ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

堀秀村の寝返り(信長夜話・その85)

今年の晩秋は暖かかった。ありがたいが不気味。
ファッション関係は大変だろう。
一年でもっとも売り上げがとれる秋から冬に、この暖かさだ。

先日、春物を売り場に出した百貨店があるとTVで流れていた。
値下げならまだしも、まだ12月だぞ!

こんなに、売れないのなら、春物を並べて顧客にDMを出して、来店を促し、
顧客の春物衣料用のお金を、まず、わが売り場に落としてもらおう、という魂胆なんだろう。

ファッション関係には、こういった前のめり型の商売が年々進んでいる。
そのうちに、12月に夏物が売り場に並ぶ日も遠くないぞ・・・




ということで、今回の話。

元亀元年(1570)永原から岐阜へもどる途中、織田信長は千草峠で狙撃を受けた。
六角氏の放った刺客、杉谷善住坊だった。
幸運にも、信長はかすり傷程度(衣服の袖を撃ちぬいた、という説あり)。

岐阜に戻った信長に知らせが届く。
近江、鎌刃城(かまは)城主、堀秀村(ほりひでむら)が浅井から織田に寝返ったのだ。
浅井氏攻略の好機と見た信長はスグに出陣する。
交通の要衝にある鎌刃城は浅井氏にとっても重要拠点であったにちがいない。

ここでも信長が速度を重視したことがわかる(他の大名と比べても)。
信長にすがしさを感じるとすれば、こういうところのような気がする。

グズグズしていれば、寝返ったことがバレて、堀秀村が敵に攻め殺されるかもしれない。
敵側から逆説得があるかもしれない。
当人の心は揺れている可能性もある。

出陣は6月19日だった。
その日のうちに堀氏の長比城(たけくらべ・ 読めないようねぇ「たけくらべ」とは、)に入った。
浅井側の抵抗はなかったようだ。
ここで、軍勢がそろうのを待つ。

信長のよくやる出陣手順だ。
すぐに動くことが出来る手勢を率いてサッサと出陣。
途中、「上様が出陣なされたぞ!続け!早くせい!」と追っかけてくる配下武将の軍勢を待つのだ。
気が短いのか?居ても立っても居られないのか?好機と判断した?のか?信長はこれをよくやる。

ところで、寝返った堀秀村は、このとき13才。少年だ。
木下秀吉配下の竹中半兵衛重治の説得(調略)を受けた。

堀秀村の家老、樋口 直房(ひぐち なおふさ)は、前もって竹中半兵衛の説得を受け入れていたのだろう。
秀村は家老、樋口 直房を頼りにしていたと想像する。


kamahajyou32.jpg
<イラストは鎌刃城とした。琵琶湖に近く、彦根や佐和山の東の山の稜線にある。
石垣があり、大櫓があったという説がある。

背景に琵琶湖が霞んでる。
こういう角度で琵琶湖が見えるかどうかはわからないが想像で画いた。

堀秀村、樋口 直房の肖像画は見当たらない。
当時13歳の堀秀村が、イラストのような少年かどうかはわからない。でっちあげた。
TVドラマではイケメンが戦国武将を演じることが多いが、現実感がないとボクは思っている。

竹中半兵衛には肩衣を着た肖像画がある。
それはボンヤリとした絵、半兵衛の顔もボンヤリ。

映画やドラマなら、一見、ボンヤリとした半兵衛が実は切れる男だった、という描き方も出来るが
(むしろ効果的)、
このイラストの場合、一枚だけなので、ボンヤリとした半兵衛を画くと、違和感があるだろうとボクは思った。>



戦で敵を撃破することは武将の手柄にちがいない。
でも、一番の手柄は調略によって敵を寝返らせることではないだろうか。
相手が重要人物なら、なおさらだ。

調略(寝返らせること)の利は大きい。 

(1)今まで敵だった者が味方になる。敵にとっては倍のダメージだ。

(2)戦ではないから自軍の消耗はない。
その費用も、戦費にくらべたら安くすむだろう。

(3)敵の情報が手に入る。軍事機密も含まれる。
後の「小牧長久手の戦い」の後、徳川家康の重臣、石川数正が豊臣秀吉へ寝返ったことがある。
家康は自軍の軍制の変更を余儀なくされたという。

(4)寝返った者は自軍では新参者だから、いきおい、危険な作戦に従事(志願)する。
たとえば、先陣を受けもったりする。戦の初めは敵も元気が良いから大変なのだ。

(5)寝返った者は、戦働きを認めてもらう必要があるから、戦場では勇敢だ。

(6)味方から裏切り者が出た。調略をされた側の士気は低下する。
「え!堀殿が?ということは家老、樋口殿の判断なのだろう。ワシの身のふり方も考えたほうが・・・?」と動揺する。

