ブエノス小僧のイラストブログ

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しんがり(信長夜話・その80)

先日、『石谷家文書(いしがいけもんじょ)』が確認されたという報道があった。

林原美術館所蔵の古文書。
天文4年(1535)~天正15年(1587)までの52年間の47点(全3巻)の歴史的意義の高い文書群だという。
ほぼ織田信長の人生と重なる。
その中には「本能寺の変」の明智光秀謀反の理由、「四国説」の裏付けになる?と思われる部分がある。

林原美術館は、岡山県岡山市の岡山城址にある。
ご興味のある方は検索してみてください。



ということで、前回の「信長夜話・その79」からの続き・・・

元亀元年(1570)四月、織田信長は敦賀を攻略。木の芽峠を越えようとしていた信長に驚くべき知らせが入る。
攻守同盟を結んでいる江北の浅井長政の寝返りだった(信長から見れば)。

信長は決断する。撤退だ(四月二十八日)。

殿(しんがり)は木下秀吉、明智光秀、池田勝正が受け持つことになった。
明智隊と池田隊は幕府軍だから、織田側からは木下隊だけだったことになる。

戦評定で武将たちが顔をみあわせて躊躇していると、
木下秀吉が進み出て「殿(しんがり)は、この藤吉郎にお任せを・・・」
「おお、サル(実は秀吉のことをサルと呼んだ資料はない)!馬回りの鉄砲衆連れていくがいい。」
とドラマでは描かれる。

信長の武将のなかで、木下秀吉の序列、信長への私淑、目立ちたがり、計算高さ、などを思うと、
こんなことがあったのかもしれない。

この後、殿(しんがり)軍の秀吉が討死覚悟で大活躍したということになっているが、
殿軍の主力は優秀な装備をもつ池田勝正隊3千だったという(『言継卿記』)。
「池田家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内においてもっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた」とフロイスが『日本史』に書いている。(永禄7年(1564年)頃のこととして)
誰が殿軍の総指揮をとったかは分かっていない。

殿(しんがり)軍は4千~5千ぐらいだったのだろう。
敵を前にして、撤退するのはとても危険だ。撤退するときに損害が拡大する。
なにごとも新しく始めるときより撤退するときのほうが難しい。


殿軍は追撃してくる朝倉勢を迎え討つことになった。
その任務は織田主力の撤退を助けるために追撃してくる敵を食い止め、さらに殿軍自体の損害を少なくして自らも撤退することにあった。
戦う、逃げる、を同時に行わなければいけない。
殿軍には援軍は望めない。


殿軍は、まず撤退していった各武将たちからもらった旗指物をあちこちに立てた。
「織田の主力がまだいるぞ!」いう欺瞞工作だ。
朝倉勢は様子を見ていたが、しばらくすると織田の主力が撤退したことがわかってくる。
目の前の敵は殿軍だと。



朝倉勢は殿軍に攻めかかった。瞬く間に先頭の兵が血しぶきを上げて倒れる。
続いた兵は一斉に地に伏せる。
あたりに生臭い血の匂い、焔硝の匂いが広がる。

朝倉側が想定していたよりはるかに多い鉄砲が殿軍から応戦してくるのだ。
朝倉勢は一旦後退する。

singari32.jpg
《前回からイラストの感じを変えてみた。
ボクはワガママだから、同じ感じで画いていると、厭きてくる。
イラストを画いていて夢中になるときは、タッチにしろ、構図にしろ、色彩にしろ、自分でも思ってみなかった新しい何かが絵に現れたときだと思う。
そのときワクワクするのだ。
イラスト(絵)を画く動機のひとつは、このワクワクに出会いたいからかもしれない?》



殿軍は鉄砲衆、弓衆、槍隊で構成された部隊を複数、編成した。
一隊を道の横の藪に潜ませ、残りは南に向かって撤退する。

撤退する殿軍をみた朝倉勢は「これを好機」と追撃するが、藪に潜ませた殿軍から鉄砲を浴びせかけられる。
またしても兵がバタバタと倒れる。驚く朝倉勢を槍隊が突出して突き崩す。

