ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

逃げる!(信長夜話・その79)

暑いねぇ!ほんと、
「大暑だからしかたないか」と思うが、
年々、暑さが増しているように感じる。
貧乏にはこたえるな。

ということで、ひとパック¥108の「塩とまと飴」(とまと味)を口の中でころがしながら、ブログを書いている。
ところが、この「塩とまと飴」がイケる!
ちょっとウレシイ!


さて、
元亀元年(1570)四月、織田信長は敦賀を制圧。木の芽峠を越えようとしていた。
そこに驚くべき知らせが入る。攻守同盟を結んでいる江北の浅井長政の寝返りだった(信長から見れば)。

信長は初めこれを信じなかったが、続々と入る知らせは「浅井長政の寝返り」に繋がるものばかり。
信長は決断する。撤退だった。
評定(作戦会議)を終えると、信長は馬に一鞭、脱兎のごとく駆け出す。従う近習、馬回りは50騎ほどだった。

沈鬱な空気から一変、蹄の音、馬の息遣い、鎧の擦れる音、騎馬武者の声、風の音・・・
落差のある場面転換だ、ボクが映画監督ならこう描いてみたい。

しかし、本当はどうだったのだろうか?

nigeru223.jpg
《逃げる信長は鎧を捨て、軽装だったのではないだろうか?
急ぐ必要がある。重い甲冑を着けていては、馬に負担がかかる。
イラストでは信長にマンチラ(首から胸にかけての防具。鎧の下に着用した。)、佩楯(太ももの全面から側面の防具)、を着用させた。

敦賀を後にして、しばらくすると、あの疑問が頭をもたげてきた。「どうして・・・?」「北近江の領有を認めてやったのに・・・?」「片腕のひとりだと思っておったのに・・・何故だ?」

浅井長政の寝返り(信長から見れば)の理由を信長は考えた。
考えれば考えるほど、それは失望と憤怒に変わった。
莫大な戦費と準備、有望な若者の討死、敦賀への進軍・・・
全てが徒労のように思えた。

おそらく、これを好機と反信長勢力が勢いを取り戻すだろう。
「あのクソダワケが!(名古屋弁・バカヤロウの強調形・浅井長政のこと)!・・・」


すこし前にニコラ・ド・クレシーの『天空のビバンドム』という本を買った。
全編カラーのマンガだ(マンガということになっている)。

ページによって絵のタッチ(画材も)を変えている。
そして、全コマが絵画だ。
「そうか、同じタッチで画かなくてもいいんだな、その自由さが心地良い!」とボクは思った。
じゃぁ、ボクも!ということで、今回は絵の感じを変えてみた。》




歴史の真実に迫ることは難しい。
新しい発見があると、それまで正しいと言われたことが脆くも否定されてしまう。
最近では、「1192年鎌倉幕府が開かれた」「長谷川等伯(だったと思う)が描いた武田信玄の肖像画」「有名な源頼朝像」「騎馬の足利尊氏像」などが、「どうもちがうな?」と言われていることはご存じの通り。

歴史の現場にいた人でも、なにが本当なのかを把握するのは難しいだろう。
全体像がわかるわけでもない。


歴史資料は後の権力者(勝ち組)の都合で捻じ曲げられてしまう。

さらに、後世の文筆家が奇をてらう説を書く。
編集者 「先生、もうすこし皆が驚いて、思わず買ってしまうような内容にしてほしいのですが!話題になるのをお願いしますよ。」
先生 「うーん、じゃあ、あの有名な戦国大名○▽は実は女だった、なんてどうだ?」
編集者 「先生、いいですねぇ、それいただき!それでいきましょう!」


さらにさらに、視聴率を稼がなければいけないテレビドラマの都合により、大胆に脚色される。
奇説を取り上げる。

現代では「大河ドラマで描かれることは本当なんでしょ・・・」と思っている人が大半だろう。
あえて言えば、大河ドラマが歴史を作っているとも言えそうだ。
大河ドラマは戦国時代が多い。こんどは「真田丸」(三谷幸喜の脚本)だそうだ。


話をもどす。
「信長は浅井寝返りの報に接して愕然→撤退を決断→役割、手順を決めると、整然と撤退した→松永久秀が朽木元網を説得→信長は2日で京へ帰還する。」
という線で今回の「金ケ崎の退口(のきぐち)」(そう呼ばれている)を書くつもりでいた。

ボクはなるべく史実(史実と思われている)に沿って書くつもりなので、調べてみた。
いくつかの説がある。以下。


<説1>
「・・・しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
・・・4月28日、信長公は撤退を開始した。木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越えをして京都への撤退に成功した。」(『信長公記』現代語訳)
信長研究の代表的資料『信長公記』には、これだけしか書かれていない。もっと詳しいことが知りたい。

