ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

毛・その2(ジョーク)


ke23.jpg

真治はパーティーでモデルの女と知り合った。
あれこれ、おしゃべりを楽しんだ。

真治は、彼女の魅力的な胸から、一本の毛がはみだしているのに気がついた。
それが気になって話も上の空。

いたずら心がムラムラと湧いてきた。
ついに我慢が出来なくなって、手を伸ばしてその毛を引っ張った。

「あん、痛いっ!」
その娘は股間に手をやって叫んだ。

「…」



植松 編訳「ポケット・ジョーク」角川文庫¥300+税 を参考にしました。







  1. 2016/03/22(火) 06:59:29|
  2. ジョーク
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

虎御前山(信長夜話・その86)

ボクは今、濃尾平野の北辺に住んでいる。
名古屋市より標高が高い。

お気に入りの散歩道の高見から南西を見る。名古屋市内が見える。
左に守山から末森山方面(名古屋東部丘陵)が見える。
空気が澄んでいると、名古屋駅周辺の高層ビル群の向こうに、養老山脈の南端、多度(たど)、桑名周辺が霞んでいる。

さらに、その向こうに険しい鈴鹿の山々が見える。
その山々を越えれば京がある。

視線を右に送ると、飛行機が離着陸している。名古屋(小牧)空港だ。
その近くには小牧山がある。
さらに右、遠くにひときわ高い山、伊吹山だ。
さらに右、山に阻まれて見ることは出来ないが、岐阜城のある稲葉山がある。

織田信長が駆けた世界が一望できる。



元亀元年(1570)六月二十一日、織田信長は伊吹山の西にいた。
鎌刃城の堀秀村が浅井から織田へ寝返った。六月十九日、時をうつさず信長は出陣する。
調略が成功、浅井氏攻略のチャンスとみたのだ。

その日のうちに堀氏の長比城(たけくらべ、堀氏の家老、樋口直房が城主だったといわれる)に入って、軍勢が揃うのを待った。
軍勢が整うと、出陣から2日後、浅井氏の居城、小谷近くに進出、小谷周辺に火を放った。

『6月21日、長比(たけくらべ)を出た信長公は浅井の本拠小谷まで攻め寄せた。
織田勢のうち森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照は雲雀山(小谷のすぐ近く)へのぼり、山麓の町を焼き払った。
信長公はその他の諸勢を引き連れて虎御前山に陣を据え、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀および江州衆に命じて近在の諸所へ余すところなく火を放たせた。』(『信長公記』現代語訳)

まずは、小谷周辺に火を放ち、浅井の出方をみたのだろう。
もし、浅井が出撃してくれば、優勢な自軍をもってこれを撃破するつもりだった。
織田勢は浅井勢の約3倍だった(異説あり)。

odanihouka43.jpg
<イラストは虎御前山の信長と小谷周辺への放火とした。>


『信長公記』には、小谷周辺に放火した、としか書かれていない。
信長は軍の規律に厳格だったと言われている。
それでも、このとき、殺戮、略奪、があったとボクは想像している。

今回、浅井氏に攻めいるころから、信長の思いに変化があったように思う。
「甘い考えではだめだ。もっと厳しく・・・」と、

普通、信長は峻烈な印象をもたれているが、
これまでの信長は峻烈とは言いがたい。
村木城攻め、稲生の戦い、岩倉城攻め、桶狭間の戦い、稲葉山城攻略、金ヶ崎攻め、をみても、
負けた側に寛容であった。

やはり、浅井長政の裏切り(信長からみて)が、よほど堪えたのだろう。
裏を返せば、それだけ浅井長政を信頼していたともいえる。


戦国大名は、雑兵などの略奪(人さらいも)には目をつぶったといわれる。
雑兵達には略奪は臨時収入のようなもので、士気を高める狙いもあった。
越後の上杉氏、甲斐の武田氏の略奪は他国に恐れられたという。
武田信玄の武将だった真田氏も、体の良いことばかりではなかったとボクは想像している。


