ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

パブロフ博士の犬(ジョーク)

paburofunoinu41.jpg

パブロフ博士の飼っている犬が、近所の犬と雑談、

「やあ、条件反射の実験の調子はどうだい?」
「あぁ、順調さ。最近では、俺がヨダレを出すと、博士がすぐにベルを鳴らすようになったよ。」
「・・・・」



最近、見つけたジョーク。



<「パブロフの犬」の参考です。>

パブロフ博士が、犬にエサを与えるときに必ずベルを鳴らすようにした。
エサが無くてもベルを鳴らすと犬がよだれをたらしたことから、条件反射の喩えとして用いられる。


イワン・ペトローヴィチ・パブロフ( 1849年9月14日 ~1936年2月27日) は帝政ロシア・ソビエト連邦の生理学者。





<アメリカンジョーク集>から引用しました。
http://favorite.halfmoon.jp/php/read_html.php?page=joke2








  1. 2013/07/23(火) 07:19:12|
  2. ジョーク
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栄光と地獄(信長夜話・その68)

梅雨寒の雨がやんで、晴れたと思ったら猛烈な暑さと湿気。
エアコン苦手派のボクには「暑いけれどエアコンは我慢」の夏がやって来た。
暑つーーッ!ホント!
熱波が押し寄せるドッドッという音が聞えるようだ。


では、前回(「信長夜話・その67」)からの続き・・・

織田信長は永禄十二年(1569)8月、南伊勢に侵攻。
大河内城(おかわち)の支城、阿坂城(現松阪市内)を落とすと、他の支城には目もくれず、8月27日、大河内城を包囲した。

包囲開始から十日目の九月八日、信長は丹羽長秀、池田恒興、稲葉良通に馬周り(信長の親衛隊)もつけて夜討ちを命じた。信長はじれたのだろうか?
三手に分かれて西搦手口(からめてぐち、城の裏門のこと)より城を攻撃する。
北畠の兵数は約8千であったといわれる。織田勢の十分の一。

「しかし軍勢を出したまではよかったが、折柄降り出した雨によって鉄砲が役に立たなくなってしまった。
このため寄せ手は苦戦におちいり、池田恒興の攻口で馬廻の朝日孫八郎・波多野弥三が戦死したのをはじめ、
丹羽勢でも近松豊前・神戸伯耆・神戸市介らが戦死し、織田勢は一夜のうちに屈強の侍二十余人を失ってしまった。」(『信長公記』)

chikarazeme22.jpg
《西搦手口(からめてぐち)より城を夜襲する池田恒興隊とした。
雨が降るなか、攻撃軍は城方の鉄砲による反撃を受けたのだろう。
鉄砲は織田軍だけが装備していたわけではない。》



急攻めにしくじった信長は兵糧攻めに作戦変更する。

 翌9日信長は、滝川一益に多芸谷(現三重県一志郡美杉村、多芸城があった)の国司御殿その他の建物をことごとく焼き払わせた。
田畑の作物を薙いで(軍規が厳しかったと言われる織田軍だが、略奪をしたのだろうか?したのだろう。)住民を大河内城に追いやり、城内を人口過密にして兵糧攻めを加速させた。

『信長公記』では、この持久作戦は効を奏して、城側が和睦を申しいれて来たことになっている。
ところが他史料では、滝川一益軍が魔虫谷(すごい名前、入りたくない!)から攻めのぼったところ、城から鉄砲による反撃をくらって、多くの戦死者を出した。
また、大河城内の兵糧はまだ潤沢であったという。

攻め手に窮して、信長側から和睦を申し出た、と『勢州軍記』にある。
『細川両家記』にも、城方が勝ったという記述があるようだから、
いくつかの戦闘で信長側が苦戦したと思われる。
城方は信長の想定を超えた頑張りをみせたのでは?

