ブエノス小僧のイラストブログ

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参内(信長夜話・その73)

織田信長は諸国の大名に送りつけた書状の期日から遅れているにもかかわらず、
京へ上る途中、常楽寺(じょうらくじ・現滋賀県蒲生郡安土町)にとどまり、
近江の相撲取り(相撲好き)を集めて好きな相撲会を催している。

結局、信長が京都に入ったのは元亀元年(1570)二月三十日の午後4時ごろといわれている(申の刻、時間が分かっているのだ。スゴイね!)。
公家や幕府奉行衆たちが堅田(かただ、現滋賀県大津市)や坂本(同)で出迎えた。

さらに、洛外の吉田(現京都市左京区)には出迎えのため、京とその近辺の人たちが集まっていた。
一町あたり五人の割り当てだった(『言継卿記・ときつぐきょうき』)というから、何百人もの市民が信長を迎えに出たと思われる。

通常、信長は大げさな出迎えを好まなかったといわれている。
「出迎え無用」の布れをださせることが多かった。

demukae12.jpg
《出迎えを受ける信長主従。
「少人数で常楽寺から船で琵琶湖を渡った」という説があるから、歩きだったかもしれないが、
それでは絵になりにくいので、イラストでは馬に乗ってもらった。
出迎えの公家、武士、市民、をまとめて画いた。》



しかし、今回の上洛は、信長のほうから出迎えを催促したようだ。
京や近辺の人たちへの宣伝の意図があった。
その後のセレモニーの前奏だったのだ。

翌日、三月一日、午前中に信長は将軍を訪ね、挨拶を済ませると、午後には参内(さんだい)する。
大勢の公家衆が相伴した、と「言継卿記」は伝えている。

sandai12.jpg


信長研究では、この時の参内は、信長が将軍とは離れた立場で正式参賀を遂げた、と・・・
そして、このことが、信長が天皇より「天下静謐(てんかせいひつ)の執行権」を獲得した、と考えられている(立花京子氏の説)。
天皇からのお墨付きだ。

この後、若狭(実は越前)への出陣にあたって、再び信長は参内して暇乞い(いとまごい)をし、天皇が戦勝祈願をしている(天皇の戦勝祈願だぞ!)。


四月一日、御所造営の祝いとして観世大夫・金春大夫立ち合いのもと観能の会が開かれた。

『・・・・参列者には飛騨の姉小路良頼の名代で子の頼綱、伊勢の北畠具房、三河の徳川家康、畠山高政・同昭高、一色義道(いっしきよしみち)、三好義継、松永久秀の諸大名のほか五摂家・清華家の歴々、および畿内近国の諸豪が軒並み顔をつらね、会は豪壮をきわめた。』(『信長公記』現代語訳からの抜粋と修正)

文中の諸大名は、信長の呼びかけに応じて上洛した大名たちだ。
遠くの太田垣氏(但馬)、宇喜多氏(備前)、大友氏(豊後)は使者を使わしたという。

席上、信長へ将軍義昭から官位昇進の上意があった。
信長はこれを固辞、盃を頂戴するだけにとどまっている。
義昭と信長の確執が垣間見える。

「信長は幕府高官になることで将軍義昭からの束縛を嫌った」と言われるが、
それほど気にすることだったのだろうか?とボクは思う。

例え室町幕府の副将軍(官位ではない)となっても、実質的な実力者である信長なら、束縛など軽くひっくり返すことが出来たように思うのだが?
理由はなんとでもつけられただろう。

ウソがつけないというか、律儀というか、空気が読めないというか、率直というか、信長の一面なのだろう。
それとも、信長は将軍義昭を内心、嫌っていたのかもしれない。
「嫌いな男からの上意など、どうしてオレが受けなきゃならんのだ!ターコ!」と・・・

かたや、義昭は信長の反応をみて、探りをいれ、距離を測っていたように思う。

そして、信長は四月二十日早朝、若狭(実は越前)に向けて京を出陣する。
総勢三万の大軍だった。信長37歳。



<山科 言継(やましな ときつぐ、永正4年4月26日(1507年6月6日)- 天正7年3月2日(1579年3月28日)
と『言継卿記』(ときつぐきょうき)のこと。>


織田信長について書かれた本(ノンフィクション)には『言継卿記』の文章が引用されることが多い。
『言継卿記』(ときつぐきょうき)とは、山科言継の日記だ。

1527年(大永7年)から1576年(天正4年)の50年に渡って書かれている。
散逸部分も少なく、有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料といわれている。


言継の山科家は藤原北家四条家の分家。
戦国期には他の公家と同様、不振の時代を迎えていた。
天文17年(1548年)には室町幕府によって代々の家領であった山科荘(荘園だろう)が事実上横領されている。

そんな時代の中で言継は家業である有職故実や笙、製薬、和歌(三条西公条の門下)、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六など、多彩な才能の持ち主だった。

さらに、彼の最大の特技は「人脈作り」だ。
朝廷の内蔵頭(財政の最高責任者)として、後奈良(ごなら)・正親町(おおぎまち)両天皇の下で逼迫した財政の建て直しを図ることになる。

当時の朝廷財政の収入の主なものは諸大名からの献金だ。
言継はその献金獲得のために各地を奔走する(暑い夏のさなか、献金要請に老体に鞭打って岐阜の織田信長を訪ねている、それに信長は協力している)。

晩年には山科家では初めて権大納言に昇進(1569年)、織田信長との交渉役としても活躍。
信長もこの年に二条城築城視察の帰りに山科邸を訪問している。

また、山科言継は上泉信綱(かみいずみ のぶつな)と親しく、来訪の記録がある。
(上泉信綱は新陰流の祖。戦国最強の剣豪、塚原卜伝と並んで剣聖と呼ばれている。)


言継は医療にも精通、自身が治療に携わった医療行為に関する詳しい記録が残されている。
現存する日本で最古のまとまった診療録であると言われている(筆まめだったようだ)。
現在、京都大学や東京大学史料編纂所などに保管されている。

言継の人脈作りは上にばかり向けられた訳ではなかった。
言継はその気さくな人柄で庶民とともに入浴する事もあり、また優れた医療知識をもって天皇や公家のみならず、京の庶民に対しても治療を行った。

しかも無理に治療費を取る事がなかったため、言継は庶民からも人気がある公家だった(「赤ひげ」だね)。
『言継卿記』にも多くの民間の人々が登場している。

言継は公家のイメージとはちがう多芸多才の知識人。ナカナカの人物だったようだ。


山科言継は72年を生きた(当時としては長命だろう)。
言継の亡くなった天正7年3月、信長は荒木村重の有岡城を包囲中だ。このとき信長46歳。



谷口克広著「織田信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。
<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html














  1. 2014/01/14(火) 07:03:48|
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