攻め入ってきた他国の軍勢に略奪、放火を許しているようでは、領主は領民に見限られてしまう。

まともな戦国大名ならば、領民の支持がなければ成り立っていかない、ことぐらいは知っていただろう。
戦国期の領民は虐げられていた、と思いがちだが、
そんなことばっかりではなかった、と想像している。

領民に冷や飯ばかりを食わしているような領主は見限られてしまう。
現在でも、経済格差が過度になることを時の政府は恐れる。
政権交代(革命)がおきる可能性が高くなるからだ。

領民から収穫物の何割かを納めてもらっていたのだろう。
土木工事にも参加してもらわなくてはならない。
さらに、いざ戦となれば、雑兵として参加してもらわなくてはならない。
戦は集団戦の時代になっていた。

経済も軍事も領民の負担で成り立っている。
領主を見限って逃げ出す者が増えれば、根幹が揺らぐことになる。

治安、軍事、裁判権などなどを領主が司り、もちつもたれつの関係にあったのでは、とボクは想像している。

食糧事情もあって、領民が大名に働きかけ、略奪目的の出陣を要請した戦もあったという。
戦の建前はどうとでもなったことだろう。


それでも、浅井長政は信長の放火などの挑発を、ジッと静観していた。
越前からの援軍、朝倉勢の到着を待っていたのだ。
この時、織田1万5千、対する浅井5千(異説あり)。朝倉の援軍が到着すれば、
浅井+朝倉勢と織田勢との兵力差は少なくなる。互角に戦える可能性も出てくる。
(その後、到着した朝倉勢は8千だった。異説あり)


信長は虎御前山(とらごぜんやま)に陣を張った。
虎御前山は浅井氏の居城、小谷の南わずか2km。目と鼻の先だ。
その間を北国脇往還(街道)が通っていた(現在の国道365か?現在は北陸自動車道もその間を通っている)。
虎御前山は標高218m、比高110m。小谷山は標高495m、比高230m。

虎御前山から信長は小谷城を観察、睨みつけていたにちがいない。
信長は小谷の備えを見て、「力攻めをしてもてこずりそうだ。自軍にも多くの損害が出る可能性がある」と判断した。
戦国大名は、ひとつの戦で大きな損害を出すのを嫌った。当面の敵の他にも油断ならない勢力がいたからだ。

信長はジックリ攻める作戦に変更。足がかりとして小谷の南9kmにある横山城(浅井側)を包囲することにした。
二十二日、陣を払い、織田勢は移動を開始。
敵(小谷)に後ろを見せての移動だ。危険!

こういうときに追撃を受けると大きな損害をこうむることがある。
案の定、退却(移動)を知つた浅井の軍勢が小谷を出撃、織田勢の後を追った。
・・・・・



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税、を参考にしました。




<虎御前山(とらごぜんやま)のこと>

信長が陣を置いたといわれる虎御前山。
いかにも曰くがありそう。

今は昔、
美しい姫がいた。中野山の麓に住んでいたという。
悲しいことに姫は、自分が蛇の化身であるとは知らずに育った。

田川の畔に住む世々開(せせらぎ)長者に見初められて婚礼をあげる。
こどもが生まれるのだが、それは、顔が人間で体が蛇という15匹だった。
姫は愕然とした。はじめて自分が蛇だと気づき、我が身を嘆き身を投げて死んでしまった。

残された世々開長者は嘆きながらも、遺された子供たちを育てた。
子供たちは長じるにつれ人間の姿になり、立派な大人になって近隣の15の土地を治めた、という。

そんな虎御前姫だったが、いつまでも人々に慕われ、中野山はいつのころからか虎御前山とよばれるようになったという。
また、現在の町名の「虎姫」もここから来たと言われている。

そんな言い伝えを信長が知っていたかどうかはわからない。









  1. 2016/03/01(火) 07:21:21|
  2. 信長夜話
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0