ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

愕然とする!(信長夜話・その78)

元亀元年(1570)四月、織田信長は越前朝倉氏の手筒山城、金ケ崎城を攻略した。
攻撃開始からたった二日で要衝、敦賀郡を制圧する。
織田勢の戦意は高く、このまま木の芽峠を越えれば一乗谷(朝倉氏の本拠地)は遠くはない。

『・・・しかしそこから木目峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。
江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。
浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。
不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。
しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、
「是非に及ばず」と、つぶやいた。・・・』(『信長公記』現代語訳)

文中「木目峠」は「木の芽峠」のこと。
(現福井県は嶺南と嶺北にわけられるが、その境はこの「木の芽峠」だ)

この時も「是非に及ばず」と信長はつぶやいたとある。本能寺だけではなかったのだ。
どうしようもないピンチを認めたときに、信長はつぶやくのだろう。

有名なこのセリフを信長の無常観から説明することもあるが、
「こうなったからにはしかたがない。やることをやるだけだ!」という意味だとボクは想像している。


gakuzennobunaga22.jpg

話をもどして、
木の芽峠を越えようとしたとき、驚くべき知らせが入った。
「小谷に動きがみられる」というのだ。
小谷とは信長と同盟を結んでいる浅井長政の居城のこと。動きとは戦の準備。

「タワケたことを(バカなことを)・・・」
信長は信じなかったという。
戦では敵からの偽情報も流される。鵜呑みには出来ない。
さらに織田によしみを通じている土豪から「浅井が弾薬や、糧食の調達をしている!」との知らせが入る。
続々ともたらされる知らせは浅井氏の寝返り(信長からみれば)に繋がる内容ばかりだ。


denreifutari22.jpg
《大河ドラマなら、こんなのが息せききって駆け込んでくる。》


denreifutari32.jpg
《こんなのも駆け込んでくる。》


spaiderman22.jpg
《こんなのは・・・来ないな・・・》


信長は困惑した。「どうして新九郎(長政のこと)が・・・?」「オレがこれだけ信頼しているのに、何故だ・・・?」

永禄11年、足利義昭を奉じて上洛するとき、六角氏を説得するため、信長はたった250名ほどの供回りだけで佐和山城(現彦根市)に7日間留まったことがある。
案内したのは浅井長政自身だった(この時が初対面)。
浅井氏内では「絶好の機会だ、信長を暗殺したほうがいい」という声があったが、長政はこれを許さなかったという話が伝わっている。
この後、長政は信長の上洛軍に参加している。


信長は義弟である浅井長政を気に入っていた。
長政は寡兵で六角勢を撃破するなど、勇敢で、なかなかの器量であったという。
信長は、東は徳川家康、西は浅井長政、を同盟の二本柱と考えていた。
だから、お市を嫁したのだ(婚礼の費用は織田氏がもった)。

信長からすれば、「ここまでオレは長政を信頼しているのだ、新九郎(長政のこと)もわかっているだろう」と思っていた。
男女間の愛情も企業間の信頼も、お互い同じ気持ちとはいかない。
いや、すれ違うことのほうがほとんどだ。


陣中見舞いに、お市(浅井長政室・信長の妹)から小豆が届けられた。その袋は両端が縛られていた。
それを手にした信長が、ハッ!と「浅井氏の寝返り」を読み取ったという有名な逸話。
ドラマでは入れずにはおかない場面だが、後世の作り話というのが有力だ。

ただし、当時、嫁いだ娘の重心は、嫁ぎ先ではなく実家にあったという。
ときにはスパイ行為を行った可能性はある(本人が無意識でも)


ところで、浅井長政の寝返りの理由だが、
浅井氏は元は朝倉氏の旗本だった。
久政(長政の父)のころから戦国大名化した。
たびたび朝倉氏の援軍に助けられた(信長との同盟以前)。

