ブエノス小僧のイラストブログ

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天下静謐・てんかせいひつ(信長夜話・その71)

元亀元年一月二十三日、織田信長は将軍の行動を制限する五ヵ条の条書を、将軍足利義昭に認めさせた。

その同日付けで、信長は諸国の大名たちに書状を送りつける。
宛先は畿内の大名、国衆はもとより、
三河、遠江(とおとうみ)の盟友、徳川家康。甲斐の武田氏。越中(北陸)の神保氏。
出雲(山陰)の尼子氏(あまご)。備前の浦上氏。など広く送りつけたという。

その文面、
「禁中御修理、武家御用、その外、天下いよいよ静謐(せいひつ)のために、
来る中旬(二月)参洛すべく候の条、各々も上洛ありて御礼を申しあげられ、馳走肝要に候。
ご延引あるべからず候」

(『二条宴乗日記・にじょうえんじょうにっき』)

もし、この書状がボクに送られてきたら、「御所の修理や将軍の御用のため、上洛しなさい。」ということかな?と思うだろう。
しかし、そんな能天気な読みではダメなのだ。

文中の「天下静謐(てんかせいひつ)」の意味だが、
天下静謐(てんかせいひつ)とは、天皇の命を受けて将軍が逆賊を打ち、全国が平穏な社会状況をいうらしい。
(南北朝以降、天皇のためではなく「室町将軍のための天下静謐」に矮小化されていていた)

慎重に信長の意図を読み取るなら、
「もし禁裏、幕府に従わないというなら、上洛した諸大名たちを従えて、オレがお前達を討伐するぞ!」と読まなければいけない。
信長は禁裏と幕府の権威を借りて諸大名を従わせようとしたのだ。
それが「天下静謐」の早道だと・・・


今回、信長の視線の先には越前の朝倉義景がいた。
『二条宴乗日記』に載っている宛名には、朝倉氏はふくまれていないが、『朝倉記』には信長から上洛の誘いがあったという。

しかし、朝倉義景は信長の誘いには応じなかった。


「朝倉氏」 は 越前(現在の福井県) 一帯を支配した戦国大名。
室町将軍家とは親しい間柄だった。京都に近く、その文化の影響を受けていた。
戦国時代初期からの名門。有力大名だ。
足利義昭も信長に迎えられるまでは、朝倉氏に身を寄せていた。頼りにしたのだ。

片や、織田氏はさかのぼると、越前丹生の神官(禰宜・ねぎ)の出だという。
朝倉義景からすれば「最近、都で羽振りが良いが、元々は越前の禰宜ではないか!フン!」(ボクの想像)

朝倉氏は斯波氏の守護代(斯波氏の党首は京で政務を執っていたため現地を支配する代理)、
信長の系統の織田氏は、斯波氏の尾張守護代の奉行の一人だったという。
 
義景が織田氏を見下すのはオカシイが、ありがちなことだろう。
『その禰宜(織田信長)がワシに向かって「上洛しろ」だと!フン!』ということではなかったか?

もしくは、書状に応じて上洛すれば、信長の風下に立たされる危険を感じたかもしれない?
おそらく、義景が誘いに応じなかった主な理由はこちらだろう。

「応じれば風下、応じなければ攻めるぞ、」だった。
義景が誘いに応じないことは、信長は既に織込済みだったのだ。

両氏の成り立ちをみれば、信長も朝倉義景に対抗心があったかもしれない。
この後、信長は越前へ侵攻するが、そんな思いがあったように思う(ボクの想像)。

信長が越前を目指した目的は、越前平定が、そして敦賀や九頭竜川の河口、三国を押さえることにあったのではないだろうか?
北陸沿岸貿易を押さえることになるからだ。
すでに伊勢湾、遠州灘は信長の影響力下にある。
そこから、大きな富が転がり込んでいただろう。


