ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

五番に省略(信長夜話・その57)

織田信長は上洛後の畿内平定をひとまず終え、河内、摂津などの守護を定め(決め)た。
10月14日、足利義昭とともに、京へもどる。
信長は清水寺に、義昭は本圀寺(ほんこくじ)に着陣した。

信長は自軍の統制を厳しくして、天皇、公家、さらに京市民の世論を味方につけることに気を使った。
永禄11年(1568)10月18日、義昭は参内(さんだい)、征夷大将軍の宣下(せんげ)を受け、15代室町将軍となる。

三好三人衆が擁立した先の将軍、義栄(よしひで)は9月に亡くなっていた(権力に翻弄された人生だった)ので、問題はなかった。
はれて、義昭は長年の夢であった征夷大将軍に就任したのだ。
これからも、信長の補佐を頼りに、幕府権力を再構築し、自分を中心とした幕府の夢を描いていただろう。
義昭は人生最良の日を迎えていた。

同月23日、新将軍、義昭は仮御所であった細川邸で能楽を張行(ちょうぎょう、日本語はむずかしい、そしてカッコイイ!))する。主客は信長だった。

『信長公記』は書いている・・・

『細川邸に観世大夫を招いて観能の会を催し、このたびの戦で粉骨の働きをした面々を招待した。

演目は吉例(きちれい)の「弓八幡」を脇能として十三番が組まれていた。
しかし演目を見た信長公は、
「いまは隣国平定をいそぐ時である。これで弓矢が納まりしなどとは、考えも及ばぬ」といって、五番に省略してしまった。

この前後に義昭殿は信長公のもとへ再三にわたって使者を遣わし、副将軍・管領への就任を要請していた。
しかし、信長公はこれを辞退して受けようとはしなかった。
この辞退を「まことに奥床しき振舞い」ととった都の人士は、一様に感心した。

さて、能楽の演目は以下のようになった。
脇能「高砂」、二番「八嶋」、三番「定家」、四番「道成寺」、五番「呉羽」

脇能がおわったあと義昭殿からお召しがかかり、信長公は義昭殿の近くへ参上した。
信長公に義昭殿はみずから酌をして酒を注いでやり、さらに鷹と鎧を下賜した。
武門の名誉これに過ぎたるものはなかった。

このあと義昭殿は四番の道成寺で信長公の鼓を聞きたいと言い出したが、信長公はこれをことわった。
演目は終了し、一座の者には信長公から盛大な引出物が贈られた。

この観能の会からまもなくして、信長公は分国中に数多存在していた諸関税の廃止を実行した。
旅人の往還の便利を考えての政策であり、人々は貴賎を問わず大いに喜んだ。』
(『信長公記』、現代語訳)

nou22.jpg
《ボクは能のことはほとんど知らない。
歴史のことを書いていると、たびたび自分の知識外のことにぶつかる。
自分が読み手の場合は適当でも良いが、書き手になるとそうはいかない。
ましてや、イラストを画くから、装束や当時の服装も重要だ(江戸時代風になってはいけない)
めんどくささと楽しさが同居する。
イラストは信長に将軍、義昭みずから酌をするところとした。「こんなにウレシイことはないぞ!ささ、ささ(酒)を・・・」と、
義昭は酌をしながら、信長の目の奥を推し量った(ボクの想像)》。



信長は義昭が企画した能楽、十三番を勝手に五番に省略してしまった。
ひょっとすると、信長は長い酒宴が苦手だったかも?(信長は酒を飲まない。甘党だった。)

「尾張守(信長のこと)はハッキリとした物言いをする男だな。まあ良い・・・」と、この時点では義昭はそう思ったのではないだろうか?
なんと言っても、信長なくしては、将軍就任はありえなかったのだから、

すこしムッとしたが、その気持ちを押さえ込んだ。
義昭みずから酒の酌をしている。
足利義昭は信長に対して、最大限の感謝と気使いをした、と考えられている。


能楽の演目を省略し、「鼓を打って欲しい。」と言われて断わり、
さらに信長は、義昭からの何度もの副将軍か管領への就任要請も断っている。
おそらく、丁重にだろう。
何度も丁重に断わるとイヤミではある。

幕府要人になることなど、サラサラ思っていなかった。
即答をしているように見えるから、信長は前から決めていたのだろう。

結果的に義昭は信長に探りをいれたかたちとなった。
「なに?尾張守(信長のこと)が断わったとな?副将軍・管領といったら、喜んで受けるヤツばかりなのにのう。さてさて?・・・」
義昭に不確かな疑念が生じた。
と、ボクは深読みしたい気がするのだが・・・

これが秀吉なら、これらの将軍からの申し入れは「ははっ!ありがたき幸せ・・・」と受け、
鼓は打つは(秀吉が打てたかはわからないが)、副将軍にはなるは、だっただろう。
自分が幕臣になろうと、実質権力を自分が握り、おいおい解らせれば良いのだから。

信長の生真面目な一面がうかがえるような気がする。
これも信長らしい(きもちいい!)。

脱線するが、義昭が信長に「鼓を所望」したところをみると、信長は鼓を打てたのだろう。
当時の教養だったのだろうか?もし、そうだとしたら、戦国大名の教養は想像以上のように思う。(信長は若いころ、尾張津島の祭礼で鼓を打ち、女舞いをしている。)


10月24日付けで義昭は信長に二通の御内書(ごないしょ、将軍の書状)を送る。
一通は今回の上洛にたいする感状(戦功を称えたもの)。
もう一通は、足利氏の紋章、「桐」と二引両(にひきりょう)を許可したものだ。
この二通の御内書には「御父、織田弾正忠殿」と書かれていたのは有名。

さして年齢が離れていない信長を、今や将軍となった義昭が「御父」と呼んだ。
「これからも私を補佐してほしい!」を言外にこめたのだろう。
(義昭は「ゴロにゃん状態」だったのだろうか?)

10月26日、信長は京を発ち、居城である岐阜への途についた。


その二通の「御内書」は以下のごとく(読まなくても良いですよ。参考です)

今度国々凶徒等、不歴日不移時、悉令退治之条、武勇天下第一也、当家再興不可過之、
弥国家之安治偏憑入之外無他、尚藤孝・惟政可申也
十月二十四日   御判
御父織田弾正忠殿

御追加
今度依大忠、紋桐・引両筋遣候、可受武功之力祝儀也。
十月二十四日   御判
御父織田弾正忠殿



<脇能のこと>
脇能とは神を主人公とした演目。
内容も、めでたいものが多い。

能の演目は、5種類に分類されるという。
それぞれに番号がついていて、脇能は1番目と呼ばれる。
2番目は修羅能、3番目は鬘能、4番目は雑能、5番目は切能と呼ばれる。

「高砂」の謡は、
「高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で汐の、波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり」だ。
和式の婚礼で謡われるアレだ。


信長の岐阜帰還を知って、一度は信長によって追い払われた三好三人衆が動く。
次回、「信長夜話」はその辺りを書くつもりだぞ~っ!



(注)<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html








  1. 2012/12/18(火) 07:20:25|
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