ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

八相山の退口(信長夜話・その87)

元亀元年(1570)6月21日、織田信長は浅井氏の小谷城の目と鼻の先、虎御前山(とらごぜんやま)に陣をしいて、小谷城の回りを放火した。

信長は「小谷城への力攻めは自軍にも多くの損害が出る可能性がある」と判断。
ジックリ攻める作戦に変更。
小谷の南東9kmにある横山城(浅井側)を攻めることにした。
横山城を攻略し、これを拠点に小谷を攻めるつもりだった。

6月22日、虎御前山の陣を払い、織田勢は南東に移動を開始。
敵(小谷)に後ろを見せての移動だ。危険!

「織田勢が撤退している」と判断したのだろう、浅井勢が追撃にうつる。
織田勢にダメージを与える好機だ。

退きながら戦うというのは想像以上にムズカシイことなのだろう。
相撲でも、相手が引いたときに攻めるのが勝つ定石だ。

このとき、殿(しんがり)を命じられたのが信長の馬廻り(親衛隊)の三人だった。
簗田広正(やなだひろまさ)、佐々成政(さっさなりまさ)、中条家忠(ちゅうじょういえただ)の諸隊が、目覚ましい活躍を見せる。
各隊が入れ代わりながら、追撃してくる浅井勢に鉄砲を放ったのだろう。
一隊の指揮官である中条家忠自身が負傷しているぐらいだから、激戦だったと想像する。

「翌22日、小谷を前に信長公は一旦兵を後退させることを決意し、殿軍に鉄砲五百挺と弓衆三十余りを据え、簗田左衛門太郎広正・中条将監・佐々成政の三名を奉行として指揮を命じた。

すると、総軍の後退に気づいた敵足軽が攻め寄せてきた。
殿軍のうち簗田広正は中軍より少し左手を後退していたが、肉薄してきた敵勢を引きつけて応戦し、散々に打ち合った。
このとき簗田勢の太田孫左衛門は敵首を挙げて引き揚げ、信長公より多大な褒賞にあずかった。

また佐々成政は八相山の矢合神社前で敵に捕捉されたが、これも見事な武功を挙げて無事撤収に成功した。
さらに中条将監は八相山下の橋上で敵と衝突したが、将監は敵勢の攻撃により負傷してしまった。

また中条又兵衛(中条家忠の一族だろう?)も橋上で敵ともみ合いになり、双方とも橋から落ちた。
しかし又兵衛はひるまず、橋の下でさらに戦ったのち見事その敵の首を挙げた。比類なき高名であった。

信長公はこれら後衛の奮戦によって無事後退することができ、その日は八島に陣を取った。」(『信長公記』現代語訳)

singariyumi22.jpg
<イラストは奮戦する佐々隊の弓衆とした。
3人の指揮官のなかで佐々成政だけが家紋がわかっているので。

鉄砲が有力な武器だということで装備がすすんでも、弓は依然として有効な武器だった。
それにしても弓はカッコいい!

手前の弓衆には頭に鉢金をしめてもらった。
弓衆や鉄砲衆は軽装を好んだように思うから。

イラストの姿勢は跪座(きざ)というらしい。
5~6本の弓を用意、姿勢を低くして楯や遮蔽物の間から続けて射る。矢継ぎ早に。>



一番、簗田広正から二番、佐々成政が殿(しんがり)の位置についたとき、佐々と親しい多くの馬廻りが本陣を忍び出て加勢に駆け付けた、と『甫庵信長記』にある(『甫庵信長記』は信頼性に劣るといわれている)
織田順元(のぶもと)、生駒家長、戸田勝成、平野甚右衛門、高木佐吉、野々村主水正、土肥助次郎、山田半兵衛、塙喜三郎、太田牛一(ぎゅういち・『信長公記』の筆者である)、たちだったそうだ。
おもしろい話だ。

殿の活躍で、織田勢本体は龍ケ鼻(たつがはな、現長浜市)に無事、移動することが出来た。
この戦いを「八相山の退口・はっそうざんののきぐち」という。八相山は虎御前山のことらしい、ややこしい!
「やあいやま」という資料もある。


