ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

帽子だけをとった(信長夜話・その61)

足利義昭は将軍に就任した。
1569年(永禄12年)六条本圀寺に三好三人衆による襲撃を受ける。

この報を受けた信長は義昭の居所に防備の整った城が必要と思い、義昭のために築城をすることを決める。
場所は足利義輝の二条城のあった場所を中心にした約400メートル四方の敷地に、2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造とした。

細川藤賢の旧邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。
築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移す。

城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われたという。
周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。

信長自身が普請総奉行として現場で陣頭指揮をとり、大工奉行には村井貞勝と島田秀満(二人とも信長の吏僚)が任じられた。
総大将自らの陣頭指揮だから、サボったり出来なかっただろう。

信長は城普請のさなか、和田惟政(わだこれまさ)の仲介でイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスと会見することになる。
信長は城の普請現場を会見の場に指定したようだ。信長は立話を好んだといわれる。
かしこまったのを嫌ったのだろう。

froisekken32.jpg
《挨拶に訪れたフロイス一行を上から見たところとした。
通訳として日本人がいたにちがいない。影から信長が見ていたと思うとオカシイ!》



その会見の前日、前もってフロイスは信長のところに挨拶に行く。
信長への贈り物として、大きなヨーロッパの鏡、美しい孔雀の尾、黒のビロードの帽子、ベンガル産の藤杖をもっていった。

しかし、信長は遠くからフロイスを観察しただけで、言葉は交わさなかったという。
(柱の影から盗み見ていたのだろうか?)
フロイスに食事をとらせて帰らせた。

贈り物はビロードの帽子のみ受け取って、他は返した。信長は貧欲ではない。
ヨーロッパの帽子は戦国大名(武将)にとても人気があったという。

後に、信長は「予が伴天連を親しく引見しなかったのは、他のいかなる理由からでもなく、実は予は、この教えを説くために幾千里もの遠国から、はるばる日本に来た異国人を、どのようにして迎えてよいか分からなかったから・・・」と佐久間信盛(重臣、筆頭武将)に話したという。
信長36歳、フロイス38歳だった。

なんと!何事にも気後れなどしなさそうな織田信長が、西洋人に躊躇?しているのがオカシイ!
「妙なヤツが来たなぁ。どうすりゃえんでぁ?もう・・・(名古屋弁)」と言ったかどうか?
街中で、道順をききたがっている西洋人と目を合わさないようにしているボクとあまり変わらない。

こんなエピソードが史実として残っていることにボクは驚く。

「信長夜話」は、これから数回にわたって、織田信長と伴天連のことを書くつもりだ。
当時の日本で進歩的と思われ、いまや畿内の実力者、信長が異文化に触れるのだ。

次回、「信長夜話」は二条城の普請現場でのフロイスとの会見のありさまを書きたい。  



<ルイス・フロイスのこと>

(Luis・Frois,1532~1597)戦国時代のポルトガル人宣教師。

1532年にリスボンに生まれる(信長より二つ年上)。
1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕える。
1548年、16歳でイエズス会に入会。
同年3月、当時のインド経営の中心地であったゴアに向かい、そこで養成を受ける。

ここで日本へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。
これが後に、彼を日本へと向かわせる直接のきっかけであったといわれる。

luisfrois13.jpg
《フロイスの肖像画は見つかっていない。ボクの想像で画いた。
フロイスは1563年(この年、信長は清洲から小牧に移った)に日本にやって来て、苦労している。
石などをぶつけられたこともあったかもしれない。だから苦労顔とした。》



1563年(永禄6年)、司祭となっていた彼は、ついに日本行きを決意、九州の横瀬浦(現・長崎県西海市)に上陸。
戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘する。

1569年(永禄12年)、織田信長と二条城の建築現場で初めて対面する。
フロイスは信長に気に入られ、畿内での布教を許される。

天正三年(1575)教会の建設を思い立ち、翌天正四年春に完成する。二階建てだったという。
南蛮寺(なんばんでら)と呼ばれ京の名所になった。

その後、九州で活動、ヴァリニャーノに従って信長や秀吉との対面。
1597年(慶長2年)『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に、7月8日(旧暦5月24日)長崎に死す。65歳。
フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

息を引き取る前、子供のころのリスボンの路地や景色がよぎったかもしれない(感傷的かな?)


