ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

書いて、書いて、書いて、(信長夜話・その66)

永禄十二年(1569年)ルイス・フロイスは二条城の建設現場の濠橋の上で、織田信長と会見することに成功した。
それは、フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸から20年後のことだった。

1583年秋、布教活動を行っていたフロイスは口之津(くちのつ、長崎県島原)で、イエズス会からの指令をガスパル・コエリョから受け取る。フロイスは51歳になっていた。
(この前年、織田信長は本能寺で亡くなっている)

それは、「布教活動を退いて、日本でのキリスト教布教史を書け」というものだった。
後に続く宣教師たちの布教の際の資料とするためだったのだろう。

布教活動でつちかった日本と日本人への観察(おそらく多量のメモがあったのではないだろうか?)、自分にある文才、フロイスはこれこそ神が自分に与えたもうた仕事だと思った。

froiskaku23.jpg
《薄暗い灯明をたよりに、書いて、書いて、疲れて、書いてぇ・・・
フロイスはイラストのように机に向かって書いたのだろうか?
それとも文机だったのだろうか?灯明はイラストより、はるかに暗い》



フロイスは、つかえていたものを吐き出すように書いた。
時には1日に10時間以上、執筆した。
それを10年以上にわたって続けたという。それが『日本史』だった。

ところが、1594年、原稿を見た上司のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(イタリヤ)は、あまりにも記事が膨大で本来の執筆趣旨に反する事を理由に、短くすることを命じる。
「うわー!ものすごい量やないの!どうすんのこれ?なかには、どうでもいいことも書いてあるし・・・」とヴァリニャーノは思ったのだろう。

フロイスは、「できれば短く纏めたいが、もう私の余命は長くなく自分には不可能だ。だから、このままヨーロッパに送付してほしい。」と嘆願する。

結局、ヨーロッパに送られることは無く、フロイスが心血を注ぎ、和紙に墨で書かれた厖大な『日本史』はイエズス会幹部から黙殺され、マカオのイエズス会の倉庫に放置されたままになった。

そんなフロイスの最後の10年間は、暗澹たる気持ちだったのではなかったか?
世は秀吉の禁教令のなかにあった。
1597年(慶長二年)7月8日、フロイスは長崎で病死する。65歳だった。
死ぬ1年前から、片足が腫れて痛み、手がしびれ舌がもつれたという。

その『日本史』も200年後に焼失するが、幸いにも別に書き写したものがあった。
世界中に散らばっていたものを松田毅一氏が苦労して見つけ出し、その全貌があきらかになった。
(今でも未発見の部分がある)
それは1980年代になってからだった!



<『日本史』のこと>
(ポルトガル語:Historia de Iapam)

高校の教科書の名前ではない。
フロイスが書いた日本についての編年体歴史書だ。
編年体歴史書とは、起こった出来事を年代順に記してゆく方法。
(対して、個人や一つの国に関しての情報をまとめて記述するのを紀伝体という。)

このブログカテゴリー「信長夜話」は基本は編年体だが、魅力的な部分は紀伝体ということになる。

フロイスは足利義輝、足利義昭、織田信長・豊臣秀吉・・・をリアルタイムで見たり、会ったりした。
『日本史』には、諸侯・武将の動向から庶民生活の実情、災害や事件などについて細かく描かれている。
室町末期から織豊時代の重要な史料として高く評価されている。
また、人名や地名が『日本史』のローマ字表記から当時の発音が明らかになっている。

「あまりに厖大だ」とヴァリニャーノが注文をつけた内容も、現代の研究者からすればありがたいことだった。
日本人では記述もしないような、当時の日本人の日常生活などについても、詳しく書かれている。

欠点もある。それは、キリスト教的偏見に満ちていることだ。
仏教や僧侶に対してはとくに激しい。
フロイスはイエズス会の宣教師なのだからしかたがない。キリスト教以外の宗教はすべて邪教だと思っていた。
さらに布教には仏教徒を改宗させなければいけない。言わば商売仇。
だから、『日本史』の宗教的な記述は鵜呑みにはできない。

Nihonshi.jpg
《Wikipediaからの画像。残っていた『日本史』の写しの一部。ボクにはまったく読めない。しかし、とても丁寧に書かれたということはわかる。美しい!フロイスの原稿もこんなだったのだろうか?》


『日本史』は以下のような構成だった。

第1巻
序文
日本六十六国誌 : 未発見
日本総論 : 目次のみ現存
第2巻
第一部 : 1549年(天文18年) - 1578年(天正6年)の記録
第3巻
第二部 : 1578年(天正6年) - 1589年(天正17年)の記録
第三部 : 1590年(天正18年) - 1593年(文禄2年)の記録



ちょっと、フロイスの『日本史』から話はそれる・・・

サラリーマン的見方をすれば、化け物が住んでいるかもしれない辺境の地の布教任務は、左遷のように思うかもしれないが、
イエズス会はザビエルをはじめ、優秀な人材を送ったのではないだろうか?
布教任務を終え、無事、本部に帰還出来たときには高位が待っていたのではないだろうか?

