ブエノス小僧のイラストブログ

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名物(信長夜話・その69)

「秋は名のみの日差しの暑さよ・・・」

暑い夏の日に「秋になれば涼しくなるのだろうな?」と疑ったりしていた。
「暑さ寒さも彼岸まで」と昔の人が言ったように、いつもは彼岸を迎えるとスッと涼しくなった。
昔の人はスゴイ!と思っていた。

ところが、今年はそんな季節の変わり目を無視するかのように、
9月を過ぎ、10月になっても、しつこい暑さが続いた。
連休に入って、ようやく、ようやく、涼しくなった。



このブログのカテゴリー「信長夜話」の記事は、ひさびさの感じがする。

永禄12年(1569)10月3日、織田信長は北畠氏の大河内城を開城させ、伊勢平定した後、いくつもの関を廃止して関銭の徴収を固く禁じる布令を出した。
伊勢桑名と日永(ひなが)の4里(16km)の間に40以上の関所があったといわれる。

単純に400mにひとつ、関があったことになる。
ひとつの関を抜けると、次の関が見えるところもあったのではないだろうか?
通行する者はこれらの関所すべてに通行税を支払うのである。
当然、それは価格にはねかえってくる。流通は鈍くなる。

土地の土豪や寺社、地主などが関銭を徴収していたと思うが、
川上に辿っていけば、大名、貴族、大きな寺社、朝廷などに繋がっていたのだろう。

関銭を徴収している者から言わせれば
『うちのお祖父ちゃんが戦に出て、体を張って手柄をたて、お館様より頂いた土地だ。
「関は外敵の侵入を防ぐ目的もあるのだ」とお館様は言っておられたのだからな・・・』
ということだったのだろう。

コワモテを配置して関銭を徴収する。オイシイ商売だ!
流通、経済を盛んにすることが国力に繋がる発想はなかったのかもしれない。
いや、領地の安全と税収を計ることが勝っていたのだろう。

伊勢の国主、北畠氏も川上の関銭受益者だったとボクは想像している。


このころ、信長は名物狩(茶器の収集)をしたと『信長公記』にある。
『すでに信長公は金銀・米銭に不足はなく、この上は唐物の茶入れなど天下の名物を集めようとし、所蔵主たちに献上を命じてまわった。
かくて大文字屋所持の「初花肩衝」、祐乗坊の「富士茄子の茶入れ」、池上如慶の「かぶらなしの花入れ」といった名物が公のもとへ差し出された。
使いには松井友閑・丹羽長秀が立ち、所蔵主には金銀米穀が代償として与えられた。』
(『信長公記』現代語訳)

現在では「信長の名物狩」と言われている。
信長がスゴんで名物茶器を取り上げたように聞えるが、『信長公記』を信ずれば、それなりの対価が払われたようだ。
ただ、信長に「その方、所蔵の○△を求めたい・・・」と言われて、「いやだ!」とは言いにくかっただろう。


信長がまだ若かったころ、京から来た公家が平手政秀(信長の守役、信長の父、信秀の家老)の茶室に驚いた(立派だったのだろう)、という話があるから、信長は若い頃から「茶の湯」に親しむ環境にあったと思われる。
津島(織田家と繋がりの深い商業都市)では、現在でも「茶」が盛んだ。

永禄11年(1568)信長が上洛を果たしたとき、松永久秀らが献上した茶器に、信長は魅せられたのではないだろうか?
すでに名物(茶道具)の収集が畿内では行われていたのだろう。
畿内の洗練された「茶の湯」が信長の心を捉えたとボクは想像する。

信長は収集した茶器を愛でているうちに閃く。
『これは使えるぞ!そうだ、「茶の湯」を許可制にしたろ。
大きな手柄のあった者に、集めたものの中から茶器を授けたろ(名古屋弁)』と・・・
信長は家臣が茶会を開くことを禁じていた。

その後、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、織田信忠(嫡男)の5人が茶会を開くことが許されている(たった5人)。
茶会を開くことを許された秀吉は、涙を流して喜んだという。

また、滝川一益は武田攻めの褒美として、『関東八州の御警固』及び『東国の儀御取次』と上野一国、信濃の二郡をもらう事になった。
しかし本人は「武田を討ち果たした後、褒美は何がよいと言われたら、なすび(茶入れ)と言おうと思っていたが、そういった事はなく、こんな遠方に置かれ、茶の湯の楽しみも尽きてしまった・・・」と官位と一国を与えられたのにもかかわらず、茶器をもらえない事にがっかりした。という逸話もある。

「茶の湯」を許され、信長から名物(茶器)を賜ることが、現代の想像を超える名誉であった。
今風に言えば、家臣の「やる気」を上げるために、信長はそれを利用した。
趣味と実益を兼ねたわけだ。

現在でも経営者が社員の「やる気」を上げるべく「モチベーション、モチベーション」と、
正月じゃあるまいし、モチモチ・・・とウルサイが、信長の演出は効果があったのだ。
(ボクはカタカナ語が嫌いだ)
オネエちゃんの喜ぶ顔が見たくて?バカ高いバッグを買ってやろうと、金儲けに精を出す男と似ているようにも思う(ちょっと違うか?)。


meibutugari23.jpg
《イラストの左から柴田井戸(しばたいど)、松花(まつはな)
右手前、左から 勢高(せいたか)、富士茄子(ふじなす)、
その向こうの釜は、天猫姥口釜(てんみょううばくちかま)
その右は信長井戸(のぶながいど)とした。

信長はこれら多くの名物の美を認め、そしてピンときたのだ。

家臣が大きな手柄をたてる。恩賞を与えることになるわけだが、土地には限りがある。
名物茶器を所有し、茶会を開くことを一国一城以上の価値にまで高めた。
カタカナ語でいえば、ブランドクリエーターということになるのだろうか?
(ボクはカタカナ語がキライ!)