調略は、する側には良いことづくめ、される側には悪いことづくめ。

天正8年(1580)、信長は古くからの重臣、佐久間信盛親子を追放する。その十九箇条の折檻状(せっかん)に、
「信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考えていたのか?・・・」(現代語訳)
とある。

木下秀吉は「人垂らしの名人」と言われた。
調略は得意種目だったにちがいない。
主君、信長の欲するところをよく理解していたと想像する。
秀吉隊の竹中半兵衛も、当然、秀吉の意向をわかっていただろう。

調略の的を絞ると、その者の情報を集めた。地縁、血縁、人脈、長所に短所、好き嫌い、などなど・・・
人を介して接触を試みる。もちろん、秘密裡に。
ときには文書で、ときには直接会って説得する。

戦が日常だった時代、皆、不安を抱えていた。
まずは、自分のことをさらけ出し、相手の心に入り込む。
嘘、うわさ、おいしい話、脅し、よいしょ、をいりまぜて相手の心を揺さぶる。



堀 秀村(ほり ひでむら、弘治3年(1557年) - 慶長4年(1599年))のこと。

近江国北部の鎌刃城の城主。小谷の浅井長政に仕えていた。
1570年、木下秀吉配下の竹中重治や家臣の樋口直房の説得され、織田方に寝返る。

その後、激怒した浅井方に攻められ、鎌刃城を失う。
姉川の戦いで浅井氏が敗れると、織田信長に再び鎌刃城の城主を任された。
1571年には浅井方の浅井井規が鎌刃城を攻めるが、、木下秀吉の加勢、奮戦もあり城を守りきった。

以後、対浅井の防備に秀吉と共に協力して当たる。
しかし、浅井氏の滅亡後、秀吉が近江の領主として堀よりも格上の立場になった事によって軋轢が生じた。
家臣である樋口直房が一向一揆との戦いで、勝手に一揆衆と和睦、城を捨てて逐電したため、1574年に10万石とも言われる所領を全て没収され、信長に追放された。

その後、豊臣秀長に拾われて仕えたというが往時の勢力は取り戻せず、1599年に没した。42歳。
人生にはいくつもの分かれ目がある。
結局、堀 秀村の13歳の賭けは裏目と出た。

秀村は、織田信長の優秀な側近、堀秀政の家系の分家では?という説がある(有力ではない)。
北近江と美濃はとなりだ。あり得るように思うが?



樋口 直房(ひぐち なおふさ、生年不詳 - 天正2年(1574年))のこと

通称を三郎左衛門。
浅井氏に属し、近江国坂田郡を代々治めた堀氏の家老。
幼少の主君・堀秀村に代わって家中を取り仕切る。

兵法・軍略に通じ、優れた民政家でもあった。人望厚く近江一の智謀の将と謳われた。
書や茶道、連歌などにも通じ、文武両道の武将であったという。

斎藤氏の家臣だった竹中半兵衛重治が稲葉山城を奪う無血クーデターを起こし(珍事!)て隠退したとき、近江に逗留した重治に住まいを世話をするなどして親しくなったといわれる。

元亀元年(1570年)、直房は、羽柴秀吉に仕えていた半兵衛からの調略を受け、浅井から織田方に寝返る。
主君・秀村を説得し、秀吉の有力な与力として、重治と共に重きをなした。

朝倉氏滅亡後、織田軍は小谷城を包囲。その時も、秀吉に従い転戦。
浅井氏が滅びた翌年、横山城守将など要職を任されていた。

越前木目峠に布陣した際、鎮圧途中の一揆勢力と単独で講和を試み退転したことが秀吉にバレる。
逆鱗に触れた直房は妻、一族郎党とともに秀吉の追跡を受け命を落とした。
以前の家老の直房が討たれたことにより、堀秀村は領地没収の憂目にあっている。



鎌刃城のこと

鎌刃城は霊仙山の東尾根から派生する支尾根の東端に築かれた。
中山道の番場宿(現、滋賀県米原)を見下ろす位置にある。

番場宿は西に琵琶湖の水運を利用できる朝妻港を控え、東は美濃、南は京へと続く中山道。
北は木之元を経て越前に通じる。
これらの街道が交差する交通の要衝にあった。

この要衝の地をめぐって、江北の浅井氏と江南の六角氏が戦いを繰り返した。
中山道に沿って鎌刃城以外にも菖蒲岳城、太尾山城、および地頭山城などが点々と築かれている。

尾根頂部の主曲輪を中心として、北と東に延びる尾根上には連郭式に曲輪が配され、南尾根は幅2mほどの痩せ尾根にもかかわらず8条の堀切を入れるなど徹底した防御が図られている。
鎌刃城の名前は、この尾根の形状が鎌の刃状であることに由来しているという説がある。