しかし、和睦となると、その条件は圧倒的に信長側に有利になっている。
やはり兵糧攻めは効果があったと見る説が、現在は有力だ。
和睦も、将軍足利義昭や朝廷が動いた結果(『朝倉記』)という説もありハッキリしない。

その和睦条件だ。
(一)大河内城は信長に開け渡し、北畠具教、具房親子は他の城へ移ること。
(二)信長の次男、茶筅丸(ちゃせんまる、後の信雄・のぶかつ)を具教の養子にすること。

和睦は成立、十月三日、具教親子は大河内城を開け渡し、笠木城(かさき・現多気郡多気町)・坂内城(現松阪市)へ移った。城を包囲してから一ヶ月とすこしの攻城戦だった。
結果、南伊勢の大物、北畠氏の勢力は大きく衰えた。

ところが、話はここで終わらない。

六年後の天正三年(1575)、信長は北畠氏に圧力をかけ、信長の次男、茶筅丸(信雄)に家督を譲らせた。
乗っ取りだ。
さらに翌年、北畠一族をまとめて謀殺してしまった。

伊勢国は信長の侵攻を受けて、北畠家の旗下であった神戸氏、長野工藤氏が次々織田家に乗っ取られ、今回の大河内城の北畠氏を乗っ取ることで、伊勢の国は信長の直轄地のようになった。



<北畠具教(きたばたけとものり)のこと>

北畠晴具(はるとも)の嫡子として生まれる。兄弟に、木造具政・北畠具親。

天文6年(1537年)、具教は従五位下侍従。天文21年、参議・左中将。天分22年(1553年)には、父から家督を譲られ北畠七代目当主。
翌天文23年(1554年)、従三位・権中納言。・・・と、朝廷から官位を受け、トントン拍子だった。

弘治元年(1555年)には、南伊勢の領地争いをしていた長野氏と戦い、永禄元年(1558年)に長野家当主・長野藤定の養子に自身の息子を入れさせる。
和睦と言う名の臣従化に成功している(今回の信長のようだ)。

永禄6年(1563年)、嫡男の具房に家督を譲り隠居。しかし実権は具教が握っていた。

永禄11年(1568年)、織田信長が伊勢に侵攻。
信長は、北伊勢の神戸具盛と和議を結び、自身の三男・織田信孝を養子に送りこむ。

さらに、具教の次男・長野具藤と一族の細野藤敦との間に不和を起こさせ具藤は内紛に敗北し逃亡。
長野家を降伏させ、信長の弟の織田信包を長野家当主に据えるなど、北畠家を切り崩していく(調略は滝川一益だろう?)。

そして、今回の「大河内城の戦い」となる。
具教は籠城して奮戦するも、11月に和睦。
信長の次男・茶筅丸(織田信雄)が養子としてやってくる。

元亀元年(1570年)、具教は出家して『天覚』、『不智斎』と号して三瀬谷に隠棲する。
元亀3年(1572年)に茶筅丸(織田信雄)が元服して『北畠具豊』となったが、実権は具教にあったらしく、天正3年(1575年)まで具教の発給文書が存在している。
この年に信雄が北畠の家督を正式に継いだ。

乗っ取りだ。具教は「まさか、殺したりはすまい」と思ったのだろうか?

翌、天正4年(1576年)11月25日、三瀬御所に隠居していた具教が信長の命により、信雄の放った刺客に館を急襲され、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺される(三瀬の変)。
さらに、次男・長野具藤、三男・北畠親成は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害され、
坂内御所においては坂内具房、霧山御所においては城代・北畠政成、及び波瀬具通が殺害された。
具教は49年の人生だった。

kitabatakeansatu13.jpg
《北畠具教を暗殺!
剣聖・塚原卜伝の弟子でもあり、『一の太刀』を相伝されたとも伝えられる具教は、19人の刺客を切り倒す奮戦を見せたとも伝わるが、
一方で事前に愛刀の刃を潰されて刀を振るうことなく惨殺されたとする説もある。
おそらく後者だろう。

イラストの刺客は甲冑をつけた完全装備とした。具教が剣の使い手だったことは知っていただろうから。
この事件は、将軍、足利義輝暗殺を思わせる》



信長の伊勢侵攻開始からの北畠氏の行く末は、ドラマだ。
北畠具教は自分が当主の時に伊勢北畠氏の最盛期を向かえ、衰退した(させられた)。
栄光と地獄を見た。「夢まぼろしのごとく」。

具教の嫡男、具房は身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に3年間幽閉された後、1580年(天正8年)1月5日京都で死去した。
北畠家は名実ともに織田家によって乗っ取られた。

