ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

人間五十年(信長夜話・その23)

前回の(信長夜話・その22)からの続きです。


『永禄3年(1560年)5月19日(6月12日)午前4時ごろ
夜明け時になって信長公に鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入る。

注進をしずかに聞いて、信長公は奥に入る。そこで敦盛を舞う。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか・・・」

舞終わるや、「貝を吹け」「具足をもて」とたて続けに下知すると、具足をすばやく身につけ、立ちながら食事をした。

信長公は馬に飛び乗ると、清洲の城門を駆け出る。
急な出陣に気づいて後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎。』
と「信長公記」は伝えています。

有名な場面です。注進を聞いてから敦盛を舞うシーンは良いですねぇ!
生死を別ける、血なまぐさい戦場に駆ける前に、舞を舞うとは・・・。なんというカッコ良さ!

立ちながらに飯を食うところも良いねぇ!
27歳の信長の気魄が伝わってくるようだ。
血圧が上がり、躁状態になっていた。脳と体が戦闘モードに切り換っていたのだろう。
「義元の大軍だと、上等だがや、やったるがや、義元に一泡ふかせたるわー!」(名古屋弁)
信長主従六騎は熱田までの三里(約12km)を一気に駆けた。

信長好みの出撃だ。まず信長自信と少数の近習で出撃、途中で一息いれてるところへ配下の軍勢が追いつくという形だ。
配下の武将との打ち合わせや前もって命令をしないのだろう。「俺の動きを見ていろ!」ということだったのだろうか?

「辰の刻(午前7時)ごろ、上知我麻神社(かみちまがじんじゃ、現熱田神宮敷地内にある)の前で東方に二条の煙が立ち上っているのを見て、信長公は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知った。
この間、出陣を知った兵が一人二人と追い着き、人数は二百ほどになっていた。」(信長公記)

信長の長所はそのスピードにある。軍の機動、決断の早さだ。
信長に爽快感があるとすれば、それもひとつではないだろうか?

「信長は午前8時ごろ上知我麻神社を立ち、内陸を通り(海岸近くではなく)、途中丹下砦に立ち寄り、10時前には善照寺砦に入り軍勢をととのえた。」(信長公記)

当時は熱田神宮の近くまで伊勢湾が入りこんでいた。
江戸時代には熱田神宮近くの宮(みや)から桑名(現三重県桑名市)まで船便があった(七里の渡し)。
現在、「宮の渡し跡」は公園になっていて、常夜灯、時の鐘などがある。

syutsujin22.jpg
《イラストは熱田(現名古屋市、熱田神宮)に向かって駆けだした信長。
雲をよび、風をよび、雨をよんだ!
その日は強い湿気を感じる蒸し暑い朝だった(ボクの想像)。》

「後に従ったのは、岩室長門守ら小姓衆わずかに五騎であった。」と信長公記にある。
真実を伝えることを目的とした大田牛一(「信長公記」の作者)だから、本当だったのだろう。
真実は作り事(小説)より凄みがある。もちろん、間抜けなことも作り事より面白いとボクは思う。

映像としては、駆け出す信長に慌てて五騎の小姓が後を追うというのが魅力的だが、疑問がある。
当時は、主人の槍や弓など持つ足軽や、馬のクツワをとる従者が数名つき従う。
小姓衆にも従者がついたとすると、主従6騎とはいかない。もっと人数が多い。
15人~20人ぐらかな?本当に主従6騎で出撃したのだろうか?


戦が終わったところで、付き従った小姓衆に集まってもらい、古いコンパクトデジカメで集合写真をとらせてもらった。ついでにインタビューをこころみた。

ボク 「この度の勝ち戦、おめでとうございます。」

小姓衆 「・・・・」
何者だこいつは?変なやつだ。といぶかしげな眼で見られる。

佐脇 藤八  「そのほうが手にしておるその小さなもので、我らの姿を映しとるというか?」

ボク 「さようでございまする。このボタンを押しますとスグに映しとることが出来まする。」
ボク 「さすれば、いざ!」カシャ!カシャ!カシャ!
説明していると、なにかの拍子にヘソを曲げられるといけないので、そそくさと写真を撮った。
撮影がすんでインタビューを試みる。

ボク 「上総介(信長のこと)様のご出陣は朝早くでござりましたが、皆様、小姓衆は起きておられたのでございましょうか?」

加藤 弥三郎 「小姓は当番を決め、起きておるのだ。ここにおる我ら5人が当日の当番であった。
上様の下知を聞いて、他の小姓にも声をかけた。上様は気まぐれなところがお有りになるゆえ、気が抜けぬ。」

ボク 「この度の戦(いくさ)はいかがでしたか?」

岩室 長門守 「雨のせいでぬかるんでいたゆえ難儀であった。敵の駿河衆も同じだったろう。戦が終わってみると、夢中で気がつかなかったが、いくつかの傷があるのに気がついた。
我が方にも多くの討ち死にした者、傷を負った者が出た。激しい戦であったが、天も味方してくれたように思う。」