宣教使たちは、「辺境の地の愚かな民族に文明のなんたるかを教え、さらに、神の祝福を与えるのが我々の聖なる使命だ」と思っていただろう(余計なことだが)。
そのためには、優秀な人材を差し向ける必要があったと、ボクは想像している。


日本に来た宣教師たちが皆、日本および日本人に対して好意的に見ていたのではない。

フランシスコ・カブラル(ポルトガル)は「日本人は劣った民族だ」と見下した。
日本風の生活を軽蔑し、西洋の生活を押し通した。
当然ながら、布教は進まなかった(鏡の原理だ)。

かたや、オルガンティーノ(1570~1609日本滞在期間)は「日本人は全世界で最も賢明な国民に属しており、喜んで理性に従うので、我らよりはるかに優れている。」
「私たちヨーロッパ人は互いに賢明にみえるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。
私は本当のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。
私には全世界でこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思う。」と絶賛している。
ボクは日本人として、ちょっと照れる。

オルガンティーノ(イタリヤ)は日本人から「宇留岸様、うるがんさま」と呼ばれて慕われた。
当然ながら、多くの人を入信させている。

ヴァリニャーノも日本人を好意的に見ていた。
フロイスの『日本史』のことばかり書いているが、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの書いた『日本巡察記』は布教を成功させるために日本、日本人を観察した記録だ。

宣教使たちは日本での滞在が長くなると、この国は思っていた以上に強国だということに気づいていく。
それもそのはず、日本は戦国時代、実戦経験のあるものが多数いた。

天文12年(1543年、8月25日)、鉄砲が伝来して(ということになっている)、その2年後には国産に成功している。
信長の時代、各大名配下には装備がすすんでいっただろう。
日本史上、軍事的に最強の時代が近づいていた(明治以降を除く)。



武光 誠著「日本史を動かした外国人」青春出版社¥750+税
山田風太郎著「人間臨終図鑑Ⅱ」徳間文庫¥724+税
を参考にしました。







  1. 2013/05/28(火) 07:03:50|
  2. 信長夜話
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そんな時代(信長夜話・その65)

永禄十二年(1569年)ルイス・フロイスは二条城の建設現場の濠橋の上で、織田信長と会見することに成功した。

その20年前、天文十八年(1549年8月)、フランシスコ・ザビエルは弟子二人、ヤジロウ(弥次郎?)とその従者二人、計六人で鹿児島の坊津に上陸した(鑑真和尚もここに上陸した)。
日本でのポルトガルの拠点を築くためだったと考えられている。

信長は当時16歳、「尾張の大うつけ(ばか者)」と言われていたころだ。織田家は信秀(信長の父)が当主だった。
また、6年前の天文12年(1543年、8月25日)、鉄砲が伝来している。

この時代、キリスト教の布教は植民地政策や貿易と一体化して行われていた。
西欧のカトリック教徒は「キリスト教を世界で唯一の価値ある宗教」と考え、
「キリスト教徒は文化人で、異教徒は野蛮人である。」と思っていた。

布教にあたってはその国の君主や領主などの支配層をキリスト教徒にして、その影響下にある地方をまるごとキリスト教化するのが効率が良いと考えていた。
それは、知識レベルの低い貿易商人では、日本を文化的な国にすることは出来ないだろうから(余計なお世話だが)、知識のある宣教師を送り込んで布教させる、というのがイエズス会の方針だった。


ザビエルはナバラ王国(バスク地方)の貴族の出身、パリ大学で学んだ秀才だという。
イエズス会の設立に加わった大物だ。

イエズス会は清貧、貞淑、服従を誓ったものからなる、異端者と対決することを目的としたカトリックの宗教団体だった。
ローマ教王から公認され、カトリック系諸国の君主たちから後援を受けていた。
アフリカ、アジアの後進地?に対する布教も重要な職務だったのだ。

