ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

そのとき七手組はなにをしていたのか?


慶長三年八月十日(1598年9月18日)、豊臣秀吉が亡くなった。
(師匠、信長の死から16年後だった)
豊臣氏は次第に衰えていく。
逆に豊臣政権五大老のひとり(大物)徳川家康の存在が大きくなっていく。

2年後、慶長5年9月15日(1600年10月21日)、石田三成の徳川家康への挑戦が失敗する。
「関ケ原の戦」だ。その日のうちに勝敗は決した。

秀吉の死から16年後、
家康の揺さぶりと挑発にのせられて、「豊臣秀頼とそのとりまき」は戦に引きずりこまれる。

慶長十九年(1614)十一月、大阪冬の陣。
衰えた豊臣氏だが、20万の東軍に対して、寄せ集めとはいえ12~13万の兵を集めたという。
「天下分け目」と言われた「関ケ原の戦」での兵力よりはるかに多い。
(あなどりがたし!兵力については異説あり)。

東軍は大阪城を包囲、攻めかけるも、大阪城攻略は簡単にはいかない。
家康は和睦を選ぶ。
東軍の大筒の砲撃に恐れをなした淀殿と城方は和睦を受け入れた、と言われている。

しかし、和睦後、大坂方の抗議を無視してサッサと外堀を埋めてしまう
(家康がやりそうなことだわ、役者が一枚も二枚も上だわ)。
大阪城の防御力は一気に低下してしまった(どうするの?)。

そして、慶長二十年(1615)四月、夏の陣。
籠城戦は無理となった大阪方は城から出て野戦を挑む。

ところが、桁違いの兵力の差に大阪方諸隊は消耗、
五月七日夕刻、大阪城二の丸から火のてが上がり、大阪城は落城。
豊臣氏は滅んだ。


勝者には美酒が用意され、敗者にはドラマがあった。
滅びは美しい。

映画や小説では、ほとんどが大阪方に焦点を合わせたものだ。
勝者の東軍にではない。(ボクも豊臣びいき)

敗者には強い陰影がある。
「他人の不幸は蜜の味」、それを観客は見たいのだ。


それにしても、
「大阪冬、夏の陣」は真田信繁(幸村)に用意されたような戦だった。

「冬の陣」では大阪城の弱点に真田丸を構築、寄せ手の前田利常隊、松平忠直隊を痛撃する。
(秀吉の朋友、利家亡き後の前田家は、家康の顔色をうかがうようになっていた)
「夏の陣」での真田隊は数倍の敵と交戦、家康を「あわや!」とういところまで追いつめる。

秀吉の死から豊臣の滅亡までを簡単になぞった。
そして、今回の本題、「そのとき、七手組(ななてぐみ)はなにをしていたのか?」

七手組(ななてぐみ)は、豊臣秀吉が創設した旗本(親衛隊)。
秀吉が存命中に約1万の精鋭を7つの部隊にわけ、豊臣氏の身辺警護から朝廷への儀礼などに用いた。
組頭は1万石程度の所領を持っていた。江戸時代なら小さな大名だ。


ボクは「不沈戦艦、大和」というキャッチコピーを子供のころに見た。
大和が沈んだのは知っていた。
「不沈戦艦なのに沈んだ。それ、どういうこと?」
ボクが歴史に興味をもったキッカケだった。

七手組(ななてぐみ)にも似たような興味があった。
あの秀吉の親衛隊なんだから、

nanategumi16.jpg
<秀吉時代の大阪城天守。
秀吉天守には、いくつかの説があるようだ。イラストは佐藤大規氏の復元図に従った。
漆の黒、装飾の金、が秀吉好みの感じがする。

焼失した天守を徳川が再建するが、秀吉天守よりひと回り大きいといわれる。
色も秀吉天守が黒なら、徳川天守は白。
豊臣は滅び、徳川の時代になったことを「どうだ!」と知らしめる必要があったのだろう。

現在の大阪城の天守は、昭和6年(1931年)に市民からの寄付によって、大阪市が建てたもの。
鉄筋コンクリート造り(ガッカリ)。
戦争によって一部焼失したが修復された。