ボク 「長門守様は、上様からの覚えが高いと聞き及んでいます。さすれば、アチラのほうも?・・・」

小姓衆 「控えい!慮外者めが!」
なんという無礼なことを、ヌケヌケと聞いてくるのだ。という侮蔑の目で見られた。

なんてね。もちろん、こんなことはありません。写真撮影やインタビューはボクの作り話。
「お前の作り話はいらないから!」
「ごもっとも!」


okehazamakosyou22.jpg
《イラストはボクのデジカメにポーズをとる(作り話)信長の出撃時に付き従った5騎の小姓衆とした。》
ご紹介する。

前列、向かって左から

佐脇 藤八  良之 :生年不詳。前田利家の弟。
幼い頃から刀の扱いに長け、佐脇家(佐脇興世)へ養子へ行き、織田信長に小姓として仕えた。
永禄元年(1558年)浮野の戦いに参加。永禄年間の初めには、兄利家とともに赤母衣衆となっている。
永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、尺限廻番衆(敵の城を包囲するために作られた柵の巡回と監視役)を務めた。
「道盛」事件に連座?して追放。元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川ら3人とともに討死した(負傷し、その傷がもとで没したともいう)。


岩室 長門守  重休 (しげやす):生年不詳。早い時期から織田信長に使えたようだ。
永禄2年(1559年)には赤母衣衆に抜擢されている。
永禄4年(1561年)6月に発生した犬山城主織田信清の反乱を鎮圧する戦いにも従軍。
重休は信清方の於久地城攻略(おくち、現愛知県大口町)にあたり城将中島豊後守の調略を試みたが拒否されている。
この為、於久地城の戦いが発生、その戦闘中にこめかみを槍でつら抜かれて討死したという。即死だったろう。

「信長公記」の作者、太田牛一は、重休のことを「隠れなき才人であり、その死を信長も大いに惜しんだ」と記述しており、信長や織田家中の評価が高かった。

加藤 弥三郎:生年不詳。
織田信長に小姓として仕え、永禄年間の初めには赤母衣衆に入っている。
永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、佐脇らと共に尺限廻番衆となる。
一方、『熱田加藤家史』によると、永禄6年(1563年)に信長の重臣「道盛」を斬って出奔。
弥三郎は長谷川橋介・佐脇良之・山口飛騨守とともに信長の勘気をこうむり、家康を頼って遠州に身を隠していたとある。
元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川・佐脇・山口とともに討ち死にした。


後列、向かって左から一人おいて

山口 飛騨守 :生年不詳。
おおむね、加藤 弥三郎に同じ。三方ヶ原の戦いに参戦し、討ち死にした。

長谷川 橋介 (きょうすけ):生年不詳。織田信長に小姓として仕えた。
天文21年(1552年)、信長が山口教吉と戦った赤塚の戦いでは、先陣の足軽として参加。
永禄年間の初めには赤母衣衆に入っている。
永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、佐脇らと共に尺限廻番衆となる。
「道盛」事件に連座して追放され、徳川家康のもとに身をよせた。
三方ヶ原の戦いに参戦し、討死した。


「桶狭間の戦」のころ、5人とも20代前半だったと思われる。

岩室をのぞいた4人は「道盛」事件に連座して追放され、徳川家康のもとにいたが、元亀3年12月22日(1573年1月25日)の「三方が原の戦」で全員討ち死にする。
織田家への帰参を願い、手柄をたてなければと無理をしたのかもしれない。
「三方が原の戦」での徳川、織田連合軍のひどい負け方が感じられる(言い換えれば、武田方の圧勝だった。)

ところで、善照寺砦に入った信長ですが、続きは次回(信長夜話・その24)で・・・



<私訳信長公記>の文章を使わさせていただきました。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html









  1. 2011/07/26(火) 06:50:33|
  2. 信長夜話
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  4. | コメント:3
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コメント

すごく懐かしい感じがする小説

私が青心社から出している商業小説に出て来る主人公とその仲間が
出て来る小説は珍しいのでとても懐かしい気持で読みました。
すごく楽しかったです。
  1. 2017/07/07(金) 22:05:00 |
  2. URL |
  3. 楠乃小玉 #/9hBKkrU
  4. [ 編集 ]

旅人60 さんへ

おはようございます。
いつもコメントをありがとうございます。

信長の急な出陣に付き従った5人の若者は、これから13年後にはひとりも生きていなかったわけで、人の命のはかなさを感じます。

「信長公記」などに、その名をとどめていることが慰めです。
451年後まで、何度となく思いだす人がいるのですから。

もうすぐお盆ですね。


ブエノス小僧

  1. 2011/07/29(金) 07:26:51 |
  2. URL |
  3. #ReG7zl4U
  4. [ 編集 ]

ぶえのすさん

信長夜話にデジカメを入れるところが新機軸でおもしろいですね部下の紹介にうまくつながっています。
27才の信長の決断と行動、羨ましい。
魅力的です。
  1. 2011/07/28(木) 17:37:09 |
  2. URL |
  3. 旅人60 #-
  4. [ 編集 ]

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