ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

種子島((信長夜話・その83)

前回の「信長夜話」では、信長を狙撃した杉谷善住坊を書いた。
杉谷善住坊とくれば、ここはやっぱり鉄砲(火縄銃とも種子島とも)のことを書きたい。

イラストを画くために「鉄砲の太さってどれくらい?」「この部分はどうなってるの?」
と鉄砲のことを調べることになる(ボクは調べる)。
調べると書きたくなる。
ということで・・・

『天文12年8月25日(1543年9月23日)、大隅国は種子島、西村の小浦に中国船が漂着した。
五峯と名乗る明の儒生が織部丞(西村)と筆談で通訳を行う。
同乗していた南蛮種の賈胡(「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ))の2人が、鉄炮の実演を行い種子島の島主・種子島時堯がそのうち2挺を購入し、刀鍛冶の八板金兵衛らにに命じて複製を研究させた。』
鉄砲伝来の基本になっている『鉄炮記』の記述。

tanegasimatokitaka13.jpg
《ポルトガル人→鉄砲→種子島時堯→南の島、の連想。
ボクは鹿児島県坊津までしか行ったことがない。種子島を知らない。
尾張のボクが連想する種子島。

天文十二年(1543)鉄砲伝来当時、島主、種子島時堯は15才。今なら中学生だ。
時堯自身が本当に2000両もの大金で鉄砲を買ったのだろうか?

種子島時堯の肖像画を発見。端整な感じはするが現実感のない肖像画だ。
時堯はハンサムボーイだったという仮説でイラストを画いた。
画いたところで時堯が当時、15才だったことがわかった。
元服していたのだろうか?・・・ま良いか・・・》



ポルトガル人は鉄の筒のような物を手に持っていた。
遠くの的に狙いをつけて引き金をひくと、稲光りと轟音を発した瞬間、的は砕け散った。

その威力に驚いた島主、種子島時堯(たねがしまときたか)は、これをポルトガル人から譲り受け(2000両だったという、戦国期の貨幣に両があったのだろうか?)
火薬を家臣の笹川小四郎に、鉄砲を鍛冶の八板金兵衛に命じて作らせた。
しかし、どうしても筒を塞ぐ雌ネジの切り方が分からずにいた(ネジの概念は当時の日本にはなかったという)。

試行錯誤の結果、張り詰めという方法でできた鉄砲は、天文十三年(1544)屋久島の奪回作戦で、初めて実戦で使用される。
不発や暴発が頻繁に発生したという。
それでも鉄砲の威力は目を見張るものがあった。

鉄砲伝来から一年後、天文十三年の春、再び南蛮船が種子島の東海岸に来航した。
その中に、鉄砲の製作に詳しかった人物が乗船していた。
金兵衛は、彼にネジの切り方を教わって完全な火縄銃を作ることができた。
金兵衛が作った火縄銃は、橘屋又三郎を通じて堺、そして瞬く間に日本各地に普及していった。


『鉄炮記』は慶長十一年(1606、関ケ原合戦の6年後)、種子島久時が父時堯の功績を称えるために禅僧南浦文之に書かせたものだ。
鉄砲伝来から63年後の記述ということになる。
「鉄砲の発展に貢献した種子島時堯の功績は偉大だ」という、種子島家宣伝の文献ともいえる。
鉄砲伝来については、現在、倭寇伝来説、琉球商人説、中国からの漂流民説、などがある。


鉄砲は伝来から初期のころは贈答品などに使われていたが、九州地方から徐々に実戦に現れるようになった。
「鉄砲隊」と呼べるような数ではなく3人、5人というような数だったという。

天文二十二年(1553)、若き織田信長は富田聖徳寺で美濃の斎藤道三と会見。
「供の者は七百人ばかりが連なり、足軽を先に立て、三間間中柄の朱槍五百・弓鉄砲五百ほどをかかげていた。」と『信長公記』にある。
斎藤道三が「尾張のうつけ(バカ者)はタダ者ではない!」と感じた有名な会見だ。
弓鉄砲五百とあるが、半分とみて二百五十、少なくみて百~二百の鉄砲衆が付き従ったのではないだろうか?