再び、朝倉勢は一時、後退して様子をうかがった。

今、鉄砲を浴びせかけた殿軍の一隊は、スグに装備をまとめ撤退する。
代わって先に後退(撤退)していた他の一隊が追撃してくるであろう朝倉勢に火箭を浴びせるべく配置につく。
これを繰り返しながら殿軍は徐々に撤退していった。

こんなのに2~3回やられると、追撃は鈍る。
皆、命が惜しいから、おいそれとは進めなくなってしまう。
(ここまでは有力な説にボクの想像を加えて書いた)


結局、殿軍は千ほどの損害を出したといわれるから、激戦だったのだ。
千といえば殿軍の4分の1。
数日前、織田勢が猛攻を加えた「手筒山城の戦い」での朝倉側の死者は千3百ほどだったという(『信長公記』)

多くの戦死者を出しながらも殿軍は撤退に成功する。
「刀禰坂の戦い」「長篠の戦い」など、撤退する側の損害の多さに比べれば殊勲賞ものだ。

撤退戦にもかかわらず、殿軍の士気は高く、組織的な戦闘を続けた。
朝倉勢の追撃、浅井勢の封鎖が緩慢だった(それだけ織田勢の撤退行動が素早かったとも言える)、などと言われている。


話をもどして、ボクの疑問、
信長が撤退を決断した時点で、浅井か朝倉のどちらかに対して「一戦交える」という選択はなかったのだろうか?
もちろん一方に対しては抑えの兵を置き、一方に主力を集中させるということだが、

織田勢は3万(少なくとも)だったと言われる。浅井朝倉合わしての動員兵力はせいぜい2万ほどではなかったか、
(2か月後、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍が激突した「姉川の戦い」では浅井勢6千、朝倉勢8千と言われている。)
どちらかに織田主力を集中すれば圧倒出来たかもしれない。
片方を撃退すれば、趨勢は決しただろう。

そうならなかったのは信長が「浅井長政の寝返り」の報に狼狽したのでは?とボクは想像するのだが・・・
まあ、ボクは結果を知っているからノンキなことが言えるのであって、現実には情報が錯綜するなかで安全策をとれば、撤退が妥当だったのかもしれない。
逃げる信長は「体制を建て直したら、そのときは・・・」と思っていただろう。


今回の『金ケ崎の退口(のきぐち)』から
美濃平定以来、比較的順調にきた信長だったが、一転、守勢に回ることになった。
この後、反信長勢力の強い抵抗にあうことになる。
このとき信長37歳。梅雨はもうすぐだった。


時はめぐって375年後、1945年8月、帝国日本は戦争に負けた。
外蒙古より侵入するソ連軍(ドサクサにまぎれて)。

蒙古駐屯軍参謀辻田新太郎少佐は隷下の将兵に訓示する。
「我々は駐蒙軍の後衛(殿のこと)である。後衛は古来武人の名誉とされた。
前衛には本体の支援があるが後衛にはない。
戦国の昔、元亀元年の織田信長越前撤退にあたり、諸将逡巡する中、木下藤吉郎は進んで殿軍を引き受け見事にその任を全うした。世にこれを金ケ崎の殿軍と称揚そた」

辻田少佐は響師団を指揮して、よくソ連軍の侵攻を遅らせ、4万の在留日本人の後送を援護した。

長谷川慶太郎氏いわく、「四万の居留民を守って一歩も退かず頑張り通した軍旗なき兵団。
未曾有の敗戦に戦意を失わず、優勢を誇るソ連軍と戦い抜いた姿には、日本陸軍の知られざる面が浮きぼりになっている。」

海軍に比べて、およそ評判の悪い旧日本陸軍だが、絶望のなか灯のような殊勲もあったのだ。
旧日本軍も「金ケ崎の退口」を戦史研究資料としたのだろう。撤退戦の手本とした。



「戦国武士の合戦心得」東郷隆、上田信(絵)講談社文庫¥495
「金ケ崎の退き口」
http://historia.justhpbs.jp/nokiguti.html
「森羅万象の歴史家」
http://oncon.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=128286208
を参考にしました。






  1. 2014/08/19(火) 07:20:32|
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