ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

空気圧

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「女房の 帰宅が分かる 空気圧」
土方 昭光さんの川柳 です。

「空気圧」が良いね。


ある時から、帰宅するときの女房の気配が分かるようになる。
そうなんですよね、感じるようになるんですよ「空気圧」

「解るなあ!この感じ!」という一句。


今回、おばさんを画くのに服装でチョット手こずった。
スーパーで買い物(ボクは日常の買い物をする)のときに観察した。
おばさんの多くはスラックス(ズボン、パンツ、パンタロン?)を着用していることがわかった。

スカートは若い女が、おばさんに比べて多い。
若い女は肌を見せる分量が多い。
「生殖の理屈からいっても、そうなるよな・・・」と、妙に納得。







  1. 2013/01/15(火) 06:58:54|
  2. 川柳
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急ぎ京へ!(信長夜話・その59)

年が明けてもう1週間が過ぎましたね!
平成25年度の「箱根駅伝」もアッと言う間に走り去っていきました。

さて、今回の話であります。
それは444年前の過去に走り去っていった出来事です。


永禄12(1569)年正月4日(西暦1月30日)、三好三人衆は信長が岐阜に帰っているスキを衝いて、今や将軍となった足利義昭の御座所、六条本圀寺に攻め寄せた。

これに対し、義昭の警護部隊は奮戦。
さらに畿内の義昭(信長)側の国衆が救援に駆けつけ、桂川で三好勢とぶつかった。
形勢逆転、三好勢は退却した(ここまでは前回の<信長夜話・その58>で書きました)。

戦の後、来援軍は岐阜の信長へ報告のため急使を送る。
急使は、6日に岐阜へ到着。
京~岐阜間を約一日半ほどで駆けたことになる(普通三日の道のり)。

<信長公記>は書いている・・・
『三好勢来襲を知らせる急使は、6日に岐阜へ到着した。
美濃から京に向かう道筋は、このとき折り悪く大雪となっていた。

しかし信長公は時を待たず今すぐに上洛すると触れを出し、大雪の中をまっさきに飛び出して悍馬にまたがった。
馬借の者たちはあわてふためき、一刻も早く荷造りを終えようとして荷物を奪い合った。

信長公は仕方なしに馬を下り、荷物を一々検分してやり、「いずれも同じ重さである。早う致せ」と促した。
奉行の者が依怙贔屓でもしているかと慮ってのことであった。

雪中での行軍は困難をきわめ、下々の者の中には凍死するものもあった。
しかし信長公は通常三日の行路を二日で踏破し、馬上十数騎余りで京都六条へ駆け入った。

信長公は味方が堅固に守って御所を維持したことをよろこび、手柄をたてた池田清貧らに多大な恩賞を与えた。
諸将は天下に面目をほどこした。』<「信長公記」現代語訳>


太田牛一(『信長公記』の筆者)ならではの描写だ。はやる信長、慌てる家来が見えるようだ。
荷物の検分のくだりなど、牛一は岐阜城で、出撃の様子を見ていたのではないだろうか?


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《京からの急使。大雪のなかを駆けてきた。
「仔細、あいわかった。すぐにお館様(信長)にお告げする!」
「おい!鼻水をぬぐってやれ。飯の用意をしてやれ!火のそばで温まるがよいぞ。」と、(ボクの想像)》




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《信長は厠(かわや)から出て手水(ちょうず)をつかっていた(信長だって、屁もすれば、クソもする。下品ですが、)。そこへ急使からの報告をきく。
「なにぃ!誰かある!」
「○△□これに!」
「馬ひけーっ!」(ボクの想像)》



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《雪の岐阜城を飛び出す信長。ポポッポポッポポッポポッ・・・(雪は馬の足音を吸収する)
「急ぎ感」を出すため全速で走る信長を画いたが、襲歩(しゅうほ;gallop, ギャロップ、全速走行のこと)では岐阜~京都は走れない。
実際は駈歩(かけあし・キャンター)で走らせるのがほとんどで、ときどき襲歩という走り方だったのではないだろうか?

馬が疲れて走れなくなれば、代わりの馬が必要だ。
信長一行は代わりの馬を連れていったのだろうか?それとも途中で調達したのだろうか?

もし、調達できたとしても、馬は生き物だ。馬齢もあれば、調教された馬でないと走れないように思うのだが。
そのあたり興味がある。

馬上の信長のいでたちは、笠にマントとした。鎧などは着用していなかっただろう。》



この時の経路は、岐阜→大垣→関が原→彦根→守山→京、だったと思われる。
関が原付近は大雪だったのだろう。「信長公記」には凍死者が出たと書いてある。
現在でも雪の難所だ。東海道新幹線が遅れる原因になったりする。

そんな雪のなかを信長は京へ急いだ。二日で京に到着した(普通三日の道のりだ。雪だからもうすこしかかるだろう。)。
なんとか信長につき従ったのは十数騎余りだったという。「桶狭間の戦」の出撃を思わせる。

信長は乗馬を得意とした。馬は駿馬だっただろう。付き従うのは大変だ。
もし、間に合うようなら、信長は自ら戦の指揮をとるつもりだったかもしれない。

信長は、義昭を将軍に就けて岐阜へ帰還するとき、畿内を短期間で平伏させたから、京はひとまず大丈夫だと思っていた。
年が明けたら、上洛してさらに強固なものにしようと思っていたのだろう。

信長は、「武家の頭たるもの、自分の配下に対して脅威を与えたり、危害を加えるものがあれば、それらに制裁を加え、頭たるものの気概を示さなくてはならない。
そうでなければ、誰がついて来るというのだ」と、
ましてや、自分が後見している将軍に対しての攻撃である。「スグさま、そやつらを打ち負かしてやる」と思っただろう。

当分の間は将軍の権威と信長がもつ武力の二本立てで京周辺を、さらにその外周を、そして日本を平定していくつもりだった(このころ日本を統一するという思想をもっていた戦国大名は少ない)。

今回の事変の結果、スグに信長は決意する。
「本圀寺のような寺ではダメだ。将軍にふさわしい城の機能をもつ二条御所(足利義昭の御座所、現在の二条城ではない)の造営をするぞ!」と、
それも急がなければならない。

そしてもうひとつ、岐阜~京は遠い。今回のような急を要するときには遠い。
京の近くに居城を移すことが必要だ、と思った。
今回のことが、安土に城を構えることのキッカケになったのではないだろうか。

ところで、信長に挑戦するも退けられた「三好三人衆」とは、どんな三人衆なのか?
次回「信長夜話」はそこんところを掘り下げたいのだーっ!(マイナー!)




(注)<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html






  1. 2013/01/08(火) 07:22:13|
  2. 信長夜話
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