さらに、翌天文二十三年(1554)、織田の領地に今川氏側が村木城(砦)を築いた。
これを織田信長が攻める。
「鉄砲取りかえ取りかえ放させられ・・・」と村木砦の狭間を狙って信長自身が繰り返し発砲した。(『信長公記』)
この時、信長21才。
「信長所有の数丁の鉄砲を家臣が発砲準備をして手渡し、繰り返し発砲した。」と言われている。
「鉄砲隊と呼べるような集団は参加していなかった」という説が有力だが、
前年の「聖徳寺の会見」での鉄砲の数をみると、鉄砲隊が参加したとボクは思うのだが、

信長は若いころ、橋本一巴〔はしもといっぱ、永禄元年(1558)浮野の戦いで討死〕を鉄砲の師匠にしたというから
信長16才(1549)ごろには鉄砲を手にしていたのではないだろうか?
そうだとすると、鉄砲が種子島に伝来してから6年後には信長は鉄砲を所有して、取扱いに慣れていたことになる。

織田家は信長以前から経済的に恵まれ(重視し)、津島という伊勢湾に通ずる裕福な商港を勢力圏に置いていたから、鉄砲に接したのも早かったのかもしれない。


永禄十一年(1568)三月九日の条で、伊予の河野道直(こうのみちなお)が宇都宮豊綱(うつのみやとよつな)と争った際、毛利が鉄砲衆九人を支援として送っている。信長と斎藤道三の聖徳寺での会見から十五年後のことだ。
九人が毛利の鉄砲衆の全力ではないだろうが、毛利といえば西国の雄。それでもこの程度だった。

「元亀元年(1570)六月の姉川の戦いでは織田、徳川の鉄砲衆は五百だった。」といわれる。

また、武田勝頼は天正三年(1575)長篠の戦いで信長に敗れるが、その後自軍の鉄砲の保有数を増やしたといわれる。
「長篠の戦い」では武田は織田に対して鉄砲が質量ともに劣勢だったことを勝頼が認めたのではないだろうか?
ちなみに、武田勢もそれなりに鉄砲を装備していた。武田が包囲攻撃した長篠城は武田側の鉄砲で蜂の巣にされた。
なお、武田勝頼は勢いばかりの凡将ではない。

普通、「信長=先進=鉄砲」という連想がある。
「これはひょっとして、テレビドラマなどの刷り込みではないのか?信長だけが鉄砲に注目していたわけではあるまい。」とボクは疑っていた。
でもこうやって調べてみると、やはり、織田の鉄砲の装備状態は他の有力大名よりも進んでいたとみるべきだろう。


鉄砲足軽の装備と鉄砲の部分の呼び名と説明。

tepouasigaru22.jpg

tepou22.jpg

①予備のカルカ 
②銃袋
鉄砲は高価だったので、濡れたり傷がつかないよう袋に入れて持ち歩いた。
③口薬入れ
こうやくいれ・火皿にもる点火薬を入れた。 
④カルカ
銃口からいれた玉薬と弾をつき固める棒。銃身の下に収まっている。引き抜いて使用する。折れやすいので予備をもっていた。 
⑤先目当
元目当てとともに照準の目安にする。 
⑥胴乱
早合入れ。早合とは玉薬と弾丸(鉛玉)を竹や紙の筒条の容器にいれたもの、装填を早くするためのもの
⑦筒
銃身 
⑧台 ⑩用心鉄 ⑪引き金 ⑫芝引き 
⑬火縄
木綿、ヒノキの皮や杉皮、槿の木の皮、竹の繊維を結ったもの、などがあった。
木綿の場合は火が消えるのを防ぐため硝石の溶解液で煮て湿らせ乾燥させた。
また、藍で染めたり、柿渋に石灰を入れて染めたものなどがあった。
こういった火縄は小雨程度では消えなかった。晴天のときなどは点火したままでいると火付きが良すぎて困った。
点火された火縄の先端はエンピツの先のように尖らせる必要があったという。
先端に燃えカスや灰が付いたまま引き金を引くと、燃えカスや灰が火皿に落下、不着火になり発砲をしくじる。
緊迫した戦場では命とりになる可能性がある。
ベテランになると一発撃つたびに火縄先端の灰を吹き落とし、火皿の口薬に注意を払った。
⑭火縄通しの穴 ⑮火鋏 
⑯火皿
この穴に口薬を盛る。 
⑨元目当て ⑰かに目 ⑱弾金(バネ) 
⑲火蓋
これを開け閉めして使用する「火蓋を切る」の語源。