ボクは大阪城に行ったことがある。
他の城もいくつか見たことがあるが、
水をたたえた濠、石垣の高さの雄大さに圧倒された。堂々たる城だ。

現在の天守は秀吉時代を再現した、ということだが、
ちょっと違うような気がしている、ボクは。



NHK大河ドラマ「真田丸」もそうだが、
真田信繁(幸村)、後藤又兵衛、木村重成・・・らは大スターだから、ゴマンと紹介されている。
紹介されることがない七手組を調べてみた。
組頭たちの人生だ。以下。


速水 守久〈はやみ もりひさ、生年不詳 ~ 慶長20年5月8日(1615年6月4日)〉
七手組筆頭の組頭。

近江国浅井郡の土豪(速水城)、浅井氏に仕えた。
浅井氏滅亡後、お市の方の子「お茶々」らの家臣として羽柴秀吉に仕えた。
近習組頭、黄母衣衆となる。

小牧・長久手の戦い、小田原征伐などを歴戦、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務める。
平時には秀吉の身辺警護にも当たる。奉行として検地などにも活躍、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増。

秀吉死後も秀頼に仕え、七手組組頭兼検地(越前)奉行として活躍。
七手組の筆頭となる。

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こる。
大阪方の片桐且元は和平交渉に奔走するが、逆に内通を疑われるようになった。

且元が内通したかどうかは、本当はわからない。
普通、徳川方にほんろうされたと思われている。

結局、且元は大坂城を退去させられる。
守久は且元の代わりに和平調停役を買って出る(たのもしいぞ!むずかしい調停だぞ)。
また、且元が大坂城を後にする時、その護衛をしている。

大坂冬の陣、「鴫野の戦い」で上杉景勝の軍勢相手に奮戦。
また、夏の陣では「天王寺・岡山の戦い(1615年5月7日)」で真田信繁(幸村)らと藤堂高虎隊を蹴散らす。
真田隊の殿を勤めている(カッケぇーっ!)。
しかし、圧倒的に優勢な東軍に大阪城に退却(しょうがねぇ!)。

守久は、徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するも聞き入れられなかった。

「万が一の場合は」と打合せられていた山里曲輪の朱三矢倉へ、
秀頼・茶々・千姫(家康の孫娘、豊臣秀頼室)・大野治長ら側近30名程を誘導。

千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届ける(大活躍、小説になるぞ)。
徳川陣屋にて秀忠より褒美として馬具一式、槍、金を下賜されている(敵からだぞ!)。
千姫を無事、送り届けてくれたことへのお礼だろう。

このとき、守久の嫡男守治が自ら馬に乗り敵のおとりとなっている隙に、千姫を徳川陣屋に送り届けるが、
守治は戦死した。

その後、自害する秀頼の介錯(異説あり)を務め、殉死した(かっこいいーっ!)。

速水家は現代まで子孫が続いているという。

(さすが、七手組筆頭。速水守久に男気を感じる。)



野々村 幸成〈ののむら ゆきなり・生年不詳~慶長二十年(1615)五月〉

豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐では、後北条攻めに功を挙げる。
その後黄母衣衆となり、3,000石、与力50騎を賜る。
秀吉死後もその子・秀頼に仕え、七手組の1人となった。

大坂冬の陣では、大坂城惣構森村口を守備。
翌年の夏の陣では、天王寺・岡山の戦いで遊軍として兵1,200を率い奮闘するも、多勢に無勢、退却した。

大坂落城の際には本丸が猛火に包まれて入れず、
手前の二の丸から本丸への石垣の上で自害して果てた(映画みたい)。
子・幸次は父に先立ち慶長17年(1612年)に病没している。



青木 一重〈あおき かずしげ・天文20年(1551年)~寛永5年(1628年)〉

天文20年(1551年)、美濃の生まれ。
ということは、「大阪夏の陣」のとき64歳ということになる(高齢だ)。

青木氏は美濃の豪族、土岐氏、斎藤氏に仕えていた。
どういう経緯か分からないが、一重は父重直の下を離れて、はじめ今川氏真に仕えた。
「新坂(にいさか)の戦い」で、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を賜る。