話は変わる。
信長は諸大名に同じ内容の書状を出した、ということは何通も同じ書を用意しなくてはならない。
現代のようにコピーはないのだから。
右筆(ゆうひつ)たちが手分けして、それを書いたのだろう。

yuuhitu12.jpg
《「禁裏の修理や幕府のため、それから“天下静謐”のため二月中旬に、この信長が上洛するから、お前達も上洛して朝廷や将軍に挨拶にくるように、わかったか!安酒ばかり飲みおって、遅れるなよ!(信長は酒を好まない)」と信長がそらんじたのを、
「いくらなんでも・・・それは・・・怒りますよ・・・」と、右筆が以下のように編集したのかもしれない?(ボクの想像)

「禁中御修理、武家御用、その外、天下いよいよ静謐(せいひつ)のために、来る中旬(二月)参洛すべく候の条、各々も上洛ありて御礼を申しあげられ、馳走肝要に候。ご延引あるべからず候」と、
それとも、信長がいちいち、文章を練ったのだろうか?》



ところで、信長の直筆であることが確認できる書状は、わずか十数通のみらしい。そのなかの一通。
天正5年(1577)10月2日付の、長岡与一郎(後の細川忠興。忠興は幽斉の子供、あのガラシャの夫)が手柄を立てたことに対する感状(家臣の働きを賞して主君が発給する文書)だ。

信長自筆
《長岡与一郎への感状。
『文化遺産オンライン』http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=197566
の画像を使用しました。》



普通は感状も右筆が書いたようだが、与一郎が手柄を立てたことを喜んだ信長が自ら書いたものだという。
筆勢から一気に書き上げたと考えられている(ちょっと信長の性格が感じられて興味深い。現在は国宝)。

また、信長が「おね」(秀吉室)に送った有名な書状は、個人的な内容だから信長の直筆では、
とボクは思っていたが、右筆の書いたものであるかどうかはわかっていないらしい。


<ゆうひつ【右筆】のこと>

中・近世における武家の書記役。執筆(しゆうひつ)ともいう。

武家社会が成立して,行政事務が繁多になり、文書処理の必要性が増した。
文盲の多かった武士に対して、文筆を仕事とする書記が専門化した。

地方の荘園でも文書を扱える人はごくわずかで,寺の僧などを雇って便宜をはかっていた。
それまでは、文字は公家と僧侶の独占だったのだ。
仮名文字さえ普及は進まなかったという。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました.







  1. 2013/11/19(火) 21:27:12|
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衝突!(信長夜話・その70)

永禄12年(1569)10月3日
織田信長は伊勢、大河内城(おかわち)を開城させた。

2日後、伊勢神宮に参拝(あの信長が!)。
10月11日、千種越え(ちぐさごえ・現在の滋賀県永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にいたる山越え。)で上洛、
将軍、足利義昭に伊勢平定を報告した。

13日には参内して正親町天皇(おおぎまちてんのう)からじきじきに盃をいただいている。
だが、同月17日、信長は突然、岐阜に帰還している。
『多聞院日記』(学侶、多聞院英俊・たもんいんえいしゅん)によると義昭との意見の相違があったとある。
その衝突が南都(奈良)にまで伝わっていたことになる。

あからさまな衝突(喧嘩、言い争い)だったのだろう。
人ばらいもせず、やったのでは(ボクの想像)。
信長は単刀直入を好んだから、厳しい言葉だったかもしれない。

syoutotu112.jpg
《こんな風に言い争いをしたかどうかはわからない。想像で象徴的に画いた。
実際は、信長は平伏しながら謙譲語で辛辣な諫言をしたように思う。
はじめは、「なぜ、あのように怒っておるのか?・・・」と義昭は思ったかもしれない?》



信長が義昭を15代足利将軍に就けたころ、お互いの守備範囲や権限についての擦りあわせなどはなかったのだろうか?なかったのだろう。

信長は、将軍の権威と信長自信の力を使い分けて、ことを成していくつもりだったのだろう。
このころ、畿内から遠い地では、「織田信長という元気の良いヤツがいるらしい?」ぐらいの認識だったのではないだろうか?
それに比べれば「室町将軍」の名前と権威(衰えたが)は説明の必要はない。