1582年(天正10年)6月、信長が「本能寺の変」で亡くなると、備後に逃れていた具教の実弟・北畠具親が伊勢五箇篠山城に戻り再挙するが落城、後に蒲生氏のもとに客臣として迎えられた。
清洲会議にて、信雄は織田家の後継者になろうとして、織田姓に復したため、伊勢国司としての北畠家は滅亡。

また、木造氏、田丸氏、神戸氏、星合氏等、諸流の一部は信雄の家臣となるなどして生き永らえ、その後、一部は旗本となった。


北畠氏は、公家の一つ。
村上源氏の流れを汲む名門、その子孫である中院雅家が洛北の北畠に移ったことから「北畠」を名乗り、代々和漢の学をもって天皇に仕えた。

鎌倉時代末期に、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した北畠親房(高校の日本史にも出てくる)や、
父親房とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い落とした親房の長男北畠顕家(公家武将)は、具教の血縁にあたる。

親房の三男北畠顕能が伊勢国司となったことが、伊勢北畠氏の起源と言われている。
室町時代に入っても北畠氏は伊勢で独自の勢力を持ち、その支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきようなものであった。

「このごろ、都で羽振りの良い、織田上総之介とやらは、どこの御仁であるか?
きけば、父の信秀は尾張守護代(守護の補佐役)の、そのまた奉行のひとりだったというではないか。
さらに辿れば、織田氏は越前丹生郡の禰宜(神官)だったというではないか?わが伊勢は神の国ぞ!」と言ったかどうかはわからないが、北畠具教は信長を見下していたと想像する。
北畠氏は名門なのだ。
血統からいえば織田氏などハナクソのようなものだ。

それだけに、信長の侵攻をうけ、養子縁組などという体の良い乗っ取りを受け、とどのつまり暗殺された。哀れではないか。

しかし、乗っ取った織田家も信長死後、秀吉に簒奪され、その豊臣家も・・・・
キリがない。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。
<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html






  1. 2013/07/09(火) 07:26:24|
  2. 信長夜話
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南伊勢へ・・・(信長夜話・その67)

今回から2回に分けて、「大河内城(おかわちじょう)の戦い」を書く。

信長のエピソードのなかで、伊勢への侵攻はテレビで取り上げたことを見たことがない。
人気がない!

北伊勢侵攻に関しては、信頼できる史料がないらしいが、
南伊勢の「大河内城の戦い」は『信長公記』に書かれている。


織田信長は永禄十二年(1569)の二月に将軍御所(二条城)の建設を初め、これを二ヶ月ほどで完成させた。
異例の速さだった。
その一ヶ月後の五月、伊勢の木造具政(こつくりともまさ)が信長に通じてきた。
具政は今回の主敵、北畠具教(きたばたけとものり)の実弟。

木造具政は義理の弟、玄浄院主玄の助言を聞き入れ、早めに信長に従うことにした。
織田側の武将・滝川一益の調略であった。

対する北畠具教は5月12日、木造城を包囲し攻撃するが(『桑名志』)、滝川、神戸氏、長野氏の援軍もあり、8月に入っても木造城は落ちなかった。

8月20日、京から岐阜に戻っていた信長は大軍を率いて岐阜を出陣した。
総勢7万とも10万ともいわれている大軍だ。全力出撃だ。

大軍であることを敵が知れば、寝返るものが続々と出るにちがいない、戦わずして多くを従えることができる、という思いが信長にあったかもしれない。
それとも、国司大名、北畠具教を強敵だと判断したためだろうか?
織田軍は、その日のうちに桑名に達する。

伊勢を手に入れることができれば、伊勢湾を支配下におくことになる(知多半島はすでに勢力下)。
これが、信長の戦略目的だったとボクは想像する。

信長は「桶狭間の戦」の印象が強いためか、寡兵で立ち向かうイメージがあるが、
美濃攻略以後は、兵数においても、装備においても敵を上回る戦い方がほとんどだ。

この時、大河内城攻めに信長は自信があったと思われる。
信長軍は、兵数、装備、実戦経験、経済力、ともに北畠方を圧倒していたと想像する。

翌日には鷹野、22日になって白子の観音寺(現三重県鈴鹿市白子町)、23日には木造(現久居市)まで進むが、その後、雨が続いたためこの地で数日間、滞陣した(ちょうど良い休憩)。