<説2>
「・・・信長は金ケ崎を攻めたが、越前兵は強かったため、これは難しいとお思いになり、信長は宵のうちに退却した。徳川家康をはじめ、諸将は翌日になって信長が退却したことを知った。家康は木下藤吉に案内させて退いていった。このときの藤吉が後の世の太閤だった。」
ここに書かれている信長は逃げ腰で、総大将とも思えない信長だ。

これは大久保彦左衛門忠敬(ただたか)が書いた『三河物語』に書かれているという(原文ではない)。
大久保彦左衛門とは、あの彦左衛門のことだ(魚屋の一心太助が慕う殿様。最近は人気がない)。

ボクは一時期、この説の一部分を信じていた。なりふりかまわない逃げ方が、ある意味、信長らしいと思ったからだ。
逃げるときは四の五の言っていてはいけない。ひたすら逃げる。
津波から、危ないヤツから、賭け事で勝ち逃げするとき、ひたすら逃げる。これですよ。

話を戻す。
大久保彦左衛門は「金ケ崎の退口」当時、10歳だから当然、参加していない。
『三河物語』は信憑性が高いといわれる。彦左衛門は実際に参加した徳川家臣たちから聞いたと思われる。
当時の徳川家中には信長への悪意や屈折した感情があったのだろう。(『織田信長、常識のウソ』の著者、和田惟一郎氏の説)

<説3>
信長の退却とほぼ同時の六角氏(南近江)の行動(『言継卿記』)などをみると、反信長側に連携があったと思われる。
朝倉景鏡の敦賀への後詰(援軍)が遅れたのも、信長に木の芽峠を越えさせ、退きにくい状態にして挟撃するもくろみだったのではないだろうか?

実は信長は浅井氏に動きがあるのを、敦賀に攻めこむ前から知っていた。
木の芽峠越えを慎重に構えていたところに浅井氏寝返りの決定的な情報が入ってきた。

信長にとって危機ではあるが、ある程度想定されていたことだった。
信長の撤退の決断時期、手際の良い撤退を思うと、浅井の寝返りは想定されていたのではないだろうか?

<説4>
「浅井長政の寝返りが確実だと判断されると、すぐに戦評定がもたれた。
京への撤退が決まる。

信長はまず徳川家康隊1000と佐々成政の鉄砲衆300を先行させて、街道を制圧させる。
次に信長と近習200と松永久秀が進発。その後に柴田勝家をはじめ、配下の武将たちの各隊が続いた。
殿軍を木下藤吉郎、明智光秀、池田勝三郎がうけもったのである。」(『武功夜話』)

『武功夜話』は前野将右衛門という秀吉の家臣からの聞き書きを子孫がまとめたもの。
歴史家の間では評判が良くない。

しかし、おそらくこれが近かったのだろう、とボクは想像している。
自軍の損害を少なくして撤退するなら、これだろう。撤退の仕方が自然だ。
撤退路は危険だ、わずかの供回りだけで信長が逃げるだろうか?

『武功夜話』説だとすると、撤退する軍勢は2万ほどだろうか。
敦賀に残った殿軍が4千~5千、「こりゃ、ヤッベ!(危険の意味、ややこしくなった)」と逃げ出したヤツらが5千、
敦賀に攻め込んだ織田勢が3万だとすれば、残りは2万だ。

もし封鎖されていたら、その2万の軍勢で退路を開くつもりだった。これが自然だとボクは思うのだが・・・

ところが、「信長が京へ到着したのは30日の亥の刻(午後11時ごろ)、従う者、10人ほどだった」(『継芥記・けいかいき』)。
そうなると、2万の軍勢での撤退があやしくなってくる。
ボクが信頼する谷口克広氏の本でもこれが紹介されている。



比較的、説が安定しているように見える「金ケ崎の退口(のきぐち)」、ボクが調べた限りでもこれだけある。
ましてや「本能寺の変」では百家百説(こんな言葉があったかな?)、
歴史の真実に迫るのはむずかしい!

話をもどす。
敦賀から京までは100kmほど、4月28日の夜に撤退を開始したというから、2日で到着した。
平均1日に12里ほど(50km)移動したことになる。

結局、信長は撤退に成功するわけだが、
浅井の封鎖をギリギリですり抜けたのだろうか?
信長のスピード、情報網が浅井より一枚(二枚か)上だったということなのだろうか?


