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ブエノス小僧のイラストブログ

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東へ(信長夜話・その75)

ソチ・オリンピックの女子フィギア、浅田真央はドラマの感がした。

もし、失敗したショートで高得点、高位置をキープして金メダルに輝いたら、
本人にとって、輝かしいこと、ファンにとっては「待ってました!」だっただろう。

しかし、そんなとんとん拍子は、より強い感動につながりにくい。

たとえば、大相撲で、前頭から関脇へ、関脇から大関へ、スイスイと大関から横綱へ、
という筋書きは感動を与えにくい。

三役で一度、負け越し、前頭に転落、そこから再び綱取りに挑戦。
ライバルを激戦の末に倒し、晴れて横綱へという筋書きが望ましい。
観客が望んでいるのは、「挫折の末の栄光」だ。

浅田真央は、それをオリンピックの二日間で体現してみせた。
本人にとっては大変だっただろうが、メダルを逸したとはいえ、観客に(世界に)感動を与えた。

ショートでの失敗が強い印象へのスパイスとなったのだ。

おかげで、メダリストたちが霞んでしまったように、ボクには見えた。
浅田真央の存在感はオリンピック前より一段階上がったように、ボクには見える。

スイスイ、とんとん拍子の人生に人は興味をもたないように・・・。




さて、今回の「信長夜話」は・・・

「京での予定を終えた4月20日、信長公は軍兵を率いて京を進発し、まっすぐに越前(建前は若狭)をめざした。
その日は坂本を越えて和邇(わに・現滋賀県志賀町内)で宿陣し、翌日は高島郡の田中城に宿泊した。
22日になって若狭に入り、熊川(現福井県上中町熊川)の松宮玄蕃領を経て23日佐柿(現福井県美浜町佐柿)の粟屋越中守勝久の館に着陣した。」
と『信長公記』は伝えている。


この経路は、京から坂本に出て、右に琵琶湖を望みながら北上、現滋賀県高島市から若狭方面に転進、ここからは山間部を行く。

途中からは「鯖街道」(若狭街道)と呼ばれるルートだと思う(「鯖街道」はいくつもある)。
若狭(日本海側)で取れた鯖を塩をしたり、焼いたりして腐敗を止め、大消費地である京へ運んだという。
京は内陸にあるため、海産物は喜こばれた。


文中の熊川はかつての宿場、古い町並みが残っていて、「鯖街道」の見物ポイント。道の駅がある。
ただ、熊川は観光地としては都会人には、物足りない内容だとボクは思う。

ボクは何度もこのルートをクルマで辿ったことがある。
若狭や丹後、因幡地方(鳥取)に行くときに利用する。
(高速道路は面白くないから、ボクはなるべく利用しない。)

熊川からはダラダラと下ると上川(現在)。若狭湾はもうすぐ。
上川から西に向かうと小浜から大飯(若狭)だ。


ところが、4月25日、信長の軍勢は東へと向かった。
その先には佐柿から敦賀だ。敦賀には朝倉氏の諸城がある。
信長の建前が本音になった瞬間だった。

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《上川(現在の)から東へ(イラストでは左)向かう織田軍。》


軍勢の半分は、非戦闘員の補給部隊だったといわれる。
いまでも商事会社の営業とそれ以外の社員の割合は、半分半分だそうだ。
今回の信長の軍勢が三万とすると、一万五千が補給部隊、残りが戦闘部隊ということになる。


当時、足軽には一日に米が六合、塩は十人に一合、味噌は十人に二合、が支給されたという(『雑兵物語』)。
(注、大名によっては支給内容は異なる。)

米一合(約180cc)は約150g、六合は約900gになる。おそらく玄米だろう(健康的!)。
米、塩、味噌だけでも、これだけ支給しなければならない。

足軽には簡易鎧や武具の貸し出しもしたから、軍を動かすには莫大な金が必要だった(今でも)。
補給部隊は食料以外にも矢玉や水も運んだことだろう。


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《小休止をする輜重隊(しちょう)とした。戦闘員ではない補給部隊(護衛が付いただろう)。
荷駄を背負った多くの馬が連なっていた。》



旧日本軍は、補給を軽くみる傾向があった。
正面での戦闘に比べ、補給は一段下にみられた。
そのためもあって、兵はみじめな戦を強いられた。

旧陸軍と比べて、先進だと言われた旧日本海軍でも、補給物資を運ぶ敵輸送船に対して、
「丸腰は攻撃しない」という思いがあったという。
そんなナメた思いで、当時も最強と言われたアメリカと戦ったのだから、負けてもしかたがない。

アメリカ軍は初期のダメージから反撃に転じると、日本の輸送船は次々と沈められた。
補給路を断つことにアメリカは容赦をしなかった。


第二次大戦中のイギリスを窮地に立たせたことのひとつに、旧ドイツ海軍の潜水艦による狼群作戦がある。
有名なUボートだ。
当時の海上決戦兵器と思われていた排水量3~4万トンの戦艦ではなく、2千トンにも満たない潜水艦が
現在言われるところのシーレーンを脅かした。

現在では潜水艦は重要兵器となっている。
いかに補給が大事かがわかる。


ところで、食い物の補給を受けたのはいいが、出すほうはどうしたのだろうか?
下の話好きのボクとしては気になる。

陣を張ったところでは、ところどころに穴を掘り、そこにしたという。
その穴がイッパイなると埋めて、また他のところに穴を掘った。
ウンチング時は丸見えだったのだろう(はずかしい!出るものも出ない!)。

軍の移動中はどうしたのだろうか?
草むらに分け入っての、立ちション、野グソ、だったにちがいない。

それが三万もの大軍となると、彼らのいくところ、臭かったろうなぁ・・・
軍の移動は臭いをともなっていたことになる。

テレビや映画では、そんなシーンはまず出てこない(当たり前だが)。

足軽については、いつか書きたい。


敦賀に達した信長は、朝倉方の寺田采女正(うねめしょう)が守る天筒山城(てづつやま・現敦賀市)に襲いかかった。
次回「信長夜話」に続く・・・









  1. 2014/03/04(火) 07:23:14|
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