ブエノス小僧のイラストブログ

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栄光と地獄(信長夜話・その68)

梅雨寒の雨がやんで、晴れたと思ったら猛烈な暑さと湿気。
エアコン苦手派のボクには「暑いけれどエアコンは我慢」の夏がやって来た。
暑つーーッ!ホント!
熱波が押し寄せるドッドッという音が聞えるようだ。


では、前回(「信長夜話・その67」)からの続き・・・

織田信長は永禄十二年(1569)8月、南伊勢に侵攻。
大河内城(おかわち)の支城、阿坂城(現松阪市内)を落とすと、他の支城には目もくれず、8月27日、大河内城を包囲した。

包囲開始から十日目の九月八日、信長は丹羽長秀、池田恒興、稲葉良通に馬周り(信長の親衛隊)もつけて夜討ちを命じた。信長はじれたのだろうか?
三手に分かれて西搦手口(からめてぐち、城の裏門のこと)より城を攻撃する。
北畠の兵数は約8千であったといわれる。織田勢の十分の一。

「しかし軍勢を出したまではよかったが、折柄降り出した雨によって鉄砲が役に立たなくなってしまった。
このため寄せ手は苦戦におちいり、池田恒興の攻口で馬廻の朝日孫八郎・波多野弥三が戦死したのをはじめ、
丹羽勢でも近松豊前・神戸伯耆・神戸市介らが戦死し、織田勢は一夜のうちに屈強の侍二十余人を失ってしまった。」(『信長公記』)

chikarazeme22.jpg
《西搦手口(からめてぐち)より城を夜襲する池田恒興隊とした。
雨が降るなか、攻撃軍は城方の鉄砲による反撃を受けたのだろう。
鉄砲は織田軍だけが装備していたわけではない。》



急攻めにしくじった信長は兵糧攻めに作戦変更する。

 翌9日信長は、滝川一益に多芸谷(現三重県一志郡美杉村、多芸城があった)の国司御殿その他の建物をことごとく焼き払わせた。
田畑の作物を薙いで(軍規が厳しかったと言われる織田軍だが、略奪をしたのだろうか?したのだろう。)住民を大河内城に追いやり、城内を人口過密にして兵糧攻めを加速させた。

『信長公記』では、この持久作戦は効を奏して、城側が和睦を申しいれて来たことになっている。
ところが他史料では、滝川一益軍が魔虫谷(すごい名前、入りたくない!)から攻めのぼったところ、城から鉄砲による反撃をくらって、多くの戦死者を出した。
また、大河城内の兵糧はまだ潤沢であったという。

攻め手に窮して、信長側から和睦を申し出た、と『勢州軍記』にある。
『細川両家記』にも、城方が勝ったという記述があるようだから、
いくつかの戦闘で信長側が苦戦したと思われる。
城方は信長の想定を超えた頑張りをみせたのでは?

しかし、和睦となると、その条件は圧倒的に信長側に有利になっている。
やはり兵糧攻めは効果があったと見る説が、現在は有力だ。
和睦も、将軍足利義昭や朝廷が動いた結果(『朝倉記』)という説もありハッキリしない。

その和睦条件だ。
(一)大河内城は信長に開け渡し、北畠具教、具房親子は他の城へ移ること。
(二)信長の次男、茶筅丸(ちゃせんまる、後の信雄・のぶかつ)を具教の養子にすること。

和睦は成立、十月三日、具教親子は大河内城を開け渡し、笠木城(かさき・現多気郡多気町)・坂内城(現松阪市)へ移った。城を包囲してから一ヶ月とすこしの攻城戦だった。
結果、南伊勢の大物、北畠氏の勢力は大きく衰えた。

ところが、話はここで終わらない。

六年後の天正三年(1575)、信長は北畠氏に圧力をかけ、信長の次男、茶筅丸(信雄)に家督を譲らせた。
乗っ取りだ。
さらに翌年、北畠一族をまとめて謀殺してしまった。

伊勢国は信長の侵攻を受けて、北畠家の旗下であった神戸氏、長野工藤氏が次々織田家に乗っ取られ、今回の大河内城の北畠氏を乗っ取ることで、伊勢の国は信長の直轄地のようになった。



<北畠具教(きたばたけとものり)のこと>

北畠晴具(はるとも)の嫡子として生まれる。兄弟に、木造具政・北畠具親。

天文6年(1537年)、具教は従五位下侍従。天文21年、参議・左中将。天分22年(1553年)には、父から家督を譲られ北畠七代目当主。
翌天文23年(1554年)、従三位・権中納言。・・・と、朝廷から官位を受け、トントン拍子だった。