足利義昭は流浪の末に、晴れて将軍に就いたのだから、将軍としての権限を行使するつもりだった。
もちろん、恩人である信長には幕府の最重要人物として遇していくつもりでいた。
実際、義昭は五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)の守護の補任権(ぶにんけん、官職に任命すること)をもつなど、大きな権限をもっていたのだ。


年が明けて元亀元年(1570)1月23日、信長は五ヶ条の条書を義昭に承認させる。
この文書は、信長の朱印状として朝山日乗と明智光秀とに宛てたもの。義昭の袖判(文書の右端に押す印、承認の意味がある)が捺されている。

その内容。

第一条、義昭が信長に無断で書状を送れないようにした。

第二条、義昭の従来の決定を破棄。

第三条、幕府の恩賞権への干渉を宣言。

第四条、天下を統治する権限は信長に委されたもので、将軍の意思に関わらず成敗を行なうとした(重要)。

第五条、皇室への財政援助を義務付けた(怠っていたということなのだろう?)。

この五ヶ条の条書により、信長は義昭の持っていた権限を握り「天下之儀」を掌中に収めることになったと考えられている。

義昭が御内書(将軍の手紙)を諸国に送っていたこと、恩賞や裁定(もめた時の)に依怙贔屓があることなどなどが、京にいる信長の配下や、信長寄りの公家や幕臣(明智光秀も幕臣)から報告が上がっていたのだろう(ボクの想像)。
将軍を諌めることができる人間は多くはない。

義昭からすれば、御内書の発給や恩賞を与えることは将軍として当たり前のことだと思っていた。
義昭の苦労時代に骨折ってくれた人(もしくは口利き)へ色をつけて恩賞を与えたり、揉め事の調停が持ち込まれれば、エコひいきしたのだろう。
骨折ってくれた人も初めから下心があったのかもしれない。

しかし、それでは示しがつかない。
「信賞必罰、公明正大でなくてはならない!」と信長は思っていた(当たり前だ)。
「一銭切り」なる重罪で望んだほどの信長なのだから・・・

信長は「オレが将軍に就けてやったのだから、何かやりたいことがあればオレを通せ!」と考えていたのだ(ボクの想像)。


新しい年号「元亀」年間は、それまで順調にみえるた信長にとって試練の時となる。
信長が前進すれば、敵対勢力も増えた。
そして、その中心にいたのが、この足利義昭だったのだ。

義昭はヤル気のない将軍ではない(歴代の室町将軍のなかにはヤル気のない将軍がいる)。
むしろ、ヤル気あふれる将軍だ。
この後、義昭は「室町将軍の権威」と「御内書」を駆使して信長に敵対するようになる。
(信長に敵対し続けた間が、足利義昭が輝いていたとも言える。)

テレビドラマでは、屈折したヒステリックな貴族趣味の将軍として描かれる義昭だが、
実は、ファイト溢れる、粘り強い(執念深い)、一筋縄ではいかない人物だったとボクは想像している。
すくなくとも、信長の生涯で手ごわい(軍事ということではなく)相手の一人だろう。

義昭の裏工作で窮地におちいったこともある信長だが、結局、信長は義昭を殺さなかった。
後に京を追放している。
義昭に対して信長は苛烈ではない。
(前将軍、14代足利義栄は三好三人衆と松永久秀に担がれた傀儡。将軍として一度も京の地を踏むことなく病死。 
13代義輝は暗殺されている。将軍の権威を利用しようとする勢力に翻弄されたということだろう。
この時代、有力者に都合の悪くなった将軍は殺されたのだ。)

義昭はこの後、裏で打倒信長に強い執念をみせる。
信長は義昭を廃することなく、表向きには平生を保つことになる。
今回のことは、二人の確執が最初に表面化した事件だった。

そんな義昭は信長にとって、やっかいな男だが、後の世で歴史味わう人たち(ボクも)には面白さを提供してくれた。



信長の野望(其の十二)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history052.htm
を参考にしました。







  1. 2013/11/12(火) 07:43:20|
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