フロイスはその文才を認められ、日本における布教活動と活動報告書の作成、および上司のヴァリニャーノやガスパル・コエリュから作成の命を受けた『日本史』を執筆する。

フロイスは日本人なら、気にもとめないことも執拗に観察して書きとめた。
日本の戦国時代の大変貴重な資料を残したのだ。

フロイスは高校の日本史などには出てこない。
ボクは名前を知っていた程度だったが、以前、松田毅一著「南蛮太閤記」朝日新聞社¥700(税込み)を読んで、おおげさだが、鳥肌が立った(感動して)。

フロイスは信長や秀吉と対面したが、その印象を書き残している。
それは、信長が目の前にいるような臨場感がある。

フロイスの執筆した『日本史』とその数奇な運命について書きたく思っている。

フロイスに限らないが、宣教師たちはこの時代に、よくも日本まで来たものだと思う。
船旅だけでも危険な賭けだ。

戦国時代の武士にも思うのだが、自分の命をどう考えていたのだろうか?
ボクは興味がある。


松田毅一著「南蛮太閤記」を参考にしました。一部を引用しました。



  1. 2013/02/19(火) 08:59:29|
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三好三人衆(信長夜話・その60)

永禄11年(1568)織田信長は上洛後をはたして畿内を平定。
義昭は参内(さんだい)して15代足利将軍となる。
当初の目的を果たした信長は岐阜に帰還した。

ところが、信長の岐阜帰還のスキを衝いて三好三人衆が動いた。
堺浦に軍勢を整えると、足利義昭のいる本国寺に向かいそれを包囲、「六条合戦」が起こる。


ところで、その「三好三人衆」とは、どんな三人衆なのか?

織田信長を主役とするドラマや小説は多い。
信長と敵対した三好三人衆は仇役として登場することになる。
ボクは脇役や仇役に興味がある。

当たり前だが、脇役にも人生がある。
いや、どんな人にも人生の春夏秋冬があるのだ。

織田信長の上洛直後の畿内平定戦は、三好三人衆を駆逐するのを目標にしたようにボクには見える。
信長は三好三人衆が降参すれば、これを吸収したのだろうが、そうはいかなかった。

これより前、三人衆は足利義昭(信長が後見した15代将軍)を幽閉、14代将軍、足利義栄を擁立した。
当時、三人衆と対立していた松永久秀は信長に接近、三人衆は信長と対立する条件が重なっていた。

「織田信長 対 三好三人衆」、三人衆と言うのが良いね。対照がきわだつ。 
三という数字は収まりが良い。「三匹の侍」「三銃士」「てんぷくトリオ」など・・・


三好三人衆(みよしさんにんしゅう)とは、戦国時代に三好長慶(みよしながよし)の死後、三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好政康・岩成友通の3人を指す。
それぞれが三好氏の一族・重臣であったためこの名で呼ばれた。

三好長慶とは織田信長の前の畿内の覇者。
長慶によって三好氏は最盛期を迎えるが、長慶の晩年から三好氏は衰退する。

三好長慶の時代には、それぞれが軍を率いる一族の重鎮として活動した。
長慶の死後、後継者の三好義継(よしつぐ、長慶の甥)は幼く、長慶の弟達もこの世を去っていたため、この3名が義継を後見した。

松永久秀と共に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺(永禄の変)。
その後、篠原長房・三好康長・筒井順慶と組んで三好義継(後見したはずの義継だ)や久秀と対立した。
これは「三好政権」の弱体の一因となり織田信長に有利にはたらいた。