ザビエルは上陸後、鹿児島、平戸で布教を開始するが、領主たち(島津氏、松浦氏)は交易には興味を示すが、キリスト教には関心を示さなかった。
ザビエルは天皇に布教の後援を願い出るため、京へ上るが相手にされず、このあと、大内氏の山口(現、山口市)や豊後の府内(現、大分)で布教した。
そして天文二十年(1551年10月)、日本をはなれインドへ旅立った。

ザビエルが会うことができた有力者のなかで、キリスト教に興味をもったのは、府内の大友宗麟だけだったという。
結果だけをみれば、ザビエルの日本での布教は成功したとは言いがたいが(九州の戦国大名、大友宗麟に影響を与えただけでも大したものだが)、
ザビエルが日本を去ったあと、トルレス、カブラル、オルガンチーノ、ビレラ、ヴァリニャーノ、フロイス・・・が日本にやって来ることになる。

ザビエルの撒いた種は、その後、ロレンソ了斎をはじめ多くのキリスト教信者を生み、キリシタンは権力者もほおっておけない存在となっていった。


中世ヨーロッパ人の世界観は「聖書」に強く影響を受けている。
ヨーロッパ、アジア、アフリカがヨーロッパ人が認識している世界だった。
そのアフリカ大陸がどこまであるのか解らず、アフリカの南部では太陽の熱が強すぎ、人は住むことが出来ないと考えられていた。

zonaarida22.jpg
《当時のヨーロッパ人が思っていた辺境の地(日本も)の怪物。
16世紀の《南アフリカ博物誌「アメリカ・ギアナ驚異史」》を参考に画いた。
《アラマタ図像館Ⅰ「怪物」小学館文庫¥733+税》のなかで紹介されている。

中世ヨーロッパ人の考えていた世界の外側(日本も)は神話や説話や寓話の世界。
キノケファレン(頭が犬で体が人間の生き物)や怪物が住んでいると考えられていた。
信長の時代でもヨーロッパの一般の認識は、この程度ではなかったか。

今でも、キリスト教地域では聖書の世界を信じている人は多い。それは日本人の想像を超える。
天動説を信じ、地球はお盆のような形をしており、端へ行くと落っこちてしまうと真剣に思っている人達がいる。そういう説を支持する団体すらある。冗談でやっているのではない。

地動説をとなえたコペルニクスを支持したガリレオの名誉が、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世によって回復されたのは1992年!ついこの前のことだ。恐ろしい!》



13世紀、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロが「元」から帰国して、有名な「東方見聞録」のなかで日本を初めてヨーロッパに紹介した。「ジパング」である。
「東方見聞録」は15世紀に印刷されて流布するようになって、航海者に注目されるようになる。

これに触発されて「ジパング」を目指したのがイタリヤ、ジェノヴァのクリストバール・コロン(以下、コロンブス)だ。
ご存知のように、1492年、アメリカ大陸を発見することになる。信長の生まれる42年前のことだ。

コロンブスは「アメリカ大陸発見」が歴史上、燦然と輝いているが、
先住民族に対して、黄金や奴隷獲得目的に、拷問、虐殺、略奪、陵辱、暴行の限りをつくした男だ。
その後、こういったおぞましい悪行は常態化し、先住民の多くが虐殺された。

コロンブスがジパングにたどり着かなくて日本には幸いだった。
相手が文明的(軍事的)に劣っているとみると(文明人だからといって上質な人間とは限らない)、上から目線で、やりたい放題をするイヤラシさをボクは感じる。
文明人、未開人という言葉にもイヤなものを感じる。
脱線した。

その当時、ヨーロッパの強国はライバルとの覇権を争い、教会は布教活動に精を出し(未開の地は信者を増やす格好の目標だった)、貿易商は濡れ手に粟の後進地商売に色めき立ち、国家はそれを援助した。とボクは想像している。

ザビエルはローマへ書き送った報告のなかで、日本人について書いている。
「まず第1にいうべきことは、今までの交際によって知り得た限りにおいて、この国民は、私が出逢った民族の中で、最もすぐれている。‥‥
日本人は一般的に良い素質を持ち、悪意がなく、交際して非常に感じが良い。
彼らの名誉心は極めて強く、彼らにとって名誉にまさるものはない。
日本人は概して貧しいが、武士も町人も貧乏を恥と考えている者はない・・・」

「日本人は、すぐに信者になることはない。かれらはまずはじめに、多くの質問をする。
それから私の答えと、私にどれだけ智恵があるかを確かめようとする。
そして、何よりも私の生活が、私の教えることと一致しているかどうかを冷静に観察する。」とも書いている。