弘治元年(1555年)には、南伊勢の領地争いをしていた長野氏と戦い、永禄元年(1558年)に長野家当主・長野藤定の養子に自身の息子を入れさせる。
和睦と言う名の臣従化に成功している(今回の信長のようだ)。

永禄6年(1563年)、嫡男の具房に家督を譲り隠居。しかし実権は具教が握っていた。

永禄11年(1568年)、織田信長が伊勢に侵攻。
信長は、北伊勢の神戸具盛と和議を結び、自身の三男・織田信孝を養子に送りこむ。

さらに、具教の次男・長野具藤と一族の細野藤敦との間に不和を起こさせ具藤は内紛に敗北し逃亡。
長野家を降伏させ、信長の弟の織田信包を長野家当主に据えるなど、北畠家を切り崩していく(調略は滝川一益だろう?)。

そして、今回の「大河内城の戦い」となる。
具教は籠城して奮戦するも、11月に和睦。
信長の次男・茶筅丸(織田信雄)が養子としてやってくる。

元亀元年(1570年)、具教は出家して『天覚』、『不智斎』と号して三瀬谷に隠棲する。
元亀3年(1572年)に茶筅丸(織田信雄)が元服して『北畠具豊』となったが、実権は具教にあったらしく、天正3年(1575年)まで具教の発給文書が存在している。
この年に信雄が北畠の家督を正式に継いだ。

乗っ取りだ。具教は「まさか、殺したりはすまい」と思ったのだろうか?

翌、天正4年(1576年)11月25日、三瀬御所に隠居していた具教が信長の命により、信雄の放った刺客に館を急襲され、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺される(三瀬の変)。
さらに、次男・長野具藤、三男・北畠親成は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害され、
坂内御所においては坂内具房、霧山御所においては城代・北畠政成、及び波瀬具通が殺害された。
具教は49年の人生だった。

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《北畠具教を暗殺!
剣聖・塚原卜伝の弟子でもあり、『一の太刀』を相伝されたとも伝えられる具教は、19人の刺客を切り倒す奮戦を見せたとも伝わるが、
一方で事前に愛刀の刃を潰されて刀を振るうことなく惨殺されたとする説もある。
おそらく後者だろう。

イラストの刺客は甲冑をつけた完全装備とした。具教が剣の使い手だったことは知っていただろうから。
この事件は、将軍、足利義輝暗殺を思わせる》



信長の伊勢侵攻開始からの北畠氏の行く末は、ドラマだ。
北畠具教は自分が当主の時に伊勢北畠氏の最盛期を向かえ、衰退した(させられた)。
栄光と地獄を見た。「夢まぼろしのごとく」。

具教の嫡男、具房は身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に3年間幽閉された後、1580年(天正8年)1月5日京都で死去した。
北畠家は名実ともに織田家によって乗っ取られた。

1582年(天正10年)6月、信長が「本能寺の変」で亡くなると、備後に逃れていた具教の実弟・北畠具親が伊勢五箇篠山城に戻り再挙するが落城、後に蒲生氏のもとに客臣として迎えられた。
清洲会議にて、信雄は織田家の後継者になろうとして、織田姓に復したため、伊勢国司としての北畠家は滅亡。

また、木造氏、田丸氏、神戸氏、星合氏等、諸流の一部は信雄の家臣となるなどして生き永らえ、その後、一部は旗本となった。


北畠氏は、公家の一つ。
村上源氏の流れを汲む名門、その子孫である中院雅家が洛北の北畠に移ったことから「北畠」を名乗り、代々和漢の学をもって天皇に仕えた。

鎌倉時代末期に、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した北畠親房(高校の日本史にも出てくる)や、
父親房とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い落とした親房の長男北畠顕家(公家武将)は、具教の血縁にあたる。

親房の三男北畠顕能が伊勢国司となったことが、伊勢北畠氏の起源と言われている。
室町時代に入っても北畠氏は伊勢で独自の勢力を持ち、その支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきようなものであった。

「このごろ、都で羽振りの良い、織田上総之介とやらは、どこの御仁であるか?
きけば、父の信秀は尾張守護代(守護の補佐役)の、そのまた奉行のひとりだったというではないか。
さらに辿れば、織田氏は越前丹生郡の禰宜(神官)だったというではないか?わが伊勢は神の国ぞ!」と言ったかどうかはわからないが、北畠具教は信長を見下していたと想像する。
北畠氏は名門なのだ。
血統からいえば織田氏などハナクソのようなものだ。

それだけに、信長の侵攻をうけ、養子縁組などという体の良い乗っ取りを受け、とどのつまり暗殺された。哀れではないか。

しかし、乗っ取った織田家も信長死後、秀吉に簒奪され、その豊臣家も・・・・
キリがない。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。
<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html






  1. 2013/07/09(火) 07:26:24|
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