永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際、武田・徳川軍との交戦で負傷、遠江国掛川に蟄居した。
元亀元年(1570年)、徳川家康に仕えることになった。
6月の「姉川の戦い」では、朝倉家の勇士真柄隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて、
名を轟かせている(武闘派だね)。

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援を命じられ、
高天神城の守備にあたっていたが、この戦いでは弟重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。

天正元年(1573年)、徳川氏の元を出奔し、織田信長配下の丹羽長秀に仕えていた父、重直を頼る。
丹羽家の家臣として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加。

天正13年(1585年)に丹羽長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜される。
同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主となる。

天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。
天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下民部少輔に叙任され、七手組の組頭の1人とされた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後も大坂城に出仕。

慶長18年末、父が亡くなり遺領(約2,000石)を継ぎ、併せて1万2,000石となる。

慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」では城の一角を守備。
12月、和議交渉が始まって、秀頼からの礼謝使節として駿府の家康のもとへ派遣された。

京都で返事をするというので随行するが、同地で京都所司代板倉勝重に、
「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟可直は殺す」と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。
このため、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加しなかった。

その後、家康に再び仕えることになる。
減封はなく、弟可直に2,000石を分与して1万石とするとされた。
また、幕府への配慮からか「夏の陣」で一重の代理で指揮を執っていた養子の正重を病気を理由に廃嫡し、
代わりに弟の可直の子である重兼を迎え、養嗣子とした。

寛永5年(1628年)、死去。享年78

(これだけ、詳しく履歴が残っているということは資料があるのだろう。)



伊東 長実〈いとう ながざね・永禄3年(1560年)~寛永6年(1629年)2月17日〉

永禄3年(1560年)、尾張国岩倉に生まれる。
といことは「大阪夏の陣」のときは55歳。
日向国飫肥藩の伊東氏と同じ祖先だという。

天正元年(1573年)の「小谷攻め」から織田氏に仕え、羽柴秀吉配下につけられ、大母衣衆に抜擢される。
別所氏攻めで功績を残して織田信長より脇差を与えられたとの記録がある。

その後も秀吉配下として各地を転戦し、黄母衣衆24人の一人に列せられた。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、山中城攻めのとき一番乗りを果たす。
翌、天正19年(1591年)に備中川辺に1万300石を与えられ大名となった。
文禄・慶長の役では名護屋に駐屯。

慶長5年(1600年)、会津征伐に向かうため、下野小山にいた徳川家康にいち早く三成の挙兵を知らせる。

大坂の陣では豊臣方として入城し、大坂七手組頭の一人として家康に敵対するが、
戦後、青木一重と共に大名として存続することを許された。
殆どの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中、異例だ。
スパイ的な活動を行っていたのではないかと考えられている。

(豊臣はもうアカン! 見限っていたのだろう)

晩年に剃髪し、宗徳と号した。寛永6年(1629年)2月17日に死去。
享年70。家督は次男・長昌が継いだ。



堀田 盛高〈ほった もりたか・生年不詳~慶長二十年五月(1615)五月〉

尾張津島出身と推測されている。
諱(いみな)は勝嘉・正高・盛重とも。

豊臣家に仕えて小田原征伐や朝鮮出兵に従軍して馬廻の組頭を務め、1万石を領す。
関ヶ原の戦いでは石田三成の挙兵を徳川家康に報告しつつ、西軍の伏見城攻めに参加。
(どっちつかず、揺れ動いたわけだ。)

慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の後、大野治長らから挙兵の合議に招かれるが、渋々合議に参加。
それを速水守久が説得。