対する北畠具教は大河内城(現三重県松坂市、松阪肉の松阪だ)に立て籠もり、阿坂(あざか)、船江(ふなえ)など支城に兵をおき、織田勢を迎え撃つ体制をとった。


26日、木造を発した信長は、まず阿坂城(現松阪市内)を木下秀吉に攻めさせた。
秀吉はみずから塀際まで詰め寄せ、薄手を負って退いた。

なんと、秀吉が負傷したのだ!生涯唯一の戦場での負傷だといわれている。
秀吉は、「一軍の将が、刀や槍をもって敵とやりあうなどもってのほか。タワケ者だ」と言った人だが、
お屋形様(信長)自信が武闘派だからだろうか?それとも、このころの秀吉は血の気が多かったのだろうか?頑張ってしまった。
その後も猛攻は続けられ、その日のうちに城側は降伏、滝川一益の兵を入れた。

阿坂城を落とした信長は、他の支城には目もくれず、まっすぐ北畠具教、具房親子の大河内城を目指した。王手!
大河内城は山城だ。城は丘陵の北端にあり、東に阪内川、北に矢津川、西側と南側には深い谷が入り自然の要害だった。
北畠の兵は約8千であったといわれる。織田勢の十分の一。

27日、信長は周辺の地形を偵察したのち城東の山に陣を取り、夜半に町を焼き払わせ、
28日朝、信長の大軍は四方から城を包囲した。

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《着陣した信長。大河内城を望んで、自信満々だったのではないだろうか?》


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《包囲された大河内城内とした。こんな櫓や石垣があったかどうか?想像で画いた。
遠くに包囲する織田勢が見える。
現在、大河内城は現在の松坂城の南西に城跡がある。
画き終わってみると、気にいらないところが多く見つかり、何度も修正したのでガビガビになってしまった。最近、こういうのが多い。》



織田軍の布陣

<城南の山> 
織田上野介信包・滝川一益・稲葉一鉄・池田恒興・和田新介・後藤喜三郎・蒲生右兵衛大輔賢秀・永原筑前・永田刑部少輔・青地駿河守茂綱・山岡美作守景隆・山岡玉林景猶・丹羽長秀
<西>
 木下秀吉・氏家ト全・安藤守就・飯沼勘平・佐久間信盛・市橋九郎右衛門長利・塚本小大膳
<北>
 斎藤新五・坂井政尚・蜂屋頼隆・簗田弥次右衛門・中条将監・磯野丹波守員昌・中条又兵衛
<東>
 柴田勝家・森可成・山田三左衛門・長谷川与次・佐々成政・梶原平次郎・不破光治・丸毛兵庫頭長照・丸毛三郎兵衛兼利・丹羽源六・不破彦三

と『信長公記』にある。続けて、

織田勢は二重三重の鹿垣をめぐらして諸口を閉ざし、菅谷九右衛門長頼・塙九郎左衛門直政・前田利家・福富秀勝・中川八郎右衛門・木下雅楽介・松岡九郎二郎・生駒平左衛門・河尻秀隆・湯浅甚介らが柵内を巡回した(『信長公記』)。

彼らは馬周りから選ばれた使い番(伝令・巡視の役目)だ。
まさに蟻のはいでる隙間もない包囲だった。
信長の本陣は馬廻・小姓衆及び弓衆・鉄砲衆に命じられた。


これを見ると信長は長期戦のつもりだったようにみえる。当然だろう、大河内城は攻めづらい城だ。
ところが、信長は突然、力攻めに出る!

包囲開始から十日目の九月八日、信長は丹羽長秀、池田恒興、稲葉良通の三将に馬周り(信長の親衛隊)もつけて夜討ち(夜襲)を命じた。
三手に分かれて西搦手口(からめてぐち、城の裏門のこと)より城を攻撃する!

次回「信長夜話・その68」に続く・・・



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。
<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html






  1. 2013/07/02(火) 06:52:27|
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