浅井氏は朝倉氏と同盟関係にあった。
浅井氏から信長に「朝倉と事を構えるときは、相談をしてほしい」と申し出ていたにもかかわらず、信長は無断で朝倉氏を攻めた。
信長の約束違反、朝倉氏との義理を優先しての浅井氏の行動だった、というのが一般的な説である(この解釈がもっとも多い)。

別の説がある。
それほど朝倉氏に義理を感じているのなら、浅井長政はどうして織田氏の「お市」を嫁に迎え、攻守同盟を結んだのか?
朝倉氏と織田氏が仲が悪いことは長政も知っていただろう。
発見されてはいないが、将軍足利義昭からの御内書(将軍の手紙)が長政に届いていたのでは?(『織田信長 常識のウソ』和田惟一郎著 PHP研究所)

挟み撃ちが成功して信長が失脚したそのときには、長政に多くの恩賞と位を授けると(御内書があったとすれば)。
甲斐の武田氏をはじめ、各地の大名にも誘いをかけたことが書いてあったかもしれない(このころ織田氏と武田氏の関係は良好)。
浅井朝倉連合では信長は手にあまる存在だ。(ボクの追加の想像)

そもそも、今回の信長の出陣は「若狭の武藤氏へ圧力をかけるため」という口実で、朝廷と幕府の公認を受けた。
ということは越前へ攻め込むことは公約違反。
さらに、越前朝倉氏は将軍義昭の恩人でもあるわけだから(義昭は流浪の時代、朝倉氏に身を寄せていたことがある)。


話をもどす。
もし浅井氏の寝返りが本当なら、正面の浅倉、背面の浅井、に挟撃されることになる。
(1)即時撤退(大きな損害を被る可能性がある)、(2)もう少し様子を見る、(3)一戦を交える。などが信長の頭の中を駆け巡っただろう。
京へ撤退するにしても(岐阜への道には浅井氏の小谷がある)、浅井氏の勢力圏を通らなければいけない。
決断は急を要する。もし撤退するなら早ければ早いほうが良い。封鎖をすり抜けることが可能かもしれないからだ。


信長は決断する。即刻撤退だ。
すぐに評定(会議)がもたれた。武将達の意見をきくというのではなかっただろう。
「彼はわずかしか、またほとんどまったく家臣の忠言には従わず…」とフロイスが信長を観察している。
評定は撤退の手順、道順、役割をどうするかだったのだろう。

敵を前にして、撤退するのはとても危険だ。撤退するときに損害が拡大する。
この3年後、小谷の近くで朝倉勢は織田勢と対峙した。
夜間(雨中)に撤退をはじめた朝倉勢は、追撃してくる織田勢に刀禰坂で追いつかれ甚大な損害を出している。
それは朝倉氏滅亡に繋がった。


殿(しんがり)は木下秀吉、明智光秀(幕臣)、池田勝正(摂津三守護のひとり)が受け持つことになった。
木下秀吉が進み出て「殿(しんがり)は、この藤吉郎にお任せを・・・」
「おお、禿げネズミ(秀吉のこと・サルと呼んだ資料はない))か!馬回りの鉄砲衆を連れていくがいい。」
とドラマでは描かれる。

信長の武将の序列、信長への私淑、目立ちたがり、計算高さ、などを思うと、
こんなことがあったかもしれない。

この後、秀吉が活躍したと言われているが、
殿(しんがり)軍の主力は、優秀な装備をもつ池田勝正隊3千だったという。


nigerunobunaga 12

「評定が決すると、信長は馬に一鞭入れる。南へ向かって脱兎のごとく駆け出した!従う近習、馬回りは50騎ほど・・・」
と大河ドラマなら描きたいところだろうが・・・本当は?・・・次回へ続く



<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
『織田信長 常識のウソ』和田惟一郎著 PHP研究所 ¥1,262(本体)を参考にしました。







  1. 2014/07/08(火) 07:38:24|
  2. 信長夜話
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<逃げる!(信長夜話・その79) | ホーム | 金ヶ崎(信長夜話・その77)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://buenoskozo.blog72.fc2.com/tb.php/236-ee2bc58c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)