冬の陣では二ノ丸升・惣構天満橋を守備。
夏の陣では天王寺・岡山の戦いで活躍。

落城の際には本丸と二ノ丸の間の石垣上で自害したとも、
前田利常に属していた従兄弟の堀田与右衛門に討たせたともいわれている。



中島 氏種〈なかしま うじたね、生年不詳 - 慶長20年5月7日(1615年6月3日)〉

始祖は、嵯峨天皇第十二子河原院の末裔の嵯峨源氏に属する(やんごとない!)。
室町時代、尾張国中島郡中島村(現愛知県一宮市)を領し、「尾州中島城主本居山城守源氏孝」を名乗る。

戦国中期以降、斯波氏や織田氏などの新興勢力におされて衰退、豊臣秀吉の家臣となった。
氏種は、秀吉の勢力拡大に従って各地を転戦、秀吉の死後も豊臣家に仕えた。
慶長5年、「関ヶ原の戦い」においては石田三成の陣に属して戦うが敗れる。

慶長19年(1615年)「大坂夏の陣』では遊軍として兵2,000を率い奮戦するも落城を待たず自刃した。

子は河内国茨田郡岡新町村(現大阪府枚方市)に帰農、
江戸期には代々中島九右衛門を名乗り近隣屈指の豪農として存続した。
現在、中島家の系譜をひく一族が枚方市新町などに三家あるという。

「大坂夏の陣」で敗れた後、一部は筑後国柳河藩の田中家を頼った。。
福岡県八女郡黒木町および八女市吉田にも庄屋として中島家の系譜を引く一族がいる。

また、幕末期の幕臣でペリー来航時の浦賀奉行所与力、
のちに蝦夷共和国箱館奉行並・砲兵頭並として千代ヶ岡陣屋で戦死した中島三郎助も、その先祖を氏種としている(へええ!)。
三郎助の先祖が寛文9年(1669年)に下田与力に召し抱えられて以来、幕臣として与力を務めてきた家柄であったという。


真野 頼包〈まの よりかね、生没年不詳〉

後醍醐源氏(後醍醐天皇の皇子の宗良親王)の裔といわれる(すっげ!)。
子の青柳は木村重成室。

七手組組頭として豊臣秀吉に仕え、3,000石を領した。
大坂冬の陣では惣構鰻谷橋を守備し、大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで活躍、
毛利勝永や大野治房を援護したが敗れた。

戦の後に伊木遠雄と刺し違えて死んだとも、藤堂高虎に1,200石で召抱えられ、
ほどなく病没したとも言われる。
また、尾張藩徳川家に仕え明暦元年(1655年)に没したという説もある。
(要するに。わからんのだ)

「大坂冬の陣」の直前、木村重成の器量に惚れて娘の青柳を妻にとせまった。
重成は戦場で散ることだけを考えていたため一旦は断るが、
頼包が「冥土に一人で行かせるような娘ではない」と言ったことに感じ入り妻に迎えた。(かっこいい!)
そして、頼包の言の通り青柳は出陣前夜に自害したと言われる。

他説では、大坂城落城後、青柳は縁者を頼り近江国蒲生郡馬淵村に落ち、男子を産んだのちに剃髪し、
その翌年の重成の命日に持仏堂で自害して果てたとも言われている。

馬淵村は近江商人を輩出し、大坂の近江系商人の木村姓の大半は重成の子孫であると言われる(へえ!)。



秀吉によって創設されたころの七手組組頭たちは三十代だったのだろう。
生年がわかっている二人の組頭から想像すると「大阪の陣」当時、五十代だったようだ。
思っていたより高齢だ。

「関ケ原の戦」には一部が石田隊に参加している。

「七手組は秀吉より任命された組頭も引退し、その子たちが受け継いだため戦闘力の著しい低下を招いた。」
いわれている。
「大坂の陣」では組頭7人の内の4人までが落城と共に討ち死を遂げた。
滅びゆく豊臣の親衛隊として、それなりの働きはあったようにボクは思う。

しかし、七手組組頭たちは一枚岩ではなかった(あたり前だが)。
青木一重と真野助宗は東軍のスパイだったという説がある。
「大阪の陣」後の二人への処遇をみると、嫌疑濃厚だ。

滅びゆく豊臣と優勢な徳川氏との間で、揺れ動いたのだろう。









  1. 2016/11/08(火) 07:49:46|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0