ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

金ヶ崎(信長夜話・その77)

元亀元年(1570年)4月25日、織田信長は敦賀に侵攻する。総勢3万(もっと多い説あり)。

天筒山城を力攻めにして、その日のうちに落とした。
翌日、手筒山城から尾根続きにある金ヶ崎城(敦賀郡の主城)を攻める。

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《金ヶ崎城と天筒山城を俯瞰で見るとこんな感じ。
海に突き出したところが金ヶ崎城。尾根伝いの内陸側に天筒山城(右側)
手前が現敦賀市内中心部。左が敦賀湾だ。金ヶ崎のまわりりには小さな岩礁が多くあるようだ。》



信長は金ヶ崎城の朝倉景恒(かげつね)に降伏を勧告する。
景恒は朝倉氏当主、朝倉義景の従兄弟(いとこ)。

信長の大軍が敦賀に迫っていることを知った景恒は一条谷(朝倉氏の本拠地)へ後詰(援軍)を要請したにちがいない。
だが、援軍は遅れた。
後詰に出陣した朝倉景鏡(かげあきら)は府中(現福井県武生)まで来て進軍をやめ、敦賀の様子をうかがっていたという。
要するに後詰を躊躇したのだ。

景恒は後詰(援軍)が期待できないのなら、勇勢な織田勢を防ぐことは出来ないと判断、
金ヶ崎城を明け渡し、防衛線を後退させ、援軍と合流して織田勢を迎え撃つ作戦だったと想像する。


朝倉家当主、義景は朝倉氏を掌握しきれていなかったようだ。
一族内に軋轢があった。
朝倉景恒と朝倉景鏡(かげあきら)との間に席次(順位)争いがあったといわれる。
また、義景は近江の六角氏からの養子だったという説もある。

外からの大きな危機が迫っていても、目の前の確執にとらわれる。よくあることだ。
「アイツだけは許さん!」と、

こうしてみると、このころの信長の掌握力は優れていた。
織田勢は信長直卒の部隊ばかりではないのにだ。

そして、信長のスピードが際立つ。

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《金ヶ崎城を攻める織田勢とした。
城の回りの木々は城側により伐り倒されていただろう。》



「・・・手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。」(『信長公記』現代語訳)

信長は手筒山城を落とした翌日、金ヶ崎城に攻めかかる。
天筒山城を力攻めにして、1日で落としたのをみて、金ケ崎城は降伏勧告を受け入れ開城、
さらに敦賀の南にある疋壇城(ひきた)も開城、城兵は逃げ去った。(疋田ではなく疋壇が正しいようだ。)
たった2日間で敦賀を制圧したことになる。信長の目論見通りだった。

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《疋壇城を逃げ出す城兵。空堀から見たところ。
疋壇城は敦賀の南の内陸にあった。》



城攻めというと、城方が「城を枕に討死」というイメージがあるが、
このころ、攻城戦で城兵が徹底抗戦することはそうはなかった。
攻め手が圧倒的に優勢と判断すると、城を捨てて、サッサと逃げた。
駆り出された兵(自主的もある)の多くは、命と引き換えに城を守ることなど思っていなかった。

朝倉景恒は金ヶ崎城の主将にもかかわらず、腹を切っていないようだ。
このあたりはどうなっていたのだろうか?
おそらく、金ヶ崎城を明け渡すことを条件に命を取らなかったのだろう。

この後、朝倉景恒は、味方から「腰抜け」呼ばわりをされ、失意のうちに亡くなっている(戦死ではない)。
席次を争った朝倉景鏡が陰口をしたようにボクは想像してしまう。
後詰(援軍)が遅れたのも、そういった確執が影響したのだろう。


話は変わる。ボクは城跡に行ったりすることがある。
石垣や堀に囲まれた城(現在、連想する城)ばかりでなく、「城好き」しか行かないような城跡に行ったりもする。

山城跡はキツいハイキングのようだ。そこは鬱蒼とした木々に覆われている。
戦国時代の城は山城が多い。山城は守り易い、攻城側は攻め上らなければならないから攻めにくい。
もう一つは高い位置からの見晴らしの良さだろう。
寄せ手(攻城側)の配置や動きがよくわかる。

そこで疑問が浮かんだ。
「ということは、城からの視界を妨げる木々は伐り倒されていたのではないのか?」
攻城側が木々に紛れて接近することを防ぐために、城からの見透しを良くしておく必要があったのでは?

調べてみると、やっぱりそうだった。
戦国期の城の回りの木々は伐り倒されていたのだ。

現在では城というと 天守、石垣、土塀、櫓、水堀、松、などを連想するが。
戦国時代のほとんどの城は、郭(くるわ)、櫓(やぐら)、木柵、空堀、土塁(どるい)などを組み合わした土木工事の産物だった。
天守がないのがほとんど。見てくれではなく実戦本位だった。
必要がなくなれば、破棄(放棄)された。
イラストはそんなことを思いながら画いた。

実は、そういった城跡は、「城好き」には知られているが、いたるところにある。
それほど多く築かれたのだ。


織田信長はたった二日で越前の強国、朝倉氏の防衛線である敦賀を攻略した。
信長自身も拍子抜けしたのではないのか、
「なーんだ、てぁーしたことねぁーがや。ムフフフフ…」(名古屋弁、なーんだ、たいしたことはないな、の意)

織田勢の戦意は高く、これで木の芽峠を越えれば、朝倉氏の本拠地、一条谷までは直線距離で十里(約、40km)ほど、
なにごともなければ、二日もあれば到達する・・・・



<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html





  1. 2014/06/17(火) 07:40:53|
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