ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

濠橋の上(信長夜話・その62)

永禄12年4月3日(1569年4月3日)二条城の工事現場において織田信長はルイス・フロイスと会見する。
それは濠橋の上だった。信長が指定したのだろう。

先日、フロイスはお礼に信長を訪ねたが、その時は、なぜか信長は言葉を交わさなかった。
今回も和田惟政(わだこれまさ)の口添えがあった。
フロイスにはロレンソ了斎(ロレンソりょうさい・盲目の日本人修道士)が付き従っていたと思われる。

信長は粗末な衣服(麻だろうか?作業着だろうか?)に虎の皮を腰に巻き(どこにでも腰をおろせるようにだろうか?)工事の指揮をとっていた。
折から,二条城の造営が急ピッチで進められていた。2万5千人が働き,少ない時でも1万5千人を数えたという。

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《「あれは尾張守様(信長のこと)ではないか。おお、伴天連と話をしているぞ!」と濠橋の周りに多くの人が集まってきて、人だかりが出来た。すぐに警備の兵も駆けつけただろう。
信長は二条城の造営を一般(京市民)に公開したという。政治的パフォーマンスに利用したと見られている。》



信長は濠橋の上でフロイスを待っていた。
フロイスが遠くから深く頭を下げているのを見つけると、近くに来るよう合図した。
橋の板に2人は腰を下ろした。
日差しが強いので帽子をかぶるよう信長は言った。

信長はただちに質問する(信長はどうでもいい挨拶を嫌ったという)。
「年はいくつか?(外国人の年齢はわかりにくい)。
ポルトガルとインドから日本に来てどれくらいになるのか?

どれだけの期間勉強したのか?
親族はポルトガルでふたたび汝と会いたく思っているのか?
ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取るのか?
どれくらいの(ヨーロッパから日本まで)道のりがあるのか?
日本に留まっているつもりか?」

おそらく信長は「今度、伴天連と会うときには、これを訊いてやろう」と思っていたのだろう。
フロイスは丁寧に質問に答えたと思われる。

続けて、「デウス(日本の神と区別するため、宣教師はデウスというラテン語を使った)の教えが広まらなかったときはインドへ帰るのか?」と信長は質問する。
「ただ一人の信者しかいなくても、いずれかの司祭がその者の世話のため、生涯その地にとどまることになりましょう。」とフロイス。

「伴天連は、いかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡って来たのか?」
フロイスは答える、「日本に、この救いの道を教えることにより、世界の創造主で人類の救い主たるデウス様のご趣旨に添いたいという望みのほか司祭にはなんの考えもなく、なんらの現世的な利益を求めることなく、これを行おうとするのであり、この理由から、彼らは困苦を喜んで引きうけ、長い航海にともなう、いとも大いなる恐るべき危険に身を委ねるのです」と。

フロイスの答えは信長の心を打った。
当時の仏教勢力が権力を握って、信長に楯突いていたこともあっただろうが、ただ一人(西洋人宣教師では)京都に留まっているフロイスを信長は好きになる。

信長は命がけの勇気ある人が好きだ。
フロイスの捨て身の布教活動に感動したのだろう。キリスト教の教えに感動したわけではない。

しばらくすると濠橋のまわりには人垣ができていた。
人々は信長とフロイスのやり取りを固唾を呑んで見つめていた。

信長は、集まってきた群衆に僧侶たちの姿を見つけると
「あそこにいる欺瞞者(ポルトガル語からの訳)どもは汝のごとき者ではない。
彼らは民衆を欺き、己を偽り、傲慢(ごうまん)で僭越(せんえつ)のほどはなはだしい。
予はすでに幾度も彼らを全て殺し殲滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また彼らに同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのだ。」と言った。

この会見は2時間あまり続いたという。このとき信長36歳、フロイス38歳。

これらの話はフロイスの『日本史』に書いてあることだ。小説ではない。
『日本史』は宣教師たちの布教活動と日本の出来事の記録だと思われる。
当時の西洋的観察眼で書かれている(現代日本人に近いと思う)。

信長が目の前にいるような感じがする。小説よりはるかに面白い!