信長の京への道筋は、敦賀→熊川→保坂(ほうざか)→朽木(くつき)→葛川(かつらがわ)→大原口(三千院の大原だ)→京都内だったとボクは想像している。
通称、若狭街道だ(若狭街道はひとつではない)。

保坂からは現在では国道367号線、峠越えありの険しい道だ。 
信長が辿った当時の道とは違うかもしれないが、大軍が退却するからには街道を通ったとおもう。

その道筋には懸念があった。朽木谷の豪族、朽木元綱(くつきもとつな)の出方だった。
このころ朽木谷も浅井氏の勢力圏だったと言われている。

信長と同行した松永久秀(戦国三悪人のひとりと言われている)が朽木元綱を説得、朽木谷を無事通ることが出来た、というのが有力な説だ。
久秀と元綱は旧知の間柄だった。元綱が道案内もしたのだろう。
信長にとって幸いなことに、朽木氏は浅井氏との繋がりが薄かった。
また元綱は幕府奉行衆でもあった。信長は幕府の重要人物なのだ。

それから30年後の慶長五年(1600)朽木元網は関ヶ原にあった。
西軍に参加して、大谷吉継隊の側面に布陣した。

その大谷隊が東軍へ寝返った小早川秀秋相手に奮戦しているときに、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返った。前から話はついていたのだろう。
側面から攻撃を受けた大谷隊はこらえきれず総崩れとなった。

そして元網は84歳まで生きた。
余計なことだが、参考まで。


ところで、敦賀に留まった殿軍はどうしたのだろうか?次回、その殿軍のことを書くつもり。



<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html

戦国大名池田勝正研究所
http://ike-katsu.blogspot.jp/2010/12/blog-post_10.html
『織田信長 常識のウソ』和田惟一郎著 PHP研究所 ¥1,262(本体)
を参考にしました。









  1. 2014/07/29(火) 07:11:00|
  2. 信長夜話
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愕然とする!(信長夜話・その78)

元亀元年(1570)四月、織田信長は越前朝倉氏の手筒山城、金ケ崎城を攻略した。
攻撃開始からたった二日で要衝、敦賀郡を制圧する。
織田勢の戦意は高く、このまま木の芽峠を越えれば一乗谷(朝倉氏の本拠地)は遠くはない。

『・・・しかしそこから木目峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。
江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。
浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。
不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。
しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、
「是非に及ばず」と、つぶやいた。・・・』(『信長公記』現代語訳)

文中「木目峠」は「木の芽峠」のこと。
(現福井県は嶺南と嶺北にわけられるが、その境はこの「木の芽峠」だ)

この時も「是非に及ばず」と信長はつぶやいたとある。本能寺だけではなかったのだ。
どうしようもないピンチを認めたときに、信長はつぶやくのだろう。

有名なこのセリフを信長の無常観から説明することもあるが、
「こうなったからにはしかたがない。やることをやるだけだ!」という意味だとボクは想像している。


gakuzennobunaga22.jpg

話をもどして、
木の芽峠を越えようとしたとき、驚くべき知らせが入った。
「小谷に動きがみられる」というのだ。
小谷とは信長と同盟を結んでいる浅井長政の居城のこと。動きとは戦の準備。

「タワケたことを(バカなことを)・・・」
信長は信じなかったという。
戦では敵からの偽情報も流される。鵜呑みには出来ない。
さらに織田によしみを通じている土豪から「浅井が弾薬や、糧食の調達をしている!」との知らせが入る。
続々ともたらされる知らせは浅井氏の寝返り(信長からみれば)に繋がる内容ばかりだ。


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《大河ドラマなら、こんなのが息せききって駆け込んでくる。》


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《こんなのも駆け込んでくる。》


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《こんなのは・・・来ないな・・・》


信長は困惑した。「どうして新九郎(長政のこと)が・・・?」「オレがこれだけ信頼しているのに、何故だ・・・?」

永禄11年、足利義昭を奉じて上洛するとき、六角氏を説得するため、信長はたった250名ほどの供回りだけで佐和山城(現彦根市)に7日間留まったことがある。
案内したのは浅井長政自身だった(この時が初対面)。
浅井氏内では「絶好の機会だ、信長を暗殺したほうがいい」という声があったが、長政はこれを許さなかったという話が伝わっている。
この後、長政は信長の上洛軍に参加している。


信長は義弟である浅井長政を気に入っていた。
長政は寡兵で六角勢を撃破するなど、勇敢で、なかなかの器量であったという。
信長は、東は徳川家康、西は浅井長政、を同盟の二本柱と考えていた。
だから、お市を嫁したのだ(婚礼の費用は織田氏がもった)。

信長からすれば、「ここまでオレは長政を信頼しているのだ、新九郎(長政のこと)もわかっているだろう」と思っていた。
男女間の愛情も企業間の信頼も、お互い同じ気持ちとはいかない。
いや、すれ違うことのほうがほとんどだ。