ザビエルは日本人に好印象をもったように思う(宣教師すべてが、日本人に好印象をもったわけではない)。

ポルトガル人が植民地経営を行ったアフリカやアジアでは、住民はヨーロッパの文明に恐れをなし(文明の利器を見せつけたのだろう)、宣教師のすすめるままにキリスト教徒になった。

ところが、怪物が住んでいると思われていた辺境の地(日本は、当時のヨーロッパの世界地図では東の端に位置する島国)には、独自の文化をもち、知的な民族が住んでいたことに、ザビエルは驚いたと思われる。



<ヤジロウのこと>

ザビエルはマラッカで日本人の青年、ヤジロウ(弥次郎、アンジローとも)と会う。
ヤジロウは武士で、人を殺したため、ポルトガル船でマラッカに逃げてきていた。

彼はヨーロッパ人にない礼儀正しさと知性をもっていた。
ザビエルはヤジロウから「日本は無知な後進国ではない」と思うようになり、これまでの異教徒に対する考えを改めざるを得なくなった。

日本でキリスト教の布教をした場合についてザビエルに問われ、「スムーズに進むだろう・・・」とヤジロウは答えたという。
日本への好奇心と布教の可能性をみて、ザビエルは日本へ行くことを決意する。

xavier42.jpg
《ザビエルとヤジロウとした。
教科書にも載っているザビエルの有名な肖像画を参考にした。
肖像画は良い絵だ。
肖像画の胸前にいだくハートには十字架が繋がっている(このイラストでは省略)。
そのハートから炎なのか?電気なのか?わからないが、四方八方になにやら出ている。熱い思いを表現したのだと想像する。

ヤジロウは正体すら、よく分かっていない人だから、肖像画などは望むべくもない。
もうすこしハンサムでも良かったかな?》



そのヤジロウ〔511年(永正8年)頃? - 1550年(天文19年)頃?〕は史上確かな最初の日本人キリスト教徒と思われているが、謎だらけの人物である。

薩摩あるいは大隅(両国とも鹿児島)の出身。豪族、池端氏では?の説がある。
ヤジロウはもとは貿易に従事していたと考えられている。フロイスの『日本史』では海賊“八幡”(ばはん)であったと書かれている

ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年、ボン・ジェス教会で日本人として初めて洗礼を受けた。
霊名は「パウロ・デ・サンタ・フェ」(聖信のパウロ)。同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。

1549年4月19日、ザビエルに従いゴアを離れ8月15日に鹿児島に上陸。

フロイスによれば、「ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊に戻り最後は中国近辺で殺害された」と書いている。
またフェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば
「仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺された」とされている。



松田毅一、E・ヨリッセン共著「フロイスの日本覚書」中公新書¥600
武光 誠著「日本史を動かした外国人」青春出版社¥750+税
を参考にしました。






  1. 2013/05/21(火) 07:10:12|
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値は張りますよ!

鮫の数種類の漁が禁止になるという。
フカヒレの取引が高額になって、乱獲されているためらしい。

テレビで「フカヒレ!フカヒレ!」とあおるからなぁ、
さして興味がなかった人たちも「そんなにウマイのか?」と食いだす。
マグロを食い倒し、鰻を食い倒す、・・・

近未来には、フカヒレ、マグロ、それから鰻は食べることが禁止されるかもしれない。
そうなると、闇業者があらわれたりする。


闇業者から連絡があった。クリーニング取次店(警察の目をのがれるためのカムフラージュ)へ行く。

客がいないのを確かめてから、
「鰻、食べられるんだって?」
小声で、「旦那、良いのが入りましたよ!」
「ほう、どこのだい?」
「シー、声が大きいですよ!三河一色産です。」

「ひさしぶりで鰻の長焼きが食えるな!」
「旦那、長焼きは無理です。貴重なんだから、うな丼までです!値は張りますよ!前金でお願いしやす。」
「足元を見るんじゃないよ!しょうがねえな、ホラ(金を渡す)、食わしてくれ!」

店の隅っこの小さなドアを開けると、テーブルが二つと椅子の部屋があった。
しばらくすると「うな丼」がはこばれてきた。

「なつかしい!この香り!ク~ッ!最後に鰻を食ってから9年になるな・・・」
箸に鰻とタレが染みたメシをのせ、口にほうりこんだ瞬間、
小さなドアから、数人の男がドカドカと入ってきた。

オレの肩を掴むと
「21時49分、現行犯逮捕!わかってるな!わかってるな罪状は!」
「なにを!この警察の犬め!」

yaminounagi12.jpg

と、こんなことになるかもしれない?












  1. 2013/05/07(火) 07:03:31|
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