ブエノス小僧のイラストブログ

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野田・福島の砦(信長夜話・その91)

10月7日昼、CBCテレビ(中部日本放送)制作、『父ノブナガ』を、ながら視した(本を読みながら)。
田辺誠一、竹中直人、出演だった。

出来は、可もなし不可もなし(見ても見なくてもいい)。
織田信長(竹中直人)が時空を超えて、さえないサラリーマン(田辺誠一)に不定期にのり移る(憑依)、という話だった。

しかし、「時空を超える」のが好きだねえ!

思いつくだけでも、土曜日、NHKテレビ総合『アシガール』、
女子高校生が時空を超えて、戦国時代と現代をいったりきたりする(現在、流されている)。
宝くじのCMに役所広司演じる黒沢風武士が現代にワープ、というのも、現在、流されている。
小栗旬主演『信長協奏曲』も「時空超えもの」だった。

おなじような設定に、制作者は気後れしないのだろうか?

ついでだが「どちらかが不治の病で余命いくばくもない」という恋愛ドラマ(映画)も次々と作られる。

「ひとつや二つなら新味もあろうが、やたらではな・・・〇△くないのか?」
と思う(声には出さない)。




ということで、今回の「信長夜話・その91」


元亀元年(1570)野村合戦(通称、姉川の戦い)にひとまず勝利した織田信長は、七月四日夕刻に上洛、
ただちに将軍御所におもむき、勝利を報告した。
将軍、義昭へは、信長に相対した浅井・朝倉からも報告が入っていたかもしれない(ボクの想像)

七月七日未明、信長は京を発ち岐阜にもどった。

七月二十一日、三好長逸(ながやす)は阿波(現、徳島県)で挙兵、二十七日には摂津中島(大阪市東淀川区)に上陸、
天満森(てんまがもり、現大阪市北区)に陣をしいた。
総勢一万三千だったという。

三好勢は阿波から海路、来たことになる。
一万三千すべてではないにしても、五千にしても、船に乗ってきた。

一艘に50人の兵が乗ったとして、百艘になる。
一万三千すべてなら二百六十艘になる。
当時の海の輸送力が現在の(ボクの)想像以上だったようだ。

脱線した。
前年の永禄十二年(1569)一月、三好勢は本圀寺にいた将軍足利義昭を攻めるも失敗、
阿波に退いた経緯があった(本圀寺の変)。
これが契機となって二条城(現在の二条城ではない)の造営につながった。


渡海した三好勢は石山本願寺(現大阪府中央区)の西、野田と福島(現大阪府福島区)に砦を築いた。

管領家嫡流の細川六郎(昭元)を盟主(同盟の中心人物)とし、
三好長逸・三好康長・安宅信康・十河存保(そごうまさやす)・篠原長房・岩成友通・
香西佳清・三好為三政勝らの三好党、
および斎藤龍興(かつて、美濃をのがれた、あの龍興だ)・長井道利・
紀伊雑賀(さいか・現和歌山市)の鈴木孫市(孫一とも)ら八千だった。

三好勢は反信長勢力と協力して、信長を京から追い落とすことにあったのだろう。
本願寺とも話はついていたのかもしれない(ボクの想像)。
野田、福島は石山本願寺に近い(約4km)
一万三千ほどで、優勢な信長と対峙するのだ。自軍のほかにも強力な味方のアテがあったにちがいない。

摂津では池田重成が三好方の伊丹正親と戦う。
三好一族の安宅信康(あたぎのぶやす)も淡路から尼崎(あまがさき)に進出してきた。


京の将軍、義昭は信長に通報する。そして畿内の守護たちに三好勢の追討を呼びかけた。
義昭は信長の武力を頼みとしていた。

河内の三好善継(幕府・織田方にも三好姓がいてややこしい)と畠山高政は
河内の古橋城(現大阪府門真市)で三好勢を防ごうとするも、攻略されてしまう。
三好勢の戦意は高かった。

大和の松永久秀は大和と河内の境界の信貴山城(しぎさん・現奈良県生駒郡平群町)に移って、三好勢と戦う態勢をとるが、
大和では国衆が不穏な動きをみせているため、積極的に出られない。

状況は三好方が優勢だったのだ。

tenmagamori12.jpg
<イラストの地図は上が北。
複数の川が海に流れ込む複雑な地形、大小の洲が多くあった。

もっと多くの洲に分かれていたともいわれる。
本願寺もイラストのごとくではなく、洲の一つにあったという説がある。
当時の正確な地図はわからないのだろう。

野田、福島砦、はそういった洲の、低湿地のなかの、
すこしは小高いところに築かれたのだと想像する。
多くの湿地や水路が防御に役立ったのではないだろうか。

野田、福島砦、石山本願寺付近は海に近い。本願寺から西へ5kmほどで大阪湾だ(当時)。

野田、福島は現在では大阪の中心地、JR大阪駅や梅田に近い。
石山本願寺は現在の大阪城にあったと言われている。

そう思って見ると、大阪には海や川に関係する地名が多い(大阪は八百八橋といわれた)。
難波、木津、住之江、海老江、中之島、船場、北浜、など>



信長は八月二十日、岐阜を発った。二十三日、京の宿所、本能寺に入る(あの本能寺)。
一日休息しただけで、二十五日、南に向かった。
信長はグズグズしていない。この行動力と早さが、信長に爽やかさをおぼえる。ボクは。

このとき直接、信長に従ったのは三千ほどだったという。
だが、前々日に京を発した織田勢は四万の大軍だった。

信長は淀川を越えて河内へ入る。枚方(ひらかた)の招提道場(現大阪府枚方市の敬応寺)に陣を取 った。
この後、本願寺と戦うことになるが、この時点で、信長は戦うことを想定していなかったようだ。
本願寺は手を出さないだろうと思っていた。
なぜなら招提道場は本願寺の道場だった。蓮如とも関係の深い寺だったからだ。


二十六日、信長は三好勢の野田・福島砦から5kmほど南の天王寺に陣をしく。

信長配下の武将や三好義継、松永久秀、和田惟政、などの畿内の守護、
幕府奉公衆、が参加して三好方の野田、福島、両砦を包囲した。
『諸勢には天満の森から川口・渡辺・神崎・上難波・下難波をつらぬいて浜の手まで及ぶ陣地を築かせた』(信長公記)

このとき、
『天王寺には大坂・堺・尼崎・西宮・兵庫の各地から人々が集まり、
内外の珍物を携えて信長公へ挨拶に訪れる者や、
織田勢の陣立てを一目見ようと見物に訪れる者が群れをなした。』と『信長公記』にある。

戦災にみまわれる庶民?がいる一方で、陣立てや戦を見物する者も多くいたのだ。
自分に禍がおよばない限り、見物の対象だったのだろう。
弁当持参で出かけたのかもしれない。
好奇心と緊迫感の対比があった。

今からみれば、「なんと贅沢な!」と思う。
映画などの作り物ではない、実物の、それも臨戦態勢の織田勢なのだから。

史上、多くの合戦があったが、こういった見物行為があったのだろうと、ボクは想像している。

脱線した。
そんな織田勢、幕府奉公衆に対して三好方は両砦に籠り、兵を出さず長期戦の構えをみせた。


次回、「信長夜話・その92」につづく・・・




*谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。









  1. 2017/10/10(火) 07:21:13|
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