓を所望」したところをみると、信長は鼓を打てたのだろう。
当時の教養だったのだろうか?もし、そうだとしたら、戦国大名の教養は想像以上のように思う。(信長は若いころ、尾張津島の祭礼で鼓を打ち、女舞いをしている。)


10月24日付けで義昭は信長に二通の御内書(ごないしょ、将軍の書状)を送る。
一通は今回の上洛にたいする感状(戦功を称えたもの)。
もう一通は、足利氏の紋章、「桐」と二引両(にひきりょう)を許可したものだ。
この二通の御内書には「御父、織田弾正忠殿」と書かれていたのは有名。

さして年齢が離れていない信長を、今や将軍となった義昭が「御父」と呼んだ。
「これからも私を補佐してほしい!」を言外にこめたのだろう。
(義昭は「ゴロにゃん状態」だったのだろうか?)

10月26日、信長は京を発ち、居城である岐阜への途についた。


その二通の「御内書」は以下のごとく(読まなくても良いですよ。参考です)

今度国々凶徒等、不歴日不移時、悉令退治之条、武勇天下第一也、当家再興不可過之、
弥国家之安治偏憑入之外無他、尚藤孝・惟政可申也
十月二十四日   御判
御父織田弾正忠殿

御追加
今度依大忠、紋桐・引両筋遣候、可受武功之力祝儀也。
十月二十四日   御判
御父織田弾正忠殿



<脇能のこと>
脇能とは神を主人公とした演目。
内容も、めでたいものが多い。

能の演目は、5種類に分類されるという。
それぞれに番号がついていて、脇能は1番目と呼ばれる。
2番目は修羅能、3番目は鬘能、4番目は雑能、5番目は切能と呼ばれる。

「高砂」の謡は、
「高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で汐の、波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり」だ。
和式の婚礼で謡われるアレだ。


信長の岐阜帰還を知って、一度は信長によって追い払われた三好三人衆が動く。
次回、「信長夜話」はその辺りを書くつもりだぞ~っ!



(注)<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html








  1. 2012/12/18(火) 07:20:25|
  2. 信長夜話
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せんえつが・・・

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「せんえつが 長々しゃべる ごあいさつ」  川村 均 作

最近、気に入った川柳。
頭の「せんえつが」が良い。

よくある光景(話)だ。


結婚式で、来賓スピーチに立った人が、ゴソゴソと上着の内胸から紙を取り出すと、いやな予感がする。「こりゃ長くなるぞ~!」と、

何度もスピーチの練習をしたであろう、その人には悪いが、練習をしたスピーチは、たいてい面白くない。
大まかなところは掴んでおいて、あとは適当に話すスピーチのほうが新鮮な感じがして面白い。即興感がある。


以前、知り合いから、「今度、結婚することになったのですが・・・」と結婚式に招待された。
4~5回しか会ったことのない知人だった。
「結婚式に出席するほど親しくはないが・・・?」と思ったが「出席させていただきます」と快諾した。

彼は再婚だった。それもあって来賓の人選に気をつかう必要があるのだろう?頭数がほしいのだろう?とボクは想像した。

結婚式当日、自分の名札を見つけて着席する。最前列のテーブルだった。
知った顔はいない。
式が始まる直前、司会者がボクのもとにやってきて、「来賓代表で最初のスピーチをお願いします。」と、

祝い事だ。「OK」した。
ボクが新郎と知り合ったころの印象を話せばいい(それしか話のネタを思いつかない)。
それもブッツケ本番が良い。すこしツっかえたとしても、臨場感があって良いだろう。
今までもそうしてきた。


乾杯があり、ご指名があり、ボクはマイクスタンドに移動、
会場を見渡して「ハッ」とした。
唯一のネタ、「ボクが新郎と知り合ったころの印象」を話しても良いのだろうか?

それは、前妻との離婚前の話ではないのか?
「このネタはマズいかもしれない?」
頭のなかが真っ白になった。

狼狽と沈黙の後、
「・・・今日は○△さん、ご結婚、おめでとうございます。・・・」

たったこれだけ。来賓代表のボクのスピーチとなった。

短いというか、つまらないというか、「なにそれ?」というか、「アホか?」というか、・・・

それ以来、人前でのスピーチが苦手になった。






  1. 2012/12/04(火) 07:07:22|
  2. 川柳
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