鎌刃城が、他の中世城郭と異なるのは、石造りの城という点だ(普通は土)。
主曲輪から東に延びる尾根先端の曲輪の南斜面に高さ3~4m、長さ40mほどの石垣(通称:大石垣)が知られていたが、
1999年からの3年間に渡る発掘調査で、主曲輪周囲を石垣で固め、虎口は山城としては異常に大きい石造りの枡形虎口を備えている。
また三の曲輪にも石造りの枡形虎口を有するなど、要所要所は石積みで固められていることが判明した。
鎌刃城は六角氏の主城、観音寺城につぐ規模があったという説もある。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税、
「近江の城郭」http://www.oumi-castle.net/、
Wikipediaの記事、
を参考にしました。








今年のブログの更新は、これで終わります。
ありがとうございました。
良いお年を・・・

 
  1. 2015/12/29(火) 07:37:11|
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ふたたび種子島(鉄砲)のこと(信長夜話・その84)

このカテゴリー「信長夜話」では、杉谷善住坊、種子島(鉄砲)と書いてきた。
今回、ふたたび「種子島(鉄砲)」のことを書きたい。


下のイラストでは陣笠や具足を付けていない。
「関ケ原の戦い」に関連して起きた上杉と伊達の戦いを画いた「長谷堂合戦図」には、鉢巻、筒袖、股引き、だけの鉄砲衆の姿がある。
イラストはそれを参考にした。

こうしてみると、百姓(農業従事者)か猟師にみえる。
それもそのはずで、当時の足軽や雑兵は百姓たちだった。

あるものは田畑を守るため、あるものは勝ったときの褒美や略奪目的で参加したという。
従軍中は食糧が支給されるのも大きかった。
すくなくとも一人分の食扶持は心配をしなくて良いのだから。

TVドラマなどでは、羊のようにおとなしい百姓しか描かれないが、実際には戦の経験者も多くいた(当然)。
自前の槍、刀をもって参加した百姓もいた。
百姓と武士の境は曖昧だった。

領主の戦以外にも、村同士の争い(戦)もあった。
百姓達からの訴えに応えて領主(大名や土豪)が動いた戦もあっただろう。
戦慣れした百姓もいたにちがいない。

病院で、経験の浅い医者よりベテランの看護婦(看護師というらしい、ややこしい)のほうが患者の病状を見抜いたり、処置方法も適切ということがあるという。
戦場(いくさば)で、指揮する経験の浅い武士の判断など、「ケッ、どこみてるんだ、まったく!あんなのに付き合っていたら命がいくつあっても足りねえぞ」と、せせら笑う足軽、雑兵もいたように思う。

いつか、戦国時代の百姓のことを書くつもりだ。



ということで、
火縄銃の装填から発砲の手順

teppousyuu313.jpg

(1)まず、銃尾(芝引き)を地につけて、銃口を上にむける。

(2)玉薬(たまぐすり・発射薬)を銃口から入れる。

(3)弾丸を銃口から入れる。
(注)早合(弾丸と発射薬を包んだもの、装填の手間が省ける)を使用する場合もある。

(4)カルカで銃身内をつく。→上のイラスト⑳
(注)突くのは1回。何度も突くと弾丸(鉛)が変形して初速変化を起こす可能性がある。
(注)カルカを使わないで、銃床を一度、地面に打ちつけると反動で発射薬が銃尾に下り、カルカを突いたのと同じ状態になるという。

(5)銃を水平にして、火蓋(イラストの⑲)を切る(開く)。

tepou22.jpg

(6)火皿(イラスト⑯)に口薬(こうやく、点火薬)を盛る。→上のイラスト㉑ 
鉄砲の火薬は口薬と玉薬(発射薬)が必要だった。
(注)銃を必要以上に動かすと、細かい口薬が道穴を伝って銃身内にこぼれて入ってしまう。
発砲となって再び火蓋を切ったときに、火皿に口薬がない、ということなる。
口薬は発砲直前に火皿に盛るのが良い。

(7)口薬がこぼれないように火蓋を閉じる。

(8)火鋏に火縄を挟む。(下のイラスト㉒)

teppousyuu413.jpg

(9)再び火蓋を切り(開き)、火皿を露出させる。

(10)狙いを定める。(イラスト㉓)

(11)引き金を引く。火縄が火皿に落ち、口薬に点火、銃身内に引火、弾丸が飛び出す。


という具合。すこし練習をすれば簡単だ、と思うかもしれないが、
いつも上手く発砲するには(注) で示したようなコツが必要だった。

さらに、戦場(いくさば)では、たえず前方の敵を注視していなくてはならない。
すなわち、手探りでこれら装填をしなくてはいけない。
イラストのような姿勢でしなければならない場合もあったろう(例えば遮蔽物の影などで)。
やはり慣れが必要だったのだ。

teppouasigaru12.jpg

切り合いになるときは、鉄砲を後ろ帯にさす。銃口を下にする(イラスト㉔)。
行動中は火縄の火が消えないようにクルクルと回した。鉄砲は左に担ぐ(イラスト㉕)。
鉄砲の右側に銃の機械部分が集中しているからだろう。


火縄銃の性能は?