織田信長の上洛に敵対するも、相次いで敗退。三好三人衆の勢力は衰え、元亀年間には友通が戦死。
他の2人も消息不明となり、畿内における三好氏の勢力の衰退と前後して三好三人衆としての活動は途絶えた。

三好家の一族、重臣同士が争っていたら、東からの大きな脅威(織田信長)が進出してきて、これを蹴散らした。
三人衆は信長と比べて、一回り器量が小さかった。
三人衆の目指したのは畿内もしくは、三好氏内での主導権だったようにボクには見える。

もし、信長が上洛してこなくて、三人衆が畿内の実権を握ることが出来たら、今度は三人衆同士の権力抗争になったのではないだろうか?

miyoshisanninsyuu22.jpg
《三人でなにやらゴソゴソと相談をする三好三人衆。
三人衆というというと、ボクはイラストのような光景を思い浮かべてしまう。
こちらを向いているのが三好長逸。向かって右の背中が岩成友通。左が三好政康とした。
肖像画は見つからなかったので想像で画いた。
背景は三好氏の家紋「三階菱に釘抜」、面白い家紋だと思う。》


では、それぞれについて・・・
(今回の記事は長いので、ここから先はお時間のある方に、)




<三好 長逸(みよし ながやす)のこと>
生年は不明。三好氏の一族。通称は孫四郎、後に北斎と号す。
従四位下日向守。三好三人衆の1人、その筆頭格だった。

『続応仁後記』によれば、三好之長の4男「孫四郎長光」の子が日向守長縁(長逸)であるとされる。

三好長慶(ながよし)に仕える三好一族の1人として、天文18年(1549年)の「江口の戦い」で細川晴元の部将香西元成を攻撃。
翌天文19年(1550年)に京都奪回を図り、近江から攻めてきた細川軍を長慶の弟十河一存らと迎撃して阻止、長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍足利義輝とも戦った(この年、織田信長の父親、信秀が死んでいる。信長19歳)。
天文21年(1552年)長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を出迎えている。

天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応へ播磨の別所就治の三木城を攻撃して付城を落とす。
翌年の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北)など長慶の勢力拡大に貢献。

長逸は三好長慶に信頼されていた。
永禄元年(1558年)5月、再び長慶と足利義輝が対立したとき如意ヶ嶽に陣取り、6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、両者が和睦するまで戦う。
永禄4年(1561年)に長慶の息子義興が義輝を屋敷で歓迎した際、接待役の1人を務めている。

また、久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として同名衆にも列せられ、長慶の弟義賢や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。
同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移る。代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、長逸は芥川山城を任される。

長慶と義興の死後(松永久秀の謀殺説あり)は長慶の甥で幼少の当主・三好義継(よしつぐ)を他の三人衆や松永久秀と共に補佐。
永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた将軍、足利義輝を暗殺した(永禄の変、このとき信長32歳)。

しかし、三好家中の主導権争いから久秀と対立、交戦状態に突入。
三人衆は阿波の篠原長房と義継の大叔父三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦う。
一方の久秀は畠山高政・安見宗房らとともに対抗した。


こうした戦乱の中、永禄8年7月、宣教師のガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛の家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(フロイスの「日本史」)。

フロイスは長逸を「異教徒でありながらも生来善良な人、教会の友人」、また、「天下の4人の執政のうちの1人。堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した。」とも書いている。


松永久秀は紀伊に逃れていた畠山高政・安見宗房らを扇動して高屋城を襲撃する。
永禄9年(1566年)2月に河内において決戦に及ぶが、三人衆は2月17日の戦いで松永・畠山連合軍に大勝する。
筒井順慶と結託して久秀の信貴山城・多聞山城を包囲するが、両者共に決め手が無く争乱は長期化した。

永禄10年(1567年)2月、三人衆に不満を抱いた義継が久秀のもとへ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺(奈良)を松永軍が攻撃、東大寺が焼亡する事件が起きた(松永久秀が焼失させたと言われているが、三人衆側の失火説あり)。