信長の所有したといわれる名物茶器を、もうすこし大きく、数点描こうと思ったが、疲れたのでやめた。
スミマセン。

ボク自信は「茶の湯」はカスッたこともない。
ほとんど無知。
信長の茶道具でボク知っていたのは、松永久秀の「九十九髪茄子」の茶入れ、平蜘蛛の茶釜(たしか、信長の手には渡っていない)の二つだけ。
だから、これらの名物は検索に頼った。》


ボクは若いころ、事業を成功させて、富と権力を我が物としたら、「茶の湯」をやってみたいと思ったことがあった。
湯の音だけがする茶室で
「確かに宮部はそう言ったのだな?・・・」とボク
「まちがいありません!・・・」
「・・・わかった!三日後に取りに来てくれ。田中に話しておく・・・」とボク。
「はい!・・・」
そんなことを空想していた(ボクは今も富と権力に無縁)。



今回は信長が収集した名物を取り上げる。
信長は「茶の湯」の道具を数多く収集した(刀剣や甲冑などの工芸品も)。
そのほんの一部だ。以下、


<勢高肩衝(せいたかかたつき)>

漢作唐物の肩衝茶入。丈が高いゆえにこの名があるのだろう。

堺の山岡宗無所持から、織田信長に伝わり「本能寺の乱」にあう。
そのためか、破損が多く、漆繕いがあり景色が鮮明ではないと言われているが、
「本能寺の変」を経験したことにボクは感銘をうける。

その後、古田織部、徳川幕府、本多狩蘭(伊勢国神戸藩主)を経てのち藤田家に、
現在は頴川美術館蔵。

高二寸九分二厘(8.8cm)、胴径二寸三分六厘(7.2cm)、口径一寸四分(4.2cm)、底径一寸三分五厘(4.0cm)、甑高二分(0.6cm)。肩幅三分(0.9 cm)、重量二九匁四分(110.3g)。


<九十九髪茄子(つくもなす)>

明国 九十九髪茄子
「流転の茶器」と言われる。戦国時代随一の名物茶入。
村田珠光が99貫で購入したことからこの名がある。
朝倉宗滴、松永久秀、織田信長などが所有した。現在、静嘉堂文庫蔵。

高さ二寸二分(約6cm)、胴の幅二寸四分五厘(約7cm)廻り七寸六分(約23cm)、
抹茶の茶入れとしてはやや大ぶりだそうだ。


<富士茄子 ・ふじなす>

「一富士・二鷹・三茄子」という言葉があるが、
天下三茄子の一つ「富士茄子」はこの言葉から名づけられたという。

「富士茄子」を最初に持っていたとされるのは、13代室町将軍「足利義輝」。
義輝が「富士茄子」をどうやって手に入れたのかは分かっていない。
足利義輝→ 曲名瀬道三(医者)→ 祐乗坊(坊主)→ 織田信長→ 再び曲名瀬道三→ 豊臣秀吉→ 前田利家→ 現在は前田育徳会が所有。


<松花(まつはな)>

南宋~元時代
肩の四方に耳をつけた中国製の大型四耳壺。重要文化財だ。
中国南部を中心に広く焼造された四耳壺で、香辛料などの貯蔵容器として用いられ、喫茶の伝来とともに一三世紀代にはわが国に渡ってきた。
わが国では葉茶壺【はちゃつぼ】として用いられたと推測されている。

天文年間ころから、唐物茶壺を用いた茶壺飾りが書院や広間の床で行われるようになった。
秀吉が茶の湯に力を注いだ天正年間から、唐物茶入とともに茶道具において格別に扱われた。

織田信長や豊臣秀吉が、戦功のあった武将への褒美として唐物茶壺を与え、一国一城、数万石、ときには十数万石の恩賞に価値するとさえも評された。

高39.7 口径11.6 胴径33.2 底径12.7(㎝)
現在、徳川美術館蔵。


< 柴田・しばた>

青井戸茶碗 、朝鮮時代(16世紀)
井戸茶碗のうち、青井戸手に属する名碗。青井戸とは釉薬が青みを帯びていることによる。
元々は織田信長が所有、戦功によって織田家筆頭、柴田勝家に賜ったことから「柴田」という銘が起こったと伝えられる。

幕末には大坂の千種屋平瀬家に入り、明治36年に藤田家に移り、のち根津嘉一郎に渡った。
現在、根津美術館蔵。

高6.8cm~7.0cm 口径14.3cm~14.6cm 高台径4.8cm


<天猫姥口釜・てんみょううばくちかま>

「てんみょう」と読む。日本語はムズカシイ!
この釜は教科書によく載っているという。
信長が柴田勝家に与えた釜として有名。
現在、根津美術館蔵。

姥口釜(うばくちがま)は、茶の湯釜の形状のひとつ、
口の周囲が高く盛り上がってそこから内に少し落ち込んだ形の釜。
姥口は、「祖母口」とも書き、口の周囲が高く盛り上がった姿が歯のない老婆が口を結んだ姿に似ているところからこの名があるという。



「織田信長と茶の湯」
http://www.oyakatasama.com/oda/tyanoyu.html

「Kabin・背高肩衝」
http://kabin.tumblr.com/post/6589797779

「塩はうまくてまずいです」
http://hosokawa18.exblog.jp/6493332/

「根津美術館」
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=40218

「文化遺産オンライン」
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=169505
などを参考にしました。

<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html








  1. 2013/10/15(火) 07:27:42|
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