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《このころのことだ。工事現場の片隅で、一人の兵士が通りがかりの婦人の顔を覗き見ようとした。
ボクは映画「羅生門」の京マチコの登場シーンを思い浮かべてしまう。良い女だったのだろう。

信長はそれを見つけるとすぐさま駆け下り,一刀のもとにその兵士の首を刎ねた。
信長からすれば「オレが口を酸っぱくして、兵を厳しく律せよと言っておるのに、まったく!」ということだったのだろうか?
かわいそうだが、その兵士には災難だった。
兵士のなかには盗賊くずれのような者もいたことだろう》




<和田 惟政(わだ これまさ)のこと>

和田惟政の名はルイス・フロイスの『日本史』のなかにたびたび現れる。
惟政はキリスト教を自領内で手厚く保護。ルイス・フロイスが織田信長と会見するときに仲介した(今回のこと)。

内裏が伴天連追放の綸旨(りんじ)を出すと、それを撤回させようとした。
宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱のいれようだった。

畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力。
しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したために、その死をフロイスは大変に嘆いたという。
フロイスにとって惟政は頼りになる日本人だった。


和田 惟政は近江国甲賀郡和田村(滋賀県)の有力豪族の出身。
享禄3年(1530年)に生まれたという説があるから、信長より四つ年上になる。
父は和田宗立(惟助)

室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える。
永禄8年(1565年)、義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺されると、軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を仁木義政とともに一乗院より救い出して自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従う。

義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津の芥川山城、のちに高槻城を与えられ重用される。
足利義昭からは池田勝正、伊丹親興とともに「摂津三守護」の一人に任命される。

「本圀寺の変」では三好三人衆を撃退。
以後、幕臣として京都周辺の外交・政治に関与、義昭と信長の橋渡し役を務める。
一時、信長から、高槻城に謹慎を命ぜられる(日蓮宗の僧日乗や一部の公卿たちのざん訴という説あり)が、後、許される。
その後、信長の政治や合戦に関わる。
元亀元年(1570年)6月28日の「姉川の戦い」に織田方で参加したといわれる。


このころの摂津は、まだ1つにまとまっていなかった。
茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から池田勝正を追いだした荒木村重と中川清秀連合とが対立。
元亀2年(1571年)8月、西国街道上の白井河原を挟んで両軍が対峙する。

この時、茨木・和田連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚(幣久良山)に陣どり、一方の荒木・中川連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。

この時、郡正信(こおりまさのぶ?)は惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。
大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言する(『陰徳太平記』)が、惟政は聞き入れず、わずか200騎を引き連れて馬塚に突撃する(フロイス『日本史』)。

和田惟長(惟政の嫡男)が率いる主力の到着が遅れたという説がある。
惟政は奮戦するも敗れる。多くの貫通銃創・刀傷を受けた。
首を取ろうとした相手(敵の武将、中川清秀だったといわれている)にも傷を負わせて討死したという。
41歳だった。

一方、清秀と惟政が激突している時、茨木軍は手薄となった荒木村重の本陣に突進。
ところが、隠れていた兵が茨木軍を囲い込み、鉄砲衆300を駆使して攻撃。

それでも茨木軍は奮闘、最後には重朝自身が村重に傷を負わせるほど肉薄するが、村重自身に討ち取られた(フロイス『日本史』)。
司令官を2人とも失った茨木・和田連合軍の残兵は玉砕覚悟で討って出て全滅する。

どのような経緯で白井河原で両軍が対峙したかは不明だが、
茨木・和田連合軍が十分な戦力を整えないうちに戦端を開くことを強いられたのに対して、
荒木・中川連合軍は伏兵まで準備していた点から、荒木・中川連合軍の側から仕掛けた戦いではなかったかと考えられている。


惟政に後続した和田惟長の軍は、敗戦の報を知るや高槻城に引き返し、高山友照・右近父子と城の守りを固めた。
勢いに乗る荒木・中川連合軍は茨木城を攻め落とし、郡山城等も手中に収めると、高槻城を攻囲。
松永久秀・久通父子と篠原長房も攻囲軍に加わり、高槻の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊した(フロイス『日本史』)。

ここでルイス・フロイスが動く。
フロイスは成り行きを見守っていたが、ここに至って、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。

自分の知らないところで配下の武将同士で戦が行われていたことを知った信長は、9月9日に佐久間信盛を使者として兵を引くよう勧告。
しかし両軍は引かず(『尋憲記』)、重ねて9月24日明智光秀が1000の兵を率いて調停に乗り出した。
ここに至って荒木村重も撤兵した(『言継卿記』)。

「白井河原の戦い」とその後に関しては、ドラマではほとんど取り上げられることはない。こんなことがあったのだ!
織田信長、38歳、「姉川の戦」に勝利した翌年のことだ。
西洋では、「レパントの海戦」でスペイン王国、ヴェネチア、教皇、連合がオスマントルコに勝利している。

その後、和田惟長は高槻城主となったが高山友照、右近父子と対立。
天正元年(1573年)、高山父子によって高槻城から追放され和田氏は没落する。

摂津は、池田勝正、和田惟政、伊丹親興、から荒木村重、中川清秀、高山右近の時代になる。



*松田毅一著「南蛮太閤記」朝日新聞社¥700を参考にしました。
一部、引用したところがあります。







  1. 2013/03/26(火) 06:58:06|
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