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ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

南伊勢へ・・・(信長夜話・その67)

今回から2回に分けて、「大河内城(おかわちじょう)の戦い」を書く。

信長のエピソードのなかで、伊勢への侵攻はテレビで取り上げたことを見たことがない。
人気がない!

北伊勢侵攻に関しては、信頼できる史料がないらしいが、
南伊勢の「大河内城の戦い」は『信長公記』に書かれている。


織田信長は永禄十二年(1569)の二月に将軍御所(二条城)の建設を初め、これを二ヶ月ほどで完成させた。
異例の速さだった。
その一ヶ月後の五月、伊勢の木造具政(こつくりともまさ)が信長に通じてきた。
具政は今回の主敵、北畠具教(きたばたけとものり)の実弟。

木造具政は義理の弟、玄浄院主玄の助言を聞き入れ、早めに信長に従うことにした。
織田側の武将・滝川一益の調略であった。

対する北畠具教は5月12日、木造城を包囲し攻撃するが(『桑名志』)、滝川、神戸氏、長野氏の援軍もあり、8月に入っても木造城は落ちなかった。

8月20日、京から岐阜に戻っていた信長は大軍を率いて岐阜を出陣した。
総勢7万とも10万ともいわれている大軍だ。全力出撃だ。

大軍であることを敵が知れば、寝返るものが続々と出るにちがいない、戦わずして多くを従えることができる、という思いが信長にあったかもしれない。
それとも、国司大名、北畠具教を強敵だと判断したためだろうか?
織田軍は、その日のうちに桑名に達する。

伊勢を手に入れることができれば、伊勢湾を支配下におくことになる(知多半島はすでに勢力下)。
これが、信長の戦略目的だったとボクは想像する。

信長は「桶狭間の戦」の印象が強いためか、寡兵で立ち向かうイメージがあるが、
美濃攻略以後は、兵数においても、装備においても敵を上回る戦い方がほとんどだ。

この時、大河内城攻めに信長は自信があったと思われる。
信長軍は、兵数、装備、実戦経験、経済力、ともに北畠方を圧倒していたと想像する。

翌日には鷹野、22日になって白子の観音寺(現三重県鈴鹿市白子町)、23日には木造(現久居市)まで進むが、その後、雨が続いたためこの地で数日間、滞陣した(ちょうど良い休憩)。

対する北畠具教は大河内城(現三重県松坂市、松阪肉の松阪だ)に立て籠もり、阿坂(あざか)、船江(ふなえ)など支城に兵をおき、織田勢を迎え撃つ体制をとった。


26日、木造を発した信長は、まず阿坂城(現松阪市内)を木下秀吉に攻めさせた。
秀吉はみずから塀際まで詰め寄せ、薄手を負って退いた。

なんと、秀吉が負傷したのだ!生涯唯一の戦場での負傷だといわれている。
秀吉は、「一軍の将が、刀や槍をもって敵とやりあうなどもってのほか。タワケ者だ」と言った人だが、
お屋形様(信長)自信が武闘派だからだろうか?それとも、このころの秀吉は血の気が多かったのだろうか?頑張ってしまった。
その後も猛攻は続けられ、その日のうちに城側は降伏、滝川一益の兵を入れた。

阿坂城を落とした信長は、他の支城には目もくれず、まっすぐ北畠具教、具房親子の大河内城を目指した。王手!
大河内城は山城だ。城は丘陵の北端にあり、東に阪内川、北に矢津川、西側と南側には深い谷が入り自然の要害だった。
北畠の兵は約8千であったといわれる。織田勢の十分の一。

27日、信長は周辺の地形を偵察したのち城東の山に陣を取り、夜半に町を焼き払わせ、
28日朝、信長の大軍は四方から城を包囲した。

jintyuunonobunaga23.jpg
《着陣した信長。大河内城を望んで、自信満々だったのではないだろうか?》


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《包囲された大河内城内とした。こんな櫓や石垣があったかどうか?想像で画いた。
遠くに包囲する織田勢が見える。
現在、大河内城は現在の松坂城の南西に城跡がある。
画き終わってみると、気にいらないところが多く見つかり、何度も修正したのでガビガビになってしまった。最近、こういうのが多い。》



織田軍の布陣

<城南の山> 
織田上野介信包・滝川一益・稲葉一鉄・池田恒興・和田新介・後藤喜三郎・蒲生右兵衛大輔賢秀・永原筑前・永田刑部少輔・青地駿河守茂綱・山岡美作守景隆・山岡玉林景猶・丹羽長秀
<西>
 木下秀吉・氏家ト全・安藤守就・飯沼勘平・佐久間信盛・市橋九郎右衛門長利・塚本小大膳
<北>
 斎藤新五・坂井政尚・蜂屋頼隆・簗田弥次右衛門・中条将監・磯野丹波守員昌・中条又兵衛
<東>
 柴田勝家・森可成・山田三左衛門・長谷川与次・佐々成政・梶原平次郎・不破光治・丸毛兵庫頭長照・丸毛三郎兵衛兼利・丹羽源六・不破彦三

と『信長公記』にある。続けて、

織田勢は二重三重の鹿垣をめぐらして諸口を閉ざし、菅谷九右衛門長頼・塙九郎左衛門直政・前田利家・福富秀勝・中川八郎右衛門・木下雅楽介・松岡九郎二郎・生駒平左衛門・河尻秀隆・湯浅甚介らが柵内を巡回した(『信長公記』)。

彼らは馬周りから選ばれた使い番(伝令・巡視の役目)だ。
まさに蟻のはいでる隙間もない包囲だった。
信長の本陣は馬廻・小姓衆及び弓衆・鉄砲衆に命じられた。


これを見ると信長は長期戦のつもりだったようにみえる。当然だろう、大河内城は攻めづらい城だ。
ところが、信長は突然、力攻めに出る!

包囲開始から十日目の九月八日、信長は丹羽長秀、池田恒興、稲葉良通の三将に馬周り(信長の親衛隊)もつけて夜討ち(夜襲)を命じた。
三手に分かれて西搦手口(からめてぐち、城の裏門のこと)より城を攻撃する!

次回「信長夜話・その68」に続く・・・



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。
<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html






  1. 2013/07/02(火) 06:52:27|
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