ブエノス小僧のイラストブログ

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落窪合戦(信長夜話・その81)

「さぶっ!」 寒い!
暖房しないと、夜明け前には室温3度。
暖冬の予報だったと記憶しているが、はずれだったようだ。



久しぶりの「信長夜話」。

元亀元年(1570年)越前から逃げ帰った織田信長は、しばらく京に滞在した。
信長は一転、守勢に回ることになった。
信長の勢いに親信長派になったものも、様子見に変っただろう。

2年前、信長が足利義昭を奉じて上洛するとき、これに抵抗して敗れ甲賀に退いていた六角氏が、再び琵琶湖近くまで進出してきた。
浅井長政の離反に呼応しての攻勢だったのだろう。

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《イラスト下段の6人の武将、いちばん左のとんがった兜は森可成。いちばん右の小男は木下秀吉とした。》


信長は岐阜~京都間を結ぶ道が脅かされると判断して、稲葉良通(よしみち)を守山(琵琶湖東岸)に差し向ける。
稲葉良通はこれに応えて、六角氏側の土豪を守山で打ち破った。

信長は5月9日、京を発し、12日に永原(現滋賀県野洲町)に移動した。
将軍足利義昭には、「もし敵の攻撃があったならスグに上洛する」とことわり、
山科言継(ときつぐ)には、御所の修理を続けるように奉行に命じている旨を伝えている。

普通、人を人とも思わず好き勝手にやるイメージが信長にあるが、なかなかの気遣いではないか、
天皇と将軍の存在価値を重視していたのだ。

永原で数日滞在した信長は琵琶湖東岸に配下の武将を配置する。
岐阜から京都への通路を確保するためだ。

すでに、この年の3月、宇佐山城(琵琶湖西岸)に森可成(もりよしなり)を置いている(『多聞院日記』)。
新たに、佐久間信盛を永原城、柴田勝家を長光寺城、中川重政を安土に置き、
6月には、木下秀吉を横山城、翌年2月に佐和山城に丹羽長秀を配した。

信長配下の武将の大盤振る舞い、オールスターキャストだった。
6人の武将のなかに木下秀吉がいる。
岐阜京都間の通路確保をめざした武将配置だったが、これがのちに近江の分配体制になっていく。


元亀元年(1570)5月下旬、伊賀、甲賀の土豪を中心とした六角勢が草津に押し出してきた。
「越前からの撤退は信長もこたえているにちがいない。やるなら今だ!」と思ったのだろう。

『6月4日、六角承禎親子は江南の諸郡で一揆を扇動したうえ、みずからは軍勢を催して野洲川河岸に進出した。
これに対し織田勢からは柴田勝家・佐久間信盛の軍が応戦に出た。
柴田・佐久間の両勢は足軽を繰り出して敵を野洲川北岸まで引き寄せ、落窪の郷で一戦に及んだ。
 戦は織田勢が敵を完膚なきまで打ち崩し、三雲定持ほか伊賀・甲賀の屈強の侍七百八十余を討ち取って大勝をおさめた。
この勝利により、江南はひとまず鎮静した。』(『信長公記』現代語訳)

「落窪合戦」とも呼ばれるこの戦いは2~3時間で決着がついたという。負けた六角勢は南へ逃げた。
信長の武将配置が効果を現わしたのだ。
越前から逃げ帰った後も織田勢の士気は高かったと思われる。



◆「瓶割り柴田」のこと

『武家事紀』によると、元亀元年(1570年)6月に六角義賢父子は柴田勝家の守る長光寺城を囲んだという。
六角義賢は郷民から長光寺城内は後ろの谷から掛け樋で水を引いていると聞き、平井甚助に水源を止めさせた。

勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、「このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしよう」と言って、三つの瓶を打ち割り捨て、城外へ打って出て六角の旗本を切り崩し、野洲河原で三雲・高野瀬・水原の六角勢を討ち取った。
これより勝家を俗に「ツボワリ柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったという。
これは柴田勝家の有名な逸話だが、事実ではないというのが有力だ。



◆稲葉良通(いなば よしみち)のこと 1515~1588

「がんこ一徹」の一徹は稲葉良通の号「一徹」が由来だという。が、が、がんこだったのだろう。
例え信長の前であろうとも、自分の意見を変えなかったと言われている。

姉は初めに土岐頼芸、後に斎藤道三に嫁いだ深芳野(みよしの)だ。
美人だったとボクは想像している。名前からして美人にそういない!