鉄砲足軽とした。イラスト以外に、玉入れ、火打ち道具、鉛ひしゃくや玉型、鉄砲分解用の道具、携帯食糧、水筒、などを携帯したという、大変だ!


種子島 時堯(たねがしま ときたか)について

時堯〔1528年(享禄元年) - 1579年10月21日(天正7年10月2日)〕は、島津氏の家臣で種子島の領主。
(島津氏の家臣だったのだ)
種子島恵時の子。妻は島津貴久の妹。
種子島氏は南北朝時代から島津氏に属し、時堯は種子島氏の第十四代領主(島主)。

種子島 時堯といえば、なんといっても今回の「鉄砲伝来」だろう。
1560年(永禄3年)に家督を長男時次に譲るが、2年後に7歳で早世したため家督に復した。
後に次男の久時が家督を継いだ。
久時は島津義久の加冠により元服、後に義久に従い数々の軍功を得て家老となり、江戸以降も種子島家は代々家老を出す家柄となった



東郷隆著『戦国武士の合戦心得』講談社文庫¥495(税別)を参考にしました。







  1. 2015/08/28(金) 07:58:18|
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夏空

暑中お見舞い申し上げます。

暑いですね!
名古屋弁なら「どえりゃー暑い!」ということになる(「とても暑い」の意)。
「でら暑っ!」ではない。

「でら旨!」などとビールのCMで流れたりして、「でら」が名古屋弁として喧伝されているが、
ボクは生粋の名古屋人だが、「でら○▽」など聞いたことがない。
「どえらい」→「どえりゃー」→「でーりゃー」と変化したもの。「でら」とは言わない。
聞いたことがあるのは「どえりゃー」だ。

「でら」はタモリの「エビフリャー」と同じでメディアがでっちあげた名古屋言葉だ。
名古屋人は「エビフリャー」とは言わない。「エビフライはうみゃー!」と言ったりはする。

ということで、暑い!
今日も36度だそうだ。
ここ1週間は35度以上が続いている。観測地点での気温だから場所や体感によってはもっと高いだろう。
天気予報では、しばらくはこんな気温だという。グッタリ!

「暑い!暑い!」というと余計に暑く感じるから言いたくはないが、
そんな思いを押し潰すほどのムシ暑さだ。
「恐ろしい名古屋の夏」だ(他の地方も暑いようだが)!

nyuudougumo411.jpg
<雲の絵は難しい(ボクには)
雲を画くには絵具などが画きやすいと思うが、ボクはペンで画きたい(頑固もの)。

雲の形に定型はない。
だったら、適当に画けば良いのだが・・・

例えば、猫のような形をした雲をスケッチしたとする。
実際にそう見えていたとしても、
絵として見ると、およそウソっぽい雲に見える。
(「猫型雲」と断ればべつだが、)
自然な感じの魅力的な雲?をペンで画くのは難しい(ボクには)>



話は変わる。

小学生のころの夏休み、八月初旬だったように思う。
粗末な玄関先(貧しかった)で空を見上げた。電線越しに青い空と入道雲。
じっと見ていると生き物のように雲の形が変わっていく。

「20年後、30年後、こんなふうに夏空を見あげたりするのかな?」
そんなことをボクは思った。
それ以来、夏になると、ときどき空を見上げるようになった。

記憶にある高校3年生のときには「高校生最期の夏だな・・・」と思った。
希望、不安、ワープ感、が混じっていた。

好きな女に振られたことがあった。「いき場のない思い」が夏空にあった。

昨日、久しぶりに夏空を見上げた。「・・・あれは小学生だった・・・」
思い出と無常感が追加されていた。









  1. 2015/08/07(金) 07:05:00|
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