その10日後には長逸の嫡男久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られている。
義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は三人衆方が優勢で進だった。
三人衆が義輝の従弟に当たる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がったのだが・・・


永禄11年(1568年)、織田信長が大軍をもって、義輝の弟・足利義昭を擁して上洛。
これに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊の国人衆、高野山等と結んで信長に対抗する。
劣勢に立っていた義継・久秀はいち早く信長に恭順する。

三好家内紛の悪影響は大きく、信長の攻撃を受けて六角義賢は近江を追われ、将軍に擁立した義栄も上洛出来ず急死。
三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らも織田方への寝返りが続出する。
三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡。
長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ逃げた。

永禄12年(1569年)の六条合戦(本圀寺の変・三人衆が本圀寺の足利義昭を襲った)において、長逸は兵3000を率いて摂津池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃するが、激戦の末に敗れた。
これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。

元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめ再度の反攻を図る。
6月、摂津池田城で謀反を起こして城主池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。

戦は織田方が有利に進めるが、石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦)。
紀州勢や一向一揆、さらに浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた(織田包囲網がもっともうまく機能したとき)。
だが三好軍には追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。

この和議は翌年に破られ、三人衆は石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。
しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、混乱、三好軍は徐々に衰えていく。

元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が織田信長に対して決起する。
これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。

だが同年、頼りの武田信玄の病死が致命的となり、三好一族も含めた畿内の反織田勢力は瓦解。
義昭は畿内から追放、三人衆の1人岩成友通は淀城で戦死した。

長逸については、摂津中嶋城にて信長の軍勢と戦い、敗北して城を逃れる。
一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、確認されていない。

長逸のその後については隠居・幽閉説などの説がある。
政康は行方不明となり、義継は織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。
康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏は衰退した。



<三好 政康(みよし まさやす)のこと>
初め右衛門大輔政生、続いて下野守政康と名乗る。
早くから入道しており、釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)と名乗った。
諸説あるが、『芥川系図』では「政長の子、右衛門大夫政勝の弟」としている。

天文18年(1549年)、父とされる三好政長は細川晴元と共に、政敵となった一族の三好長慶(ながよし)と「江口の戦い」で戦うが敗れ戦死した。
政康は細川氏の家臣として三好長慶と争うが、後に和解。
その後、長慶配下の武将として、弘治元年(1555年)の丹波八上城攻めや永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に武功を挙げる。

長慶が死ぬと、甥で幼少の三好義継(よしつぐ・長慶の後継者)の後見として、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。
この後、他の二人と行動を共にする。

13代将軍足利義輝を暗殺(永禄の変)。
松永久秀と戦い、義輝の従弟の阿波公方の足利義栄を14代将軍に擁立する。

永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛すると、状況は一変、9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れると三人衆側は総崩れとなり、政康も山城木津城から退いた。

以後は石山本願寺や足利義昭らとともに信長と戦うが、織田信長の優位がハッキリしてくると政康の動向は不明となる。永禄12年(1569年)5月3日に阿波で死んだとされるがはっきりしない。

後に、豊臣氏に仕え「大坂夏の陣」において88歳という高齢ながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せいかい)という人物が政康ではないか?という説がある。
講談の「真田十勇士」の1人である「三好清海入道」のモデルになったという。



<岩成 友通(いわなり ともみち)のこと>
生年不詳 - 天正元年8月2日(1573年8月29日))姓は石成という説あり。

三好三人衆の1人。三好家の重臣。
友通の出自は不明。一門衆であったとする説のほか、大和石成や備後品治郡石成郷といった地名がある事から、それらの土地の土豪説がある。

三好長慶(信長の前の畿内の実力者)が亡くなると、他の三人衆とともに甥の三好義継の後見役をつとめる。
将軍足利義輝暗殺をはじめ、その全てを他の三人衆と行動を共にする。
松永久秀や畠山高政と交戦。