良通の正室は三条西実枝の娘。子に稲葉貞通(臼杵藩祖)、稲葉重通(佐倉藩祖)などがいる。
貞通は関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、本戦に参加して武功を挙げる。
美濃郡上八幡4万石から豊後臼杵5万石に加増移封され、臼杵藩の藩祖となった。
臼杵藩は無事、明治維新を迎えている。幸運の家系か?

さらに良通は「ふく」(春日局・かすがのつぼね)の外祖父にあたり、養祖父でもあるという。
春日局は江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母だ。権勢を振るった。

稲葉良通は“西美濃三人衆”の1人。初め美濃・土岐氏、斎藤氏に仕え、美濃を攻略しようとした織田信長と戦っている。
斎藤龍興時代の美濃勢は強く、さすがの信長も攻めあぐねた。
その後、美濃の攻略に成功した信長に従う。

良通は信長の代表的な戦のほとんどに参加している。
今回の「守山の戦い」(そんな呼び名はないようだが)、永禄11年(1568年)、信長の上洛に第1隊として、和田山城を包囲(観音寺城の戦い)。
同12年(1569年)の伊勢大河内城の戦い、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いに加わり、近江金森城の守将として一向一揆勢を退け、姉川の合戦では浅井勢の側面を突き、織田軍の危機を救う。

その後も、摂津の野田城・福島城の戦いにおいて「楼岸(ろうのきし)の砦」に滞陣ののち殿軍を指揮。
近江の志賀の陣では軍使も務め、伊勢(長島攻め)、同3年(1572年)に摂津(交野城後詰め)、同4年(1573年)山城(槇島城の戦い一方の先鋒)、天正元年(同年)越前(一乗谷城の戦いで朝倉義景を追い詰める)など各地に転戦した。

天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆攻め、同3年(1575年)の長篠の戦い、越前一向一揆攻め、美濃岩村城攻め、
同4年(1576年)天王寺の戦い、同5年(1577年)紀州征伐、加賀一向一揆攻め、播磨神吉城攻め、有岡城の戦い(兵糧攻めに切り替えた後には織田信孝の副将として安土城の留守居役を務める)に参加し、武功を挙げた。
赫々たる戦歴である。

一時信長は彼の才を怖れ、殺そうとしたが、その文才を見いだし思い留まったという。
信長死後は秀吉に従い、ここでも多くの戦功があるが省略する。74歳で亡くなった。



<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。






  1. 2015/01/20(火) 07:10:24|
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馬が走り去って、羊がやってきた


平成27年、あけましておめでとうございます。


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馬が走り去って、羊がやってきた。
年賀状に貼りつけたイラストです。
十二支では「未」と書く。ややこしい!


以前、小樽で仕事をすました後、小旅行をした。
3月初旬、北海道は寒かった。
小樽→札幌→北見→網走→霧多布(きりたっぷ)。鉄道の旅だ。

ようやくにしてJR根室本線、浜中駅からバスを乗り継いで霧多布の宿に着いた。
民宿だった。
建物の手前に木製の低い垣根と扉がある。

旅行バッグを抱えながら扉を開けると、建物の影から羊が3頭現れ、ゴソゴソとこちらに向かってきた。
思わず怯んだ(情けない!)
生まれてこのかた、羊と相対したことなど一度もなかった。

「羊はおとなしい動物」という認識はあったが、それでもたじろいだ。
「性格の悪いのがいて、見慣れないヤツだと噛みついてくるかもしれんぞ?」と、

入ってきた扉を閉め、扉を楯にして羊を防ぐと、大きな声で「こんちはーっ!こんちはーっ!」と建物に叫んだ。
しばらくしてドアから男が出てきた。宿の主人だった。
「予約しましたブエノスですーっ!」

だからどうだという話ではない(オチなし)。
羊といえばこのことを思い出す。


霧多布(きりたっぷ)を選んだのは、地名に好奇心を覚えたからだった(ボクはよくある)。
霧多布はアイヌの地名への当て字だろう。
それとも、よく霧が発生するのだろうか?

海が近い。湿原と海の霧多布である。
近くに牡蠣の養殖で有名な厚岸(あっけし)がある。

宿の窓から見える霧多布岬はドーバーに似ている。
翌日、岬の突端まで歩いた。風の強い、誰もいない霧多布岬だった。

もう霧多布に行くことはないだろう(不快だったということではなく)。
そんな、もう行くことがないだろう街(地方)がいくつもある。








  1. 2015/01/01(木) 07:34:48|
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