ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

時計(信長夜話・その63)

ルイス・フロイスは布教のための允許状(いんきょじょう、許可証のこと)を欲しがっていた。
都のキリシタンたちは,貧しい中から三本の銀の延べ棒を用意して,和田惟政(わだこれまさ)に織田信長への仲介を依頼する。

だが、それは信長に渡すような額ではなかった。
惟政は自分のものを七本を加え「貧しい伴天連のためのご配慮を・・・」と信長に申し出る。

信長は笑いながら、
「予には金も銀も必要ではない。
伴天連は異国人であり、もし予が教会にいることを許可する允許状のために金銭の贈与を受けるならば、予の品位は失墜するであろう。」と言ってうけとらなかった。
かっこいい!
信長は允許状を無償で与えるよう惟政に命じる(ということは当時、金で各種の許可証が買えたのだろう)。

以前に、惟政は伴天連から機械時計を見せてもらったことがあった。
信長様もその精巧さに驚かれるにちがいない。目通りには格好の材料だ。
惟政は次の会見にその時計を持ち出すことをフロイスに告げる。フロイスは快諾する。

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《イラストはフロイスの献上した時計に興味を示す信長とした。

その時計の詳細は判らないので、現在、久能山東照宮にある徳川家康の置き時計(重要文化財)を参考に画いた。
信長がみている面に文字盤がある。
その時計は、1609年に現在の千葉県沖で難破したスペイン船の乗員が救出されたお礼として、1611年にスペイン国王フェリペ3世が家康に贈ったもの。家康の死後、久能山東照宮が保管した。

2012年、東照宮の依頼で調査した大英博物館(ロンドン)の時計部門責任者、デビッド・トンプソンは、当時の最先端の機械技術と装飾手法を使った傑作だと指摘。
この時代の同様の時計は世界に20個ほどしか現存せず、内部のゼンマイなどが全て交換されずに残っている。
革張りの外箱を含めて保存状態が非常によい。極めて希少性が高いと評価した。

ただ、当時の日本の時間は、季節によって長さが変化したので、こういう定時法の時計は役にはたたなかっただろう。》


tokei112.jpg
《その時計の外側をはずして、中身を露出させたところ》



その日、信長は館で来客とくつろいでいた。
フロイスの差し出した時計を見るなり,珍物を見る時の喜びの表情に変わった。
フロイスは、「殿に献上するために持ってまいりました。どうか、お納めください」と言上する。

「予は非常に喜んで受け取りたいが、受け取っても予の手もとでは動かし続けることはむつかしく、駄目になってしまうだろうから、頂戴しないのだ。」と信長は言った。
信長は貧欲ではない。
「いや、信長は充分に豊かだから、貧欲にならなかったんじゃぁないの?」という声がきこえてきそうだが、
いくら豊かであっても欲深いヤツは欲深い!

「信長に時計を献上すれば喜ぶにちがいない」とフロイスが想像したことは疑わないが、
日本の権力者(信長)にヨーロッパの最高の技術を見せつけ、その技術に圧倒される気配がみてとれるなら、日本征服への手段のひとつとしての確認の意味が隠されていたのではないだろうか?
ボクの邪推だろうか?

信長はフロイスたちを自室に案内した。
自分の飲んだ同じ茶碗で茶を飲ませ、二度目の茶も飲むよう所望した。
美濃の干柿(信長の好物)が振舞われた。
干柿の入った四角い箱を持ってこさせ,フロイスに渡した(たしか、フロイスは「干したイチジク」と書いている)。

ここでもロレンソ了斎(修道士)がフロイス(司祭)の側にいた。


このころのこと。
松永久秀が信長に、「キリシタンを都に入れると国も都も滅亡する」とキリシタンの追放を信長に訴えた。

信長は答える。
『汝霜台(久秀のこと)、予は汝のごとき老練かつ賢明の士が、そのように小心怯檽な魂胆を抱いていることに驚くものである。
たかが一人の異国人が、この大国において、いったいいかなる悪をなし得るというのか。
予はむしろ反対に、いとも遠く、かくも距(へだ)たった土地から、当地にその教えを説くために一人の男がやって来たことは、幾多の宗派があるこの都にとって名誉なことと思っているのだ』と。

キリシタンの存在が祟りを呼ぶと久秀は思ったらしいが、本当はもっと恐ろしいことが隠されていた。
孤軍奮闘するフロイスの後ろには、巨大な宗教組織が、商人が、そして軍隊が・・・
フロイスにその気がなくても、それが、当時の西欧海洋国家の征服への常套手段だった。


<ロレンソ了斎(ロレンソりょうさい)のこと>

1526年(大永6年)、肥前白石(現在の平戸市)の生まれ。
目が不自由であった。琵琶法師として生計を立てる。

1551年(天文20年)山口の街角でフランシスコ・ザビエル(あのザビエル)の話を聞き、救いを見出したのだろう。
ザビエルの手によって洗礼を受け、ロレンソという洗礼名を授かる。

ザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動をする。
1559年(永禄2年)、ガスパル・ヴィレラと共に京に上り、苦労の末に将軍足利義輝に謁見。
キリスト教布教許可の制札を受ける。
また、当時の京の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得る。

さらにキリスト教に対し好意的ではなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。
ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えた。

論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。
キリシタン大名としてカッコ良く描かれることが多い高山右近の切支丹への改宗は、ロレンソ了斎の影響だったのだ。

1563年(永禄6年)、正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となる。

その後、九州に赴いて宣教活動を行い、1569年(永禄12年)に再び畿内へ戻る。
ここで織田信長から布教の許可を得る。信長35歳、ロレンソ43歳、ルイス・フロイス37歳。
また、フロイスとともに信長の面前で反キリシタンの論客であった日蓮宗の僧、朝山日乗と議論を行う。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉によるバテレン追放令を受けて九州へと移り、1592年(文禄元年)に長崎で死去。66年の人生だった(信長より長く生きた)。

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《フロイスがひく杖に導かれて、京の町をいくロレンソ了斎とした。
ロレンソは得意の琵琶を披露して聴衆を集めたかもしれない。
ときに、石を投げられることもあったのではないだろうか?と想像している。

当時の日本では珍しい西洋人(フロイス)と盲目の日本人の二人は、民衆の注目を集めただろう。
(少数派の異質はイジメの対象になるが、タレント性があるとも言える)

フロイスはロレンソに日本語や日本の習慣について訊ねただろう。
フロイス「サタンは日本では、なんと言えばよいのだろう?」
ロレンソ「悪魔など、いかがでございましょうか?」
フロイス「では、ヘルはどうか?」
ロレンソ「日本にも似た言葉、地獄がございますれば。」

ロレンソ了斎の肖像画はみあたらない。ボクの想像で書いた。
「教養のある琵琶法師の宣教師」という設定でロレンソを画こうとすると、現実感のない知的な男になってしまう。
それでは面白くないので、イラストのような生活感のあるオッサンにしてみた。
布袋に入れた琵琶を背負ってもらった。》




ロレンソ了斎の人生は苦しいものだったと思うが、興味本位の他人(ボクもそのひとり)からみると魅力的だ。
「諸行無常」と「主の救い」の間にいたのだろうか?それとも心の隅まで主の僕だったのだろうか?

ロレンソは名説教家だったといわれる。
琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、戦国の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの日本人の疑問に答えた。
畿内や九州で多くの洗礼者が出たのは、ロレンソの布教活動に負うところが大きいといわれている。

西洋人宣教師の布教活動に目が行きがちだが、もっとも強力な布教者はロレンソ了斎だったのかもしれない。











  1. 2013/04/02(火) 06:54:11|
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