このとき、信長は配下武将の鉄砲衆から臨時に殿軍の指揮下に組み入れさせた。
鉄砲衆500、弓衆30、だったという。
これが本当だとすると(史実だとされている)、織田勢には最低でも500の鉄砲衆がいたことになる。
織田勢の鉄砲衆の総勢はそれ以上だっただろう。

弓衆は鉄砲の装填時のスキを補佐させるものだった。
弓は鉄砲より習熟を必要とする。

さらに、鉄砲、弓の他に楯足軽(楯を移動させたり、くっつけたりして即製の防衛線を作り出す)や、敵兵の突出から、それらを守るため槍衆も付随させる必要がある。
槍衆を前面(この場合、最後尾)にして、その後ろに楯、鉄砲、弓が位置についたと想像する。
ということは、槍衆の後ろから味方の鉄砲、矢が放たれることになる。誤射もあっただろう!


このころには鉄砲が有力な兵器であることが認識されていたので、各武将は鉄砲衆を引き抜かれるのをいやがった。
それを信長が従わせたところをみると、信長は配下武将を掌握していたと思われる。

総大将が手足のように配下武将を動かしていたかのような印象をもつが、
そんな状態は少なかったのではないだろうか?
父信秀から家督を譲られたころの信長は、織田家重臣の掌握は出来ていなかった、というより離反していた。

そのため、商人や神官や土豪などの次男や三男など、後継ぎではない者たちを取り立てた。取り立てざるを得なかった。
それが信長が能力主義になっていった原因のひとつだった、とボクは想像している。

それにしても、「金ケ崎の退口」といい、今回の「八相山の退口」といい、織田勢は見事な殿戦(そんな言葉はないが)をみせる。
織田は撤退戦(同時に追撃戦)の研究をしていたのではないだろうか?
3年後、朝倉勢を追撃して甚大な損害を与えた「刀禰坂の戦い」をみても、ボクはそう思うのだが?

6月24日から織田勢は横山城を包囲。
まもなく徳川家康の軍勢が到着、5千だったという。
同じころ浅井側にも援軍が到着する。
朝倉影健(かげたけ・当主朝倉義景の従兄弟)の越前勢、8千だったという。




話は変わる。
伊達正宗、上杉謙信、真田信繁(幸村)・・・などを戦国のA級スターだとすれば、
佐々成政はB級、簗田広正、中条家忠はC級といったところうだろうか?(ファンにはすみません)
歴史の調べ事をしていると、あたりまえだが、B級、C級、D級・・・の人が現れる。

ボクはそういった歴史にチラと現れる人物の人生にスゴク興味がある。
スターではなくても、それぞれの人生に春夏秋冬があったにちがいないのだから。
ということで今回の「八相山の退口」での指揮官三人の人生を調べてみた。以下。


簗田 広正(やなだ ひろまさ)のこと
生誕不詳~天正7年6月6日(1579年7月9日)

織田氏の家臣。簗田政綱(出羽守)の子。通称は左衛門太郎
簗田広正は織田信長に仕え、尾張国九之坪城と沓掛城(現、愛知県豊明市)の城主。

父、政綱は「桶狭間の戦」のとき、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝えた。
義元の首を挙げた毛利良勝よりもその功績は大きいとして、沓掛城主となったという説が一般的だが、
史実としてはわかっていない。

元亀元年(1570)簗田 広正は今回の「八相山の退口」で殿軍の指揮官のひとりを務める。
馬廻りのなかでは大身(たいしん)であったと想像されている。二百~三百の兵を従えていたのではないだろうか?

