ブエノス小僧のイラストブログ

興味があることを、ガサガサ、ゴソゴソ、画いたイラストといっしょに掲載します。

野村合戦一(信長夜話・その88)

3月初旬、近くの歩道橋の上から西を見る。ここにくると習慣になっている。
その歩道橋は濃尾平野の北端、丘陵地の住宅街にある。

名古屋の中心部のビル群が見える。そのむこうに養老山脈、
尾根をたどると南端は、三重県の多度から桑名だ。
逆に北に目をやると、養老山脈のむこうに伊吹山が見えるはずなのだが、
その日は白く濁って見えなかった。雪だろう。

そういえば、「雪中の合戦」は、あまり聞いたことがない。
戦国の世でも、雪の日には、やりたくなかったのだろう。

小谷は伊吹山の西にある・・・




元亀元年(1570)六月二十一日、織田信長は浅井氏の居城、小谷の近くの虎御前山に陣をしいた。
浅井長政の寝返り(信長からみれば)に、敦賀から京へ逃げ帰ってから二か月後である。

信長は小谷の備えを見て、力攻めで落とすのは難しいと思ったのだろう。
信長はジックリ攻める作戦に変更。足がかりとして小谷の南9kmにある横山城(浅井側)に目をつけた。
二十二日、陣を払い、織田勢は移動を開始。横山城を包囲するためだった。

それを小谷の浅井勢が追撃する。織田勢の殿(しんがり)軍が奮戦して撃退(八相山の退口)。
無事、横山城近くの龍が鼻(たつがはな)へ移動した。
六月二十四日、横山城攻めが始まる。

そのころ、徳川家康の援軍五千が到着した。
一方、浅井側にも援軍が到着する。朝倉景健(かげたけ)の八千だった。

有名な「姉川の戦い」の序章だ。

anegawa412.jpg
<イラスト上段、左は浅井長政(このとき26歳)。右は織田信長(このとき37歳)。
下段、左は朝倉景健(このとき35歳)、右は徳川家康(このとき29歳、若いねぇ!)。

朝倉景健は肖像画が見当たらなかった。しかたがないので、面頬(めんぽ・顔面の防具)をつけてもらった。
画きながら思ったのだが、これでは誰だかわからない。
戦場で影武者を見破るのはムズカシかったろう。>



普通、「姉川の戦い」は以下のごとく語られることが多い。

二十七日の夜に浅井・朝倉軍は移動、浅井勢六千は野村(地名)で織田勢一万五千と、
朝倉勢八千は三田村(地名)で徳川勢五千と姉川を挟んで対峙することになった(兵数には異説あり)。

1、二十八日未明、野村では浅井勢が織田に攻めかかり、三田村では徳川勢が朝倉勢に攻めかかった。

2、浅井勢の勢いすさまじく、織田の13段の備えが11段まで崩された。

3、三田村で多勢の朝倉勢相手に押していた家康は、榊原康政に命じて側面から攻めさせた。

4、側面をつかれた朝倉勢はもろくも崩れ、さらに浅井勢も崩れ、ともども小谷に向けて敗走した。


テレビドラマなどでは、ほとんどこの説に従っているようだ。

徳川勢大活躍!、しかし、これでは徳川勢がカッコ良すぎる。

『徳川実紀』や『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』などを参考にしたのだろう。

『徳川実紀』は徳川幕府の公式文書。
文化6年(1809年)に起稿、
嘉永2年(1849年、4年後にペリー来航)12代徳川家慶に献じられたという。
「姉川の戦い」から約280年後に成立した。280年後ですよ。

すでに、家康は神格化されていた。神君だ。
「姉川の戦」の部分は、徳川幕府へヨイショするために脚色した、と疑われている。
『甲陽軍鑑』『甫庵信長記』は史料としての評価は低い。

この説は、家康をカッコよくデッチあげた可能性が高いと見られている。


また、
浅井勢の士気が高かったのはうなづけるが、いくらなんでも織田勢が弱すぎる。
織田勢は浅井勢よりはるかに優勢だ。総勢の数字上は約3倍。

奇襲ではなく強襲(敵が待ち構えてるところを攻める)、正面攻撃だ。
さらに戦場は姉川の川原、見透しのきくところである。

直前の二十二日、小谷からの移動中、織田の殿軍は浅井の追撃を退けている(八相山の退口)

信長の軍事力の中核は尾張衆や美濃衆だった。
美濃衆は斎藤義龍の時代、信長も手をやいた。強かった。

「肥沃な土地の兵は弱く、貧しい土地の兵は強い」という説があるが、疑わしい。
もし織田勢が弱兵であったとしても、戦は兵の強さだけで勝てるわけではないだろう。
作戦、士気、経済力、装備、指揮官への信頼、過ち、偶然・・・などなど、

iza111112.jpg
<イラストは馬上の若武者とした。

はためく旗、馬の呼吸、鎧の擦れる音、
静寂、草の匂いがする

敵の前衛が見える。
多くの旗指物がゆれている、兵の機動、鬨の声が聞こえてくる。

戦場に老人はいなかっただろう(指揮官をのぞいて)。
十代後半から三十代ではなかったか?

精兵(せいびょう)というとき、それは兵の年齢も指していたのではないだろうか?と思った。
体力差のある兵が混在していると、作戦が立てにくいから。>



では、資料性が高いと言われる『信長公記』は「姉川の戦」をどう書いているのだろうか?以下。

『そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、
小谷城の城東に位置する大依山(滋賀県浅井町)に陣を張った。

待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、
六月二十七日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。

陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 二十八日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて備えた。
これに対し織田・徳川連合軍は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、
東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。

 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。
敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。

戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。
そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった。
浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、
前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。

この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。
しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、
信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、
横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。

 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは七月一日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。
佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、
北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 七月六日(正しくは七月四日)、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。
京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、八日に岐阜へ帰還を果たした。』(『信長公記』現代語訳)

以上が『信長公記』の記述。
わかったようでわからない?
実際に「姉川の戦」に参加した人にきいても、その実相はわからなかっただろう。

『信長公記』には徳川勢の大活躍は書かれていない。
「それは、筆者の太田牛一が主君の信長に遠慮したせいだ」という説もあるが、どうだろうか?



「姉川の戦」はこうではなかったか?
野村合戦(織田対浅井)を中心に書いてみた。
ボクの想像だ。以下。


「姉川の戦」は徳川氏の呼び名だ。織田氏では地名の野村から「野村合戦」。
浅井家では「辰鼻表合戦・たつがはなおもて」もしくは「野村合戦」。
朝倉家では地名から「三田村合戦」と呼んだという。


元亀元年(1570)六月二十七日夜、浅井勢と朝倉勢は横山城の後巻き(自軍の城を包囲している敵を外側から攻めること)
のため、姉川近くへ進軍。

横山城を包囲している織田勢に幾人かの物見(偵察)から、つぎつぎと報告があった。
浅井勢がこちらにやってくる。その数、一万ほど(戦う前の敵は大きくみえる)、と・・・

次回につづく


<私訳「信長公記」>から引用した箇所があります。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html
谷口克広著「信長合戦全録」中公新書¥840+税 を参考にしました。









  1. 2017/03/14(火) 07:02:12|
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