陣中見舞いに、お市(浅井長政室・信長の妹)から小豆が届けられた。その袋は両端が縛られていた。
それを手にした信長が、ハッ!と「浅井氏の寝返り」を読み取ったという有名な逸話。
ドラマでは入れずにはおかない場面だが、後世の作り話というのが有力だ。

ただし、当時、嫁いだ娘の重心は、嫁ぎ先ではなく実家にあったという。
ときにはスパイ行為を行った可能性はある(本人が無意識でも)


ところで、浅井長政の寝返りの理由だが、
浅井氏は元は朝倉氏の旗本だった。
久政(長政の父)のころから戦国大名化した。
たびたび朝倉氏の援軍に助けられた(信長との同盟以前)。

浅井氏は朝倉氏と同盟関係にあった。
浅井氏から信長に「朝倉と事を構えるときは、相談をしてほしい」と申し出ていたにもかかわらず、信長は無断で朝倉氏を攻めた。
信長の約束違反、朝倉氏との義理を優先しての浅井氏の行動だった、というのが一般的な説である(この解釈がもっとも多い)。

別の説がある。
それほど朝倉氏に義理を感じているのなら、浅井長政はどうして織田氏の「お市」を嫁に迎え、攻守同盟を結んだのか?
朝倉氏と織田氏が仲が悪いことは長政も知っていただろう。
発見されてはいないが、将軍足利義昭からの御内書(将軍の手紙)が長政に届いていたのでは?(『織田信長 常識のウソ』和田惟一郎著 PHP研究所)

挟み撃ちが成功して信長が失脚したそのときには、長政に多くの恩賞と位を授けると(御内書があったとすれば)。
甲斐の武田氏をはじめ、各地の大名にも誘いをかけたことが書いてあったかもしれない(このころ織田氏と武田氏の関係は良好)。
浅井朝倉連合では信長は手にあまる存在だ。(ボクの追加の想像)

そもそも、今回の信長の出陣は「若狭の武藤氏へ圧力をかけるため」という口実で、朝廷と幕府の公認を受けた。
ということは越前へ攻め込むことは公約違反。
さらに、越前朝倉氏は将軍義昭の恩人でもあるわけだから(義昭は流浪の時代、朝倉氏に身を寄せていたことがある)。


話をもどす。
もし浅井氏の寝返りが本当なら、正面の浅倉、背面の浅井、に挟撃されることになる。
(1)即時撤退(大きな損害を被る可能性がある)、(2)もう少し様子を見る、(3)一戦を交える。などが信長の頭の中を駆け巡っただろう。
京へ撤退するにしても(岐阜への道には浅井氏の小谷がある)、浅井氏の勢力圏を通らなければいけない。
決断は急を要する。もし撤退するなら早ければ早いほうが良い。封鎖をすり抜けることが可能かもしれないからだ。


信長は決断する。即刻撤退だ。
すぐに評定(会議)がもたれた。武将達の意見をきくというのではなかっただろう。
「彼はわずかしか、またほとんどまったく家臣の忠言には従わず…」とフロイスが信長を観察している。
評定は撤退の手順、道順、役割をどうするかだったのだろう。

敵を前にして、撤退するのはとても危険だ。撤退するときに損害が拡大する。
この3年後、小谷の近くで朝倉勢は織田勢と対峙した。
夜間(雨中)に撤退をはじめた朝倉勢は、追撃してくる織田勢に刀禰坂で追いつかれ甚大な損害を出している。
それは朝倉氏滅亡に繋がった。


殿(しんがり)は木下秀吉、明智光秀(幕臣)、池田勝正(摂津三守護のひとり)が受け持つことになった。
木下秀吉が進み出て「殿(しんがり)は、この藤吉郎にお任せを・・・」
「おお、禿げネズミ(秀吉のこと・サルと呼んだ資料はない))か!馬回りの鉄砲衆を連れていくがいい。」
とドラマでは描かれる。

信長の武将の序列、信長への私淑、目立ちたがり、計算高さ、などを思うと、
こんなことがあったかもしれない。

この後、秀吉が活躍したと言われているが、
殿(しんがり)軍の主力は、優秀な装備をもつ池田勝正隊3千だったという。


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「評定が決すると、信長は馬に一鞭入れる。南へ向かって脱兎のごとく駆け出した!従う近習、馬回りは50騎ほど・・・」
と大河ドラマなら描きたいところだろうが・・・本当は?・・・次回へ続く



<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
『織田信長 常識のウソ』和田惟一郎著 PHP研究所 ¥1,262(本体)を参考にしました。







  1. 2014/07/08(火) 07:38:24|
  2. 信長夜話
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