天正3年(1575)、頭角を現し、朝廷からの叙任で羽柴秀吉・明智光秀や塙直政らとともに叙位任官を受ける。
右近大夫となり、九州の名族である別喜(もしくは戸次)の姓を下賜された。人生の絶頂期だっただろう。

あくる天正4年(1576)に加賀国の大聖寺城を与えられて加賀一向一揆の討伐に当たる。
しかし兵力が不足し、調略もうまくいかず討伐は失敗、尾張国に召還される。
その後、柴田勝家がその任を引き継ぐが、勝家(北国方面軍を任された総大将、兵1万以上)をもってしても加賀平定に4年がかかっている。

天正6年(1578年)織田信忠に属し、別所長治の反乱に対応している。

名は一般に「広正」と言われているが、『尾張群書系図部集』ではその名は父・出羽守の実名とし、別喜右近(べっきうこん)の実名は正次としている。
そのため、父、政綱と同一人物とされることもあるという。本当にややこしい!
いずれにしても父子ともに実名は同時代史料では確認できていない。

また、子の長教は天正10年(1582年)甲州征伐の際、信濃国鳥居峠の戦いで戦死。
孫の教貞は織田信雄に仕えたとしている。
なお『寛政重修諸家譜』では「梁田出羽守」の子を正勝としている。
正勝の家は江戸幕府旗本として最大で1,200石を領したが、正勝の曾孫の代で無嗣断絶している。


佐々成政(さっさなりまさ)のこと
天文5年1月15日(1536年2月6日・異説あり))~天正16年閏5月14日(1588年7月7日)
通称、内蔵助(くらのすけ)

今回の殿軍の指揮官、三人のうちでもっとも有名だ。
歴史の表舞台に上がった人物だから、文献や史料も多いのだろう。

佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区・かつてボクはよく通った)に拠った土豪。
兄が相次いで戦死、永禄3年(1560)に家督を継ぎ、比良城主となる。

織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表す。
永禄4年(1561)、森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大手柄を立てる。
永禄10年(1567)、黒母衣衆(馬廻りのエリート集団)の一員に抜擢される。

元亀元年(1570)6月、今回の「八相山の退口」では、鉄砲隊を指揮して活躍(『信長公記』・『当代記』) 。
天文5年1月15日(1536年2月6日)誕生説が本当だとすれば、このとき、34歳ということになる。

天正2年(1574)、長島一向一揆との戦いで嫡男・松千代丸を失う。
天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いる(鉄砲隊を得意としていたようだ)。

天正3年(1575)9月、織田信長は越前を制圧後、柴田勝家を置き北陸方面軍とした。
その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中(現、福井県武生市)3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城とした。

府中三人衆は勝家の与力だが、半ば独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍している。
府中三人衆は荒木一族の処刑を命ぜられ実行している。

天正5年(1578)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退。
天正8年(1580)から、一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国平定に関わる。
同年秋には佐々堤を築いている。
天正9年(1581)2月、正式に越中半国を与えられる。
翌年に神保長住が失脚したことにより一国守護となり、富山城を居城として大規模な改修をおこなう。

天正10年(1582)本能寺の変、成政の属する北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点である魚津城を攻略したばかりだった(魚津城の戦い)。
変報が届くと、各将はそれぞれの領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなくなった。

清洲会議において勝家と秀吉との織田家の実権争いが表面化すると、成政は勝家方につく。
賤ヶ岳の戦いには叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すにとどまる。
成政は上杉景勝への備えのため越中を動けなかった。

賤ヶ岳の戦いでは、合戦中の前田利家の寝返りなどがあり、勝家は敗退。
さらに成政には上杉景勝の圧迫もあった。
娘を人質に出して剃髪して秀吉に降伏、越中一国を安堵される。

翌天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いが発生、3月頃の書状においては秀吉方につく姿勢をみせていたものの、
夏頃になって徳川家康、織田信雄方につき、秀吉方に立った利家の末森城を攻撃(末森城の戦い)。
この時期は越後国の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられる。

秀吉と信雄との間で和議が成立、家康が停戦すると、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破、家康に再挙を促した(有名な「さらさら越え」)。
「さらさら越え」のルートに関しては、上杉景勝の家臣から密かに助力を得て越後を通過したことを示唆する書状も存在する。
しかし家康の説得に失敗。織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。

翌天正13年(1585)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲、成政は織田信雄の仲介により降伏(富山の役)。
一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、以後御伽衆として秀吉に仕えた。

成政は「本能寺の変」から「富山の役」まで、反秀吉だったようだ。
秀吉が嫌いだったのだろうか?