(12)大きさ、重さは?→全長130cm、銃身長100cm強、口径は二匁から二匁半くらいの銃が一般的。
重量は口径により異なるが4kgから5kgくらいある。

(13)装填から発射までの時間は?→普通1分ほどかかった。熟練者になると20秒前後にすることが出来たという。

(14)射程は?→最大射程500m、有効射程200mぐらいか?(鉄砲の種類や条件によって異なる)

(15)威力は?→現代の小銃と比べると、弾丸の鉛部分を硬い金属で覆っていない鉛玉なので威力は大きい。
現代の小銃と比べると口径が大きく、弾丸が重い。さらに、弾丸の初速は拳銃よりはるかに速い。
なので、火縄銃は現代の小銃に比べれば弾丸の直進安定性こそ劣るが、近距離での破壊力は現代の散弾銃より強力なものだったという。

正規の薬量・弾頭重量の火縄銃で戦国時代の足軽向けの具足を射撃した結果がある。
厚い鋼板を用いた胴体正面部分であっても直撃を受ければいとも簡単に撃ち抜かれた。

また、硬い鋼板に当たることで分裂した鉛弾が胴体内に飛散して背中側の鋼板も貫いていることから、「たとえ完全装備の具足をまとっていたとしても、火縄銃がまともに胴体に命中すれば撃たれた兵はまず助からないであろう」と結論づけている。


<歴史群像編集部および日本前装銃射撃連盟会長小野尾正治らによって2005年頃に行われた実験>

口径9mm、火薬量3グラムの火縄銃は距離50mで厚さ48mmの檜の合板に約36mm食い込み背面に亀裂が生じた。
また厚さ1mmの鉄板を貫通した。
鉄板を2枚重ねにして2mmにしたものでは貫通はしなかったが、内部に鉄板がめくれ返っており、足軽の胴丸に命中した時には深刻な被害を与えたのではないかとしている。距離30mではいずれの標的も貫通している。

火縄銃に対する盾としてよく用いられた青竹による竹束について。
直径4cm・長さ1m程度の竹を31本束ね直径77cm、重量14.3kgとしたものに対しての射撃実験。
距離28.8mで6匁玉(直径15.5mm)の場合、青竹4本の貫通で収まり竹束全体は貫通しなかったが、当たり所が悪ければ全て貫通する場合もあるという。

なお、同書では火縄銃の有効射程は200m程度としている。

命中精度: ヒトを模した身長160cmの静止した的に対して、30mで5発全てが胸部に着弾。
50mでも5発中4発が着弾するという好成績。


鉄砲足軽の戦法は?

火縄銃は、戦国時代中期から、主要武器の一つとしてその比重を増した。

戦国時代から江戸時代においては備ひとつに対し、鉄砲組(20 - 50名)を1、2組配しているのが基本。
戦闘開始の時や、勢いに乗り突進してくる敵兵に対し、一斉射撃を浴びせ進撃を止まらせるときなどに使用されたという。

鉄砲足軽同士が密集したか否かについては議論がある。
火の粉が飛び散る中、暴発の危険があるからだ。
おのおのが安全な距離を取ったという見方がある。

二段撃ち: 2列横隊に並び、前列が片膝をつき、後列が立って射撃する。
佐々成政(織田信長の馬回り・鉄砲隊を指揮した)が考案したという記録が残っている。
これも暴発の危険があるので、実際に行われたのかどうかは疑問視されている。

三段撃ち: 普通、「長篠の戦いで」織田軍が採用したといわれている有名な配置。
雑賀衆がすでに実戦で用いていたという説もある。
しかし、この三段撃ちについても疑問が多く指摘されている。

繰り出し:: 三段撃ちの要領で、さらに銃列を前進させる戦術。関ヶ原で薩摩の島津氏が用いて中央突破に成功しているという。

1人の射撃手に数丁の火縄銃と数人の助手が付き、射撃手が射撃している間に助手が火縄銃の装填を行う方法。
連射が可能。これは鉄砲傭兵集団としてその名をとどろかした雑賀衆、根来衆が得意とした。
石山合戦で、織田勢を大いに苦しめた。

ボクは「鉄砲衆が密集しての射撃はなかった。」と思っている。






東郷隆著『戦国武士の合戦心得』講談社文庫¥495(税別)および
Wikipediaの記事を参考にしました。






  1. 2015/12/08(火) 08:11:15|
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