永禄11年(1568年)に織田信長が上洛すると、友通は三人衆とともに信長と敵対するが、居城の勝竜寺城を攻撃され退去。
永禄12年(1569年)には信長が後見した15代将軍足利義昭の宿所、本圀寺を襲撃するが撃退される(六条合戦)。

その後、一時期信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだ?
後に将軍義昭が信長に敵対すると、これに呼応して信長に再び敵対した。

結果、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められ、
奮戦するも、内通していた味方(番頭大炊助、諏訪飛騨守)の裏切りに遭い敵中に孤立、
藤孝の家臣の下津権内と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い)。

友通の最期は映画のようだ。史実(史実とされていること)は作り事より面白い(ボクの持論)。

友通は実直な性格ではなかったか?自分を騙して生きるタイプではなかったような気がするのだが(ボクの想像)。



長い記事になった。なにせ三人衆だから・・・
三好氏の盛衰はドラマだ。






  1. 2013/02/12(火) 07:34:05|
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ノートルダム大聖堂の上から

今回の怪物は「ガーゴイル」(gargoyle:英語)。

パリのノートルダム大聖堂の上から
下界を見下ろす石の彫刻のガーゴイルが知られている。
あるガーゴイルは身を乗り出すようにして、また、あるガーゴイルは頬杖をついた姿で下界をみつめている。
不気味でユーモラス。

gargoyleparis12.jpg
《ノートルダム大聖堂のパリ市内を見下ろすガーゴイル。山羊がモデルだろうか?
夕暮れが似合うように思う》


ガーゴイルは、なんのために作られるようになったかは、よく分かっていないという。
魔除けのために作られたとボクは思っているのだが、

雨樋(あまどい)を怪物型につくったガーゴイルもある。
怪物の口から雨水が流れ出すというシカケだ。
オモシロイ!

我が日本にも似たようなものがある。
瓦屋根の上の狛犬(唐獅子?)や鬼瓦、お寺の邪鬼(いつか、邪鬼のことを画きたい)、
城のシャチホコなんかもそうだ。

神社の軒には、木彫の象や龍がいる。
手水舎(ちょうずや・手水を使うところ)の水の吹き出し口は青銅の龍だ(かっこいい)。

いわば、龍が吐き出す水で口や手を清めるわけだ。
きっとキレイになるだろう。龍の唾液も混じっているだろうから?
これなどは、雨樋のガーゴイルと同じだね。

最近の建築物は効率を重視するのか、こういった飾りはない。
すなわち、楽しくない!
予算が許さないのか?ビルを売るときにマイナスな評価を受けるからなのか?わからないが、
怪物をデザインとして取り入れて欲しいものだ。

「会議資料を作っているところを、窓の外からのぞき見る怪物」なんて楽しいと思うのだが・・・
素敵なアイデアが浮かぶかもしれない?
企業のリーダーにそれぐらいの余裕があって良い。

建築家たちが神のごとく仰ぐ、ル・コルビジェは「ロンシャンの礼拝堂」でガーゴイルを取り入れているし、バルセロナのサグラダ・ファミリアではアントニオ・ガウディが、ヘビやトカゲのガーゴイルを残している。

gargoyletoobasan12.jpg<
《どっちがガーゴイル?・・・?、彼女にも少女のころがあった》


調べてみた。

ガーゴイルは怪物などをかたどった彫刻。雨樋の機能をもつ。
彫刻のない雨樋はガーゴイルとは呼ばない。

中国語では石像鬼、イタリア語ではドッチオーネ(doccione)、ドイツ語ではアウスグス(Ausguss)、ヴァッサーシュパイアー(Wasserspeier)とも呼ばれるらしい。

ガーゴイルの語源は、ラテン語で水が流れるときのゴボゴボというような音を表す 「gar 」だという。(ちょっとオカシイ!)
また、ラテン語で水が流れるときのゴボゴボというような音を表す garを語源とする言葉として英語の gargling(うがい)、フランス語の gargouilleがあるという。






  1. 2013/02/05(火) 06:56:45|
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