天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげ、肥後一国を与えられる。
秀吉は性急な改革を慎むように指示したと言われる。
また、成政は病を得ていたとも言われる。
早速に太閤検地を行おうとするが、それに国人が反発して一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった。
肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)という。

鎮圧しようとした成政が逆に反撃をうけ、二次におよぶ援軍が九州、四国から送られた。
肥後国人一揆だけでも調べるのに値する。

このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効なく、摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。
享年53(53説が最も有力視されているが、異説あり)。無念だったろう。
信長に仕えたのは秀吉より早かったのではないだろうか?
(秀吉が信長に仕えた時期はわかっていない)

それにしても武将佐々成政は赫々たる戦歴だ。エピソードも多い。

秀吉は治めるのが難しい肥後を成政に与えたのは、失敗→切腹を見越しての人事だった?という説をきいたことがある。
おそらく想像だろう。秀吉がそんな算段の記録を残すハズもないからだ。
しかし、証拠はないが、そうだったのかもしれない。
秀吉は主君であり師匠である織田信長の政権を簒奪(結果として)したぐらいだから、その程度のことは軽くやってのけただろう。


中条 家忠 (ちゅうじょう いえただ)のこと
生没年不詳。小一郎、将監。
尾張春日井郡の人。信長の馬廻。天文二十一年(1552)八月十六日、萱津の戦いに従軍。
柴田勝家とともに敵方家老である坂井甚介を討ち取った(信長公記)。

その後、浮野の戦い、桶狭間の戦にも参加。信長上洛後、伊勢大河内攻め、小谷攻めにも従軍。
元亀元年(1570)六月、今回の「八相山の退口」で奮戦。
この時、「当代記」は、彼ら三人を「小身之衆」と呼んでいる。小部隊の指揮官といったところか?
殿(しんがり)はもっと上級の武将があたるのが普通と思われていたのだろう。

その後、姉川の戦い、長島攻めなどに従軍する。
天正5年(1577)3月、雑賀攻めに参加。
天正5年(1577)3月に秀興山正林寺(豊田市広幡町)を創建。また、戦火のため荒廃していた猿投神社の復興にも尽力した。
同年8月30日に没し正林寺に葬られた。

八草城城主(八草村で生まれた説あり)だったという。
八草は名古屋の東にある。ボクの家から一般道で40分ほどだ。ボクはクルマでよく通る。

中条ときくと、ボクは男優の故中条静夫氏を思い出す。
「ザ・ガードマン」などテレビでは脇役が多かったが、ようやく主役級がまわってきたときに亡くなった。そう記憶している。
中条家忠とは関係はないようだ。

今回の三人のなかでは中条家忠は一番地味だ。




<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
谷口克広著「信長の親衛隊」中公新書¥740+税 を参考にしました。







  1. 2016/05/24(火) 08:02:56|
  2. 信長夜話
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このところ物騒なのよ・・・(ジョーク)


「あら奥さん、こんばんは」
「あらぁ、この前はありがとうねぇ。」
「いいえぇ、今日もお肌ツヤツヤねぇ」
「なにいってるの、あなたこそピッカピカじゃない。」

「ところで、聞いたぁ?むこうの通りでオジサンが殺されたって!」
「えっ、そうなの・・・」
「後ろから、いきなり、即死だったらしいわよ。」
「怖ゎ~~~!」

「このところ物騒なのよ、この辺」
「2週間前には、4丁目で子供が殺されたって・・・」
「もう、やりきれないわねぇ・・・」
「・・・・」


突然、頭の上で金切声!!
「キャ~~~!!、だ、だれか、だれか、ゴキブリが2匹いる~~!」

「やっべ、・・・」
2匹は冷蔵庫と壁の隙間にカサカサと身を隠した。

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今回はジョークというより小話かな?







  1. 2016/05/03(火) 07:43:05|
  2. ジョーク
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